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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年7月11日聖書教育の学び(2020年1月29日祈祷会、ヤコブ2章、行いのない信仰と信仰のない行い)

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1.世の価値観を教会に持ち込む人々への戒め

 

・ヤコブの時代、集会で富める者は丁重に扱われ、貧しい人は軽視されるという現実があった。現代の日本でも、大きな教会の役員は社会的地位のある人がなりやすい。私たちは世の価値観をそのまま教会内に持ち込んでいる。

-ヤコブ2:1-4「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るか、していなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

・ヤコブは語る「神は貧しい人をこそ愛されるのではないか。それなのにあなたたちは彼らを排斥するのか」と。

-ヤコブ2:5-6「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」。

・神は何故貧しい人を愛されるのか、それは富んでいる人は信仰から遠いからだ。ヤコブは語る「富んでいる人々は財産をキリストのために捧げなかった故に富んでいる。それがわからないのか」と。

-ヤコブ2:6-7「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」。

・アメリカに土着した「栄光の十字架論」では、「成功は神の祝福の徴であり、失敗は神に見放された結果」とされる。しかしこれは聖書の誤った解釈であろう。ヤコブは語る「人の前に富むか、それとも神の前に富むか。神の前に富む者になろうとすれば、この世では一旦死ななければいけない。そのことをわきまえなさい」と。

-ヤコブ5:1-4「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました」。

・「人を分け隔てするな、隣人を自分のように愛せ。キリストはこの貧しい人のために死なれた」とヤコブは語る。

-ヤコブ2:8-9「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」。

・ヤコブは語る「私たちは最後には神の審判の前に立たなければいけない。神がこのような分け隔てを喜ばれると思うか」と。

-ヤコブ2:12-13「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」。

 

2.行いのない信仰と信仰のない行い

 

・貧しい人に支援を求められ、「温まりなさい」、「十分食べなさい」と言うだけで何もしない時、それが信仰の行為といえるだろうか。口で言うだけでなく、行いなさい。トルストイが何故、隣人に奉仕することでキリストと出会う童話「靴屋のマルチン」を書いたかを思い起こしなさい。

-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。

・人は言うかもしれない「業は人を救わない。救いは信仰のみにある」。ヤコブは答える「よろしい、あなたの信仰を見せてみなさい」。相手は見せられない、見えないからだ。見えない信仰を見えるものにするのが行為なのだ。

-ヤコブ2:18-20「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」。

・パウロは「信仰のみ」と言った。ある人々はパウロを誤解し、行為は不要だとした。しかし、パウロは「霊の実を結べ」と言った。ヤコブの言葉はパウロと同じだ。「行いのない信仰」、「信仰のない行い」は、共に意味がないのだ。

-ガラテヤ5:19-24「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです・・・これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。

 

3.ヤコブ2章の黙想

 

・「死んだ信仰はあなたを救う力はない」とヤコブは語る。それは現実世界の中ではどのような行為になるのだろうか。第二次大戦中、スイスには隣国ドイツからユダヤ人難民が押し寄せてきた。ナチス政権によるユダヤ人迫害のためで、1942年には9万人のユダヤ人難民がスイスに逃れた。あまりの流入者の多さに、スイス当局者は言う「もう小さな救命ボートは満員になってしまった」。人口500万人のスイスでこれ以上の難民を受け入れることは出来ないとして、政府は難民送還政策に転じ、ドイツから逃れてきた難民を送り返し始めた。その結果、難民たちは強制収容所に入れられ、命を奪われていった。

・大半のスイス市民は傍観した。自分の出来事ではなかったからだ。その中で一部の教会が立ち上がり始める。バーゼルの牧師ヴァルター・リュテイは説教の中で、「スイス政府の難民送還政策はキリスト者に三重の罪を負わせた」と糾弾する。

-トウルナイゼン著作集第二巻解説から「私たちスイス人は何万匹もの飼犬を飼っている。私たちがスイスでなお、自分たちのパンやスープ、肉の配給を何万匹という飼犬に進んで分かちながら、同時に数万人、あるいは数十万人の難民の人々を私たちはもはや担えないというのはキリストの愛にふさわしい行為だろうか。私たちの行為は偽善的であり、私たちは感謝を失っているのではないだろうか」。

・同じ出来事が現在の世界で起きている。2015年以降、シリアやアフガンでの内戦のために1400万人の難民が生まれ、隣国トルコやパレスチナでの受け入れが限界に達し、数百万人の難民が欧州に流入した。ドイツを中心に欧州各国は数百万人の難民を受け入れたが、今では「限界だ」として新しい難民の受け入れを拒否している。「彼らはかわいそうだが、私たちの暮らしも大事だ」と人々は言い始めている。

・こういう問題を私たちはどう考えるべきなのか。ヤコブが語るように「口で『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』といいながら、そのために何の行為もしない」状況でよいのだろうか。その中で、ドイツ首相メルケルの立ち位置はキリスト者として参考になる。2015年、メルケル首相の下で、ドイツは100万人のシリア難民受け入れを表明した。メルケルは旧東ドイツのルター派牧師の娘として生まれたキリスト者である。彼女はインタビューの中で語る。

-メルケル・2015年8月インタビューから「ドイツ社会は現在安定し、繁栄を享受している。ところが、外では大変な混乱と悲劇が起きている。命からがら逃れて、我が国を目指している人々がたくさんいる。我々の憲法は人間の尊厳を基本としている。この尊厳は我が国民だけに保障されているのではなく、外国人にも認められている。つまり、彼らが我が国に入ってくるなら、我々は彼らを快く受け入れ、憲法の保障する人間の尊厳の実現に全力をあげなければならない。我々にはそれがやり遂げられる」。

・メルケルは2018年10月「私の信仰~キリスト者として行動する」(邦訳:新教出版社)を出している。考え方の背景にあるのは、「キリスト者の自由」の思想と言われる(キリスト者の自由「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」)。他方、日本は難民受け入れに極度に消極的で、2018年度10,493人に難民申請に対し、認定されたのは42人に過ぎなかった。日本の制度では、難民認定の実務を法務省入国管理局が担い、難民を「保護する(助ける)」というより、「管理する(取り締まる)」という視点が強いためとされる。ただ基本にあるのはキリスト教思想(隣人を自分のように愛しなさい)の欠如であろう。ヤコブ書をより多くの人に知らせる役割を教会は持つ。

-聖書教育の学び

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