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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年6月20日聖書教育の学び(2020年5月13日祈祷会、第一ヨハネ4章、神を愛するものは兄弟を愛する)

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1.偽預言者に惑わされるな

 

・ヨハネの教会では、「イエスが神の子であると信じられない」人々が出て行き、残った人たちは動揺した。理解できないものは信じないのが世だ。しかし、「私たちは神の子に直接出会い、言葉を聞いた」とヨハネは証言する。

―第一ヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。

・ヨハネの教会では、異なる信仰をもつ人々が、多数の信徒を連れて教会から離脱していった。「グノーシス」と呼ばれる信仰を持つ人々で、出て行った彼らの方が、残されたヨハネの教会よりも盛んになっていったようだ。

―第一ヨハネ4:5「偽預言者たちは世に属しており、そのため世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」。

・いつの時代でも、人は自分の聞きたいことを聞こうとする。都合の悪い真実は知ろうとしない。だから、偽預言者が出て「信じれば病いは治る、苦しみはなくなる」と言えば、その言葉に頼っていく。福音がギリシャ世界に入っていった時に、グノーシスという異端が生まれた。ギリシャ哲学によるキリストの福音の修正である。哲学は理性を根底に置く故、理解できないものは否定していく。彼らは「肉体は汚れており、霊なる神が汚れた肉となることなどあり得ない」として、神の子がナザレのイエスとして人となられたこと(受肉)を否定し、イエスが十字架で死ぬことを通して自分たちの罪が贖われたこと(贖罪)も否定していった。歴史のイエスが救い主キリストであることを否定した。ヨハネは反論する。

―第一ヨハネ4:1-3「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています」。

・偽預言あるいは異端は人の欲から出る。彼らは他者の幸福よりも、自分の満たしを求める。

―第一ヨハネ4:5-6「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。私たちは神に属する者です。神を知る人は、私たちに耳を傾けますが、神に属していない者は、私たちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」。

 

2.神を愛するものは兄弟を愛する

 

・ヨハネは4:7から有名な「愛の賛歌」を展開する。4:7-10は韻文で書かれており、パウロがコリント書で記す愛の賛歌(1コリント13章)と同じように美しい言葉で展開されている。

―第一ヨハネ4:7-8「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。

・私たちが正しい信仰の中にいるかどうかは、私たちが神の愛の中にあるかでわかる。私たちは御子を通して神の愛を知った。だから私たちは兄弟を愛していく。

―第一ヨハネ4:9-11「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」。

・人は人間関係の中に愛を求めるが、その愛は裏切られる。人は自分のために愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消える。アダムはイブを愛したが、都合が悪くなれば一転してイブを攻撃する。

―創世記3:12「アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』」。

・神の愛は現れるだけでなく、人を生かし、愛に駆り立てていく。それは好きな人だけを愛する愛ではなく、敵をも包み込む愛だ。愛はエゴを超える。

―マタイ5:46「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。

・ヨハネは繰り返す「神を愛するものは兄弟を愛する。私たちが兄弟を愛さないならば、私たちは神の愛の中にいない」。

―第一ヨハネ4:20-21「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。

 

3.第一ヨハネ4章の黙想(キリストに仕える行為としての愛)

 

・初代教会に大きな影響を与えた言葉の一つは、「小さき者を愛せよ」とのキリストの言葉だ。

-マタイ25:35-36「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」。

・5世紀の教父アレキサンドリアのキュリロスは、「何故神は人間になったのか」と問われた時、語った「もし神が人間にならなかったなら、最後の審判の時、貧者に憐れみを施さなかった薄情な者どもを裁こうとする神に対して、悪魔が異議を唱えるだろう。悪魔は、神が人間の飢えや渇きを自ら感じたことがないならば、裕福な人間が同胞の窮乏を理解しなかったとしても、どうして神はその者の罪を宣告することができるのかと反問するであろう。人間になって飢えと渇きを味わった神だけが、貧者への思いやりの欠けた富者を罰することができる」(土井健司「キリスト教は戦争好きか」p188)。

・「人間になって飢えと渇きを味わった神だけが、貧者への思いやり」を示すことができる。ここでは神の受肉と救貧が重ねられて説明されている。当時のキリスト者たちは「神が人間になることは、神が貧者になった」ことと理解し、貧者への救貧行為がキリストに仕えることであるとして、病人や貧困者への救済活動を信仰の業として行った。ナジアンゾスのグレゴリウスは語る「病貧者は身体を病み、健常者は魂を病む。身体を病む人に仕えることを通して私たちの魂は癒される。大きな贈り物の代わりに用意の整ったものを与えなさい。もし何も持っていないなら涙を流しなさい。心から湧き出た憐れみは不幸な人にとって大きな薬となり、真の同情は不幸というものをたいそう軽くする」と(土井健司「ナジアンゾスのグレゴリウスとレプラの病貧者」から)。

・エウセビオス「教会史」には、3世紀中ごろの「キプリアヌスの疫病」や、4世紀初頭のパレスティナで生じた疫病に際して、キリスト者が自らの命を引き換えにして、病人のケアをしたことが伝えられている。医師さえ感染を恐れて町から立ち去った時に、病人の看病と埋葬に専念したキリスト者がいた。ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、人々は感染を恐れて避難したが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬した。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせたとスタークは考えている。

・「困窮者こそキリストである」、「病貧者は身体を病み、健常者は魂を病む」という信仰は今日でも重要な役割を持っている。マザーテレサをその活動に押しやったのもその信仰である。マザーは語る「貧しい人に触れる時、私たちは実際にはキリストのお体に触れているのです。私たちが食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしのキリストに、なのです」(「マザーテレサ、あふれる愛」、P16)。

・モルトマンは著書「希望の倫理」の中で語る。「人間の生命は肯定され、受容されることが必要である。子供が自らの生存を否定される経験をすれば、心身は病んで荒廃してしまう。成人が否定と軽蔑を経験すれば、引きこもり、防御に走る。こうして、『魂の死』が生じる。人間の生命は「参加と参与」を必要とする。不参加は無関心をもたらし、生命を病ませる。人間の生存とは、社会的に存在することであり、処々の関係において存在する限り、それは生き生きとする。逆に諸関係の喪失は「社会的な死」をもたらす」。

・ユダヤ教の宗教哲学者マルティン・ブーバーは人と人との関係を、〈我とそれ〉から〈我と汝〉への転換が必要だと語る。「世界は人間のとる態度によって〈我と汝〉、〈我とそれ〉の二つとなり、現代文明の危機は〈我とそれ〉という人間関係の希薄化によって生まれており、〈我〉と〈汝〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる」。

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