(2011年11月2日祈祷会、詩編119篇、大いなる詩編1(アレフ~ヘー)
詩編119篇は最長の詩編であり、へブル語のアルファベット順に8節ずつ配置され、全体は176節になる(22文字×8節)。分量が長大であると同時に内容も壮大で、中心テーマは「主の戒め(律法・トーラー)に生きる」である。今回から4回に分けて119篇を学んでいく。22の単元はそれぞれ独立しているが、全体として一つのまとまりを為している。
1.アレフ
・最初に、詩人は「心を尽くして主の律法を求め、これを守る人は幸いだ」とその詩を始める。
-詩編119:1-3「いかに幸いなことでしょう、まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう、主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず、主の道を歩みます」。
・人はどう生きるべきか、多くの人が模索してきた。詩人はその指針を律法の中に見出した。それは「神を愛し、人を愛する生き方」だ。預言者ミカはこれを「正義を行い、慈しみを愛する」と表現する。
-ミカ6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。
・ギリシャ人は「人間は万物の尺度であり、人は理性によって良き生活と完全なる社会を創出することが出来る」と考えた。それに対し、へブル人は「神は良き生活と完全なる社会を既に提示されており、人間に課せられているのは、感謝してそれを受け入れ、実行に移すことだ」と主張する。人は示されている主の戒めに従って生活すればよい、しかし同時にその戒めを守ることのできない自分を見出す。だから人は「主の赦しの中で生きる」と詩人は述べる。
-詩編119:4-8「あなたは仰せになりました、あなたの命令を固く守るように、と。私の道が確かになることを願います、あなたの掟を守るために。そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう。あなたの正しい裁きを学び、まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」。
2.ベト
・詩人はいう「経験の少ない若者はどのような道を歩むべきかがわからない。だから御言葉に従って歩むことが必要だ」。
-詩編119:9「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」。
・ここでは「主の戒め」が「御言葉(ダーバール)」と言い変えられている。主の言葉は力を持つ。
-イザヤ55:10-11「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉もむなしくは私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。
・人は弱い存在だ。「心は燃えても肉体は弱い」(マルコ14:38)。どのような志を持っても罪を犯さざるを得ない存在だ。罪(カタア)とは的を外すこと、神を見失うこと、だから「あなたを見失うことがないように導いて下さい」と詩人は祈る。
-詩編119:10-11「心を尽くして私はあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。私は仰せを心に納めています、あなたに対して過ちを犯すことのないように」。
3.ギメル
・この世は苦難が多い。正しく生きようとすればそこの迫害が生じる。そのような迫害から守って下さいと詩人は祈る。
-詩編119:20-23「あなたの裁きを望み続け、私の魂はやつれ果てました。呪われるべき傲慢な者をとがめてください、あなたの戒めから迷い出る者を。辱めと侮りを私の上から払ってください、あなたの定めを守っているのですから。地位ある人々が座に就き、私のことを謀っていても、あなたの僕はあなたの掟にのみ心を砕いていますように」。
・イエスも言われた「信仰者にとって迫害は当然だ。私たちはこの世に生きるが、この世の価値観に従って生きるわけではない。必然的にそこに摩擦が生じる」。しかし同時に言われた「私は既に世に勝っている」、この言葉を頼りに私たちは、世にあって世のものでない生き方を模索する。
-ヨハネ15:19「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
-ヨハネ16:33「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。
4.ダレト
・詩人は困難の中にある。世から疎外され、絶望的な状況にあり、「私の魂は塵についている」、「私の魂は悲しんで涙を流している」という弱音を吐いている。踏み絵を前に詩人はもだえている。そのもだえの中で詩人は主の救いを、主の導きを求める。
-詩編119:25-32「私の魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。私の道を申し述べます。私に答え、あなたの掟を教えてください。あなたの命令に従う道を見分けさせてください・・・私の魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、私を立ち直らせてください。偽りの道を私から遠ざけ、憐れんで、あなたの律法をお与えください。信仰の道を私は選び取りました、あなたの裁きにかなうものとなりますように。主よ、あなたの定めにすがりつきます。私を恥に落とさないでください。あなたによって心は広くされ、私は戒めに従う道を走ります」。
5.ヘー
・詩人のもだえは続く。主の道に従いたいと思いながらも、今現在の苦難から逃れたいという思いも強い。その中で、「最後まであなたの道に従う力を与えて下さい」と詩人は祈る。
-詩編119:33-35「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。あなたの律法を理解させ、保たせてください。私は心を尽くしてそれを守ります。あなたの戒めに従う道にお導きください。私はその道を愛しています」。
・日本でも戦前において教会への迫害があった。「天皇とキリストとどちらが偉いか」が国から問われ、ホーリネス教団においては多くの牧師が投獄され、ある人々は獄中で死んでいった。その中の一人が辻啓造牧師であった。彼は昭和17年6月に治安維持法違反で捕えられ、2年半の投獄の後、昭和20年1月に青森刑務所で死んだ。殉教者である。そのご子息が知り合いで父親の死について聞いたことがあるが、獄中において何度も減刑嘆願書を書いては破った繰り返しだったと言う。嘆願書の内容は「日本国民として天皇陛下に忠誠を誓う為にキリストを捨てます」というものであった。減刑嘆願書を書けば釈放するとの当局に誘いに、辻牧師の心は大きく揺れたと息子は語っている。幸か不幸か辻牧師は身体が弱く、過酷な獄中生活に耐え切れずに死んで殉教者になった。息子は言う「もし父親の身体がもっと頑健であったならば棄教者になったかもしれない」。
・詩人も辻啓造牧師と同じような誘惑に駆られている。「不当な利益」に心が動かされ、「空しいもの」を見ようとしている。その中で「辱めを受けることがありませんように」と詩人は祈る。
-詩編119:36-40「不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。むなしいものを見ようとすることから私のまなざしを移してください。あなたの道に従って命を得ることができますように。あなたの僕に対して、仰せを成就してください。私はあなたを畏れ敬います。私の恐れる辱めが私を避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。御覧ください、私はあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって命を得させてください」。
2011年11月9日祈祷会(詩編119篇、大いなる詩編Ⅱ(ワフ~ヨード))
前回に引き続き、詩編119編をワウ(41節~)からヨード(~80節)までを学んでいく。
1.ワフ(41~48節)
・詩人は迫害の中にある。権力者は詩人を痛めつけ、棄教を迫る。その中で詩人は真実を語る力を与え給えと祈る。
-詩編119:41-44「主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、私を訪れますように。私を辱めた者に答えさせてください。私は御言葉に依り頼んでいます。真実を私の口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。私があなたの律法を守る者でありますように、常に、そしてとこしえに」。
・イスラエルがシリアの支配下にあった時(前2世紀)、シリア王アンティオコス・エピファーネスは自分の信じるギリシャの神々をユダヤに押し付け、ゼウス像を神殿に持込み、律法の書を火で焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁じ、違反者は処刑した。この迫害の中で励ましとして書かれた書がダニエル書である。
-ダニエル11:31-33「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される」。
・詩人は迫害の中でも、「神の戒めを恥とはしない」と言い切る。「私は福音を恥とはしない」(ローマ1:16)と言い切ったパウロに通じる心情がある。
-詩編119:45-48「広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。私は王たちの前であなたの定めを告げ、決して恥とすることはないでしょう。私はあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。私はあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。私はあなたの掟を歌います」。
2.ザイン(49節~56節)
・神の御言葉は試練の日々における希望である。神に逆らう者、傲慢な者は神の戒めを嘲笑い、それを守ろうとする私を見下しても、私はあなたの律法から離れないと詩人は歌う。
-詩編119:49-53「あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます。あなたの仰せは私に命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。傲慢な者は私を甚だしく見下しますが、私はあなたの律法から離れません。あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、主よ、私は力づけられます。神に逆らう者に対する燃える怒りが、私を捕えています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です」。
・傲慢な者、神に逆らう者とは、神の選民とされ、神の律法を与えられた人々だ。彼らは選ばれ、恵みを与えられながら、それを信じようとはせず、応答しようとはしない。そのような者に対する神の怒りは大きい。
-アモス3:1-2「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。私がエジプトの地から導き上った全部族に対して、地上の全部族の中から私が選んだのはお前たちだけだ。それゆえ私はお前たちをすべての罪のゆえに罰する」。
・この世は私たちの仮の宿、私たちは約束の地を目指して歩む寄留者に過ぎない。私たちは神の憐れみにより、今ここに生かされている。「だから主よ、私はあなたの戒めに従って生きます」と詩人は歌う。
-詩編119:54-56「この仮の宿にあって、あなたの掟を私の歌とします。主よ、夜ともなれば御名を唱え、あなたの律法を守ります。あなたの命令に従うこと、それだけが、私のものです」。
3.ヘト(57節~64節)
・詩人は悪しき者に取り囲まれ、彼らは詩人を罠にかけ、からみとろうとする。その中で詩人は「主よ、あなたこそわが嗣業、私に与えられた宝です」と歌う。嗣業=約束の地で与えられた土地、私たちの生きる基盤を指す。
-詩編119:57-61「主は私に与えられた分(嗣業)です。御言葉を守ることを約束します。御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、私を憐れんでください。私は自分の道を思い返し、立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。私はためらうことなく、速やかにあなたの戒めを守ります。神に逆らう者の縄が私を絡めとろうとしますが、私はあなたの律法を決して忘れません」。
・人は何を人生の基盤、礎にするのだろうか。自分の能力か、教育か、財産か、評判か。「私は主よ、あなたを求めます。あなたこそ私の礎、嗣業です。あなたの与えられたこの地は慈しみに満ちています」と詩人は賛美する。
-詩編119:62-64「夜半に起きて、あなたの正しい裁きに感謝をささげます。あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人、私はこのような人の友となります。主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟を私に教えてください」。
4.テト(65節~72節)
・こうして119:71の有名な言葉が導かれる。この言葉は多くの苦しめる魂を慰めてきた。
-詩編119:71(口語訳)「苦しみにあったことは私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」。
・苦難は詩人を正しい道に導くための教師であった。詩人は道に迷い、苦しみに喘ぎ、その中で主を呼び求めた。
-詩編119:65-67「主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。確かな判断力と知識をもつように私を教えてください。私はあなたの戒めを信じています。私は迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください」。
・病まなければ分からない真実、苦しんで知る主の愛がある。「病まなければ」という詩を書いた河野進は、らい病者のために生涯を捧げた牧師だ。彼は病に苦しむ人々の中に、強い信仰を見た。
-河野進・病まなければ「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。
・人は苦しみの中で神に出会う。ヨブが体験したこともそうだった。
-ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。
5.ヨード(73節~80節)
・苦難は人を救うために与えられる。しかし苦難は神の支え無しには人を滅ぼすものにもなりかねない。苦難を神からの試練として受け入れ、神の憐れみを求める時のみ、苦難は人を完成させる愛の業となる。苦難が両刃の刃であることをパウロも認識していた。それ故に彼は苦難あるいは悲しみには、「神の御心にかなった悲しみ」と「世の悲しみ」があることを承知していた。別の苦難ではなく、同じ苦難が人を生かしもし、殺しもするのだ。
-Ⅱコリント7:8-10「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、私たちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
・だから私たちは苦難の中で神の支えを求める。支え無しに、私たちは苦難を耐えることができないからだ。
-詩編119:75-77「主よ、あなたの裁きが正しいことを私は知っています。私を苦しめられたのはあなたのまことのゆえです。あなたの慈しみをもって私を力づけてください、あなたの僕への仰せのとおりに。御憐れみが私に届き、命を得させてくださいますように。あなたの律法は私の楽しみです」。
・そして神の憐れみによって慰められた者は、苦難にあえぐ他者のために働く者となる。
-Ⅱコリント1:4-6「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、私たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたが私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。
2011年11月16日祈祷会(詩編119篇Ⅲ、大いなる詩編(カフ~サメク))
詩編119編は176節まである長い詩編であり、4回に分けて学ぶ。今日は3回目、カフ(81節~)からサメク(~120節)までを学ぶ。
1.カフ(81~88節)
・詩人は迫害と苦難の中にある。詩人の「魂は絶入りそう」であり、詩人の「目は衰えた」。詩人は「煙に煤けた革袋」のようになった。その中で詩人は「いつまでこの苦しみは続くのですか」と訴える。
-詩編119:81-85「私の魂はあなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。私の目はあなたの仰せを待って衰えました。力づけてくださるのはいつか、と申します。私は煙にすすけた革袋のようになってもあなたの掟を決して忘れません。あなたの僕が長らえる日々はどれほどでしょう。私を迫害するものに対していつあなたは裁きをしてくださるのでしょう。傲慢な者は私に対して落とし穴を掘りました。彼らはあなたの律法に従わない者です」。
・苦難を耐えがたくするのは「神の沈黙」だ。「主よ、いつまでですか」という問いは永遠の問いだ。何よりも、信仰を持ったゆえに苦しみが与えられる時が厳しい。日本のキリシタン迫害もそうであるし、この詩の背景にあると思われるシリア統治下のギリシア神信仰の強制時代も、またローマ帝国の迫害下にあった原始教会時代もそうだ。「神の国は来たが、まだ完成していない」。私たちは希望と現実の過酷さの中で揺れ動く。その中で詩人は主を求め続ける。
-詩編119:86-88「あなたの戒めはすべて確かです。人々は偽人を持って私を迫害します。私をお助けください。この地で人々は私を絶え果てさせようとしています。どうか私があなたの命令を捨て去ることがありませんように。慈しみ深く、私に命を得させてください。私はあなたの口から出た定めを守ります」。
・イエスは言われた「貧しい人は幸いだ。なぜなら神以外に頼るものがないから神を求める」。苦難は人を神に導くが「人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである」という言葉は受容が難しい言葉だ。
-ルカ6:20-22「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。
2.ラメド(89節~96節)
・詩人は苦難の中であえいでいる。そして、「世の悲しみは死をもたらす」(Ⅱコリント7:10)。苦難により押しつぶされる人もいる。しかし、詩人は「神が共に居ます」ことを信じる故に、その苦しみを乗り越えることが出来た。
-詩編119:89-93「主よ、とこしえに御言葉は天に確立しています。あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます。この日に至るまで、あなたの裁きにつき従って来た人々はすべてあなたの僕です。あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみに私は滅びていたことでしょう。私はあなたの命令をとこしえに忘れません、それによって命を得させてくださったのですから」。
・「神に逆らう者」は詩人を苦しめている。神に逆らう、律法を禁止したギリシア人支配者とその追随者たちであろう。ギリシア人は「すべての人間は可能性を持ち、その可能性を最大限に引き出すことによって、完全な世界、理想的な人間を創り出せる」と考えた。その考えが教育(educate=e外に、ducere導く)に対する信仰だ。しかし詩人は人間には限界があり、その限界を超えるためには神により頼むしかないと考えるゆえに疎外されている。
-詩編119:94-96「私はあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令を私は尋ね求めます。神に逆らう者は私を滅ぼそうと望んでいます。私はあなたの定めに英知を得ます。何事にも終りと果てがあるのを私は見ます。広大なのはあなたの戒めです」。
・「神などいない、いるのであれば証拠を見せてみよ」と多くの者はうそぶく。その中で私たちは「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い」ことを証ししていく。
-Ⅰコリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。
3.メム(97節~104節)
・ギリシア人の律法(ノモス)は法であり、人々は遵法を強制され、違反者は処罰される。聖書の律法(トーラー)は人の生き方を示すものであって、神と人を愛することによって、人は人となることを示す。トーラーは人を生かし、ノモスは人を殺す。
-Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。
・だから詩人は「私はあなたの律法を愛します」と告白する。
-詩編119:97-99「私はあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。私は絶え間なくそれに心を砕いています。あなたの戒めは私を敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえに私のものです。私はあらゆる師にまさって目覚めた者です。あなたの定めに心を砕いているからです」。
・神の言葉(律法)は蜜のように甘い。何故ならば、そこには愛があるからだ。
-詩編119:100-104「長老たちにまさる英知を得させてください。私はあなたの命令を守ります。どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。あなたの裁きから離れません。あなたが私を教えてくださるからです。あなたの仰せを味わえば私の口に蜜よりも甘いことでしょう。あなたの命令から英知を得た私はどのような偽りの道をも憎みます」。
・律法は愛の戒めだ。戒めが実践された時、そこに愛が生まれる。愛はノモスからは生まれない。神への感謝が人を隣人への愛に導く。トーラーの基本は、神の「ヘセドとエメス」(慈しみと真実)への応答なのだ。
-申命記24:19-22「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。私はそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」。
4.ヌン(105節~112節)
・詩編119:105「あなたの御言葉はわが足の灯火」は多くの人に愛唱されてきた(新生讃美歌131番他)。詩人はここで律法(御言葉)を、足を照らす明かりに例え、御言葉を通して人は正しい道に導かれていくと賛美する。
-詩編119:105-106「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。私は誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります」。
・私たちは「神の国を目指して歩む旅人」であり、「御言葉こそ私の嗣業」なのだと詩人は言う。
-詩編119:108-112「主よ、御言葉のとおり命を得させてください。私の口が進んでささげる祈りを、主よ、どうか受け入れ、あなたの裁きを教えてください。私の魂は常に私の手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。主に逆らう者が私に罠を仕掛けています。それでも、私はあなたの命令からそれません。あなたの定めはとこしえに私の嗣業です。それは私の心の喜びです。あなたの掟を行うことに心を傾け、私はとこしえに従って行きます」。
5.サメク(113節~120節)
・多くの人は言う「神などいない、死後の生などない、人生の意味は楽しむことにある」。しかし私たちは楽しみの後の空虚さを知っている。そして「人は神と富に仕える事はできない」(マタイ6:24)ことも知る。だから主の御言葉に頼り、それを隠れ家とする。
-詩編119:113-117「心の分かれている者を私は憎みます。あなたの律法を愛します。あなたは私の隠れが、私の盾、御言葉を私は待ち望みます。悪事を謀る者よ、私を離れよ。私は私の神の戒めを守る。あなたの仰せによりすがらせ、命を得させてください。私の望みを裏切らないでください。私を支えてください、そうすれば私は救われます。いつもあなたの掟に目を注ぎます」。
・真の喜びは命の基である主から来る。だから私は神の御言葉に従って行くと詩人は述べる。
-詩編119:118-120「あなたの掟から迷い出る者はことごとく打ち捨てられました。彼らは欺く者、偽る者です。この地であなたに逆らう者はことごとく金滓のように断ち滅ぼされました。それゆえ私はあなたの定めを愛します。あなたを恐れて私の身はすくみます。あなたの裁きを畏れ敬います」。
2011年11月30日祈祷会(詩編119篇Ⅳ、大いなる詩編(アイン~タウ))
詩編119編は176節まである長い詩編であり、4回に分けて学んでいる。今日が最終回で、アイン(121節~)からタウ(~176節)までを学ぶ。
1.アイン(121~128節)
・詩篇119編は紀元前2世紀のマカベア時代に書かれたと思われる。シリア王エピファネスはユダヤのギリシャ化を諮り、律法を禁止し、律法を捨てる者には報奨金を提供し、あくまでも律法を固守する者は厳罰に処した。その中で、律法を捨てる者が続出し、詩人は「今こそあなたが介入すべき時です」と主に願う。
-詩篇119:121-126「私は正しい裁きを行います。虐げる者に私をまかせないでください。恵み深くあなたの僕の保証人となってください。傲慢な者が私を虐げませんように。御救いを待って、私の目は衰えました、あなたの正しい仰せを待って。慈しみ深くあなたの僕のために計らってください。あなたの掟を私に教えてください。私はあなたの僕です・・・主の働かれるときです。人々はあなたの律法を破棄しています」。
・多くの人にとって宗教は、生きる方便に過ぎない。だからユダヤの神でもギリシャの神でもどちらでも良かった。マカベヤ時代に多くの人が殉教していったが、大勢はギリシャのゼウス像を新しい神として拝んだ(戦時中の日本の教会も天皇を神として拝んだ)。しかし詩人はそうではない。御言葉に出会い、生かされているからだ。
-詩篇119:127-128「それゆえ、金にまさり純金にまさって、私はあなたの戒めを愛します。それゆえ、あなたの命令のすべてに従って、私はまっすぐに歩き、偽りの道をことごとく憎みます」。
2.ベー(129節~136節)
・詩人は律法、神の言葉の力を知っている。それは闇を貫く光、人を導く知恵だ。詩人は御言葉を求める。
-詩篇119:129-131「あなたの定めは驚くべきものです。私の魂はそれを守ります。御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。私は口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます」。
・デフォー「ロビンソン・クルーソー」の主人公は、船が難破して孤島に取り残された時、難破船から一冊の聖書を手に入れたが、病気になるまでそれを開こうとはしなかった。病気になった時、彼は初めて聖書を読み始め、突然それが彼にとって意味あるものになり、彼は祈り始める。彼が心を惹かれたのは詩篇50編だった。以前の彼は「孤島からの救出」を救いと思っていたが、その日を境に「罪からの救済」こそ、救いであることを知った。
-詩篇50:15「悩みの日に私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私をあがめるであろう」(口語訳)。
・同じ体験をした詩人は、人々が御言葉の力に気づかず、それを求めようとしないことを悲しむ。
-詩篇119:135-136「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。私の目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです」。
3.ツァデ(137節~144節)
・ここではツァデという音節に合わせてツェデク(義)が取り上げられる。神は義であり、善であるゆえに、その裁きも正しく善である。しかし人々は神の裁きではなく、今目の前にいる権力者の裁きを恐れて、御言葉を忘れ去っている。
-詩篇119:137-139「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きはまっすぐです。あなたは定めを与えられました。それはまことに正しく確かな定めです。私の熱情は私を滅ぼすほどです。敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです」。
・人間は目の前のことしか見ようとしない。しかし神の言葉の正しさを私たちは捕囚と言う試練の中で見たではないか。捕囚を通して、私たちは神が火の中でも水の中でも共におられる体験をしたではないか。それに比べればシリア王の迫害などどれほどのこともないではないか。
-詩篇119:140-143「あなたの仰せは火で練り清められたもの。あなたの僕はそれを愛します。私は若く、侮られていますが、あなたの命令を決して忘れません・・苦難と苦悩が私にふりかかっていますが、あなたの戒めは私の楽しみです」。
・人は権力者には「傷のない捧げ物」を献上する。処罰が怖いからだ。しかし神には残り物を捧げる。神は見逃してくれると思うからだ。人は目の前の利害損得に心を奪われている。
-マラキ1:8「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる」。
4.コフ(145節~152節)
・ここでは祈りが主題になっている。祈りは神への呼びかけであり、彼は朝に夕に神の救済を求めて祈る。敵からの迫害は厳しく、祈りなしには心の平安を保てない。
-詩篇119:145-148「心を尽くして呼び求めます。主よ、私に答えてください。私はあなたの掟を守ります。あなたを呼びます、お救いください。私はあなたの定めを守ります。夜明けに先立ち、助けを求めて叫び、御言葉を待ち望みます。私の目は夜警に先立ち、あなたの仰せに心を砕きます」。
・祈りの最大の収穫は、神が共にいてくださることを、対話を通じて知ることである。神共にいませば、どのような苦難も耐えることが出来る。「苦難」は意味が見えた時には、苦難でなくなる。
-詩篇119:149-152「主よ、慈しみ深く私の声を聞き、あなたの裁きによって命を得させてください。悪だくみをもって迫害する者が近づきます。彼らはあなたの律法に遠いのです。主よ、あなたは近くいてくださいます。あなたの戒めはすべて真実です。あなたの定めを見て私は悟ります。それがいにしえからのものであり、あなたによってとこしえに立てられたのだ、と」。
5.レシュ(153節~160節)
・苦難の中で詩人は「私の苦しみを顧みて欲しい。私を贖って欲しい」と訴え続ける。
-詩篇119:153-156「私の苦しみを顧みて助け出してください。私はあなたの律法を決して忘れたことはありません。私に代わって争い、私を贖い、仰せによって命を得させてください。神に逆らう者に、救いは遠い。あなたの掟を尋ね求めないからです。主よ、あなたの憐れみは豊かです。あなたの裁きによって命を得させてください」。
6.シン(161節~168節)
・「権力を持つ者たちは私を迫害しますが、主よ、私が恐れるのはあなたの御言葉だけです」と詩人は訴える。
-詩篇119:161-165「地位ある人々が理由もなく迫害しますが、私の心が恐れるのはあなたの御言葉だけです。仰せを受けて私は喜びます・・・私は偽りを忌むべきこととして憎み、あなたの律法を愛します・・・あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり、つまずかせるものはありません」。
・イエスの弟子たちも、イエスを処刑した最高法院に呼び出され、今後「イエスの名によって語ってはならない」と命じられたが反論した「人に従うよりも神に従う」と。
-使徒4:18-20「二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。
7.タウ(169節~176節)
・最後に彼は嘆願の祈りを持って、この長編詩を閉じる。彼はもっと御言葉を深く知りたいと願う。
-詩篇119:169-170「主よ、私の叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。私の嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりに私を助け出してください」。
・彼は律法学者のようにこの詩を書いたのではない。彼は自分が未熟で弱いことを知っている。自分が試練に負けてしまう時が来るかも知れないと恐れている。その中で「どうぞ、正しい道に導き給え」と祈ってこの詩は終わる。
-詩篇119:174-176「主よ、御救いを私は望みます。あなたの律法は私の楽しみです。私の魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きが私を助けますように。私が小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めを私は決して忘れません」。