1.主を迎える典礼歌
・詩篇24編は神の世界創造の讃美から始まる。創世記は、地は混沌(形なく、むなしく、闇が覆っていた)としていたが、その闇を主の言葉による光が貫き、天地が創造されたと記す(創世記1:1-3)。混沌(カオス)が秩序(コスモス)に変わる。それが神の創造の業だと詩人は歌う。
-詩編24:1-2「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」。
・闇の中に光を見出す、混沌の中に秩序を見出す、その喜びと感謝が人を礼拝に導く。しかし誰でも神の聖所に入れるわけではない。3-5節はエルサレム神殿に集まってきた巡礼者と祭司が、門の外側と内側で神殿入場資格を問う交唱歌であろう。巡礼者は問う。
-詩編24:3「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」。
・それに対して祭司は答える。
-詩編24:3「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」。
・主の山(エルサレム・シオンの丘に立つ神殿)に入ることの出来る者は、「潔白な手と清い心をもつ人」と言われる。しかし誰がその資格を持つのか、誰が自分は「潔白な手と清い心を持つ」と言いうるのか。詩篇作者でさえ、「正しい者は誰もいない」ことを認める。
-詩篇14:2-3「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。
・しかし詩人は歌う「主を求める人を主は迎え入れてくださる」、「たとえ彼が罪人であっても、神を求める人を主は受け入れてくださる」。
-詩編24:5-6「主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」。
2.神殿とは、礼拝とは何か
・詩編24編は新年祭等において主を神殿に迎え入れる典礼歌であるとされる。神殿の至聖所には神の臨在の象徴である「契約の箱(十戒を記した石版を入れたもの)」が置かれ、その存在こそ主が共におられる象徴であった。
-詩編24:7-8「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」。
・7節以下は主が神殿に共にいて下さる、そのことを喜ぶ歌だ。7-8節と9-10節は同じ言葉が繰り返される。この歌はやがて主イエスの到来を待つアドベントの歌になった(新生讃美歌256番「高く戸を開けよ」)。
-詩編24:7-10「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」。
・ダビデがエルサレムを王国の首都として契約の箱を首都に運び入れ、ソロモンがそこに神殿を建て、契約の箱を安置した。「契約の箱が神殿にある」、「神が臨在されるから自分たちは安心だ」という祭司や民衆に対して、預言者たちは厳しい批判を浴びせる。「神殿祭儀さえ行えば救われるのか」、「主を礼拝するとはそのようなことではない」と。
-イザヤ1:11-17「お前たちのささげる多くのいけにえが私にとって何になろうか・・・私の顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、私の庭を踏み荒らす者よ・・・お前たちの血にまみれた手を、洗って、清くせよ・・・搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
・預言者たちは形だけの神殿礼拝を糾弾し、来るべき主の日には神殿は崩壊するであろうと預言した。その預言はバビロン捕囚で実現した。エルサレムは焼かれ、神殿は廃墟となった。
-エレミヤ7:11-12「私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる。シロの私の聖所に行ってみよ。かつて私はそこに私の名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、私がそれをどのようにしたかを見るがよい」。
・捕囚から帰還した民は神殿を再建した。第二神殿といわれ、詩篇24編もこの第二神殿で歌われた「神の神殿入場」を歌うものであった可能性もある。。
-エズラ6:15-18「この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。この神殿の奉献のために雄牛百頭、雄羊二百匹、小羊四百匹をささげ、また全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。そしてモーセの書に書き記されているとおり、エルサレムにおける神への奉仕のために、祭司たちをその担当の務めによって、レビ人をその組分けによって任務に就かせた」。
3.新約における神殿理解
・預言者の神殿批判はイエスにも継承され、イエスもまた神殿崩壊を預言される。
-マルコ13:2「イエスは言われた『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』」。
・ヨハネでは、イエスこそ新しい神殿であるとの信仰告白が為される。
-ヨハネ2:19-22「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。
・初代教会は神殿に詣でていたが、やがて神は「人の造った神殿にはおられない」として神殿信仰から離れていく。使徒7章は殉教したステファノの信仰告白である。
-使徒7:48-49「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天は私の王座、地は私の足台。お前たちは、私にどんな家を建ててくれると言うのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、私の手が造ったものではないか」』。
・イエスの教えを受けたパウロは聖霊を宿す信仰者の体こそ、神の神殿だと宣言する。私たちも、教会とは目に見える会堂ではないことを銘記する必要があろう。
-第一コリント3:16-17「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか・・・あなたがたはその神殿なのです」。