1.誘惑という試練
・イエスは荒野で悪魔から誘惑を受けるが、それはイエスにとって受けねばならぬ試練であった。人の側からみれば、神の子イエスは生まれたときから完璧な存在であり、試練など必要ないと考えられるか、神の側からみれば、人として人の世に生まれたイエスは、神の子といえどもそのままでは、未完成の器であった。未完成の器であるイエスにとって、神の子としての試練の課程は必要だったのである。
・イエスが主の霊に導かれた荒野は、エルサレムと死海の間の荒野であったと研究者は言う。そこは一面に小石が散らばった砂地で、処々に鋸状の石灰岩が露出し、砂が堆積した丘が散在していた。荒野は傾斜して死海へ下降し。時々旅人が通る他、人影はなく、旅人の声や馬の足音が周囲にこだまし、うつろに響いていた。イエスが霊に導かれた荒野は世俗を遠く離れた静寂の地であった。
・イエスの最初の試練は四十日間の断食であった。バビロン捕囚後のユダヤ教徒は、シナイ山で神から十戒を授けられたたモ-セの断食(出エジプト34:28)に倣い、修行に断食を取り入れていた、人の生命維持に欠かせぬ、食を断つことで、神への従順と敬虔を示したのである。彼らはモ-セの神の山での四十日間の断食が従順の模範としたのである。ユダヤ教の断食は食べ物と水を完全に断ち、食べ物の匂いを嗅ぐことも許されなかった。(プロテスタント教会では、宗教改革以降、断食は真の信仰の業ではないと否定している。)
・断食で空腹を覚えたイエスの前に、誘惑する者が現れ三度イエスを誘惑した。最初の誘惑は「神の子なら石をパンに変えよ」という、空腹になったイエスへの挑発であった。イエスが悪魔の挑発に負け、神の子の能力で、石をパンに変えれば、神の子に与えられた能力の乱用である。イエスは悪魔の誘惑に対し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉で生きる」(申命記8:3)と応じ、誘惑を撥ね退けた。
-マタイ4:1-4「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてある。』
2.イエスは試練に勝たれた
・聖句で遣り込められた悪魔は、聖句でイエスを誘惑する。悪魔が引用した聖句の原典は「主はあなたのために、御使に命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないよう守る。」(詩編91:11-12)である。イエスは悪魔に「あなたたちの神、主を試してはならない。」(申命記6:16)と聖句で答え、誘惑を撥ね退けた。
-マタイ4:5-7「次ぎに、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根に立たせて、言った。『神に子なら飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちがあなたを支える」と書いてある。』イエスは『「あなたの神である主を試してはならない。」とも書いてある。』と言われた。」
・悪魔はイエスを高い山に連れて行き世界を見せる。山がいくら高くても、山上から地球世界のすべてを見せられないという解釈もあるが、それは今日的解釈で、悪魔がイエスに見せたのは、山上から見られる規模の、古代人が理解した、古代人世界であったと考えたほうが妥当である。
-マタイ4:8-11「更に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある。』そこで悪魔はイエスから離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。」
・悪魔がイエスを誘惑するのに用いた聖句の原典は詩編2:8である。
-詩篇2:8「求めよ。わたしはお前を国々の嗣業とした。地の果てまで、お前の領土とする。」
・それに対しイエスの答えた聖句の原典は申命記6:13-14である。
-申命記6:13-14「あなたの神、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」マタイの引用と原典の文体は違うが意味は同じである。この問答で悪魔はイエスに完敗し離れ去り、代わった天使たちが現れ、イエスにかしづく。イエスは悪魔の誘惑に完勝したのである。
・神をどこまで信頼できるか試そうとしたり、わざと危険に身をさらし、神の助けの有無を試したりすることは神に対して不遜であり不信である。また信仰の代償として徴や奇跡を求めるのは、御利益本位の欲望に過ぎず真の信仰とはいい難い。感動がなければ信じられないというのは、気分に左右されやすいので、信仰を保つのは難しい。すべてにわたり証拠を求めるのは信仰というより、疑うことが優先している。神の業は人が試するようなものではない。イエスは悪魔に打ち勝つために、神を試すことはしなかった。神の子としての従順と敬虔をイエスは守ったのである。
-申命記26:17「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います。」
*話し合いのために:ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・大審問官」
・ドストエフスキーは小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、大審問官というエピソードを入れる。議論の主題はイエスが受けた荒野の誘惑である。イエスが誘惑を拒否したから人間は不幸になったのだというのが、大審問官の言い分である。興味ふかい物語が展開されている。
・異端を処刑する薪が燃えさかる16世紀スペインの町セビリアに、ある日キリストが現れた。彼は泣き叫ぶ母親のため、たちどころに死んだ女の子を蘇らせた。町の善男善女は、すわイエス様と色めき立ったが、この話を耳にした宗教裁判の責任者たる老大審問官は、ただちにイエスを捕縛し、牢獄に閉じこめさせた。
・深夜、大審問官は密かに獄を訪れ、イエスをなじった「お前は人類に自由を与えたが、そのため人類がいかに苦しんだか知っているのか。お前は荒野で悪魔に試みられて、『人はパンのみに生くるに非ず』と答えた。あるいは我に従えば地上の栄華を悉くとらせようという申し出に対して、『主なる神にのみ仕えん』と、すげない返事をした。この時お前は身をもって、良心の自由を人間どもに示したのだ・・・だがお前の人間どもはどうだ。この哀れな生物には自由や天上のパンよりも、地上のパンが遙かに大事で、お前の言う自由のためにかえって困惑し、苦悶した」。
・「『我々はお前の名のもとに、その彼らから自由を取り上げて、彼らの救済という大事業に着手し、すでにその完成を見ている。今頃お前が出てきては、彼らを再び苦しめるだけだ。明日は我々の仕事の妨害に来たお前を火あぶりにする』。大審問官の難詰に囚人イエスは終始沈黙を守っていた。審問官はしばらくの間囚人の顔を見つめていた。審問官は何か囚人が言い出す事を期待していたのである。然し、それはなかった。が、突然、無言のまま、囚人は九十歳の冷たい血の気の無い老人の唇に静かに接吻したのであった。それが囚人のすべてであった。大審問官は、戸口に寄っていきなり戸をあけて叫んだ。『さ、出て行け。そしてもう来るな、どんな事があっても。』囚人は静々と歩み去った」。