1.弟子の足を洗う
・イエスたち一行は、過越の食事を共にするために、部屋に集まった。捕らえられる前の晩、木曜日のことである。ルカ22章によれば弟子たちは食事の席順をめぐって争っていた。
-ルカ22:24-26「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい』」。
・裏切ろうとしているユダ、何も気づかずに誰が偉いかを議論している他の弟子たち。その中でイエスは死の時が近づいたことを意識しておられる。緊張をはらんだ最後の晩餐が、今始まる。
-ヨハネ13:1‐2「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
・通常、食事のために家に入るときには、その家の奴隷が、水を汲んで客の足を洗う。しかし食事の家は借りた家であり、足を洗ってくれる人はいなかった。弟子たちは席順のことで争い、他の人の足を洗うどころではなかった。だから、イエスが水差しとたらいを取り、弟子たちの足を洗い始められた。
-ヨハネ13:3‐5「イエスは、父がすべてを御自分の手に委ねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」
・弟子たちはびっくりした。奴隷たちがやるべきことをイエスがしておられる。ペトロは当惑した。
-ヨハネ13:6‐8「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロが、『主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか』と言った。イエスは答えて、『私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。』と言われた。ペトロが、『私の足など、決して洗わないでください。』と言うと、イエスは、『もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる』と答えられた。」
・イエスの言う「既に体を洗った者」はバプテスマを受けた者を指す。ヨハネ13章「洗足」には二つの意味が込められているように思える。一つは「既に体を洗った者は全身が清い」、水の洗い=洗礼を受けた者は既に清くされている。もう一つの意味は「皆が清いわけではない」、洗礼を受けても脱落すれば清くなくなるという意味であろう。直接的にはイスカリオテのユダの裏切りが示唆され、同時に当時のヨハネ教団内での脱落者(迫害の中での脱落者が多かった)に対する警告の意味も込められていると思える。
-ヨハネ13:9‐11「そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』イエスは御自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである。」
・イエスが最後の別れの言葉を述べられた直後に、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしている。イエスが弟子たちの足を洗わねばならないと思われたのはこの時かもしれない。彼らは議論に夢中で、誰も他の人の足を洗おうとは考えていない。そのため、イエス自らが立ち上がって弟子たちの足を洗い始められた。イスカリオテのユダの足は汚れていたので洗わなければいけない。しかし他の11人の足も汚れていたので11人も洗われる必要があった。
2.あなた方も洗い合いなさい
・イエスが自ら弟子たちの足を洗ったのは、互いに仕え合う手本を弟子に見せるためだった。
-ヨハネ13:12‐15「さて、イエスは弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を「先生」とか「主」と呼ぶ。そのように言うには正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』」
・イエスが弟子たちの足を洗われた契機の一つはユダのためであったと思われる。イエスはユダの心の中にイエスに対する疑念が、「この人は本当にメシア、神の子なのだろうか」との疑念が芽生えていることを承知されていた。そのユダに悔い改めを求めるために、イエスは弟子たちの足を洗い始められた。しかしイエスの思いは届かず、ユダは部屋を出て行く。
-ヨハネ12:16‐20「『はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら幸いである。私は、あなたがた皆についてこう言っているのではない。私は、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『私のパンを食べている者が、私に逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、「私はある」ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。私の遣わす人を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。』」
・イエスは詩篇41篇10節を引用されて、愛する弟子に裏切られる悲しみを述べられた。
-詩篇41:10-11「私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が、威張って私を足げにします。主よ、どうか私を憐れみ、再び私を起き上がらせてください」。
・初代教会は指導者を「ディアコニア」と呼んだ。「ディアコネオウ」(食卓の給仕をする)が原語である。イエスは「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席につく人だ。しかし私はあなた方に給仕をする」と言われた。弟子たちはその時は理解できず、誰が上席につくかを議論していた。しかし、イエスの復活に接した弟子たちは、言葉の意味を悟り始め、「給仕する者」(ディアコニア)という言葉が「教会に仕える者」、さらには「執事」の意味になっていく。ヨハネでイエスが言われた「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」のも、その意味であろう。
-ルカ22:27「イエスは言われた。『食事の席に着く人と給仕する者はどちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたの中で、いわば給仕する者である。』」