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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

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ペンテコステ礼拝のご案内(2024年5月19日)

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私たちはペンテコステ礼拝を捧げるために教会に集まります。ペンテコステ、ギリシャ語で50、イエスが十字架で死なれ、復活された過越の祭りから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こりました。キリスト教信仰はイエスが十字架に死なれ、復活されたイエスが弟子たちに顕現され、今は天におられるという土台の上に立っています。そのイエスが、聖霊として再び私たちの下に来られた、それがペンテコステの出来事です。聖霊降臨によって、臆病だった弟子たちが雄弁に語り始め、聴いた人々に回心が起き、キリストこそ救い主と信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。

ペンテコステの記念の日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は「愛の賛歌」として有名で、結婚式等でよく読まれる箇所です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってきます。しかし、コリント教会への手紙の中に何故突然に愛の讃歌が出てくるのか、愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったからです。コリントの教会の中には、派閥争いがありました。道徳上の乱れがありました。財産をめぐる争いもありました。結婚を卑しむ風潮もありました。他者を見下す傾向もありました。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱え、そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送ります。

教会には様々な人が集められます。そこに人間の罪の問題が出てきます。指導者たちは「自分たちこそ教会の頭脳であり、単なる手足ではない」と威張り始めます。奉仕者も「私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない」と言い始めています。その人々にパウロは語ります「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」。体とは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」存在なのだと。体のどの部分、どの器官が、機能を停止しても体全体の調子は狂うのです。同じように教会員の一人が経済的な問題に苦しみ、心や体の不調に苦しむ時には、教会全体が苦しむのだとパウロは語っています。

だからパウロは続けます「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」私たちにもっとも必要な賜物とは何か、それは「お互いが相手のことを思い合うことを可能にする賜物」、「愛」です。ですから、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この「愛が無ければ全ての行為は空しい」とパウロは語ります。それが13章の愛の賛歌です。パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」。どらやシンバルは、異教の礼拝に置いて人を陶酔に導くための道具として用いられます。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではありません。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。教会で熱心な証しがされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しい。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」。愛が無ければ、全ての行為は無益だと彼は言います。

そして13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「妬まない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのか。コリントの人々は「妬み、高ぶり、いらだつ」存在だったからです。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではないことに留意すべきです。

愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭・本田哲郎氏はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」。

エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛です。しかし、それらは感情的な愛であり、基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要です。そしてアガペーとは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛です。この愛=アガペーは、私たちの中に本来存在しません。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。自分の中に「愛(アガペー)」がないことを知ることが最初の一歩です。

アガペーは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものであれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできないからです。最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、しかし信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」教会がどのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体です。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのです。教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能であり、そして最終的に残るものは「信仰と希望と愛である」とパウロは語ります。

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