すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

ようこそ篠崎キリスト教会のホームページへ

今週の招詞(2009年2月1日説教から)

2009-2-1
「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)

共観福音書には115の癒しの記事があるそうです。福音書記者が伝えることは「イエスの活動の中心の一つは癒しだった」ということです。しかし後の教会は、このイエスの癒しへの取り組みを評価しませんでした。パウロの手紙には「癒しの記事」は一つもありません。パウロのような理性的な人々にとって、癒しはあまりにも魔術に思えて、忌避したのかもしれません。

しかし教会は宣教の重要な課題として、「病む人の癒し」を考える必要があります。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、汚れた者とされていた人々でした。らい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されました。らい病者に触れることは当時の律法では禁止されていました。イエスはまた、一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせました。死者に触れることも「汚れ」として禁止されていた行為です。「癒し」の行為は、安息日にも行われました。パリサイ人は律法違反だとイエスを攻撃しました。

イエスは自らが痛むことによって、自らの身に社会的制裁を受けることによって、病む者たちの痛みを共有された。この「痛みの共有」こそ、今の教会に必要なものではないでしょうか。

説教

新着一覧

証などのビデオ