すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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2018年11月4日説教から

2018-11-4
「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」(ヨハネ11:25-26)

ラザロが死んで4日目にイエスはベタニヤ村に来られ、マルタに言われました「あなたの兄弟は復活する」。マルタは答えます「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。マルタが信じているのは霊魂の不滅であり、今ここでのラザロのよみがえりではありません。そのマルタにイエスが言われた言葉が今日の招詞です。

神は死者を生き返らせることが出来る。神の力、神の憐れみを信じるか。マルタは信じることが出来ません。イエスはマルタのためにラザロを墓から呼び出され、ラザロは再び生きるものとなりました。

死んだ後どうなるのか、誰にもわかりません。神を信じる者にもわかりません。ただわかることはイエスが死んで復活されたこと、イエスが今も生きておられることの二点です。イエスによって死が乗り越えられた故に、私たちはイエスが復活されたように、信仰者に復活の約束が与えられていることに希望を置きます。私たちは死を悼みません。死とは終わりではなく、新しい命の出発だからです。

現代の日本人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活するとパウロは語ります。世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦めます。若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される。生かされているとは、そのような希望を持つことです。「死を忘れるな」、そして「死を恐れるな」。これが聖書のメッセージです。

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