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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年9月8日祈祷会(マタイ18:1-20、天の国で一番偉い者は誰か)

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1.天の国で一番偉い者

 

・エルサレムへの道中で、弟子たちが「天の国で一番偉いのは誰か」とイエスに聞いてきた。

-マタイ18:1「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったい誰が、天の国で偉いのでしょうか』と言った」。

・マタイが引用したオリジナル版マルコでは弟子たちは自分たちの序列を巡って争っていたとある。

-マルコ9:33-34「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中で誰がいちばん偉いかと議論し合っていたからである」。

・弟子たちの関心は集団内の序列である。現代人も組織内での位置や昇進が一番の関心事だ。その弟子たちに、イエスは一人の子どもを示して、「子どものように自分を低くしなければ天の国に入ることはできない」と答えられた。仲間内で順位を争うような狭い心では、天の国へ入る資格すらない。偉さを競い、人の上に立ちたいという願望は、天の国に入るにはふさわしくない。

-マタイ18:2-5「そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになることが、天の国でいちばん偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。』」

・イエスの答えに弟子たちがどんな反応をしたか、マタイは何も記していない。部下の功名心を掻き立て、競わせるのが世の指導者であるが、イエスは反対のことを教えられた。幼児は母の腕の中で何の疑いもなく眠り、腹が空けば目を覚まし、むずかる。世の欲得に何の関わりなく、ありのままに生きる。無邪気な幼児の姿に、人はふと天国を感じる。イエスは、幼子を受け入れることは私を受け入れることであると繰り返し言われる。

-マタイ25:40「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」

・アードルフ・ポルトマンは、「人間はどこまで動物か」という本の中で語る。「人間は、両親や兄弟や周りの人々の『愛と受容』がなければ生きていけない」。それを知ることは集団内の序列を争うことより大事なことではないかとイエスは語られている。

-アードルフ・ポルトマン:人間はどこまで動物か「人間の子どもは母親や養護者の助けなしには一日も生きていけない能なしである。高等哺乳類、例えば山羊や馬の仔は、生まれるや否や立ち上がって仲間の後を追いかける。眼も見えるし、母乳も自力で吸う。身体も成熟した大人の形に近い。だが、人間の赤ん坊は、あらゆる哺乳類の中で最も弱い状態で生まれて来る。歩くことはおろか、自力で食べることも覚束ないし、目も見えない。泣く以外には何もできず、一切を母親や養護者に依存している。愛され、受け入れられるということがなければ、一日も生きて行けない。このように、あるがままに受け入れてくれる周りの人々の『愛と受容』のお蔭で、生きることができる。だから、『愛と受容』は命の基本構造なのである」(アードルフ・ポルトマン「人間はどこまで動物か」(1961年、岩波新書、代々木上原教会2005・12・11説教から)。

・イエスが語られたのも、「愛と受容に生きよ」ということであった。

-ルカ22:24-26「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい』」。

 

2.罪への誘惑

 

・6節以下では、「小さい者をつまずかせる」ことへの警告が語られる。ここでいう小さい者は子どもではなく、教会の中の信仰の未熟な者を指している。マタイはつまずかせる者の罪の大きさを「大きな石臼を首にかけられ、深い海に沈められる方がましである」と強調する。大きな石臼を首にかけられ、深い海に沈められたら、生きて再び太陽を見ることはかなわない。小さい者の信仰を失わせ、離れさせる者は、それほど罪が重いという、教会の中でおごり高ぶる人々への警告の言葉である。

-マタイ18:6「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。

・人をつまずかせる者は厳しい決断を迫られる。片方の手や足がつまずかせるなら、その手足を切り捨てよ。片方の目がつまずかせるならその目をえぐり出して捨てよ。両手両足両目がそろったまま、永遠の火が燃える地獄に投げこまれるよりましだからとイエスは言われる。厳しい言葉だ。

-マタイ18:7-9「世は人をつまずかせるから不幸で、つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げこまれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 

3.「迷い出た羊」のたとえ

 

・迷い出た羊の譬えはルカにもあるが(15:3-7)、マタイでは「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という文脈の中で語られる。マタイは信仰共同体における牧会配慮の教えの中で語る。

-マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」。

・旧約では、羊飼いは神で、羊は民である。羊は迷いやすい弱い動物だ。捕囚期の預言では離散したイスラエルの民を神自ら尋ね歩いて群れを回復する様子が、迷った羊を尋ね歩く羊飼いの姿に重ね合わされている。

-エレミヤ23:3-4「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと主は言われる」。

・マタイの物語では、羊の持ち主は、一匹の羊が迷うと九十九匹を山に残して捜しに行く。山は聖書では聖なる場所で、九十九匹の安全を確保した上で、迷い出た一匹が捜し出される。この譬えが語るのは、教会にとって信仰の弱い人たちをどのように牧会していくのかである。

-マタイ18:11-14「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」

・マタイでは弱い人が「迷い出た羊」として描かれ、連れ戻された羊が悔い改めないならば、その羊は放出される。マタイの視点はあくまでも教会論にある。

-マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。

・一方ルカでは異なる場面設定で語られる。ルカにとって九十九匹はファリサイ人を指し、一匹は排斥された貧しい人々を意味する。ルカの文脈では九十九匹よりも一匹の方が大切にされる。

-ルカ15:1-7「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された『あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださいと言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』」

・マタイは「迷い出た羊の譬え」の中で、教会の人々に信仰の弱い人を保護するようにとイエスの言葉を語り直している。他方、ルカは「見失った羊の喩え」で、見失った羊をどこまでも追い求める教会の在り方として譬えを解釈する。どちらが良いか悪いかではなく、共に大切な、しかし異なる視点を私たちに伝える。

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