江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年12月1日祈祷会(マタイ23:1-28、律法学者とファリサイ派の人々へ批判)

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1.律法学者やファリサイ人の行いは見倣うな

 

・マタイは23章で激しいファリサイ派批判を行うが、マルコやルカに比し、批判の分量は多く、言葉も厳しい。紀元70年の神殿崩壊に伴い、祭司階級は消滅し、ユダヤ教はファリサイ派中心の律法共同体になって行き、マタイ教会を始めとするクリスチャンたちは激しく迫害されていた。23章のファリサイ派批判も70年以降の情勢を反映しているとみる必要がある。

-ヨハネ9:22「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。

・律法(モーセ五書)は前五世紀に捕囚地バビロンで完成するが、時代の変化に応じた解釈が求められ、律法学者(大半はファリサイ派)は再解釈を行い、ファリサイ派は厳格な律法厳守を人々に求めていた。律法学者たちとファリサイ派は「モ-セの座につき」、モ-セの律法を研究し、民衆に教えていた。イエスは彼らの言説の正しさは認められたが、彼らはそれを実行しない。だから「行いは見倣うな」と言われる。

-マタイ23:1-3「イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々はモ-セの座についている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。ただし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである』」。

・ファリサイ派は、成文律法と同時に、解釈の積み重ねである口伝律法にも権威を認めていた。そのため律法の数は膨大になり、民にとっては背負い切れない重荷になっていた。しかも、彼ら自身は命令するだけで、律法を守れない人々を助けようともしなかった。

―マタイ23:4「『彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない』」。

・イエスが「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と教えているのは、律法の重荷のことであろう。イエスは律法の本質を「神を愛し、隣人を愛す」ことだと言われ、律法の細部を守れとは言われなかった。

-マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。

・ファリサイ人は「聖句の入った小箱を常に身につけていた」。彼らは自身が律法に忠実であることを民衆に見せるために、聖句の入った箱を目立つようにし、衣の房を長くした。また彼らは宴会や会堂で上席に座ることを欲し、広場で、先生と呼ばれることを欲した。彼らは人からの名誉を求めた。

-マタイ23:5-7「そのすることは、すべて人に見せるためであり、聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座に、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生(ラビ、大いなる者)」と呼ばれたりすることを好む」。

・イエスは律法学者たちを批判すると同時に、弟子たちも戒められる。「あなたたちの間で「先生」「父」「教師」の尊称で呼びあってはならない」と。「父」は「天の父お一人」だけであり、「教師(ラビ)」は「キリスト一人」だけである。あなたがた弟子たちは互いに兄弟と呼びあうべきである。共同体の中で序列争いをしていた当時の教会に対するマタイの警告がここに反映している。

-マタイ23:8-12「だが、あなたがたは『先生(ラビ)』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで後は皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 

2.あなたたち偽善者は不幸だ

 

・イエスは「律法学者とファリサイ人は人々の前で天の国を閉ざす」と非難している。マタイ教会はユダヤ教から激しい攻撃を受けていたため、ファリサイ人に対する批判は厳しい。

-マタイ23:13-15「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。

・イエスは「誓ってはならない」と戒められたが、それは約束した言葉の信頼を失わせないためであった。ファリサイ派は誓いをかける対象で、誓いの価値が左右されると考えていた。イエスはそれを批判される。23章16節以下は、マルコやルカにはない、マタイの特殊資料に基づく批判である。

-マタイ23:16-17「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かでものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」。

・イエスは、彼らの教えがいかに形式主義に堕しているかを鋭く批判される。

-マタイ23:18-22「また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。」

 

3.偽善に気づかない律法学者やファリサイ人

 

・律法学者やファリサイ人たちは決められた教えは厳格に守り、十分の一税納付もきちんと行っていた。地の産物の十分の一を、神への献げ物として神殿に納めることは、律法に定められていた(申命記14:22)。ユダヤ教指導者は、小義にこだわり、大義を忘れていた。薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)などは、農家の庭先などでごく少量栽培されるだけの食材であり、薬材だ。イエスは彼らが「小さなブヨは漉しても、大きなラクダは呑みこんでいる」と批判された。彼らは些末なことに拘り、律法の中で最も重要な「義と憐れみと真実」をないがしろにしていると批判されている。

-マタイ23:23-24「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な、正義、慈悲、誠実はないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない。ものの見えない案内人、あなたたちは、ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」

・イエスはさらに、器の譬えでユダヤ教指導者の偽善を追及された。杯や皿の外側を、いくら綺麗に洗い清めても、内側を洗い清めなければ、その杯や皿を本当に清めたとは言えない。同じようにユダヤ教指導者たちは、表面だけ律法を守っているように見せかけているが、内心は強欲と放縦に満ちていた。

-マタイ23:25-26「律法学者とファリサイの人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」

・ユダヤ人は死体や墓に触れると汚れると信じていた(民数記5:6)。ユダヤ人の墓の多くは路傍にあったが、墓に触れると汚れるので、人々に気付かせるよう墓を白く塗った。白く塗られた墓は外目に美しく見えても、その中には汚れた骨がある。ユダヤ教指導者の実体はこの墓のように、外見は信心深く清く見えるが、その心の中は罪に汚れているとイエスは指摘された。

-マタイ23:27-28「律法学者とファリサイ派の人々、あばたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」

・信仰生活をしている者にとって、「偽善」という言葉ほど胸に深く突きる言葉はない。信仰者は自分が偽善者であることを知っている。しかし、律法学者やファリサイ人の問題は、彼らが自分たちの偽善に気付いていない点である。だからイエスは反対命題を出されて、人がいかに律法を守ることが出来ないかを示された。誰でも右の頬を打たれたら打ち返すし、敵を憎むなと言われても出来ないのだ。

-マタイ5:38-44「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

・そこにパウロが指摘する「律法の限界と福音の意味」が見えてくる。人は律法を守ることによっては救われない。なぜならば守りきることが出来ないからだ。だからこそ十字架の贖いが必要なのである。

-ローマ3:20-22「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。

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