江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年11月10日祈祷会(マタイ21:28-46、ぶどう園と農夫の譬え)

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1.「二人の息子」の喩え

 

・イエスは祭司長たちに、「二人の息子の喩え」を語られる。父親は初め兄にぶどう園に行くよう頼み、兄は最初断るが、その後思い直して行く。弟は「行きます」と返事するが、結局は行かなかった。マタイ独自の譬えである。

-マタイ21:28-30「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言った。兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。』

・兄に例えられる宗教指導者は、ヨハネの説く「義の道」を受け入れながら、ヨハネに従わなかった。弟に例えられる徴税人や娼婦は「義の道」に背きながらも、ヨハネを、そしてイエスを受け入れた。最終的に神の御心に添った生き方をしたのは、宗教指導者ではなく、社会から排除されていた徴税人や遊女であったとイエスは指摘される。ただわかりにくい譬えである。

-マタイ21:31-32「『この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。』彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。』」

 

2.農夫たちの反抗

 

・イエスは次に「ぶどう園と農夫の喩え」を語られた。マタイ・マルコ・ルカに共通する譬えであり、原典はマルコであろう。旧約聖書において、イスラエルはしばしば、ぶどう園に喩えられた。「ぶどう園と農夫の喩え」に登場する、家の主人は「神」、ぶどう園は「イスラエル」、農夫たちは「イスラエルの宗教指導者たち」、僕たちは「預言者たち」、主人の息子は「イエス」でありと解釈される。

-マタイ21:33-36「『もう一つの譬えを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、この農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。』」

・ぶどう園に喩えられたイスラエルの管理を、家の主人である神は、宗教指導者を含むイスラエルの人々たちに任せた。神は彼らを信頼したからこそ任せたのに、彼らは信頼を裏切った。ぶどう園の主人である神が度々送った僕たち(預言者たち)を殺し、神の信頼をないがしろにしてしまった。イエスはイスラエルの宗教指導者たちの犯してきた背信の罪を、「ぶどう園と農夫の喩え」で指摘された。その背景にはイザヤ書の警告がある。

-イザヤ5:7「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)」。

・ぶどう園の主人は、最後の手段として、息子を送るが、農夫たちは息子も殺し、ぶどう園まで自分たちのものとしようとする。跡取り息子の殺害は、イエスが殺害されたことを暗示している。

-マタイ21:37-39「そこで最後に『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちはその息子を見て話し合った『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」。

・イエスは事件の結末を、「ぶどう園の主人は、その悪党どもを死刑にして、ぶどう園は他の農夫に貸すだろう」と語られたと福音書記者は記す。

-マタイ21:40-41「『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか』。彼らは言った『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫に貸すにちがいない』」。

 

 

3.ぶどう園と農夫の譬えの背景にあるもの

 

・祭司長たちやファリサイ人たちは、この物語が自分たちに対する批判であることを知り、歯ぎしりする。しかし、民衆の手前、今すぐイエスを捕らえることは出来なかった。

-マタイ21:45-46「祭司長たちやファリサイ派の人々はこの譬えを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」

・マタイ21章の物語は、マルコ12章から採られている。イエスが人々に言われたとされる言葉「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ブドウ園を他の人たちに与えるに違いない」(12:9、マタイ21:40-41)は、イエスの言葉ではないとされる。「十字架上で自分を殺す者たちのために祈られたイエスが、相手を裁き、その死を望まれる」とは思えない。

・聖書学者の多くは、マルコ12:9節後半以降(マタイ21:40以下)は初代教会が自分たちの信仰の立場から書き加えたと考えている。「農夫たちは殺され、ぶどう園は他の者に与えられる」とは、イエスの死から40年後に起こった対ローマ戦争でユダヤが敗北し、エルサレムが滅ぼされたことを暗示している。それは神のひとり子であるイエスを殺したことの報いであると初代教会は反論している。

・しかしこの付加により、イエスが語られた事柄の真意が歪められてくる。イエスは祭司たちに悔い改めを求められたが、その裁きは父なる神に委ねられた。しかし、弟子たちはイエスを殺したユダヤ人を裁き始めている。マタイはさらにマルコにはない43節以下を挿入し、そのトーンを強めている。

-マタイ21:43-44「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。

 

4.隅の親石の喩え

 

・その後、イエスは隅の親石の喩えを語られた。

-マタイ21:42-44「イエスはこう言われた『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』。だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう』」。

・隅の親石という言葉は詩篇118編から採られている。元来は、バビロン捕囚を踏まえた詩だ。神は罪を犯したイスラエルを罰するために、バビロニア帝国を用いて国を滅ぼされ、指導者たちをバビロンに捕囚として送られた。イスラエルは捨てられた。捕囚民はバビロンの地で悔い改め、涙を流した。時が来て、神は、バビロンに囚われた人々を解放してイスラエルに戻し、新しい国の再建を任せられた。「捨てられたかに見えた石を用いて、神はイスラエルを立て直された」と人々は神を賛美した詩である。

-詩編118:22-23「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私の目には驚くべきこと」

・マルコ(そしてマタイ)がこの詩篇を引用した意図は明確だ。人々はイエスを役に立たない石として捨てるが、そのイエスを神は死から復活させられ、復活を通して、人々はイエスが神の子であることを知り、自分たちが神の子を殺したことに気づき、悔改める。その時、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」。それは祝福の言葉であり、呪いの言葉ではない。

・マタイ21:42-44はイスラエルに対する呪いが記されているが(神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう)、当然にイエスの言葉ではない。教会によるイエスの言葉の書き換えが後のユダヤ人迫害(キリストを殺した民としてのユダヤ人)、そしてナチスのユダヤ人大量虐殺に繋がっていく。イエスは福音を語られたのに、弟子たちはそれを裁きの言葉に変えた。私たちは聖書が福音である(良い知らせ)であることを、聖書の釈義を通して明らかにしていく責任がある。

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