2019年5月29日祈祷会(第二テサロニケ1章、苦難の中で感謝する)
1.迫害と苦難の中にある教会への二つの手紙
・テサロニケ教会は迫害の中にあり、パウロは彼らを慰めるために手紙を書いた(テサロニケの手紙第一、紀元50年頃)。教会の人々は、主イエスが一日も早く来られて、その苦しみの時を終わらせてくれるように祈っていたが、やがて「主の日は既に来たとして、日常の働きを放棄する者もでている」との知らせがパウロにあり、パウロは彼らに「主の再臨をどのように待ち受けるべきか」を書き送った(紀元51年頃か)。
−第二テサロニケ2:1-2「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストが来られることと、その御許に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。
・テサロニケ教会は迫害の中にありながら、自分たちの信仰に固く立っている。彼らの信仰は。艱難の中で成長し、教会の一致が周りの教会に良い証しとなっている。そのことをパウロは喜ぶ。
−第二テサロニケ1:3-4「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。それで、私たち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています」。
・テサロニケの人々は迫害の中で、それが終わる日、「終末=主の再臨」を強く待ち望んだ。パウロは「あなたがたが迫害を受けていることこそ、世の終わりのしるし、神の祝福の時なのだ。主の日は近い」と力説する。
−第二テサロニケ1:5「これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです」。
・「神の国のために苦しみを受けている」のであれば、それは祝福だとパウロは語った。イエスも「義のために迫害される人々は、幸いである」と語られた。
−マタイ5:10-12「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい・・・天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
・信仰は往々にして迫害や苦難を伴う。私たちがキリスト者になるとは、「世に属さない者」、「世と異なる価値観を持つ者」になることだ。だから世はキリストを迫害したように、キリストの弟子たちを迫害する。
−ヨハネ15:18-19「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
2.何故苦難を耐えてまで従うのか
・何故苦難を耐えてまで従うのか。ここにしか救いはないからだ。世のものは全て過ぎ去る。世はサタンの支配下にあるように思えるかもしれない。しかし、神は見ておられる。あなたがたの神は終わりの時に、不義を裁いてくださる。「この苦しみはやがて終わる」、「その希望を持て」とパウロは語る。
−第二テサロニケ1:6-7「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、私たちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます」。
・あなたがたを迫害する者は裁かれる。だから、相手を恨まず、現在の苦しみを耐えよ。
−第二テサロニケ1:8-9「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」。
・それは相手の滅びを願うことではない。主が報復されるから、あなたは相手の救いの為に祈れと命じられている。
−マタイ5:44「私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
・主の為に苦しみを耐えよ。主も苦しみを耐えられた。私もあなたのために祈るとパウロは励ます。
−第二テサロニケ1:11-12「このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、私たちの神と主イエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」。
3.第二テサロニケの信仰(ダニエル書との対比において)
・第二テサロニケ書の本来の主題は、「誤った終末論に惑わされることなく、落ち着いて日常の労働に励む」ことの大切さを説くことにあったのだが、後にはそこから離れ、中世の終末論や反キリスト像の発展に大きく影響した文書である。このような内容から第二テサロニケはパウロの真筆ではなく、後代の手紙だとする学者も多い。
−第二テサロニケ2:3-4「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」。
・「神は信仰者の願いを聞いて下さる」、それが私たちの基本となる信仰だ。パウロは語る。
−第二コリント1:8-10「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。
・しかし願いが適わないときはどうするのか。その時、黙示思想が出てくる。第二テサロニケの黙示的終末論はダニエル書と相似している。ダニエル書の時代(紀元前2世紀)、シリア王アンティオコスは神殿にゼウス像を建てて拝むように強制し、従わない者は処刑し、聖書を燃やし、割礼を禁止し、幼児に割礼を施した母親を子もろとも殺し、幼児の死体を母親の首にかけてさらした。へブル書は「救済されずに死んでいく人々がいる現実」を隠さない。
−ヘブル11:37-38「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです」。
・迫害の中で、ダニエルは神に訴える「あなたは何故、このような暴虐の振舞いを許されるのか、何時までこのような苦しみは続くのですか」。そのダニエルの問いに答えて7章以降で幻が示され、勝ち誇るアンティオコスやがて滅びると啓示される。
−ダニエル書7:11-12「この角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた」。
・地上の権力は、神が許して置かれる期間だけ、生き長らえる。今、地上で猛威をふるう圧制者アンティオコスも神の支配の中にある。それ故信仰者は「たといそうでなくとも、仮に今ここで救われなくとも」(ダニエル3:18)という信仰を持つ。これがアウシュビッツにおいて、ユダヤ人が見出した信仰だ。彼等の前に、ヒトラーとその配下がおり、多くの仲間が殺され、自分たちも殺されようとしている。それにも関わらず、ヒトラーの上にも神の支配が厳然としてあり、「定めの時が満ちた時」、ヒトラーは裁かれるであろうと彼らは信じ、「神の平安がありますように」とお互いを祝福して、ガス室の中に入って行った。
・人間にとって恐ろしいのは、苦しみに圧倒されて、目の前の問題だけが大きくのしかかり、その苦難の意味や、自分が今どこに立っているのかがわからなくなった時だ。人が山に上る時、頂上が見えていれば現在の苦しみにも耐えられる。神はダニエルに「地上ではなく天を見よ、天ではこの苦難を終らせるための会議が既に開かれている」と示された。ヘブル書は締めくくる。神の裁きの日は信仰者には救いの日なのである。
−ヘブル11:39-40「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私たちのために、更にまさったものを計画してくださったので、私たちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」。