1.「見失った羊」の譬え
・ファリサイ人たちはイエスが徴税人や罪人と交際しているとして批判した。律法を守らない者は罪人であり、神の裁きの中にあるとファリサイ人たちは考え、そのような者と交際した人も汚れると考えていた。
-ルカ15:1-2「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。
・その彼らにイエスは、「見失った羊の譬え」を語られた。父なる神は「九十九匹を残したままで、失われた一匹を探し出される方だ」とイエスは言われる。
−ルカ15:3-4「そこで、イエスは次のたとえを話された。あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
・迷える羊を見つけた飼い主は、近隣の人々と共に羊が見つかったことを祝う。飼い主一人だけで祝うには、喜びがあまりにも大き過ぎるからである。このように、悔い改めの必要のない九十九人よりも、一人の罪人が救われることを神は喜ばれるのであるとイエスは語られる。
−ルカ15:5-7「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。
・ルカはこの譬えを、徴税人や罪人がイエスの話を聞こうとして来た時に、ファリサイ派の人々や律法学者が「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と批判したことへの反論としてイエスが語られたと紹介する。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、明らかにファリサイ人や律法学者を指している。「自分たちは正しい」、「自分たちは既に救われている」と考える人々は、イエスの呼びかけを拒否し、悔い改めようとしない。そのようなあなた方よりも、「悔い改める罪人=失われた羊」を父なる神は喜ばれるのだとイエスは言っておられる。故にイエスは、「九十九匹を野原に残しても=九十九匹を危険にさらしても」、失われた羊を探しに行くと言われている。
・私たちは、この物語を、「一匹を見殺しにして九十九匹の繁栄を図る」社会への、イエスの警告として読むことが出来る。塩野七生(ななみ)氏は「ローマ人の物語」を書いた著名な作家だが、この箇所について語る「迷える一匹の羊を探すのは宗教の問題であり、九十九匹の安全をまず考えるのが政治の課題である」。この世は多数、九十九匹を大事にする。民主主義とはそういうものであり、政治の目標は「最大多数の最大幸福」だ。しかし、その過程で切り捨てられる人がいる。全ての人に成功の機会があることは、全ての人に失敗の機会もまたある。そして成功者を讃える社会では失敗者はかえりみられない。イエスはそのような社会の在り方に異議を唱えられたのである。
−ルカ5:31-32「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」
2.マタイ版「一匹の羊」の譬え
・同じ譬えが、マタイ18章にもあるが、それは「迷い出た羊の譬え」になっており、ルカ版の「見失った羊」と微妙に内容が異なる。
−マタイ18:12-14「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。
・マタイの文脈では、「教会の小さな者をつまずかせる者は災いだ」と言う文脈の中で、この「迷い出た羊」が語られている。つまり「九十九匹」は教会の忠実な信徒たちであり、「一匹」とは教会から迷い出た弱い羊の意味になる。だからマタイは、「迷い出た羊の譬え」の後に、「教会を離れた兄弟への忠告」を配置する(18:15-17)。
−マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」。
-マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
・この物語はルカとマタイの共通資料=イエス語録から取られている。イエスはある時、「九十九匹の羊を置いて一匹を探しに行く神の愛を語られた」、それをマタイは教会に対する教えとして聞いた。いろいろな人が教会につまずき、あるいは自分の問題で、教会に来ることが出来ない状態にあった。マタイはそのような現実を見て、「誰かが教会につまずいたとしたら、それは教会全体にとって非常時なのだ。父なる神はその一人でもが失われることを望んでおられない」と述べている。
3.「無くした銀貨」の譬え
・二番目の譬えは「無くした銀貨の譬え」である。
−ルカ15:8-9「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
・ドラクメ銀貨はギリシャの銀貨で、一ドラクメは一デナリオンに等しく、一デナリオンは労働者の一日の賃金だった。そのドラクメ銀貨十枚をセットにし、結婚祝いとして女性に贈る習慣があった。贈られた女性は、この銀貨十枚を紐でつなぎ、ネックレスにして肌身離さず身に着けた。それは身を飾るだけでなく、病気などの不時の出費に備える貯蓄の意味もあった。この十枚セットの銀貨の一枚を女性は紛失し、懸命に捜した。当時のユダヤの家は窓が小さく、昼間でも室内は暗く、そのうえ床には藁が敷いてあり、藁敷きの床に、銀貨のように小さいものが紛れこむと、捜し出すのは困難だった。彼女は銀貨一枚のために、普段は使わない高価な油でともし火をつけ、床を隅々まで掃き出し、努力のかいがあって、銀貨を見つけた。ルカは失った銀貨を見つけた婦人が「一緒に喜んでください」と喜ぶさまを強調している。譬えへの締めくくりでは、先の羊の例えと同じように、「見失ったものが見出された喜び」が表現される。
−ルカ15:10「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
4.これらの譬えの意味するもの
・見失った羊を見つけた羊飼いは「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言う。銀貨を見つけた女は「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言う。ルカ15章を貫いているのは、見失ったもの、無くしたものを見つけた喜びだ。悔い改めてイエスの話を聞きに来た徴税人や罪人は、イエスにとって、「見失ったが見つけ出された羊」であり、「見失ったが見つけ出された銀貨」だった。そして「見いだせなかったもの」は、自分が罪人であることに気づいていない、ファリサイ派や律法学者の人々だった。ファリサイ派や律法学者は、徴税人や罪人と比べれば、自分たちは正しく生きていると思いこんでいたが、神の視点からから見れば、彼らこそ「迷いの中で滅びよう」としている。そのことに気づいていない彼らに向けて、これらの譬えが語られている。
・私たちは自分をどちらの側に置くのか。自分が「失われた羊、失われた銀貨」だと思う人は、それを探してくれた神に感謝し、新しい人生を生きる。しかし、私たちが、「自分は人よりましだ、だから教会に属し、戒めを守っている」と思えば、私たちは「見いだせなかったもの」になる。私たちの社会は戦後、民主主義を拠り所として、何事につけても多数決、一匹よりも九十九匹を大切にする社会となった。そして、いつの間にか、成功者を称え、挫折者を見捨てて、省みない社会となった。その悪しき例は、この民主主義社会から、三万人を越える自殺者を、毎年生じていることだ。この社会の挫折者は、「失われた羊、失われた銀貨」にたとえられる。
・イエスは、「父なる神は一匹の羊、一枚の銀貨を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、見つけられた者は、見つけ出してくださった神に感謝し、共に喜びを分かちあう」と説く。イエスは、悔い改めた「徴税人と罪人たち」を、「見失った羊、見失った銀貨」に例え、彼らが悔い改めて帰るのを神は喜ばれるとファリサイ派や律法学者らに教えた。私たちの中で、自分は、その罪人であると認める人は救いにあずかることができ、認められない人は救いにあずかれないとしたら、私たちは自ら悔い改めなければならない。この一連の譬えはそのことを私たちに問う。