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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年7月14日祈祷会(詩編110篇、私の右の座につきなさい、聖戦を考える)

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1.王の即位式の詩

 

・詩編110編は、本来はダビデ王朝の王たちの即位式において歌われた詩であろう。王の即位式においては油が注がれ、王は神の代理人として神の右に座る者とされた。「右の座」神に次ぐ権威を持つ者、「わが主に賜った主の御言葉」とは、「私たちの王に与えられた主なる神の言葉」の意味であろう。

-詩編110:1 「わが主に賜った主の御言葉。『私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう』」。

・王の役割は外に対しては国を防衛し、敵を打ち砕くことである。「あなたの敵をあなたの足台とする」、敗残の敵将の身体を踏みつけて足台にすることは実際の戦闘においても為されていた。ヨシュア記では征服された王たちの首をヨシュアの部下たちが踏む有様が描かれている。

-ヨシュア記10:24-25「五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼と共に戦った兵士の指揮官たちに、『ここに来て彼らの首を踏みつけよ』と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた」。

・王がその権威の象徴である王錫を持って戦場に臨む時、民は進んで王の兵として働く。主なる神が共におられる故に戦いは王の勝利になる。士師の時代、人々は通常は農民として働き、いざ国の危急の時には、兵士として馳せ参じた(士師記5:9)。

-詩編110:2-3「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。あなたの民は進んであなたを迎える、聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、曙の胎から若さの露があなたに降る時」。

・4節メルキゼデクは古代エルサレムの王であり、父祖アブラハムが十分の一の捧げ物を捧げたことにより最初の祭司とされた(創世記14:18)。イスラエルにおいて王として立たされる者は、神の前においては神を代表する者として裁きを行い、他方では民を代表する者として、民のための執り成しの祈りを神に捧げる役割を持った。

-詩編110:4「主は誓い、思い返されることはない『私の言葉に従ってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(私の正しい王)』」。

・5節以下は戦場の描写である。主なる神が王の右におられる故に戦場においては勝利がもたらされ、敵は打ち破られ、多くの死体を残して撤退する。イスラエルの民はそれを見て主を讃える。古代社会においては武力こそ民の生存条件であって、戦に負けた者たちは滅ぼされた。

-詩編110:5-7「主はあなたの右に立ち、怒りの日に諸王を撃たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち、広大な地を屍で覆われる。彼はその道にあって、大河から水を飲み、頭を高く上げる」。

 

2.その詩がメシア預言として聞かれてきた

 

・この王の即位式の詩が、やがてメシア預言として歌われるようになった。誰もこの詩にふさわしい王はいなかったからである。

-列王記下21:13-15「私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す・・・彼らは先祖がエジプトを出た日から今日に至るまで私の意に背くことを行い、私を怒らせてきたからである」。

・イエスは人々が彼を「ダビデの子」と呼ぶことに反論して、この詩篇を引用される。

-マルコ12:35-37「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた『どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている“主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着きなさい。私があなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで”と。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか』」。

・ペテロはイエスこそメシア=キリストであることの論証として詩編110編を用いた。

-使徒2:34-36「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています『主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着け。私があなたの敵をあなたの足台とする時まで』・・・あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。

・ヘブル書はイエスこそメルキゼデクを継ぐ大祭司であることのしるしとしてこの詩篇を引用した。

-ヘブル5:5-6「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたは私の子、私は今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」。

・パウロもまたイエス・キリストこそメシアであったことの論拠として、詩編110編を用いた。

-第一コリント15:25-28「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです・・・すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。

 

3.聖戦は正しいのか

 

・ヨシュア記を始め、旧約聖書には、繰り返し聖戦の記事が出てくる。多くの場合、これらは領土を守るために守護神ヤハウェが戦われた記録である。旧約における戦争はイスラエルを守るための防衛戦争であった。聖戦がカナン侵攻時に限られたことを覚える必要がある。それは必要悪として許容されたものであった。

-ヨシュア記10:40-42「ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息ある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられた通りであった・・・ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである」。

・そこにおいては、「滅ぼし尽せ」(聖絶)との神の命令が出てくる。戦いが神の命による聖なるものであったからである。考古学的検証では、聖絶は宗教的理念であり、実際にはなかったとされる。聖絶という出来事は宗教的な概念であり、歴史的出来事ではないことに留意する必要がある。

-サムエル記上15:2-3「万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、私は罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、駱駝も驢馬も打ち殺せ。容赦してはならない。」

・イエスは旧約の伝統を否定し、「敵を愛せ」という絶対的平和主義を唱えられた。

-マタイ5:43-44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

・初代教会はイエスの絶対的平和主義に従い、ユダヤ戦争においてはエルサレムから逃れ、シリアでの伝道活動を始めた。西南学院・須藤伊知郎氏は、マタイ教会の成立について分析する。

-須藤伊知郎「新約聖書解釈の手引き」から「マタイ共同体はおそらくユダヤ人キリスト者とその後増え始めた異邦人キリスト者からなる混成の教会であり、前者の中核はイエスの語録資料を携えて紀元後30-70年ごろにイスラエル本国でユダヤ人伝道を行っていた人々である。この人々は66-70年に起こった第一次ユダヤ戦争で、非戦の立場を貫いたために、同胞のユダヤ人たちから敵国ローマの協力者とみなされて迫害され、ユダヤでの宣教活動に挫折して、失意のうちに戦争難民となり、北方のシリアに逃れていった」。

-「ユダヤ戦争を生き延びたマタイ教会の中心メンバーは、その破局を透徹した信仰の目で、偏狭な自民族中心主義(ユダヤ人国粋主義者)と、軍事力で覇を唱えようとする帝国主義(ローマ帝国)の破綻を捕らえている。『平和を実現する人々は、幸いである』、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』等のイエスの言葉を伝えたのは、帝国の支配に痛めつけられた戦争難民たちであった。マタイ共同体の人々は、戦争はもう二度としないと誓い、敵を愛し迫害する者のために祈ること、これこそが平和を実践し、創っていく唯一の現実的な道であると信じ、行動していたのである」。

・しかし、キリスト教がローマ帝国により国教(支配者)となった時、教会は戦争には「正しい戦争もある」との聖戦論を唱え始めた。

-石川明人・「キリスト教と戦争」から「アウグスティヌスもトマス・アクィナスも正戦を肯定していた。ルターもカルヴァンも、条件付きで武力行使は認めていた。「アウグスブルク信仰告白」や「ウェストミンスター信仰告白」は、正しい戦争、合法的な戦争はある、という前提で書かれている。イエスの教えを文字通りに読めば、確かに非暴力主義・平和主義であると認めざるを得ないのに、現実社会では戦争を認めざるを得ない部分がある」。

・日本でも憲法9条は自衛権を容認するとされる。しかし私たちは自衛戦争を含めて、全ての戦争は悪であるとのイエスの立場に戻りたい。国境なき医師団に参加され、多くの紛争地で救護活動をして来た、看護師の白川優子さんの言葉は印象的だ。

-2022年06月21日論座から「私が見てきた戦争とは、権力者による陣取り合戦、政治戦略、そんなものではない。血と涙と叫び声にまみれながら、未来を奪われていく一般市民の姿、それが、私が見てきた戦争だ。戦争がなぜ悪いのか。それは人間の未来を破壊するからだ・・・戦争を経験した歴史を持つ私たち日本人は、このことを想像するのは難しくはないはずである。2022年、いまでも同じ地球上で戦争が勃発し、人々の未来が奪われ続けている」。

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