江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年4月15日祈祷会(詩編46編、万軍の主、我らと共に)

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  • 神の都をたたえる歌

 

・本詩は「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と歌い、多くの讃美歌の題材にもなってきた。主題は万軍の主に対する信頼であり、8節、12節の繰り返しがその主題を示している。

-詩篇46:8(46:12)「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」

・最初に詩人は、天地を支配される主をほめたたえる。主ご自身が「私たちの砦、避けどころ」であるがゆえに、大地や山々が揺れ動き、海が荒れ狂おうとも、私たちは恐れないと詩人は歌う。「山々が揺らぎ」、「海の水が騒ぎ」、「山々が震える」、いずれも創造以前の原始の混沌を意味する言葉だ。主はその混沌を秩序に変えて、天地を創造された。

-詩篇46:2-4「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。

・天地を支配される方は、また歴史をも支配される方である。国々がどのように武力を誇ろうとも、主の前においては何の意味もなく、主の御声で地の力は溶けさる。主は住まいである聖所、神の都シオンを守って下さる。

-詩篇46:5-7「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」。

・現実のイスラエルは東のメソポタミヤ、西のエジプトの二大帝国の狭間の中で、常に独立が脅かされ、繰り返し占領され、支配されてきた。その中で詩人は「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」との信仰を表明する。

-詩篇46:9-10「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。

・詩人は「私たちはこの主に依り頼んで国の平和を守る」と宣言する。

-詩篇46:11「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる」

・「私たちは主に依り頼んで国の平和を守る」、日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べる。日本国憲法と同じ精神がここに流れている。

-憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。

2.神の都とは何か

 

・この詩の背景にあるのは、「神の都シオンは永遠である」というシオン神学がある。イザヤは「聖なる万軍の主の御座であるエルサレムは滅びない」と宣言し、国際情勢の変動に動揺する為政者に対して「恐れるな、平静であれ」と説き、「大国にも軍備にも頼るな」と戒めた。

-イザヤ2:1-5「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。

・アッシリアが攻めて来た時、イザヤの預言通り、武力に勝る敵軍が撤退した。

-イザヤ37:36-37「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」。

・それに対してエレミヤは罪を犯した民を主は罰せられ、シオンでさえも捨てられると説いた。エレミヤの言葉を「聖なる都」に対する冒涜とした祭司たちは裁判でエレミヤの死刑を求め、シオンの不可侵性を守ろうとした。

-エレミヤ26:9「なぜ、あなたは主の名によって預言し、この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなると言ったのか・・・祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った『この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました』」。

・しかしエルサレムは預言通り、破壊され、エルサレム神殿は焼き払われた。シオンは不可侵ではなかった。

-列王記下25:8-10「第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した」。

・エルサレムが聖なる存在ではなく、神のみが聖なる方だと知った人々は、「争いを終わらせる主」を待望するようになる(ミカ4:1-3はイザヤ2:1-5とほぼ同じ内容であるが、オリジナルはイザヤ書とされる)。

-ミカ4:1-3「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と・・・主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。

 

3.イザヤ「武器を捨てよ」との預言をどう読むか

 

・「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名だ。20世紀の前半は戦争の世紀だった。二次大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てると言う決意で土台石にこの言葉を刻み込んだ。しかし、戦争は終わらなかったし、今でも続いている。それにも関わらず、私たちはこの御言葉を読む。この言葉は亡国と言う苦難の上に建てられた人類の遺産だ。

・ユダヤの国はアッシリアが強くなるとアッシリアになびき、エジプトが強くなるとエジプトになびいた。その結果、国は滅んだ。軍備を強化することによって国民に誤った安心感が生まれ、また小国がいくら軍備を強化してもそれは世界帝国の軍隊の前では意味がない。イザヤの信仰は単なる理想ではなく、世界情勢の現実認識の上に立てられた。だから彼は言う「ヤコブの家よ、主の光の中を歩こう」(2:5)。武力に武力で対抗するやり方では、平和は来ない。武器を捨てること以外、国が生き残る道はない。だから「主により頼んで武器を捨てよう」とイザヤは言った。

・このイザヤの心を継承されたのがイエスである。イエスは言われた「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:3)。「柔和な人々」とは、腕力や政治権力、経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことだ。今の世界には、結局ものを言うのは「力」だという信仰が根強くある。「大人しくしていたらやられる、武器をより多く持つ者が勝つ」、この考えが抜き難くあるために、世界には攻撃と反撃、テロと報復の悪循環が絶えない。「やられたらやり返せ」、多くの「現実主義者」は、この世界では「軍馬の思想」のみが有効な行き方だというが、歴史上、軍馬の思想で本当の平和が達成されたことはない。

・軍馬の思想を極限まで推し進めた強国アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンもペルシャに、ペルシャもギリシャに、ギリシャもローマに滅ぼされ、そのローマも今では遺跡が残るだけだ。他方、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ」と語ったイザヤの言葉を受け入れてきたイスラエル民族は今日まで生かされている。「やられてもやり返さない、一方的に争いを止める、そういう方法でなければ本当の平和は来ない」、聖書が私たちに教えるのはそうであり、それが最も現実的なあり方なのだと思える。柔和なイエスがこの世界の歴史の中に誕生したということは、新しい世界が始まったことを意味する。「殴られても殴り返さない。踏まれても踏み返さない」、それこそが平和を生む唯一の方法であり、それを体現するイザヤ2章の預言は2700年後の今日も真理であり、日本国憲法9条の「戦争放棄」の考え方は、イザヤ2章に基づいて制定された条文だと知る時、私たちはそこに神に摂理を見る。

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