1.どうすれば知恵を獲得できるのか
・箴言12章は、懲らしめを受け入れた時、それが知恵に変えられると説く(箴言12:1「諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎む者は愚かだ」)。13章もそのテーマを追求していく。諭しを受け入れる事こそ知恵を得る道であると。
−箴言13:1-2「子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない。口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものを享受する。欺く者の欲望は不法に向かう」。
・ユダヤの伝承は「知恵ある者の特徴の一つは口に留意することである」と教える。知者は理解していないことはわからないと述べ、自分の間違いを知った時はそれを改める。
−箴言13:3-5「13:3 自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。怠け者は欲望をもっても何も得られず、勤勉な人は望めば豊かに満たされる。神に従う人は偽りの言葉を憎む。神に逆らう者は悪臭を放ち、辱められる」。
・箴言は繰り返し語る「諭しを受け入れる人は知恵を得る」と。
−箴言13:10「高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受け入れる人は知恵を得る」。
・新約聖書はイエスを「神の知恵」と呼ぶ。ペテロはペンテコステの日に霊に満ちてイエスを証し、それは聞く人々に回心の思いを与えた。
−使徒2:36-41「『イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』・・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」。
・今日の教会の説教においては、回心の出来事が生じにくくなっている。日本基督教団の受洗者数を20年毎に見れば(1947年11,386人、1967年4,142人、1987年2,546人、2007年1,747人)、60年間でピーク時の15%にまで、趨勢的に落ち込んでいる(傾向はバプテスト連盟も同じである)。何故聖書で語るような回心の出来事が生まれないのだろうか。伝わる言葉での宣教が為されていないのだろうか。
-?コリント14:23-25「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っている所へ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言している所へ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」。
2.希望を持てない人々に
・箴言は「待ち続けるだけでは心が病む」と教える。苦難からの解放や幸せを待っているだけで、それが来なければ、人の心は沈んでしまうのは事実である。
-箴言13:12「待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木」。
・現代の若者は「不安はあるが不満はない」と語る。男性65歳以下の非正規雇用率は21%であるが、20代前半は36%である。現在非正規の人は将来も正社員化は望めない(20代後半・30代前半の非正規率は30%と20代前半と大きくは変わらない)。彼らは将来家を持ち、車を持つ生活は難しいだろう。若者の30%は将来の経済生活に希望を持てない。この現実の中で教会は何を語れるのだろうか。パウロは「召された身分のままでいなさい」と諭したが、若者たちは納得出来ないであろうし、私たちも納得出来ない。
-1コリ7:21-24「召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです・・・兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」。
・しかし慰めの連帯は可能である。慰め(パラクレーシス)は「傍らに呼ぶ」、「共にいる」の意味である。「共に悲しめば悲しみは半分になり、共に喜べば喜びは二倍になる」という。慰めの連帯は新しい道を開くのではないか。例えば、夫婦で共に働く形の共同体形成である。
-2コリント1:4-7「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、私たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたが私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについて私たちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです」。
・人生にはたくさんのお金は必要ない。家も車もなくても、必要なパンがあれば良いのではないか。
-箴言30:7-9「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を、私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
3.鞭を控える者はその子を憎む者である
・「鞭を控える者は自分の子を憎む者」と箴言は語る。ここから「愛の鞭」という言葉が生まれた。
-箴言13:24「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」。
・ヘブル書の著者も同じことを語る。子どもの教育にはある程度の鞭は必要かもしれない。その鞭は虐待になってはいけない。あくまでも鍛錬、あるいは懲らしめとしての愛の鞭である。
-ヘブル12:7-8「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」。
・懲らしめをどのように受け入れるか、知恵ある者はそれを神からの試練と受け入れるが、愚か者は懲らしめを憎む。しかし主は懲らしめを鍛錬として与えられると箴言は語る。
−箴言3:11-12「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」。