1.木には再生の希望があるのに
・ヨブは人生のはかなさの中で人を裁きたもう神に異議を申し立てる。彼は言う「人の一生は短く、悩みに満ち、花のように散る。はかない生涯を送らざるを得ない人間に対して、何故あなたは裁き続けるのか」と。
-ヨブ記14:1-3「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない。あなたが御目を開いて見ておられるのはこのような者なのです。このような私を、あなたに対して裁きの座に引き出されるのですか」。
・人は最初から罪の中に生まれ、その運命も既に定められ、自由にならない。「死を前にした私に、せめて一時の休息の時を与えて下さっても良いのに、何故与えて下さらないのですか」とヨブは神を恨む。
-ヨブ記14:4-6「汚れたものから清いものを、引き出すことができましょうか。だれひとりできないのです。人生はあなたが定められたとおり、月日の数もあなた次第。あなたの決定されたことを人は侵せない。御目をこのような人間からそらせてください。彼の命は絶え、傭兵のようにその日を喜ぶでしょう」。
・木は切られても、その切り株からまた芽を出すことが出来る。根が老い、幹が腐っても、水が与えられればまた再生する。それなのに人は死ねば終わりだ。消え失せるだけだ。死はすべてを消し去るとヨブは嘆く。
-ヨブ記14:7-12「木には希望がある・・・木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない。地におろしたその根が老い、幹が朽ちて、塵に返ろうとも、水気にあえば、また芽を吹き、苗木のように枝を張る。だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。海の水が涸れ、川の流れが尽きて干上がることもあろう。だが、倒れ伏した人間は、再び立ち上がることなく、天の続くかぎりは、その眠りから覚めることがない」。
・旧約においては復活の希望はない。新約においてはその希望が与えられるが、信じない人にとっては、復活もまた愚かな出来事になる。シェークスピアも復活を信じることが出来なかった。
-マクベス:5幕5場(妻の死の報せを聞いて、マクベスがつぶやく)「人生は歩く影に過ぎない。下手な役者だ。出番の時は舞台の上で派手な身振り大きなため息もつくが、終わるとふっと居なくなる。人生は白痴の語る物語だ。響きも感情も騒々しいだけで、そこには何の意味もない」。
2. ヨブも復活を求めるが
・ヨブ記14:14は復活の願望が記される、旧約ではまれな文章だ。ヨブは人生を嘆きながら、もし復活の命が与えられれば、神の怒りが止むときまで、陰府で待つことが出来るのにと夢想する。
-ヨブ記14:13-17(口語訳)「どうぞ、私を陰府にかくし、あなたの怒りのやむまで、潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてください。人がもし死ねば、また生きるでしょうか。私はわが服役の諸日の間、わが解放の来るまで待つでしょう。あなたがお呼びになるとき、私は答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。その時あなたは私の歩みを数え、私の罪を見のがされるでしょう。わたしの咎は袋の中に封じられ、あなたは私の罪を塗りかくされるでしょう」。
・18節からヨブはまた悲観論に移る。復活の希望が一時的に浮かんだが、当時の人々はそれを信じ切ることは出来なかった。死後の命が希望できない時代にあっては、それに代わる者は子孫の繁栄であった。しかし死んでしまえばそれを見ることもかなわないとヨブは嘆く。
-ヨブ記14:18-22「しかし、山が崩れ去り、岩がその場から移され、水が石を打ち砕き、大地が塵となって押し流される時が来ても、人の望みはあなたに絶たれたままだ。あなたは人をいつまでも攻め、追いやられる。あなたは彼の顔かたちを変えて、追い払われる。その子らが名誉を得ても、彼は知ることなく、彼らが不幸になっても、もう悟らない。彼はひとり、その肉の痛みに耐え、魂の嘆きを忍ぶだけだ」。
・ブルトマンとバルトの復活論争を学んだ。ブルトマンは歴史学者として、「復活信仰の成立」は承認しうるが、「イエスの復活」を史実と認めることが出来ない。それに対してバルトはそんなものは「復活信仰ではない」と拒絶する。
-ルドルフ・ブルトマン「キリストの甦りとしての復活祭の出来事は決して史的出来事ではない。史的出来事としては、復活祭信仰は、初代の弟子たちの信仰だけが把捉しうるものである。歴史家にとっては復活祭の出来事は、弟子たちの幻影的体験にまで還元されてしまうであろう」。
-カール・バルト「ブルトマンは、甦りの出来事を「復活者を信じる信仰の発生」として解釈している時、復活の出来事を「非神話化」している。復活者を信じる信仰の発生は、復活者が歴史的に出現することによって起こって来るのであり、復活者の歴史的出現それ自体が甦りの出来事である。イエスご自身が甦って彼の弟子たちに現れ給うたのであって、そのことが甦りの歴史と甦りの時間の内容であり、その当時とあらゆる時代のキリスト教信仰とキリスト的宣教の内容である」。