江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年6月6日説教(第一ヨハネ1:1-10、教会分裂に苦しむ人々に)

投稿日:2021年6月5日 更新日:

 

1.教会分裂の中で書かれた手紙

 

・6月から4回にわたってヨハネの第一の手紙を読んでいきます。この手紙はヨハネ共同体の分裂騒ぎの中で書かれています。ヨハネ共同体はイエスの死後にユダヤで生まれ、中心になったのが「愛弟子ヨハネ(イエスに愛された弟子ヨハネ)」です。彼はゴルゴダでイエスから母マリアを託されたと伝えられているように(ヨハネ19:26)、イエスの信任が厚かった人です。40年後、ユダヤ戦争が起き(66-70年)、エルサレムは破壊され、彼らは国を追われて難民となります。愛弟子ヨハネに率いられた共同体は小アジアに逃れ、エフェソを中心にいくつかの教会を生み出し、その共同体の信仰告白として書かれたものがヨハネ福音書です(ヨハネ21:24、紀元90年ごろ)。やがて共同体内にグノーシスと呼ばれる異端的キリスト論が生まれ、共同体に危機が生まれ、それに対処するために長老ヨハネが書いたものが三通のヨハネの手紙です。

・ヨハネ共同体はエフェソの母教会を中心に各地にある複数の家の集会を、母教会から派遣された巡回伝道者が定期的に訪問する形で指導していたようです。長老ヨハネは、愛弟子の死後、牧会責任者に任命されて、複数の家の教会の指導を行っていました。ところがいくつかの教会で、「異なる教え」が盛んになります。福音はエルサレムからギリシア・ローマ世界に広がっていくに従い、御子の受肉や復活に疑問を持つ人々が教会内に生まれてきました。理性を重んじるギリシア人には、「神が肉体を持って人となられた」、「イエスの死により私たちは救われた」という教えは非合理の極みでした。彼らはイエスの受肉を否定し、イエスが体を持ってよみがえられた復活をも否定するようになっていきます。

・グノーシスの指導者ケリントスは語ります「キリストはイエスの受洗時に肉のイエスと結合したが、受難に先立って再びイエスの肉体から離れ、神のもとに帰った。そして人間イエスだけが苦しみを受け、十字架につけられた」。受入れの難しい受肉や贖罪、復活の教えの合理化、土着化です。しかし、それは教会が継承してきた、「イエスの死による贖いと復活による救い」を完全に否定するものでした。異なる福音を信じる人々は共同体を分裂させて出て行ったようです。(2:19「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました」)。

 

2.闇の中を歩むな

 

・長老ヨハネは、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ、破壊されている現実を見つめ、それを克服する道を説きます。それが「御子イエスの受肉と贖い」です。彼は書きます「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、また手で触れたもの、すなわち、命の言について、伝えます」(1:1)。「神の子が人となられた、その人こそナザレのイエスだ」と長老ヨハネは語ります。長老ヨハネはおそらく若い日にイエスに従い、イエスの声をその耳で聞き、イエスの姿をその目で見ました。そしてイエスの十字架を目撃し、復活されたイエスと出会うという体験をしています。このイエスとの顕現体験が、長老ヨハネの信仰の基礎にあります(ヨハネ21:24)。

・ヨハネは続けます「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1:2)。そして語ります「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)。キリストが来られ、ご自分の血を流して私たちの罪を購って下さった。そのことによって、私たちは神と和解し、神との交わりを回復した。神との交わりを回復した者は人と交わることが出来る、何故ならば、お互いに神の子とされた者たちは、兄弟姉妹の関係に入るからだとヨハネは語ります。だから「私たちの喜びが満ちあふれるようになる」(1:4)とヨハネは書いています。

・ヨハネは続けます「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)。「神は光である」、私たちは神の光に照らされて、自分たちの心の中の闇、罪が照らされます。私たちは心の中に人に見せることの出来ない醜い自己を持っています。その私たちの闇が、神の光に照らされて明らかにされます。ヨハネは言います「私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(1:6-7)。

・第三の手紙によれば「ベルガモン教会のディオトレフェスの主催する集会」で、長老ヨハネの指導を受け入れない人々が出たようです。「指導者になりたがっているディオトレフェスは、私たちを受け入れません・・・彼は、悪意に満ちた言葉で私たちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(第三ヨハネ1:9-10)。彼らが共同体から出て行った人々ではないかと推測されています。人は救われても相変わらず罪人で、罪は自己主張をし、自己主張の衝突が争いを生みます。罪は神との交わりを妨げると同時に、人との交わりも妨げます。教会分裂は多くの場合、リーダー同士の主導権争いから生まれます。

・ヨハネは語ります。もし私たちが、「自分の罪を公に言い表すなら」(1:9a)、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清め」(1:9b)ます。しかし、「罪を犯したことがないと言うなら」(1:10a)、「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」(1:10b)。共同体を離れて行った人々は、「自分たちには罪がない、キリストの贖いなしで自分たちは救われている」(1:8)と主張したようです。しかし罪がなければ、キリストが死ぬ必要はなかった。長老は共同体の各員に勧めます「自分が罪を犯さざるを得ない弱い存在であることを認め、キリストの血による清めを受け、互いの交わりを維持するように」と。自分に罪はないとする人々は、相手の罪を告発し、裁き、それが交わりを破壊していきます。

 

3.理解できない事柄を受け入れていく

 

・ヨハネの手紙の主題は、「教会分裂」です。ヨハネの共同体では異なる福音を信じる人々が教会を分裂させて出て行き、残された人々は混乱の中にありました。昨日まで一緒に礼拝していた人々が、今日はいなくなった。教会内で争いが起こり、分裂していく出来事が現実に起こります。それはヨハネの教会で起こったし、私たちの教会でも起こり、近隣の教会でも起きている。今日の招詞に第一ヨハネ3:16を選びました。次のような言葉です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。

・ヨハネ教会は愛弟子ヨハネによって建てられ、長老ヨハネによって継承されてきました。彼らはユダヤ教会からの迫害に耐え、皇帝礼拝を求める不条理の中でも信仰を守ってきました。しかし内部からの異なる信仰の出現により、教会の土台が崩されつつあります。一部の人たちは、イエスの受肉を否定し、受難とその贖いをも否定するようになりました。十字架の贖いを否定するとは、「自分の十字架を背負って、キリストに従う道」を否定することです。彼らが求めるのは、「苦難がなく、病気もなく、幸福に暮らす人生」です。しかしイエスは教えられました「重荷なしの人生などない。私たちは与えられた苦難や悲しみを見つめ、それを共に担うことによって命を得る」と(マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう・・・私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」)。

・理解できない事柄、実証できない教理は信じない、今日でも多くの人々はそうです。アメリカではキリスト教リベラル派の多くは「理性主義信仰」を奉じます。彼らの考え方は「イエスは神の子ではなく人間だ。私たちをよりよい生に導く道徳の教師だ」というものです。キリスト教信仰を知識として受け止めていった時、その信仰は力を持たず、やがてそれは信仰ではなく、ヒューマニズムになってしまいます。信仰とは感動であり、「イエスが私たちのために命を捨ててくださった。そのことによって、私たちは愛を知った」という感動のみが、「だから私たちも兄弟のために命を捨てる」(3:16)という行為を生みます。

・私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがあります。泣いたことのある者は他者の悲しみを悲しむことが出来、苦しんだことのある者は他者の苦しみを理解できます。現実の教会の中には罪があり、意見の違う人も考えかたの異なる人もいます。全ての人を好きになることは出来ません。しかし、私たちには嫌いな人も大事にする能力が与えられています。嫌いな人のためにもキリストが死なれたことを知っているからです。非寛容の現代社会では相手を攻撃することによって相手に勝とうとします。しかし教会では相手を包み込むことによって勝利を目指します(ローマ12:20-21「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。愛は敵を友に変える力を持つ、それを信じて生きることこそがキリストに従う生き方です。

・私たちの信仰が聖書に基づいているかの判別は簡単です。考えの異なる人を受入れるか、憎むか、です。「考えの異なる人を受入れた」時に、素晴らしい神の出来事が起こります。この度のコロナウィルス感染拡大はワクチン接種により収まりつつありますが、そのmRNAワクチン開発の功労者カリコ博士は、ハンガリーからアメリカに移民した女性研究者です。mRNAワクチン製品化の研究を重ねていたビオンテックの創業者ウール・シャヒン、オズレム・ティレチ夫妻はトルコから移民したドイツ人、そのビオンテックとファイザーが提携するきっかけは、シャヒン博士とファイザーのワクチン研究開発責任者であるカトリン・ジャンセン博士が意気投合したことであり、ジャンセン博士は旧東ドイツからの亡命者です。船引宏則・ロックフェラー大学教授は指摘します「こうしたキーパーソンたちが、移民先で研究できる機会を与えられず、mRNAワクチンが開発されていなかったらと想像すると、ぞっとしないだろうか。人種、国籍、性別などに関わらずに仲間として受け入れ、認められる社会には、自ずと夢と野心を秘めた人材が集まり、革新的なものが次々と生み出されていく・・・自己と異なる他者を受容し、互いに反応しあうことにより、以前とは少し違う自分と他者が誕生する」(船引宏則・ロックフェラー大学教授の投稿から、2021年06月04日朝日新聞論座)。

・これを教会論の中で考えたら、どういうことになるのか。ボンヘッファーは死を前にした獄中書簡で語りました「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」(ボンヘッファー「抵抗と信従」p213)。試練と緊張の中において祈る力は、キリストが同じ苦しみをされたことを知るゆえに可能になります。厳しい状況の中で正義を行う力は、キリストの十字架なしには生まれません。「イエスが私たちのために命を捨てて下さった」、この感動なしにはキリスト者であり続けることはできないのです。

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