2019年5月26日説教(ガラテヤ5:1-15、キリスト者の自由)

投稿日:2019年5月26日 更新日:

2019年5月26日説教(ガラテヤ5:1-15、キリスト者の自由)

 

1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ

 

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の舞台は小アジアのガラテヤです。最初のキリスト教会はエルサレムに生まれました。復活のイエスに出会った弟子たちがエルサレムに集められ、ペンテコステの日に、聖霊を受け、福音を語り始め(使徒2:36)、多くの人々がバプテスマを受け、教会が生まれました。当初のエルサレム教会はユダヤ人信徒で構成されていましたが、一部の信徒たちはユダヤ教の中核である神殿礼拝や祭儀を拒否したため、彼らはサマリヤやシリアに追放され、そこに新しい教会が生まれていきます。シリアのアンティオキアを中心とするユダヤ人・異邦人混合教会です。アンティオキア教会はやがて、キプロスや小アジア、ギリシア等へも宣教師を派遣し、ガラテヤ、エペソ、コリント等にも教会が生まれて来ました。福音がローマ世界に広がり始めましたが、同時にいろいろの問題が生じて来ました。

・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣されたユダヤ人教師たちが、「キリストを救い主として受け入れるだけでは十分ではない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求めました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ諸教会宛てに手紙を書き、「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)と彼らが割礼を受けないように迫りました。

・アンティオキア教会にはユダヤ人もギリシア人もいましたが、民族は違っても兄弟姉妹の交わりがなされ、信仰が民族を超えたものとなり、人々はその地で初めて「クリスティアノ」(キリスト者)と呼ばれ始めました。しかし、エルサレム教会の人々は依然としてユダヤ教の枠内にいて、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張していました。パウロはエルサレムに行って、使徒たちと話し合いを行い、異邦人には割礼を強制しないことが決められましたが、原理主義的なグループは律法に対しこだわり続け、「割礼を受けなければ救いはない」と諸教会に申し送り、争いが絶えませんでした。そのためにガラテヤ書が書かれました。

 

2.再び奴隷に戻るな

 

・ガラテヤの人々は、割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の指導を受けて、割礼を受けようとしています。パウロは彼らに言います「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから・・・奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:1-2)。割礼を受ける、律法によって救われるとは、律法をすべて守ることを意味しますが、そのようなことは人には出来ません。自然のままの人間は自己の欲望を制御できない、私たちは律法を守ることは出来ない、だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないとパウロは語ります「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5:3-5)。

・パウロは続けます「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5:6)。形ではない、中身なのだとパウロは語ります。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めました。律法は見えます。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義です。しかし、この律法主義は教会を壊す悪を秘めています。パウロは言います「僅かなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」(5:9)と。小麦粉の塊にパン種(酵母)を入れて焼くと、ふっくらとした、やわらかいパンになります。私たちは酵母の働きが人の役に立つ時、それを「発酵」と言い、役に立たない時、「腐敗」と言います。しかし、腐敗も発酵も同じ菌の働きです。ガラテヤの人々は割礼を受け、律法を守ることを、パンをおいしくする信仰的な行為として受け入れようとしていますが、パウロは「それはパンをおいしくするのではなく、パンを腐らせる行為だ。律法主義を受け入れた時、教会はキリストの体ではなくなる」と語ります。

・律法そのものは悪ではありません。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行きます。安息日は「休みなさい」という恵みですが、「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行きます。割礼もそうです。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福ですが、「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行きます。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのです。

 

3.キリスト者の自由

 

・今日の招詞にルカ18:13を選びました。次のような言葉です「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。イエスは、自分は正しいとして人を見下しているファリサイ人を懲らしめるために、ある喩え話をされました。こういう話です「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」(18:10-12)。

・ここに典型的な律法主義者の生き方が示されています。「してはいけないと定められた悪いことはしていません。しなさいと言われた良いことをしています。だから救って下さい」。自分は律法を守っている、自分は正しいと自負する人は、対価として救いを要求します。そして律法を守らない人を攻撃します(私は徴税人のような者でもない)。それに対して、罪人と名指しで攻撃された徴税人の祈りが、招詞の言葉です。彼は自分が救いに価しないことを知っています。彼にできることはただ神の憐れみを乞うことだけです。イエスは言われます「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:14)。パウロが割礼にこだわるのもそのためです。割礼を受けた人は自分の救いを神に要求するようになる。それはもはや神の恵みに生きる福音信仰ではなく、自分の力を頼みにする偶像礼拝です。

・パウロは語ります「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(5:13-14)。自由とは「自分の思う通り何でもできる」ことではありません。人はキリストに出会い、解放されることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。他方、霊の愛は自分が相手に仕えていく行為です。前にもお話ししましたが、オーストラリア駐在時代にお世話になったD.ヘイマン宣教師は、私たちに次のように語りました「私はワインが大好きです。オーストラリアのワインはおいしい。しかし、宣教師がお酒を飲むことにつまずく人もいるので、私はお酒をやめました。しかし、あなた方はどうぞおいしいワインを楽しんで下さい」。「つまずく人がいるので、私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者の自由、愛に基づく自由です。

・律法からの解放は人を自由にします。マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタの黒人教会の牧師でしたが、公民権運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で彼は語ります。「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」敵を友に変えることの出来る愛はアガペーの愛であり、それは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。割礼はこの賜物を虚しくするのだとパウロは語るのです。

・私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちが始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。その時、私たちは隣人の欠点を数えなくなります。パウロは言います「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)。「新しく創造される」、キリストの愛によって根底から変えられる、その道に私たちは招かれているのです。

・最後にパウロがコリント教会に書いた自由の定義を引用します。「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(第一コリント10:23-24)。自由とは何をしてもよいことではない。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられている。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。

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