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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年7月19日説教(コヘレト1:1-18、人生は空しいのか)

投稿日:2015年7月19日 更新日:

2015年7月19日説教(コヘレト1:1-18、人生は空しいのか)

 

1.すべては空しいと語るコヘレト

 

・今日から12回にわたってコヘレト書を読んでいきます。コヘレト書はソロモン作とされますが(1:1「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」)、実際は紀元前3世紀頃に書かれた知恵文学の一つです。マケドニアの王アレキサンダーが紀元前333年ペルシャを破ってギリシア帝国を樹立し、地中海世界はヘレニズム文明に支配され、各地で急速なヘレニズム化が始まります。イスラエルにおいても、伝統的なユダヤ的神信仰が崩され、これまで当然と考えられていた因果応報概念(「正義は栄え、悪は滅びる」等)や、神への信頼性(「神は苦難の時に助けて下さる」等)に対して、懐疑的な思想が生まれていきます。その中で書かれたのが「神は本当に正義の神であるのか」を問うヨブ記であり、「神の為さることはわからない」と明言するコヘレト書です。彼らは、これまでの正統的な価値観が崩壊する中で、なお神の知恵を求め続けた人々です。現代の私たちも、「処女降誕」、「神の子の受肉」、「復活」、「再臨」等の正統的なキリスト教信仰をそのままで信じるのが難しくなっています。その意味でコヘレトの真理を求める苦闘(本音での神探求)は私たちの苦闘です。

・「コヘレト」とはヘブル語で「伝道者、説教者」を意味し、そのため、かつてこの書は「伝道の書」と呼ばれていました。英語のEcclesiastesはヘブル語「コヘレト」のギリシア語訳から来ています。コヘレト書を貫く中心の言葉は、ヘブル語「へベル=空」で、全12章の短い文章の中に38回も用いられています。コヘレトは冒頭から語ります「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1:2)。この空しさが「へベル」です。何が空しいのか、コヘレトは言葉を続けます「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地(のみ)」(1:3-4)。人は生き、また死んでいき、世代が変って行きますが、その中で大地は依然としてあります。私が死んでも朝になれば日は昇り、私が死んでも他の人々は同じような生活を続けます。その中で、「私の一生とは何なのか」、「私の生きている意味とは何なのか」を追求していっても、答えは出ません。私たちが「運命の支配者」ではなく、「運命に翻弄される存在」に過ぎないことを知った時、出てくる言葉は「空しい」です。

・コヘレトは語ります「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(1:3-7)。人は生まれ、この世で労苦しますが、天地は人とは関係なくその運動を続けます。そして人が労苦した結果獲得していった富や地位も来世には持っていけず、しばらくすればその人が生きた痕跡はなくなります。「どこに人生の意味があるのか。すべては同じことの繰り返しではないか」とコヘレトは嘆きます。

・伝統的信仰の継承者である箴言記者は語りました「主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い」(箴言10:27)。しかし今のコヘレトは神の摂理を信じることが出来ず、すべては「もの憂い」と、うそぶきます。「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:8-9)。「太陽の下、新しいものは何もない」、歴史は繰り返しであり、過去のことをだれも気にせず、将来についての夢もないと彼はうそぶきます。日本でもかつての高度成長期には、人々は「豊かになる」という夢を見ました。しかし1990年代にバブルがはじけ、ゼロ成長時代に入ると人々は夢を見なくなっています。将来を夢見ても実現する可能性が低いからです。コヘレトは語ります「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(1:10-11)。将来が見えず、生きがいが見出せない時、人はニヒリズムに陥ります。コヘレトも私たちもニヒリズムの罠の中にいます。

 

  1. 智恵が深まれば悩みも深まる

 

・知者は人間を観察し、良い人生、成功した人生を送るにはどうしたら良いかを探求します。その結果、箴言等の処世訓が生まれました。しかし次世代のコヘレトは、「人生に意味を求めるのは無益な作業だ、わからないのだから」と突き放します。「私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた・・・私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(1:12-14)。彼は続けます「曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない」(1:15)。人生には私たちには支配できない多くの事柄、変えたくとも変えられない事柄があると彼は言います。コヘレトは語ります「私は心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった』と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」(1:16-17)。そして最後に決定的な言葉を語ります「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(1:18)。この世の不完全さ、儚さをより知るようになるからです。コヘレトは4章で語ります「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4:1-3)。「生まれてこない方が良かった」とうそぶくコヘレトのニヒリズムに、私たちはどう応答すべきなのでしょか。

・コヘレトに欠けているのは永遠の命に対する希望です。「死ねばすべてが終わりだ」と彼は考え、故に、「空しい」と嘆きます。私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく、死を超えた命が在ることを知らされました。その時、私たちの中から希望が湧いてきます。かつて内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演をしました。その中で彼は言います「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか」。キリストに出会った者は、「最大遺物を残したい」という気持ちを持って、生きるのです。

 

3.私たちは永遠の命を信じる

 

・今日の招詞に第二コリント5:17を選びました。次のような言葉です「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。パウロを伝道者にしたものは、復活のイエスとの顕現体験です。パウロはかつてユダヤ教のラビ(教師)であり、律法を守らないキリスト者を迫害するために、ダマスコまで行き、そこで復活のイエスに出会い、変えられました(ガラテヤ1:13-17)。彼はその出会いをコリント書でも報告します「(キリストは)三日目に復活し・・・ケファに現れ、その後十二人に現れた・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(1コリント15:4-8)。キリストとの出会いの体験をした者は、もはや「人生は空しい」とは言いません。自分が「神に生かされている」、「神から使命を与えられている」ことを知るからです。

・コヘレトは語りました「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」。しかし、信仰者はそう思いません。「求めれば与えられる」ことを信じます。イエスは言われました「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ9:9-10)。求めて与えられた経験を積むことによって、信仰者は不条理の中で生きる知恵を与えられます。その知恵の一つがラインホルド・ニーバーの「平静を求める祈り」です。彼は祈ります「神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの平静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

・コヘレトの最大の不幸は、キリストと出会うことがなかったことです。ルターは語ります「確かに人間を見る限り、日の下に何も新しいものはない。だが、新しい事がいつも神の側から起こってきている」(W.リュティ『伝道者ソロモン』より)。世の中には不条理な出来事がたくさんあります。イエスは十字架で殺された、それは不条理の極致です。イエスは十字架上で苦しんで、「わが神、わが神、どうして」と叫びながら死んでいかれました。多くの人がこの体験をします。先の3.11大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。原爆で殺されていった人たちも、「わが神、わが神、どうして」と問いながら死んでいかれました。神学者ユルゲン・モルトマンも不条理に苦しんだ一人です。彼は1926年ハンブルクに生まれますが、18歳で軍隊に招集され、各地を転戦し、19歳の時に戦争捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。故郷は戦争で廃墟となっていました。彼は収容所の中で自問自答します「なぜ私は生きているのか」、「なぜ私は他の人と同じように死ななかったのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍のチャプレンから一冊の聖書を贈られ、読み始めた時に、マルコ15章の言葉「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」に大きな衝撃を受けます。

・彼は説教集「無力の力強さ」の中で述べます「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか・・・唯一つの満足いく答えは『復活』である。神は言われる『私はあなたを見捨てなかった、かえって大いなる憐れみをもって、私はあなたを集めようとしている』・・・人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に与らせて下さる」。だから「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となるのである」。神を信じる者だけが、神の不在(この世の不条理)に耐えることができます。コヘレトもキリストとの出会いがあれば、空しいとは言わなかったと思います。

 

1.すべては空しいと語るコヘレト

 

・今日から12回にわたってコヘレト書を読んでいきます。コヘレト書はソロモン作とされますが(1:1「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」)、実際は紀元前3世紀頃に書かれた知恵文学の一つです。マケドニアの王アレキサンダーが紀元前333年ペルシャを破ってギリシア帝国を樹立し、地中海世界はヘレニズム文明に支配され、各地で急速なヘレニズム化が始まります。イスラエルにおいても、伝統的なユダヤ的神信仰が崩され、これまで当然と考えられていた因果応報概念(「正義は栄え、悪は滅びる」等)や、神への信頼性(「神は苦難の時に助けて下さる」等)に対して、懐疑的な思想が生まれていきます。その中で書かれたのが「神は本当に正義の神であるのか」を問うヨブ記であり、「神の為さることはわからない」と明言するコヘレト書です。彼らは、これまでの正統的な価値観が崩壊する中で、なお神の知恵を求め続けた人々です。現代の私たちも、「処女降誕」、「神の子の受肉」、「復活」、「再臨」等の正統的なキリスト教信仰をそのままで信じるのが難しくなっています。その意味でコヘレトの真理を求める苦闘(本音での神探求)は私たちの苦闘です。

・「コヘレト」とはヘブル語で「伝道者、説教者」を意味し、そのため、かつてこの書は「伝道の書」と呼ばれていました。英語のEcclesiastesはヘブル語「コヘレト」のギリシア語訳から来ています。コヘレト書を貫く中心の言葉は、ヘブル語「へベル=空」で、全12章の短い文章の中に38回も用いられています。コヘレトは冒頭から語ります「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1:2)。この空しさが「へベル」です。何が空しいのか、コヘレトは言葉を続けます「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地(のみ)」(1:3-4)。人は生き、また死んでいき、世代が変って行きますが、その中で大地は依然としてあります。私が死んでも朝になれば日は昇り、私が死んでも他の人々は同じような生活を続けます。その中で、「私の一生とは何なのか」、「私の生きている意味とは何なのか」を追求していっても、答えは出ません。私たちが「運命の支配者」ではなく、「運命に翻弄される存在」に過ぎないことを知った時、出てくる言葉は「空しい」です。

・コヘレトは語ります「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(1:3-7)。人は生まれ、この世で労苦しますが、天地は人とは関係なくその運動を続けます。そして人が労苦した結果獲得していった富や地位も来世には持っていけず、しばらくすればその人が生きた痕跡はなくなります。「どこに人生の意味があるのか。すべては同じことの繰り返しではないか」とコヘレトは嘆きます。

・伝統的信仰の継承者である箴言記者は語りました「主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い」(箴言10:27)。しかし今のコヘレトは神の摂理を信じることが出来ず、すべては「もの憂い」と、うそぶきます。「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:8-9)。「太陽の下、新しいものは何もない」、歴史は繰り返しであり、過去のことをだれも気にせず、将来についての夢もないと彼はうそぶきます。日本でもかつての高度成長期には、人々は「豊かになる」という夢を見ました。しかし1990年代にバブルがはじけ、ゼロ成長時代に入ると人々は夢を見なくなっています。将来を夢見ても実現する可能性が低いからです。コヘレトは語ります「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(1:10-11)。将来が見えず、生きがいが見出せない時、人はニヒリズムに陥ります。コヘレトも私たちもニヒリズムの罠の中にいます。

 

  1. 智恵が深まれば悩みも深まる

 

・知者は人間を観察し、良い人生、成功した人生を送るにはどうしたら良いかを探求します。その結果、箴言等の処世訓が生まれました。しかし次世代のコヘレトは、「人生に意味を求めるのは無益な作業だ、わからないのだから」と突き放します。「私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた・・・私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(1:12-14)。彼は続けます「曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない」(1:15)。人生には私たちには支配できない多くの事柄、変えたくとも変えられない事柄があると彼は言います。コヘレトは語ります「私は心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった』と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」(1:16-17)。そして最後に決定的な言葉を語ります「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(1:18)。この世の不完全さ、儚さをより知るようになるからです。コヘレトは4章で語ります「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4:1-3)。「生まれてこない方が良かった」とうそぶくコヘレトのニヒリズムに、私たちはどう応答すべきなのでしょか。

・コヘレトに欠けているのは永遠の命に対する希望です。「死ねばすべてが終わりだ」と彼は考え、故に、「空しい」と嘆きます。私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく、死を超えた命が在ることを知らされました。その時、私たちの中から希望が湧いてきます。かつて内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演をしました。その中で彼は言います「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか」。キリストに出会った者は、「最大遺物を残したい」という気持ちを持って、生きるのです。

 

3.私たちは永遠の命を信じる

 

・今日の招詞に第二コリント5:17を選びました。次のような言葉です「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。パウロを伝道者にしたものは、復活のイエスとの顕現体験です。パウロはかつてユダヤ教のラビ(教師)であり、律法を守らないキリスト者を迫害するために、ダマスコまで行き、そこで復活のイエスに出会い、変えられました(ガラテヤ1:13-17)。彼はその出会いをコリント書でも報告します「(キリストは)三日目に復活し・・・ケファに現れ、その後十二人に現れた・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(1コリント15:4-8)。キリストとの出会いの体験をした者は、もはや「人生は空しい」とは言いません。自分が「神に生かされている」、「神から使命を与えられている」ことを知るからです。

・コヘレトは語りました「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」。しかし、信仰者はそう思いません。「求めれば与えられる」ことを信じます。イエスは言われました「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ9:9-10)。求めて与えられた経験を積むことによって、信仰者は不条理の中で生きる知恵を与えられます。その知恵の一つがラインホルド・ニーバーの「平静を求める祈り」です。彼は祈ります「神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの平静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

・コヘレトの最大の不幸は、キリストと出会うことがなかったことです。ルターは語ります「確かに人間を見る限り、日の下に何も新しいものはない。だが、新しい事がいつも神の側から起こってきている」(W.リュティ『伝道者ソロモン』より)。世の中には不条理な出来事がたくさんあります。イエスは十字架で殺された、それは不条理の極致です。イエスは十字架上で苦しんで、「わが神、わが神、どうして」と叫びながら死んでいかれました。多くの人がこの体験をします。先の3.11大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。原爆で殺されていった人たちも、「わが神、わが神、どうして」と問いながら死んでいかれました。神学者ユルゲン・モルトマンも不条理に苦しんだ一人です。彼は1926年ハンブルクに生まれますが、18歳で軍隊に招集され、各地を転戦し、19歳の時に戦争捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。故郷は戦争で廃墟となっていました。彼は収容所の中で自問自答します「なぜ私は生きているのか」、「なぜ私は他の人と同じように死ななかったのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍のチャプレンから一冊の聖書を贈られ、読み始めた時に、マルコ15章の言葉「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」に大きな衝撃を受けます。

・彼は説教集「無力の力強さ」の中で述べます「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか・・・唯一つの満足いく答えは『復活』である。神は言われる『私はあなたを見捨てなかった、かえって大いなる憐れみをもって、私はあなたを集めようとしている』・・・人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に与らせて下さる」。だから「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となるのである」。神を信じる者だけが、神の不在(この世の不条理)に耐えることができます。コヘレトもキリストとの出会いがあれば、空しいとは言わなかったと思います。

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