江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年8月4日説教(ダニエル1:1-21、悪を善に変えられる方を信じる)

投稿日:2013年8月4日 更新日:

1.ダニエル書とはどのような書か

・これまでイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書を読んできましたが、8月からダニエル書を読んでいきます。ダニエル書は紀元前2世紀のシリアによる宗教弾圧の中で描かれたユダヤの抵抗文学です。紀元前331年にアレクサンダー大王がペルシャを滅ぼしてギリシャ帝国を開いた後、ギリシャ文明が地中海世界を圧倒するようになり、その大きな動きの中にユダヤも巻き込まれていきます。当時ユダヤを支配していたシリア王アンティオコス四世エピファネスはギリシャ人であり、ユダヤ人が自分に従わないのはユダヤ教の故だと思い、徹底的な宗教弾圧を開始します。彼は、律法の書を火で焼かせ、安息日や割礼などの律法に従う生活を禁じ、エルサレム神殿にギリシャの神ゼウスの像を置いて、ユダヤの人々は強制的にゼウス礼拝に参加させられ、聖書の信仰に従って偶像礼拝を拒否した多くの敬虔な者(ハシディームと呼ばれた)たちは、殉教して死んで行きました。このような迫害に苦しむ人々を励まし、また殉教者に復活の希望を与えるために書かれたのが「ダニエル書」です。
・ダニエル書は旧約聖書と新約聖書を繋ぐ架け橋的な書であり、ある意味で旧約聖書の末尾を飾ります。この書は新約記者たちに大きな影響を与えました。何故ならば、新しく生まれたキリスト教会も、ローマ帝国の迫害に苦しみ、ローマ皇帝を礼拝せよとの命令に従わなかったキリスト者たちは殺されていったからです。マルコ13章「終末預言」はダニエル書の影響を大きく受けていまし、ローマ帝国の迫害下にある人々を励ますために書かれた「ヨハネ黙示録」もダニエル書を基本にしています。旧約聖書の最後を飾るダニエル書がシリア迫害下にある信徒を励ますために書かれ、新約聖書の最後を飾るヨハネ黙示録がローマ帝国迫害の中にある信徒を励ますために書かれた。迫害下に書かれた二つの書簡が旧約・新約の末尾を飾る、聖書は世に対する抗議の書でもあります。
・ダニエル書は黙示文学であり、そのため現在を過去の歴史の中に語っています。具体的には、時間をシリア時代からバビロン捕囚時に移し、場所もパレスチナからバビロンに移動させて、かつて迫害に勝利した人物像を描き、今迫害に苦しむ同胞たちを鼓舞するのです。物語は、ダニエルが紀元前597年(第一次捕囚時)に捕らえられて、バビロンに移された記述から始まります「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた」(1:1-2)。ユダ王国の滅亡とエルサレム神殿祭具の略奪の記事です。
・同じ事がシリア迫害下でも起こりました。シリア王アンティオコス四世は、前168年エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪しました。著者はバビロンによる神殿祭具略奪の中に、シリアによる略奪を見ています。バビロン捕囚では多くの王族や貴族、祭司たちが捕虜となりましたが、ネブカドネツァルはその中から、体力・知力・気力に優れた若者4人を選び出し、彼らにバビロン流の教育を受けさせ、王の宮廷に仕える者としての訓練を施すように命じました。民族同化政策です。日本も戦時中、清朝最後の皇帝溥儀を保護下に置いて教育し、後に満州国皇帝に据えました。「ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした」(1:3-5)。
・その中にダニエルと三人の仲間がいました。彼らはヘブル名を捨て、バビロン名を名乗るように命じられます。名前の変更、改氏改姓は民族の誇りを奪うために為されます。ユダヤ人の名前はいずれも、エル、ヤハというイスラエルの神の名を示しますが(ダニエル=神、さばきたもう)、それがバビロンの神の名を示すものに変えられていきます(ベルテシャツァル=ベルの神、守り給え)。他の三人も同じです。日本も戦時中の朝鮮民族に改氏改姓を強制し、そのことが現在日本に住む在日韓国・朝鮮の人々が日本名を名乗って帰化しないことの一因になっています。ダニエル書の物語が現代の私たちの物語でもあることが示されます。
・次にダニエルたちが直面したのは食物の問題です。ユダヤ人は血を食べることを禁じられ、血を含んだ肉は食べません。また豚は汚れた動物として食べません。ダニエルたちはバビロンの肉と酒を食することを特典として与えられ、ますが、これを拒否していきます(1:8-10)。ここにもシリア時代の迫害の出来事が背景にあります。シリア王はユダヤ人が豚肉を食べないことを知りながら、食べることを強制し、拒否する者を処刑しました(2マカバイ記6:18-20)。神はそのようなダニエルたちを野菜と水で養われます(1:11-16)。こうしてダニエルたちは成長していき、やがて王の宮廷に仕える者とされ、不思議な夢解きを通じて、その信仰を証ししていく者となります。

2.異教社会の中でどのように生きるか

・ダニエル書の主題は、「異教社会の中でどのように生きるか」です。私たちも洗礼を通して神の国に生きる神の民となり(�ペテロ2:9)、国籍は天にあります(ピリピ3:20)。クリスチャン人口が1%にも満たない日本もまた信仰者にとっては異教社会なのです。私たちはこの異教社会で少数者として生き(マルコ13:9)、しかも少数者の誇りを持って生きます(マタイ5:13-16)。その時、私たちもまたダニエルの世界に生きます。天の国を目指す者として、私たちはこの世では寄留者であり旅人なのです。パウロは言います「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです」(1コリント7:31,新改訳)。「この世の有様は過ぎ去る」ゆえに、世の出来事に重きを置いた生き方を私たちはしません。具体的には人の評価ではなく、神の評価を求めて生きる生き方です。「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)という生き方です。
・しかし同時にイスラエルを支配される神はまたバビロンを支配される方です。私たちは世捨て人になるのではなく、この世においては神の国を目指していきます。アウグスチヌスは「神の国」という書物の中で述べます「二種の愛が二つの国をつくった。この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神への愛である。歴史のあらゆるところで、神の国と地の国、神への愛と自己愛が入り混じって存在している。二つの国は不可視的なものとして存在している。人間も人間の集団の歴史も、この二つの愛の間をさまよっている。この世で、神の愛に基づく国をつくり、正義、平和、秩序を求めることは難しい。しかし、過去の過ちを探り、永遠の平和を求めて、地上の生活を続けていく。それが人間の歴史である」。

3.悪を善に変えられる方を信じる

・今日の招詞に創世記50:19−20を選びました。次のような言葉です「ヨセフは兄たちに言った『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』」。創世記・ヨセフ物語は12兄弟の末子ユセフだけが父ヤコブにかわいがられることに反発した兄弟たちが、ヨセフを奴隷としてエジプトに売るところから物語が始まります。エジプトに売られたヨセフは多くの苦労をしますが、最後はエジプトの宰相にまで上り詰め、そこに飢饉でエジプトへ食料を求めてやってきた兄弟たちに会います。兄弟たちにヨセフは語ります「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記45:4-8)。
・そして復讐を恐れる兄弟たちにヨセフが再度語った言葉が今日の招詞です。ヨセフは言います「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」。「あなたがたは私に悪をたくらみました」、この「たくらむ」と言う言葉はヘブル語「カシャブ」であり、「神はそれを善に変え」、この「変え」も同じ「カシャブ」という言葉です。「あなたたちは私をエジプトに売るという悪をカシャブしたが、神はあなたたちの悪をあなたたちの救いという善にカシャブされた。神がそうされたことを知った以上、あなたたちに報復するという悪を私が出来ようか」とヨセフは言います。ヨセフは神の導きを信じるゆえに兄弟たちを赦しました。悪を行うのは人間です。しかし、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わるのです。
・北森嘉蔵は「創世記講話」という本の中で面白いことを言っています。要約すると次のような言葉です「人間社会には一元論と二元論がある。一元論とは世の中は一つのもので締めくくられているという考え方だ。神がおられるならば神に敵するものはないはずだし、神が世を支配している限りこの世に悪はない。あってもすぐに滅ぼされる。信じれば必ず幸福になるし、信じれば災いに会うこともなくなる、このような建前の信仰を聖書は真っ向から否定する」。聖書は一元論の信仰に立たちません。では二元論なのか。北森先生は語ります「神が居られても悪はある、その現実を見つめる、その時に出てくるのが二元論だ。この世には神の支配する光の世界と悪魔の支配する闇の世界があり、両者が戦っている。キリスト教徒は悪に抵抗してこれに勝つ必要がある。しかしこの二元論もまた聖書の教えるところではない」。北森先生は論を進めます「聖書は人間の罪が悪をもたらすことを明言する。しかしこの悪が神によって善に変えられていく。それが信じるのが聖書の信仰である」(北森嘉蔵「創世記講話」P308-311)。
・ダニエルの物語やヨセフの物語が私たちに示しますのはまさにこの摂理の信仰です。「神は悪を善に変える力をお持ちである」、このことを信じる時、シリアによる迫害下でも人々は信仰を継承し、ローマ帝国の弾圧も人々の信仰の火を消すことは出来なかった。そしてダニエル時代や新約時代と同じように異教社会の中で生きる私たちも、この信仰によって世を生き抜く力を与えられています。

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