江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年5月13日説教(マルコ1:21-34、悪霊を追い出し、病人を癒すイエス)

投稿日:2012年5月13日 更新日:

1.イエスが最初に為されたのは悪霊の追放だった

・私たちはマルコ福音書を読み、「イエスとはどなたであるか」を学んでいます。マルコはイエスのバプテスマから福音書の記述を始めました。バプテスマを受けたイエスは荒野で試練の時を持たれ、宣教の準備のために弟子を招かれ、ガリラヤに住居を定められ、いよいよ宣教の業を始められます。今日の聖書箇所はイエスがその宣教の業をどのように始められたかを記す箇所です。マルコは記します「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1:21-22)。カペナウムはガリラヤ湖北西岸にある町で、そのカペナウムの会堂でイエスは安息日に説教をされました。ユダヤでは町ごとに会堂があり、人々は安息日毎にそこに集まって礼拝をしました。礼拝では聖書が読まれ、聖書の解き明かしである説教が話されました。会堂長の許しがあれば、誰でも会堂で説教することができたと伝えられています。
・イエスの教えに人々は驚いたとあります(1:22)。律法学者は、1千年前に語られたモーセの律法(トーラー)と、それを解釈した口伝律法(ミシュナー)をもって人々を教えました。ミシュナーとは昔の律法を今の生活の中でどのように実行するかについての、律法学者たちの解釈を集めたものです。生活のあらゆる分野における細かい規定が教えられました。「これをしなさい、それはしてはいけない」という類の教えであり、「神の定めた律法を細部まで守ることによって救われる」と教えていました、一方、イエスの使信は、「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)という福音でした。「時が満ちた」、「神の国が来た」、「いま救いの時が来た」それを信じて受け入れれば良いとイエスは言われました。そこに人々はまったく新しいもの、権威を感じ、驚いたのでしょう。
・その会堂に、「汚れた霊に取りつかれた男」が突然入ってきて叫び出しました「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(1:24)。「汚れた霊」、古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じた時に、それを「霊」と呼びました。その力が神から来るものであれば「聖霊」、悪い力であれば「汚れた霊=悪霊」と呼びました。人々はこの悪霊が人を病気にすると考えていました。特に精神の病のように、他の人とのコミュニケーションができなくなるような状態を、「悪霊に取りつかれた」と表現しました。当時のユダヤ社会には祭司や地主等の支配層と、農民や手工業者等の自営層(民衆)がいましたが、その下に「地の民」と呼ばれた最下層の人々がいました。福音書で、罪人、徴税人、重い病気の人、悪霊につかれた人と呼ばれた階層の人々です。男は叫びました「ナザレのイエス、かまわないでくれ」、彼はイエスに対して、「ユダヤ教の教師であるお前に私の苦しみなんかわからない、構わないでくれ」と叫んだのです。
・普通のラビであれば汚れた霊にとりつかれた男のことは無視したでしょう。神の呪いを受けて精神を病んでいると理解したからです。しかし、イエスは行動されました。マルコは記します「イエスが『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(1:25-26)。神との関係を拒否しているのは、目の前にいるその人ではなく、その人の中にいる悪霊だとすれば、その悪霊を自由にさせておくわけにはいかないのです。イエスが悪霊を追い出されることによって、その人は正常な人との交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻しました。会堂にいた人々は驚き論じました「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(1:27)。
・イエスが為された最初の宣教の業は「悪霊追放」だったことを銘記する必要があります。福音書に依れば、イエスの初期伝道においては、「悪霊の追放」と「病気の癒し」が中心でした。悪霊を追放する、病気を癒す、共に今日の教会では出来ないし、あまり宣教の課題としては考えない事柄です。しかしイエスはその「悪霊追放」をもって宣教の業を始められました。そのことは私たちにどのようなメッセージを伝えるのでしょうか。

2.現代における悪霊とは何か

・このマルコ1章の記事は現代の私たちにはつまずきになりかねない要素を含んでいます。悪霊を追い出されるイエス、悪魔祓いイエス、現代の私たちには理解が難しい表現が含まれています。しかし、マルコはイエスの悪霊追放の記事をその後も繰り返し描きます。例えば、イエスはデカポリス地方で悪霊につかれた男を癒しておられますし(5:1-20)、イエスが弟子たちを派遣する時に、彼らに「汚れた霊に対する権能を授けて」(6:7)送り出されたとマルコは記します。弟子たちは「出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12-13)と記します。「悪霊追放」はイエスにとって主要な宣教課題だったのです。とすれば現代の私たちも、この「悪霊追放」を、教会の大事な宣教課題ととらえる必要があります。悪霊追放を現代の事柄に翻訳すれば何になるのでしょうか。
・当時の人々は、「病気」は人間の罪に対する神の呪いであり、神が悪霊を用いて人を病気にさせると考えていました。従って病気になる人は神に呪われた人、汚れた人として社会から排除されていました。らい病にかかった人々や出血を伴う婦人病に罹患している人、また精神疾患の人々は汚れた人とみなされ、公の場に入ることを禁じられました。イエスはこの人々を、「深く憐れまれた」のです。イエスは言われました「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)。「病は神の呪いではない。神は人の救いを望んでおられる方だ、その神がある人々を汚れた者として排除されるわけが無いではないか」とイエスは言われ、行動されたのです。それが「神と人、人と人との関係を断ち切る」悪霊に対する闘いとなっていきました。
・今日でも統合失調症やうつ病等の精神疾患は、人々の偏見の中にあります。精神疾患は何故そうなるのか現代でもよくわからない病気です。当時はもっとわからない病気だった、だから当時の人々はそれを「悪霊につかれた」と表現したのです。現代の私たちは悪霊つきを「精神疾患による病気」と表現しているだけで、本質は変わらないし、治癒が難しい点では同じです。WHOは健康を次のように定義します「健康とは身体的、精神的、霊的、社会的状況が良いことを指し、単に病気がないことではない」。注目したいのは、WHOが「(健康とは)精神も霊も社会的状況も健康である」ことを目指していることです。まさにイエスが取り組まれたことです。イエスが取り組まれたことは、「身体的、精神的疾患によって社会から排除され、除外されている人々を救いたい、それこそが神の国の現れではないか」ということです。その救済活動の一つを福音書記者は「悪霊との戦い」と呼んだのです。ですから悪霊を「精神的、霊的に不健康になっている力」と再定義すれば、それはまさに現代の教会が取り組むべき宣教課題になってきます。

3.悪霊追放~神と人との関係を断ち切る者との戦い

・今日の招詞としてマタイ8:16-17を選びました。次のような言葉です。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」
・共観福音書には115の癒しの記事があるそうです。福音書記者は、「イエスの活動の中心の一つは病の癒しや悪霊追放だった」と伝えます。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、汚れた者とされていた人々でした。らい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されました(マルコ1:40-45)。らい病者に触れることは自らも汚れることであり、当時のラビは決してしなかった行為です。イエスはまた、一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせました(ルカ7:11-17)。死者に触れることも「汚れ」として律法に記された行為です。イエスは自らが痛むことによって、病む者たちの痛みを共有されたのです。
・悪霊は私たちの周りにもあります。現代も、「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることはないでしょうか。人と人とが支え合って生きるよりも、一人一人の人間が孤立化し、競争に駆り立てられ、ストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう。「むしゃくしゃしていた、誰でもよかった」として人を殺す行為はまさに悪霊の働きです。しかしその人々を、「悪霊につかれた」と排除するだけでは、律法学者と同じです。犯罪の背景には、好景気の時には臨時でも派遣でも労働者を集め、不況になると一転して切り捨てる社会の罪があります。経済合理性のみで動く企業倫理の低下が多くの悪霊を生んでいます。正社員の場合も同じです。彼らは深夜までサービス残業を強いられ、ストレスからうつ病になれば、自己責任で切り捨てられます。そのような、一人の人間ではどうすることもできないような得体の知れない「力」こそ、悪霊なのではないでしょうか。「神の国は近づいた」というメッセージを持ってイエスはその業を始められました。イエスは悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを喪失していた人を、交わりに連れ戻すことに全力を尽くされたのです。私たちはこのイエスの業を継承していきます。
・では私たちの教会も病の癒しや悪霊追放を目標として掲げるべきなのでしょうか。一部の教会は病の癒しや奇跡は現代でも可能であり、教会は取り組むべきだとしています。しかし「癒しを求める」ことは神の力を自分のために利用することであり、それはイエスが拒否されたことでした。マタイはイエスの癒しの行為を「彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った」と表現しました。イエスは自らが痛むことによって、病む者たちの痛みを共有された、この「痛みの共有」こそ、今の教会に必要なものではないでしょうか。痛みを共有することによって、「心身を病む人」を教会に迎え、教会を安息の場として提供する。まさに教会の為すべきことです。

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