江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年3月20日説教(列王記下23:1-15、御言葉に聞き、従う)

投稿日:2011年3月20日 更新日:

1.ヨシヤの宗教改革とその挫折
・列王記を読んでいます。先週私たちは、ユダ王ヨシヤが発見された律法の書を読み、悔い改め、「このままではユダ王国は滅亡する」との危機感を持って宗教改革を行うも挫折し、やがて国が滅ぼされていった歴史を学びました。今週、私たちはヨシヤの行った改革を少し詳しく見ながら、歴史の中に働く神の摂理を再度考えてみたいと思います。前にもお話しましたように、何を信じるか、何を礼拝するかは、国家が、また個人がどのように生きるかを決定する基本的な事柄であります。
・ヨシヤは前640年に即位し、31年間ユダ王国を治めました。彼は8才で王に即位していますが、それは父アモンが暗殺されたことを受けての緊急即位でした。おそらく、祭司たちが摂政としてその政策を補佐したものと思われます。成人したヨシヤは、祖父マナセ、父アモンの政策を覆し、ヒゼキヤ王を手本とした主ヤハウェへの信仰復興政策を取りました(歴代誌下34:3)。この時代、アッシリアの勢力が弱体化してきましたので、強制された異教礼拝の廃止等の宗教改革を行うことができるようになったのです。ヨシヤ王の第18年(26歳)、前623年、神殿修理工事中に「律法の書」が発見されました。発見したのは大祭司ヒルキヤでした。ヨシヤはこの律法の真偽について預言者フルダに伺いを立て、その真正性が保証されると、この律法通りに祭りを行うことに決めました。
・彼は人々を集め、律法の書を読み上げて、律法の言葉に従う契約を結びます。列王記は記します「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆この契約に加わった」(列王記下23:2-3)。
・この時、発見された律法の書は申命記のもとになった書物、「原申命記」と思われます。律法の書の中に、「心をつくし、精神をつくし」という申命記と同じ表現があること、律法を守らないことへの災いの預言があり、また律法を守る契約を行う等の記述があることがその理由です。ヨシヤは発見された律法の規定に則り、アシェラ像を焼き、高き所(異教の祭壇)を壊し、それをギドロン川に投げ捨てました。ギデロン川は、エルサレムとオリブ山の間にある谷です。列王記は記します「王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせ、その灰をベテルに持って行かせた」(23:4)。
・次に彼は偶像礼拝の温床となっていた地方聖所の取り壊しを行います。列王記は記します「王はユダの町々から祭司をすべて呼び寄せ、ゲバからベエル・シェバに至るまでの祭司たちが香をたいていた聖なる高台を汚し、城門にあった聖なる高台をも取り壊した・・・聖なる高台の祭司たちは、エルサレムの主の祭壇に上ることはなかったが、その兄弟たちにまじって酵母を入れないパンを食べた」(23:8-9)。ヨシヤはまたアッシリアの支配下にあったサマリヤも奪回し、その聖所を清めます。列王記は記します「彼はまたベテルにあった祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台即ちその祭壇と聖なる高台を取り壊し、更に聖なる高台を焼いて粉々に砕き、アシェラ像を焼き捨てた」(23:15)。またヨシヤは「過ぎ越しの祭り」を盛大に祝いました。過ぎ越し、エジプトから救われたイスラエルの原点となるべき祭りでしたが、それまでは軽視されていました。列王記は記します「王はすべての民に命じて言った『この契約の書に記されている通り、あなたたちの神、主の過越祭を祝え』。士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。ヨシヤ王治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた」(23:21-23)。
・ヨシヤはダビデ王のように、主の信仰を基本にして、国政の建て直しを図りました。しかし、やがて破局が訪れます。前612年、アッシリアは滅び、バビロニア時代を迎えました。バビロニア王ネブカドネザルはエジプトと覇権を争い、バビロニアを支持したヨシヤはエジプト王ネコと戦うためにカルケミシに向かいましたが、メギドにおいて殺されてしまいます。39歳の時でした。ヨシヤの死はユダ王国にとっては大きな損失でした。ユダ王国はこの後、一直線に滅亡への道をたどっていきます。

2.例え義人がいても
・ヨシヤ王は心から悔改め、正しい方向へ国を導びこうと努力しました。それにもかかわらず、主はユダを滅ぼすとの決定を変えられませんでした。そしてヨシヤはエジプトとの戦いに負け、死んでいきます。ヨシヤは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰り」ましたが、主は彼を志半ばで死なせ、改革を挫折させ、終にはユダ王国を滅ぼされました。何故か、先週考察したテーマですが、もう一度、別の角度から、考えてみます。
・ユダ王国は前597年にバビロニアの支配下に入り、主だった指導者はバビロンの地に捕囚となります。捕囚地で預言者として召されたエゼキエルは、次のような預言をしています「主の言葉が私に臨んだ『人の子よ、もし、ある国が私に対して不信を重ね、罪を犯すなら、私は手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ』」(エゼキエル14:12-14)。捕囚地の人々は、「エルサレムにも義人がいるはずであり、主はエルサレムを滅ぼされない」という藁にもすがる楽観論にすがっていました。エルサレムの滅亡は帰還先の喪失であり、それは捕囚の長期化を意味し、人々は現実を見つめようとはしませんでした。その人々にエゼキエルは安易な幻想を捨てよと言ったのです。なぜ義人がいても救いがないのか。それは神の前に「罪なし」といえる義人などいないからです。そのことはパウロがはっきり言う通りです「私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません・・・ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです・・・正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない・・・彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」(ローマ3:9-18)。罪は誰の行為を持ってしても決して購うことはできない、救いは人の義の上にではなく、神の憐れみの上にしかない。だからこそ私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの中に、神の憐れみを見るのです。

3.滅びを通しての救い
・エゼキエルは、「例えヨシヤのような義人も神の目からは罪人にすぎない、だから滅ぶ者は滅ぶ、その滅びの先にこそ、本当の救いがある」と言います。今日の招詞にエゼキエル14:21-22を選びました。次のような言葉です「私がこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見る時、私がエルサレムにくだした災い、私がそこに臨ませたすべてのことについて慰められる」。
・エゼキエルは捕囚地バビロンに立てられた預言者です。人々は捕囚という苦難が一日も早く終わり、エルサレムに帰ることを待望していました。その彼らにエゼキエルはエルサレムの滅亡を宣言します。帰る所がある限り、民は心から悔い改めず、空しい望みを持ち続けます。帰る所がなくなった時、人々は初めて厳しい現実を見つめることが出来ます。国を滅ぼされ、帰還の道を断たれた民は、滅びの意味を求めて、父祖からの伝承を集め、編集していきました。その結果、神を離れ、奢り高ぶった罪が罰せられたことを知り、悔改めます。創世記や出エジプト記等のモーセ五書が最終的に編集されたのは、この捕囚期です。イスラエルの民は捕囚により、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする民族共同体から、神の言葉、聖書を中心にする信仰共同体に変えられて行きました。神の救いは、裁き、あるいは苦難を通して為されるのです。私たちも自分たちの周りに起きる出来事の中に、神の経綸、導きを認める時、苦難が祝福に変わっていきます。今、私たちの国は東北大震災によって引き起こされた苦難の中にありますが、今こそ「救いは滅びを通して来る」ことを認識すべきです。
・アメリカの作家パール・バックは「母よ、嘆くなかれ」という本を書いています。彼女は中国を舞台にした小説「大地」で有名ですが、同時に重度の知的障害児の母親でもあります。彼女は中国派遣宣教師夫妻の子どもとして生まれ、1917年宣教師の男性と結婚し、女児が与えられます。しかし、やがて子どもの様子がおかしいことに気がつきます。4歳になっても言葉を話さない、彼女は子どもを連れて病院を訪れますが、原因も治療法もわかりません。母国アメリカに帰って医療を受けさせたいと願ったパールは娘を連れて帰国し、主だった小児科病院を次々に訪れますが、どこでも原因を突き止めることが出来ません。彼女は娘の治療のために数年にわたってアメリカに滞在し、そのことが原因で夫との離婚という悲劇も経験します。
・病院遍歴の末、彼女と娘はミネソタ州のメイヨー病院を訪れます。アメリカ有数の小児科病院で、多くの検査を受け、彼女は病院の小児科部長と話します。医師は言いました「原因はわかりませんが、発育が止まってしまっているのは事実です」。パールは聞きます「望みはあるのでしょうか」。医師は答えました「私はあきらめずにいろいろやってみるつもりです」。その時、病院のもう一人の医師が彼女に話したいと別室に導きます。彼はパールに言います「お嬢さんの病気は決して治りません。あなたは望みを捨て、真実を受け入れなければいけません」。パールは絶望の中に放り込まれますが、この言葉が真実であることはわかっていました。今までは、治るかもしれないという幻想に頼って真実を見つめる勇気が無かっただけなのです。パール・バックは書きます「これは私にとって生きている限り感謝しなければならない出来事でした」。これを契機に、パールは娘を託すことの出来る施設を探し始め、やがて娘を施設に預けます。1930年のことでした。
・10年間の苦悩がパール・バックに真実を見つめることの大事さを教えました。娘の介護から解放された彼女は、堰を切るように小説を書き始め、中国を舞台にして「大地」、「息子たち」、「分裂せる家」等を次々に発表し、作品は高く評価され、ノーベル文学賞を受けます。戦後、彼女は、賞金や印税のほとんどをつぎ込んで、「ウェルカムハウス」を設立します。戦時中、アメリカ軍は世界各地に進駐し、その結果、アジア人の母親との間に多くの混血児が生まれました。彼らはアジア人でもアメリカ人でもないために、多くが捨てられていきます。そのことを知ったパールは次々と混血児の里親を引き受けます。彼女は真実を見つめることによって、一人子との生活を失いますが、その代わりに多くの子どもたちの母親になりました。パール・バックは言いました「なんと私はたくさんの子宝に恵まれているのでしょう」。この物語が示すことは、救いは現実を見つめ、これを受け入れることなしには来ないということです。
・河野進と言う牧師がいます。らい病者救済のために生涯を捧げた人ですが、彼が次のような詩を歌っています「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある 。病まなければ、聞き得ない御言葉がある 。病まなければ、近づき得ない聖所がある 。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。捕囚にならなければわからない真実があり、災害で苦しまなければ聞けない神の言葉があることを覚えたいと思います。

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