江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年9月28日説教(マタイ5:33-37、誓ってはならない)

投稿日:2008年9月28日 更新日:

1.イエスは誓うなと言われた

・毎月第四主日は、水口がマタイ・山上の説教から御言葉を語らせていただいております。今日は6回目で「誓ってはならない」という御言葉を聞いていきます。ここでイエスが言われていることは、誓い、誓約をしてはならないと言うことです。イエスは33節で「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」(5:33)と前置きされた上で、改めて「しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない」(5:34)と言われています。これはとても厳しい、厳しすぎる制約ではないかと思えます。「一切誓いを立ててはならない」と言われて、その通りに教えを守れる人はいないでしょう。先日は、この教会でバプテスマ式が行われました。これは「生涯を主に捧げて従います」という誓約の式です。また結婚式の基本は、神と会衆の前に夫婦が愛を誓う誓約の式であります。主の晩餐式に預かる時に私たちは「教会の約束」を読みますが、それは「主に仕え、主の戒めを守り、互いに愛し合い、主が再び来られる日を待ち望む」という約束をする誓約です。
・一般の社会生活においても誓いが必要なことに変わりありません。スポーツ大会における宣誓、学校に入学する時の誓約、会社に入社する時の誓約、商取引上の契約、家の売買や賃貸も契約と言う名の誓いです。私たちは生きていく上で、実に様々な誓約ないし約束をいたします。誓約がなければ生活は成り立たないようにも思えます。誓い、あるいは誓約はそれ自体全く日常的であり、この誓約、約束で世の中の仕組みは支えられていると考えられます。それなのにイエスは、「一切誓いを立ててはならない」と言われました。何故なのでしょうか。
・33節でイエスはそれまでにユダヤ人の中で教えられてきた教えを語っておられます「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という教えです。この教えはそのままの形では聖書には出てきません。おそらくは十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)から生じた口伝律法でしょう。コヘレトの言葉「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ」(コヘレト5:3)がこれに近いかもしれません。そもそも何故人は誓いを立てるのでしょうか。それは人の言葉が信用できないから、人の権威以上のもので保証する必要があるからです。
・ユダヤにおいては神の名を引き合いに出して誓うことが頻繁に行われていました。「主は生きておられる」がその定式です。しかし人間は誓いを守ることが出来ません。守ることが出来ない場合は主の名を汚すことであり、「主の名によって誓う」ことが禁止されるようになっていきます。それで主に変わるものとして、「天にかけて」とか、「地にかけて」とか誓われるようになりました。ここに巧妙な逃げ口があります。「主に対して誓ったことは」は必ず果たさなければいけないが、主の名以外、例えば天や地にかけて誓ったことであれば、破っても神を冒涜することにはならないという風潮が生まれてきました。だからイエスは「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である」(5:34-35)と言われます。抜け道を作るな、言い訳をするなと言われるのです。
・次にイエスは言われます「また、あなたの頭にかけて誓ってはならない」(5:36)。身体の最も大事な部分である頭を指して誓うとは、「自分の誠実さにかけて」と言う意味でしょう。「私の名誉にかけて」という言い方に近いかもしれません。しかしイエスは言われます「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」(5:36)。髪の毛一本さえ白くも黒くも出来ないあなたが、頭にかけて誓えるのかといわれます。あなた方は自分が神によって造られたことを忘れているのではないかと。

2.何故誓ってはいけないのか

・イエスが誓いを否定されるのは、第一に、神の名が汚されないためです。誓いは人間の言葉の真実を、神を引き合いに出して保証することですが、人間の言葉に絶対的な真実なものというのはありません。人間の真実は相対的なものにすぎず、そのような不真実な言葉を神の名によって保証した場合、神の名が汚される結果になります。また誓いは将来必ず行うという約束ですが、約束する者がどれほど誠実な気持ちで約束したとしても、時が経てば人間の心は変わり、状況が変われば約束を果たすことができなくなることもあります。そのような弱い人間が、将来の行為を約束するのに神を保証人とすることは、神の名を汚すことになります。「髪の毛一本すら白くも黒くもできない」人間が、将来のすべてを知って決めておられる神の名によって将来の行為を誓うことは、自分を神の立場に置く甚だしい僭越であると言えます。
・イエスが誓いを否定される第二は、イエスが人間の言葉に真実を求められるからです。イエスは誓いを否定することによって、真実でなければならない言葉と、そうである必要のない言葉の区別を廃されたのです。誓うということは、人間の言葉がそれだけでは信用できないから、神を保証人として言葉の真実を保証したのです。ですから、誓いを伴う言葉は真実であることに責任を負う言葉となりますが、誓いを伴わない言葉は責任を負わなくてもよい言葉となり、二種類の言葉を使い分けることになります。イエスはこの区別を廃止されるのです。人間の言葉はすべて無条件に真実なものでなければならない。イエスは言われました「言っておくが、人は自分の話した、つまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(12:36)。人はどのような場合に語られる小さい言葉にも、神の前に責任を取らなければならないのです。神の前で、どの言葉も無条件に真実でなければならないのです。
・イエスが望んでおられることは、私たち人間の行為や言葉が神と人を裏切らない真実となることです。37節でイエスは言われます「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(5:37)。この言葉の真意はわかりにくいと思います。ヤコブはそれを次のように言い換えています「私の兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」(ヤコブ5:12)。「然りは然りとし、否は否としなさい」、確実に出来ること、責任を取れることだけを言いなさい。それ以上のことは不完全な人間には出来ないことだから、言うのはやめなさいということです。
・イエスは誓いを否定されているのではありません。イエスご自身「アーメン、アーメン、私は言う」という言葉で教えを始めておられます。アーメンとは「本当に」、「確かに」、「その通り」というヘブライ語でそれそのものが誓いの言葉です。従ってイエスは誓いを否定されているのではなく、口に出した言葉に真実であるように求められているのです。最近の礼典式文では結婚の誓約を「誓いますか」ではなく、「志しますか」に変える事例が増えています。2組に1組が離婚する状況では、「誓う」ことが難しいから、「志せばよい」というのでしょうか。愚かな変更だと思います。

3.自分の言葉に責任を持つ存在へ

・今日の招詞に申命記23:22-24を選びました。次のような言葉です「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は、罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」。誓ったことは守るようにしなさい。もし誓うことを守ることが出来ないようであれば、その誓いを解除しなさいと言う意味でしょうか。イエスが言われたように、「言葉に誠実であれ」と言うことでしょう。
・しかし言葉に誠実であることは実はとても難しいことです。ヤコブは言います「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。・・・舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:5-8)。私たちは舌を制御できない、とすればとても誓うことなど出来ません。では何故、私たちは「結婚の誓約」をし、「バプテスマの誓約」をするのでしょうか。誓約しても守ることが出来ない可能性が高いのに。
・教会は他から強制を受けずに形成される共同体です。バプテストは特に会衆の自由な選択を尊重します。バプテスマ、信仰告白、転入会、執事就任、牧師就任、いずれも私たち自らの意志による誓約がなされます。それでも誓約を守りきれない時があります。未来は私たちの手にはないからです。その時に大事になるのは祈りではないでしょうか。私たちの罪からの解放のために、イエスは十字架で死なれました。そのイエスに私たちは出会った、そして清められた、だから「あなたに従います」と誓約するのです。その誓約を守ることが出来そうもなくなった時には祈って助けていただく。人間は一人では何の約束も守ることが出来ません。しかし主が共にいてくだされば出来る存在に変えられる。私たちはこの主の恵みに答えるために、約束した言葉に責任を持って歩んで生きたいと思います。その時、私たちも「然りは然りとし、否は否とする」と言える存在、言葉にしたことは守っていく真実な存在に変えられていくのです。言葉に責任を取る人間になって私たちは始めて主の証し人にさせられていくのです。

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