江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年2月17日説教(ヨハネ9:35-41、目が見えるとは何か)

投稿日:2008年2月17日 更新日:

1.生まれつきの盲人のいやし

・ヨハネ福音書から御言葉を聴いています。今日は、ヨハネ9章をご一緒に読みますが、ヨハネ9章はイエスが盲人の目を開けられた記事であり、9章3節「神の業がこの人に現れるためである」は有名な言葉です。弟子たちは道端に座って物乞いをしていた盲人を見かけて、イエスに尋ねました「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9:2)。当時の社会においては、障害は罪の結果だと考えられていました。それに対して、イエスは答えられました「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。「神の業がこの人に現れるために」、この人も神の祝福の中にあるとイエスは言われたのです。日本でも、多くの人は障害を天罰とする考えに囚われており、障害のある人は、障害そのものよりも、障害を差別する社会の目に苦しんでいます。その中で、「神の業がこの人に現れるために」というイエスの言葉に接して、多くの人がクリスチャンになられました。
・このように、ヨハネ9章は盲人のいやしを記した記事ですが、福音書の構成を見ると、41節まである9章の中で、いやしの記事は最初の12節のみで、大半の記事はイエスとパリサイ人との問答が記されています。ヨハネは、病の人がいやされたことよりもっと大事な問題を、救いの出来事の意味を汲み取ってほしいと私たちに訴えています。盲人がいやされた日は安息日でした。厳格に律法を守り、守らない人たちを攻撃するパリサイ人は、盲人がいやされたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを非難します。彼らは言います「安息日を守らない者は、神のもとから来た者ではない」(9:16)。パリサイ人たちは、イエスが神から遣わされたと信じることが出来ません。しかし、生まれつき盲の人が、見えるようになったという事実も否定することは出来ません。彼らは盲人であった人に問いただします「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9:17)。
・盲であった人はイエスが罪人であるか、どうかは知りません。しかし、彼は見えなかった目が今は見えることは知っていました。神から遣わされた人でない限り、このような業は出来ない。彼は信仰を告白します「あの方は預言者です」(9:17)。この信仰告白が新しい問題を引き起こします。パリサイ人は繰り返し、イエスの罪を認めよと男に迫りますが、男は引きません。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。彼は自分の主張を曲げませんでした。パリサイ人は彼を外に追い出します。

2.真理はあなたを自由にする

・今日の中心主題はここから始まります。盲であった人が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して来られます。そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスは言われました「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
・この目の見えない人は、最初はイエスが誰か知りませんでした。だから彼は言います「あの方は預言者です」。しかし、パリサイ人との対話を通して彼はイエスが誰であるか、少しずつ見えてきました。彼は次には「あの方は神のもとから来られた」と告白します。そして最後にイエスと出会うことを通して、彼はイエスの前に跪きます「主よ、あなたこそ救い主です」と。この人は二度イエスから目を開けてもらいました。一度は肉体の目を開けてもらった時、二度目は心の目を開けてもらった時です。ここでは肉の目ではなく、心の目が開いているか、どうかが問題にされています。
・今日の招詞にヨハネ8:31−32を選びました。次のような言葉です「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた『私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする』」。ここで言う真理とはイエスご自身のことであり、また神の思いを指します。「私の言葉にとどまるならば・・・あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」、私たちが、イエスを、そしてイエスを遣わされた神を仰がない限り、真理は私たちと共にないと言われています。何故でしょうか。私たちが、自分が正しいと信じるものこそ真理だとしたら、私たちと意見を異にする人々は真理の中にない、つまり誤っていると言うことになります。神なしに自分が正しいと信じる者は、自分を絶対化し、他者を裁くようになるのです。その時、真理は私たちと共にない。
・信仰の熱心でさえも、時には真理から離れていきます。パウロはユダヤ教の擁護者として異端であるキリスト教徒を迫害しましたが、その熱心は誤っていました。ペテロが自分の剣を抜いて、イエスを捕らえに来た捕り手の耳を切り落とした時、彼には熱心がありましたが、正しさはなかった。スペインの宗教裁判所が、福音を捨てようとしない人々を拷問にかけ、火あぶりにした時、彼らは熱心でしたが、真理は彼らと共にありませんでした。彼らは自分の義を、自分が正しいと思うものを追求していたのであり、それは神の義ではなかったからです。パリサイ人の律法に対する熱心さもこれと同じでした。神を知らない者は自分を相対化できない。その時に、ヒットラーやスターリンのような独裁が生まれてきます。人間を超えた存在に究極の基準を持たない熱心さは、罪を招くことを私たちは知る必要があります。
・ここで安息日規定が何故設けられたかを知るために、旧約の歴史を振り返ってみます。安息日を規定する律法は申命記にありますが、その5:14は次のように記します「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」。エジプトでは、イスラエルの民は奴隷として重労働に服し、休日もありませんでした。過酷な労働のために多くの人々が死んでいきました。神はその民をエジプトから救い出し、民は自由になり、その民に律法が与えられました。神は言われます「6日働いたら7日目は休め、あなたがたが死なないで生きるためである。その休日を家族にも奴隷にも家畜にも与えよ。彼らもまた生きることが出来るように」。
・安息日は、「あなたがたは休んでも良い」という憐れみの規定でした。それがいつの間にか、安息日に働く者は処罰される、死刑にする、安息日に病気をいやしてもいけない、という規則になり、人々を苦しめる日になってしまいました。パリサイ人は戒律を重んじるばかりに、人々を憐れもうとされる神を見失ってしまった、つまり、神が見えると思っていたのに、見えなくなってしまっていたのです。

3.自分が闇の中にいることを認める

・人が神を見るのを妨げるものは罪です。ヨハネはその罪を、闇と表現します。見えないのは、私たちが闇の中にいるからです。その闇を切り裂いて、光であるイエスが来られました。イエスを信じるとは、イエスの光に照らされて、自分が闇の中に、すなわち罪の中にいることを知ることです。知った人は悔改める、悔改めた者には赦しが与えられる。その時、人は、「見えるようになる」のです。しかし、見えると言い張る者、自分にこそ真理があると言う者は、自分が罪に中にあることを認めることが出来ません。従って、彼は、光に出会っても、悔改めない。パリサイ人がイエスの為されたしるしを見ても、安息日にこだわるあまり、それを神のわざと認めることの出来なかったように、です。だからイエスは言われます「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:41)。
・今日、多くの人がこのパリサイの罠の中にいます。申命記は言います「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならない。・・・富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(申命記8:17-18)。多くの日本人は、自分の力で生きている、誰の世話にもなっていないと考えています。順調な時にはそれでよいかもしれませんが、事業が傾いたり、病気になったり、家族に不幸が生じたりすると、彼らは簡単に折れてしまいます。自分以外に頼る者を持たない人は試練に耐える力が弱いのです。日本人に自殺が多いのも、神を持たない故だと思います。
・神を信じるとは、自分が小さい者で、何も出来ないことを知ることです。自分を超える存在を信じることです。カトリックの司祭ミシェル・クオストは次のように祈ります。
「君はあまりにも、ごうまんすぎた。君はまだ、自分を頼りにしている。もし、すべての誘惑に、負けず弱らず、静かに落ち着いて、打ち勝とうとするなら、君は、君自身を私に明け渡さねばならん。君は、けっして大きくもなく、強くもないことを認めねばならん。そして、子どものように手をひいてもらわねばならん。私の子どもよ、さあ、おそれないで手をお出し、どろ沼があれば、おんぶして運んであげよう。きみは小さく小さくなりなさい。小さな子だけが、父におんぶしてもらえるのだから」(ミシェル・クオスト「神に聴くすべを知っているなら」)。
・この祈りは、ヨハネ9章の最善の注解だと思えます。信仰とは神を神として認めることです。その時に、自分は相対化される。自分の弱さを認める、自分の罪を知る、自分が闇の中にいることを認識する、救いはここから始まります。「神の業が現れるために」、言葉の真意は病がいやされたことにあるのではなく、この盲の人が、神を見出したことの中にあります。私たちに本当に必要なものは、いやしではなく、救いなのです。

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