江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年11月30日説教(ヨハネ9:1-5、神の業が現れる時)

投稿日:2008年11月30日 更新日:

1.生まれつきの盲人のいやし

・今日から私たちはアドベント、待降節に入ります。待降節とはキリストの降誕を祝い、再臨を待ち望む時です。キリストの降誕こそ歴史上始まって以来の奇跡、神の業が示された時です。ヨハネはこの出来事を次のように表現します「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。神は御子を通してその業を示されました。そして御子と出会うことを通して御子を信じる者が起こされ、神の業が継承され、今日に至っております。今日はヨハネ9章の「盲人の癒し」の記事を読みながら、この神の業について考えて見ます。
・ヨハネ9章の物語は、イエスがエルサレム市内を歩いておられた時、道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られたところから始まります。ヨハネは書きます「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(9:1)。「生まれつき目の見えない」、その人は希望したわけではないのに、盲目という障害を負わされて生まれました。ある人は生まれつき健康な体を与えられ、別の人は生まれた時から様々のハンデキャップを負わされて、苦しまなければいけません。生まれつき差が与えられる、人生はこのような不条理で満ちており、人はこの不条理に苦しみます。日本人はこのような不条理に対して、「あきらめ」という知恵を説きます。「あきらめなさい。そのような運命なのだ。仕方がないではないか」。
・弟子たちもこの人の障害を運命ととらえています。彼らはイエスにたずねます「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9:2)。当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。しかしイエスはそのような前世の因縁、運命を否定して、驚くべきことを言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。「神の業が現れるために」、肉体的なハンデキャップは神の働きが現れるために与えられたとイエスは理解されたのです。生まれた時から目が見えないという運命に対して、それは呪いでも罪の結果でもなく、彼が盲目であるのは意味があり目的があることが明らかになるために、とイエスは断言されました。
・人の考えや力ではどうすることも出来ない運命的な苦悩に対して、イエスはその原因を追究することよりも、それを負わされた人自身がその苦悩を背負って生きることの中に、彼自身の使命があり、また神の御業の現れがあると見られたのです。イエスは言われます「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」(9:4)。この出来事はイエスの死の半年前、仮庵の祭りの時でした。死が迫っている、残された時は少ない、「お遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」のです。イエスがやがて引き受けられる十字架の死は、イエスにとっていわば避けることの出来ない運命でした。しかしイエスはそれを運命としてではなく、父なる神の御旨として、引き受けられました。ゲッセマネでイエスは祈られます「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。イエスは運命を使命として受け取られたのです。

2.いやしから救いへ

・イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。今日の招詞にヨハネ9:39を選びました。物語の結末の言葉で、次のような言葉です「イエスは言われた。『私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」。
・私たちはヨハネ9章の物語を、イエスが目の見えない人を癒した物語、その癒しを通して神の業が現れたのだと考えがちですが、この物語は癒しの物語ではありません。物語はここで終わらず、むしろここから始まります。そこにはパリサイ人がいました。彼らは、盲人が癒されたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを批判します「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(9:16)。盲人が癒されたことを喜ぶよりも、安息日を守らないことに怒る人々がここにいます。
・パリサイ人たちは、生まれつき盲の人が、見えるようになったという事実を否定することも出来ません。しかしまたイエスが神の子であることも信じることが出来ません。パリサイ人たちは繰り返し、イエスの罪を認めよと盲であった男に迫りますが、男は引きません。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。パリサイ人は彼を会堂から追放します。破門したのです。彼が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して、来られます。そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスが言われたのが招詞の言葉です。
・イエスは何故安息日にこの人を癒されたのでしょうか。当時、安息日に治療行為を行うことは危急の場合を除いて禁止されていました。この人は生まれつきの盲でしたから、今日癒さずに明日でも良かった。そうすればイエスが安息日違反を問われることにはならなかった。しかしイエスは安息日であるからこそ癒されました。「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。今日でなければいけなかったのです。イエスは律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人を癒されます。その結果、それまでイエスを知らなかった人がイエスの前にひざまずき、「主よ、信じます」という信仰告白をします。
・癒された盲人が係わり合いを恐れてこの場を立ち去ったならば、彼は破門というトラブルに巻き込まれることはなかった。しかし男はその場に立ち尽くし、イエスと出会った。この出会いを通して、彼はイエスが神の子であることが見えるようになった。救いの出来事が、神の業が現されたのです。この人がその後どのような生涯を送ったのか、聖書は記しません。おそらくは彼はイエスの生涯を証しする伝道者になったと思われます。彼は単に肉の眼が開けられただけでなく、自己の使命という新しい霊の目の開眼を体験したのです。イエスが運命を使命に変えてくださったのです。

3.神の業が現れるために

・島崎光正という障害を持ったクリスチャンの詩人がおられます。彼がこのような詩を歌いました「自主決定によらずして、たまわった、いのちの泉の重さを、みんなで湛えている」。「自主決定によらずして」、島崎さんは二分脊椎症という障害を持って生まれられました。二分脊椎は、生まれつき脊椎の癒合が完全に行われず一部開いたままの状態にあることをいいます。そのために脳からの命令を伝える神経の束(脊髄)が、形成不全を起こし様々な神経の障害を生じます。医療技術の進歩により、二分脊椎症は障害の有無が誕生前にわかるようになり、障害を持った胎児が中絶される危険性が大きくなってきました。島崎さんは出生前診断の廃止を訴えて活動されました。1997年ドイツのボンで開かれた二分脊椎症国際会議で彼は証言されています「私は二分脊椎の障害を負った七十七歳となる男性です。私は生まれた時からこの障害を負っていました。両親と早くに離別をし、ミルクで養ってくれた祖母の話によりますと、三歳の時にようやく歩めるようになったとのことです。その時から、すでに足を引いておりました。七歳となり、私は村の小学校に入学しました。やがて、市の商業学校へと進学しましたものの、間もなく両足首の変形があらわれましたために通学が困難となり、中途退学をしなくてはなりませんでした。その遅い歩みの中から詩を綴ることを覚え今日に至っております」。
・証言は続きます「今、私がもっとも関心を抱いておりますのは、出生前診断のことです。二分脊椎の障害を負った胎児も、診断により見分けのつく時代を迎えています。その時、安易な選別と処置につながることを恐れる者です。たしかに、障害を負って生まれてきたことは、人生の途上において様々な困難をくぐらねばならないことは事実です。私の七十七年の歩みを振り返ってもそう言えます。けれども、それゆえに、この世に誕生をみたことを後悔するつもりは少しもありません。神様から母の陣痛を通してさずかったいのちの尊厳性は、重いものと考えられます。身に、どのようなハンデを負って生まれて来ようとも、人間が人間であるがゆえの存在の意味と権利は、人類の共同の責任において確保され尊重されてゆかねばなりません」。そして彼は議場で作った新しい詩を朗読します「自主決定によらずして、たまわった、いのちの泉の重さを、みんなで湛えている」。
・人は人生に行き詰まりを感じた時、人生の意味を尋ねます。過酷な運命を与えられた人は必然的に自分の生まれたことの意味を問われます。その時、不条理もまた神与えたもう、不条理な運命の中に意味を見出した時、運命が使命に変わっていきます。島崎さんは与えられた運命を嘆くのではなく、神が何故与えられたのかを模索し、障害を持った子を中絶して葬り去ろうと言う世の動きを阻止することが自分の使命だと受け止められ、そのために生涯を捧げられました。イエスは運命を使命として受け取られた、生まれつき盲の人は自分の運命から逃げなかった、島崎さんも然り。病気や障害が癒されることが神の業ではなく、病気や障害を持ちながらも使命に生かされていく人が現れることこそ、神の業の現れなのです。そしてこのような神の業は偉人だけが現すことが出来るのではなく、それぞれの賜物を生かしていく時に私たちの上にもまた現されるものなのです。アドベント、神の業の現れる時、私たちもまた運命を使命に変える力をお持ちの方の再臨を願ってここに集められています。

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