江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年12月31日説教(1ヨハネ1:1-2:2.キリストを礼拝する)

投稿日:2006年12月31日 更新日:

1.神が人となられた

・先週、私たちは、イエス・キリストの誕生をお祝いして、クリスマス礼拝の時を持ちました。それから1週間、今日12月31日は人間の暦では大晦日、明日から新年です。しかし、私たちにとって、本当の大晦日は12月24日のクリスマス・イブであり、新しい年は12月25日を持って始まっています。神が人となられた、歴史がまったく変わる出来事が起こった、その日を私たちは1年の始まりとします。しかし人間の歴史はイエスがいつ生まれられたのかを知りません。人々が神の子の降誕に何の関心も持たなかったからです。その神の子はローマによって十字架で殺されましたが、それがいつであったのかは正確にはわかりません。イエスの死はローマ帝国の片隅で起こった地方的出来事であり、世界史には記録されなかったのです。イエス・キリストは、地上の生涯を、少数の人に見守られて生まれ、少数の弟子たちと語られ、少数の人に悲しまれて死んで行かれました。イエスの生涯は、ほとんどの人にとって無縁の生涯のはずでした。
・ところがここに出来事が起こります。十字架で死なれたはずのイエスが復活され、弟子たちの前に現れたのです。逃げていた弟子たちは、イエスの復活に接して、この人こそ神の子であったことを知り、「イエスは復活された」と宣教を始めます。人々はこのような宣教を信じませんでした。「死んだものが生き返るはずはない、復活などたわごとだ」と思ったからです。弟子たちは世を惑わす者として捕らえられ、宣教をやめなければ殺すと脅されましたが、彼らは語り続け、殉教して死んでいきました。ギリシャ語の証し=マルテュスという言葉は殉教を意味するようになりました。この命を懸けた証しを見て、人々は弟子たちの言葉に耳を傾け始め、イエスこそ神の子と信じる者の群れが生まれ、やがてローマ帝国内の諸地方に教会が生まれて行きます。
・福音がギリシャ・ローマ世界に広がるに従い、神の子の受肉に疑問を持つ人々が教会内に生まれてきました。ギリシャ人は「人間の本質は霊であり、肉体は霊の宿る牢獄に過ぎず、救いとは肉体から霊が解放されることだ」と考えていました。霊肉二元論です。日本人も、肉体は死んでも魂は生きると考える人が多いですから、ギリシャ人と考えが似ています。その彼らにとって「神が肉体を持って人となられた」と考えることは愚かな事だったのです。クリスマスをイエス・キリストという偉人の誕生日と考えれば、それは喜びの日であり、お祝いするのに抵抗はありません。しかし、神が人となられた日と考えれば、とても信じることの出来ない日になります。ローマ世界の人々は、神が人となられたことを信じることが出来ず、「キリストは真の肉体を持たず,その誕生と受難は化現にすぎない」と考えるようになりました。その人々に対し、使徒ヨハネは、自分は肉のイエスにお仕えした、イエスこそ人となられた神だ、私はそれを見たと証言します。それが今日、読みますヨハネの手紙です。
・「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、また手で触れたもの、すなわち、命の言について、伝えます」とヨハネは書きます(1:1)。「初めからあったもの」、天地創造の前から存在されていた神が人となって私たちの間に住まわれた、それが受肉=クリスマスの出来事だとヨハネは言うのです。ヨハネ自身、イエスの弟子として三年間イエスと寝食を共にしてきました。イエスが話されているのを聞き、イエスの姿を見、イエスの体に触れたのです。その時にはこの人が神であることはわからなかった、しかし今はわかるとヨハネは言います。「よく見て」と彼は言います。イエスは復活の後、弟子たちに現れて言われました「私の手や足を見なさい。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある」(ルカ24:39)。私たちは復活のイエスのお体にも触ったのだとヨハネは言うのです。
・「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」とヨハネは書きます(1:2)。ヨハネは福音書でも次のように書いています「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)。私たちはイエスの栄光を目の前に見た、そのイエスは、神と人との間の隔てが取り去るために来られた、だからあなた方も神との交わりの中に入ることを許されたのだとヨハネは言います。「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです」(1:3)。キリストが来られ、血を流して私たちの罪を購って下さった、そのことによって、私たちは神の前に立つことが出来るようになった。今私たちは、神とキリストにあって、一体となる交わりを持つことができるようになったとヨハネは言います。

2.神が人となられて、私たちは愛を知った

・ヨハネは言います「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1:5)。「神は光である」、神には、罪や汚れという闇の部分が何一つない、ということです。私たちはこの神の光に照らされて、心の中の闇、罪が照らされます。私たちは人に言うことのできない闇、人に見せることの出来ない醜い自己を持っています。その私たちの闇が神の光に照らされて明らかにされます。その罪を私たちが認め、告白する時、罪が清められます。ヨハネは言います「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます」(1:9)。
・最後の晩餐の席上で弟子ペテロは言いました「例えみんなが躓いても、私は決して躓きません」。「あなたのためなら、喜んでこの命を捧げます」とペテロは大見得を切りました。しかし、イエスが捕らえられ、人々から「お前はイエスの弟子だろう」と責められた時、ペテロは「そんな人は知らない」と否定します。ルカ福音書は記述します「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、“今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう”と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。この時、ペテロは悔い改めの涙を流しました。この涙こそ、ペテロを洗ったバプテスマの水です。ここからペテロの救いが始まりました。私たちも自分の罪を認めた時、十字架で死んで下さった主に出会います。私自身も45歳の時にこの涙を経験しました。そして神学校に入り、50歳の時に27年間勤めた会社を辞めて牧師になりました。イエスとの出会いは人の人生を一変させる力を持っています。「自分の罪を公に言い表すなら」、私たちは十字架のキリストに出会うのです。そして出会った人はもう前のように生きることは出来ません。
・今日の招詞に〓ヨハネ4:9−10を選びました。次のような言葉です「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
・先に見ましたように、教会がギリシャ・ローマ世界に広がるに従い、イエスの受肉を信じることが出来ない人々が教会の中に生まれてきました。ヨハネは反論します「神の子が世に来て下さった。私たちと同じように肉の姿となり、私たちと同じように悲しみ、苦しんで下さった。そこに私たちの救いが生まれた」と。この世は闇の世界です。人はみな自分本位で生きています。この世の交わりは基本的には利益対応の交わりです。自分に益のある間は、人も私たちを愛したり、親切にしてくれます。しかし、役に立たなくなると捨てられます。美しい花がどんなに自分を慰めてくれても、枯れてくるとゴミ箱に捨てられるのと同じです。私たちはいつ捨てられるかわからない、いつ人間関係が閉ざされるかわからない、その恐怖の中で暮らしています。
・女性がきれいにお化粧するのは夫や恋人に捨てられたくないからです。男性が会社のために命を削ってまで奉仕するのは、会社から捨てられたくないからです。子どもたちが一生懸命に受験勉強するのも、親に捨てられないためです。それでもいつかは役に立たなくなり、捨てられます。現代における人間関係は「私とあなた」という人格関係ではなく、「私とそれ」という物の世界です。どれだけ価値があるかによって、決定される関係です。それを象徴的に示した出来事が、今年あった、西武・松坂選手と巨人・桑田選手のトレードではないかと思います。松坂はその能力のピークにあり、アメリカのレッド・ソックス球団は何十億円も払って彼を獲得しました。他方、桑田はかつてはすばらしい投手でしたが、現在は体力も落ち、どこの球団も彼を獲得しようとしませんでした。野球選手としての価値がなくなったからです。価値によって取引される人間関係がここにあります。
・しかし、神は何の価値もない私たちのために独り子を送り、その方を十字架につけてまで私たちの罪を贖って下さいました。神は「私たちがどのように無価値になっても捨てない」というしるしを、イエスを通して与えて下さったのです。ここに私たちは本当の愛を見出します。ここに「私とそれ」というもの関係が、「私とあなた」という人格関係に修復されているのです。
・世の人々が愛を言う時、多くは男女の愛=恋愛を指します。「世界の中心で、愛をさけぶ」という本がベストセラーになりました。愛する女性が死んだ、そのことによって愛は思い出の中で美化されていきます。仮に女性が生きて主人公と結婚し、生活したら、その愛もやがて冷めていくでしょう。移り行くものに究極の価値を求めるなら、私たちはいつも失望せざるを得ないのです。人間の愛はどこまで行っても「私とそれ」なのです。その人間関係が「私とあなた」になるのは、神の前に関係が結ばれた時だけなのです。「世も世にある欲も過ぎ去って行きます。しかし神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(2:17)。「キリストはこの人のためにも死んでくれた」、その愛を知った時だけ、移り行かない愛、永続する愛が、人間に可能になります。このような交わりの中に、私たちが招かれている、それがキリストにある交わりなのです。その交わりを行うために、キリストの教会がこの地上に立てられたのです。神が私のために来られ、私のために死なれた。このことを知る時に、私たちの救いは始まるのです。

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