1.キリストにあるものとしての生
・教会からお許しをいただき、3泊4日で韓国に行ってきた。神学校のスタッフとして、韓国のバプテスト教会を訪問する旅行であった。多くの教会を訪問したが、二日目の9月7日(水曜日)には、ソウルの郊外坡州(パジュ)市にあるクムチョン中央バプテスト教会での説教の機会が与えられた。教会に行ってまず見せられたのは、牧師室に飾られていた篠崎教会からの感謝状であった。話を聞いてみると、クオン牧師は日本に行ったことがあり、その時、篠崎教会で説教をした折のお礼状だと言う。日付は1993年9月12日になっていた。後で、教会の記録を調べてみると、93年9月に韓国伝道チームによる秋の特別伝道集会が開かれており、伝道隊の一員としてクオン牧師が当教会を訪問したようだ。今回、図らずも私が12年ぶりに当教会を返礼訪問したことになる。不思議な導きだ。
・韓国の教会では日曜日の礼拝の他に、水曜日・金曜日にも礼拝が持たれている。その日は水曜日で、50名ほどの人が集まっていた。私は、ルカ10章の「良きサマリヤ人の例え」を読みながら、短い説教をさせていただいた。「強盗に襲われた旅人が道端に倒れていた。祭司が通りかかったが、係わり合いになるのを恐れて避けて行った。次にレビ人が来たが同じく知らない振りをして通り過ぎた。最後にサマリヤ人が来て、倒れている人をかわいそうに思い、介抱して宿屋まで連れて行った。倒れていた人の隣人になったのは同じ民族の祭司でもレビ人でもなく、敵と思われていた異国人サマリヤ人だった。日本と韓国の間は不幸な歴史により敵対関係にあるが、それでも隣人になりうることをこの例えは示す。今回この教会を訪問するまで、クオン牧師が篠崎教会を訪問されたことを知らなかった。それが不思議な縁で、今回は私がクムチョン教会を訪問することになった。これは神が私たちに隣人になりなさいと機会を与えてくださったとしか思えない。神は生きておられる」。皆さんのお顔を拝見しながら話したが、話が進むに従い、こちらを見る目が変わってきた、通訳を通じての説教にも関らず、話が伝わり始めている。私たちクリスチャンは、お互いの民族や言葉は異なっても「主にあって一つになれるのだ」、「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言う言葉が思い起こされた。エペソ4:5の御言葉だ。
・エペソ4:4は言う「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」。教会ではよく「霊による一致」が説かれる。それは無理に同じものになることではない。人はそれぞれの賜物を与えられている、それを生かして一つになることがここで求められている。違いを持ったままの一致だ。韓国人は韓国人として、日本人は日本人として生きる。それにも関らず、同じ信仰を持ち、主にあって一つになる。そのような一致だ。パウロはそれを「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(4:16)と表現する。国は違い、民族は異なっても、同じキリストの体なのだということを、理屈ではなく、体で感じた。
・4:17以降で語られているのは、どのようにして一致していくのかである。古い生き方、肉に従う生き方を捨て、新しい衣を着なさいと勧められている。私たちもかつては異邦人のように生きていた。ここで異邦人と言うのは偶像礼拝者のことだ。偶像礼拝とは自分を神として拝むことだ。その時、私たちの「知性は暗くなり、・・・無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れ、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(4:18-19)。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません」とパウロは訴える。あなたはキリストに出会ったのだ。新しい人にされたのだ。だから新しい人として生きよ、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:22-24)。
2.光の子としての生き方
・その新しい生き方とは隣人と共に生きる生き方だ。教会の兄弟姉妹に対して真実を語り、また怒ることがあっても翌日までその怒りを持ち越すな。教会内においても意見の違いでお互いに憤ることもあろう。しかし、それを持ち越すな。日本人である、韓国人であるというこだわりをなくせ。隣人からむさぼるな。自分で働き、収入の一部を貧しい教会員の人に分け与えるようにしなさい。相手を悲しませるのではなく、造り上げる言葉を語りなさいと教えられる。初めて会ったクムチョン教会の方たちとも、心の交流が出来た。「主にあってはギリシャ人もユダヤ人もない。あなたがたはキリストにおいて一つなのだ」とパウロが言うとおりだ(ガラテヤ3:28)。
・そして、パウロは語る。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(5:1)。自分が神になろうとする、自分を中心に世界は回ると思うから、他者への貪りが出てくる。神は御子を死なせるほどの愛を持って、私たちを愛された。だから、あなたたちも愛によって歩みなさい。愛するとは他者のために祈ることだ。他者のために祈る者はもはや貪り=自己主張から解放されている。だから違うものが集まる教会に置いても一致が可能になる。愛の中にある者が、淫らな思いや汚れた思いを持ち、それを言葉にすることがあろうか、あるはずではないかとここで言われる。「淫らな者、汚れた者、貪欲な者はキリストと神の国を受け継ぐことは出来ないのだ:(5:5)と明言される。
・5章の後半ではそれが「光の子」と言う言葉で示される。今日の招詞エペソ5:8の言葉だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。あなたがたは以前は暗闇にあった、しかし今は主に結ばれて光となっている。主に結ばれる、イエス・キリストに結ばれることにより、私たちが光とされるということなのだ。自分自身信じられないようなことかもしれないが、光とされている、というのだ。
・自分のどこが光となっているのだろうかと私たちは思う。しかし光となっているかどうかということは、自分がどんなに変わったかということよりも、主に結ばれているかどうかだ。自分に何の変化がなくても主にむすばれて、もうすでに光とされている。よくバプテスマを受けても何も変わらない、クリスチャンになっても罪を犯し続けていると歎く人がいるが、実は根底的な変化が見えない所で起きている。クリスチャンになったから罪が見えるようになった。罪が見えてきたから、心の葛藤が生じている。罪の悩みが生じるのはクリスチャンになったしるし、キリストが共におられるしるしなのだ。もう光とされている。だから、光の子として、光の子らしく生きなさい。光の子らしく生きるということは何が主に喜ばれるかを吟味しながら生きるということだ(5:10)。
・ここに書いてあることは「・・・しなさい」、「・・・してはいけない」と言う命令、あるいは律法ではない。律法とは福音なのだ。「人を殺すな」という戒めは申命記5:17にあるが、原文では「あなたが殺すはずがない」と書かれている。神の愛を知ったあなたが人を殺すという行為をするはずがないではないか。「姦淫するな」と戒めも、同じだ。「あなたが婚姻を破るはずがない」と書かれている。婚姻を破ることによってあなたの妻を悲しませることを、あなたがするはずはないではないか、あなたは既に光の子とされているのだ。だから、光の子として生きなさい。ここにあるのは、既に救われた者に対する祝福なのだ。
・親に「自分の子どもはどんな人間になって欲しいか」と聞くと、大概の親は「人に迷惑をかけない人間」になって欲しいと答える。イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と言われる。「これをしてはいけない」ということではなく、「これをしなさい」と言われているのだ。迷惑をかけるなという事よりも、相手が喜ぶ事をしなさいと言われる。人に迷惑をかけずに生きることはできない。いろいろな人に迷惑をかけながら、世話になりながら生きている。自分も人に迷惑をかけている、だから自分も人から迷惑をかけられることを受け入れる、そのような生き方を目指すべきではないのか。何かをしないことではなく、何かをすることを目指していく、それがクリスチャンらしい生き方、光の子としての行き方なのだ。