1.預言を禁じられた預言者
・今日、私たちは、待降節第二週を迎える。待降節とは救い主の誕生を待つ時期だ。私たちは既に救い主の到来を知っているが、キリスト以前の人々は救い主を待望しながら、与えられないままに死んでいった。旧約の預言者たちがそうだ。今日は、その中で、エレミヤの言葉を通して待降節のメッセージを聞こう。与えられたテキストはエレミヤ書36章だ。
・エレミヤが預言者に召された時、北・イスラエル王国は既にアッシリヤに滅ぼされ、南・ユダ王国もアッシリヤの属国となり、重い賦役に苦しんでいた。そのユダヤにアッシリヤが倒れたとの朗報が伝えられる。圧制者はいなくなり、ユダヤは国を挙げて喜んだ。しかし、今度は南のエジプトがパレスチナに勢力を伸ばし、ヨシヤ王は殺され、後を継いだエホヤハズはエジプトに捕らえられた。アッシリヤは滅んだが、支配者がエジプトに変わっただけで、国の苦悩は増すばかりだった。北では、アッシリヤを滅ぼしたバビロニヤが勢力を伸ばし、パレスチナ侵略の機会をうかがっていた。南のエジプト、北のバビロニヤという二大帝国の狭間で、小国ユダヤは右往左往する。その中で、エレミヤが預言者として立てられていった。
・国内では、支配者に納める莫大な貢物を調達するために重い税金が課せられ、民は生活苦でうめいていた。しかし、王や貴族たちは自分たちの栄華を求めるばかりで民の苦しみを省みようとはしない。新王エホヤキムは、民衆の不満を静めるために、神が鎮座されるエルサレム神殿がある限り、国は安泰だとして、神殿礼拝を推し進めて行った。神殿に参拝しさえすれば、国は救われ、生活は良くなるという信仰が民衆の間に広がっていった。これは迷信を信じる古代人だけの話ではない。戦時下の日本は「神であられる天皇陛下がおられる限り戦争に負けることはない」として、原爆が投下されるまで戦争をやめようとしなかった。そのために死ななくとも良い何百万の兵士と市民が死んでいった。エレミヤ当時と同じ状況が現代にもあった。
・エレミヤはそのような風潮に対して立ち、神殿で説教を行った。「主は言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。・・・私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる」(7:2-11)。前609年のことだ。神殿の祭司たちはこれを聞いて怒り、エレミヤを捕まえて殺そうとするが、王の書記官のとりなしでエレミヤの一命は助けられる。これ以降、エレミヤは神殿の出入りを禁止される。
・時代は移った。前605年バビロニヤはエジプトを破り、パレスチナの支配者となった。エレミヤは主がバビロニヤを用いてユダヤを懲らしめようと計画しておられる事を知らされる。公の説教を禁止されたエレミヤは、言葉を弟子バルクに書き取らせ、それを神殿で読むように命じる。彼は言う「私は主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、私が口述した通りに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。・・・主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」(36:5-7)。
2.預言の巻物が読まれる
・エレミヤの預言が巻物に記され、その言葉は神殿で読まれた。11節以下にその巻物が読まれた結果、何が起きたかが書かれている。預言を聞いた宮廷役人の一部は言葉を真摯なものと受け止め、是非王に聞かせるべきだと主張した。「このままでは国は滅びる、悔い改めて政策を変えなければいけない」、そのように思った人々は王宮に帰り、主だった人々と再度協議した。そして、バルクを伴い、王の前に出た。王の前でエレミヤの預言が読まれた。王は預言を聞くと怒り、巻物を火にくべてしまった。真剣に預言を受け止めて欲しいと願う家臣たちの声を無視して、王は巻物を燃やした。燃やせば、不吉な言葉は灰となり、呪いは消滅すると考えたからだ。
・エレミヤとバルクは王の前を逃れ、燃やされた巻物の再作成にかかった。こうして出来た二番目の巻物が今日のエレミヤ書の中核、特に詩文の部分だと言われている。ユダヤはこれを契機に急坂を転げるように破滅の道をたどる。エホヤキム王は度重なる預言と勧告にもかかわらず、悔い改めようとせず、それから6年後の前598年、バビロニヤ軍はユダヤに侵攻し、エホヤキムは戦中に死んだ。子エホヤキンが王となったが、バビロニヤ軍に捕虜として連れ去られ、バビロンの地で生涯を終えた。しばらくの小康状態の後、前587年バビロニヤ軍が再度エルサレムに侵攻し、宮殿も神殿も焼かれ、国は滅びた。
・「悔い改めよ、そうすればお前たちはこの地で平和に暮らすことが出来る」、主はイザヤを起こし、エレミヤを召して、繰り返し、言葉を伝えられた。しかし、預言の言葉は聞かれず、ユダヤは滅びの道をたどる。預言とは何なのか、神の言葉は無力なのか。そのような疑問さえ湧くほど、預言は聞かれない。エレミヤはこの後、エルサレムが滅びるまで、預言を続け、エジプトで死んだ。弟子バルクはエレサレム陥落とエレミヤの死を見届け、その次第を受難記としてまとめた。それがエレミヤ書の散文の部分を構成する。バルクはユダヤに戻り、破局の中に沈む人々にエレミヤの言葉を伝えた。エレミヤの預言の成就を見た人々は畏敬の念を持ってエレミヤの預言と記録を廃墟となったエルサレムで、また捕囚地バビロンで読み、自分たちが何故滅ぼされたのかを知り、悔い改めた。エレミヤ書が最終的に編纂されたのは、捕囚地バビロンであったとされている。人は平和が破れて初めて神の言葉に耳を傾ける。どん底の中でこそ、神の言葉は聞かれる。それから2500年間、エレミヤ書は苦しむ人々に多くの慰めを与えて来た。記された神の言葉は今日の私たちに聖書と言う形で与えられている。
3.新しい契約
・今日の招詞にエレミヤ31:31-33を選んだ。次のような言葉だ「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。
・この言葉はエルサレムが陥落し、人々が全ての希望を無くしたときにエレミヤに語られたものだ。エレミヤが最初に巻物を書いたときから17年が経過している。前587年のバビロニヤ軍の侵攻で、エルサレムは焼かれ、王家は断絶、神殿も破壊された。旧い契約は破棄された。その時、エレミヤは主の言葉を聞いた。「見よ、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」。都が破壊され、神殿が燃え、民は殺害され、生き残りの者は異教の地に散らされた。その絶望の中で、神は自ら壊されたものを再び回復されると啓示された。
・その契約は、旧い契約の更新ではありえない。王家も神殿も断絶した。旧い契約を更新しても何の意味もない。人間に罪が残る限り、契約を更新しても、また人間の側から破るだろう。救済は神の恵み以外にはありえない。「この契約は私が・・・エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。・・・彼らは私の契約を破った」。新しい契約においては、「神が語りかけ、人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれる。神自らが人の心の中に住まれる。「私は、私の律法を彼らの内に置き、その心にしるす」と神は約束された。私たちがバプテスマを受け、主の晩餐式を守る理由がここにある。自分の力による救いを断念し、あなたに委ねますという行為がバプテスマであり、晩餐式だ。
・イスラエルは「あなたの神、主に従いなさい」と命じられた。その結果がこの破滅だ。もはや、人間の側からの救いは全くない。「神がその律法を人間の中におき、心に記す」ことのみにしか希望はない。私たちが神の言葉に耳を傾ける時は自分が破れた時だけだ。打ちのめされ、どうしていいかわからない時に、始めて神の言葉が聞こえてくる。エレミヤは捕囚の民に次のような手紙を出した「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)。エレミヤは国の滅亡と民の離散を、祝福の計画ととらえている。私たちも与えられる悲しみを、神からの祝福ととらえる時、変わり始める。私たちは神の言葉を悲しみの中で聞く。そして悲しみから立ち上がる。
・捕囚の民は、エレミヤの預言を真摯に受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成した。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤの言葉が大きな役割を果たした。イエスはエレミヤ書を繰り返し読まれたに違いない。捕らえられる前の日に、イエスは弟子たちと最後の晩餐を持たれ、エレミヤの言葉を引用された「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。新しい契約、エレミヤが待ち望んだ救いの契約は、キリストの血によって書かれたのだ。だから、私たちは感謝して、クリスマスの十字架の前にひざまずくのだ。