江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年9月1日説教(マルコ12:35-44、生涯の献げもの)

投稿日:2002年9月1日 更新日:

1.イエスは誰なのか

・イエスはエルサレムに入られてから、神殿で民衆に教えられた。パリサイ人やサドカイ人が論争を挑んできたが、誰もイエスに勝てなかった。一人の律法学者はイエスに告白した。「先生の言われる通りです。心を尽くして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛することこそ一番大事です」と。その後、誰もイエスにあえて問うものはいなかったとマルコは記す(12:34)。
・その時、イエスの方から人々に問い掛けられた「どうして人々はキリストをダビデの子と言うのか」。イエスがエリコを出られた時、盲人バルテマイはイエスに叫んでいった「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」。イエスがエルサレムに入城された時、人々はイエスを歓呼して叫んだ「ダビデの子にホサナ」。キリスト即ちメシヤはダビデの子孫から生まれる、そのメシヤこそイスラエルの解放者であるとユダヤの人々は信じていた。人々はイエスの為された不思議な業を見、力ある教えを聞いて、この人こそメシヤかもしれないと思った。だからエルサレムの人々はイエスを迎えて「ダビデの子にホサナ」と叫んだ。「ダビデの子よ、私たちのエルサレムを異邦人ローマの支配から解放して下さい」との意味である。それに対してイエスは言われた「私はダビデの子ではない」。「私はこのエルサレムをローマの支配から解放する為に来たのではない」と。イエスは神殿で一人の貧しいやもめが自分の持っているもの全て献げたのを見て、心を動かされて言われた「私はあの貧しいやもめと同じだ、私はあなた方に自分を献げるためにこのエルサレムに来たのだ」。
・マルコ福音書12章41節の物語は「やもめの献げもの」して、よく知られている。今日はこの物語を通して、私たちにとって献げるとは何なのか、また何を献げたらよいのかを、ご一緒にみ言葉からお聞きしたい。


2.律法学者とやもめ

・イエスは言われた「私はダビデのようにイスラエルを解放し、新しい王国を地上に立てるために来たのではない」。あなた方は今、メシヤを待ち望んでいる。しかし、あなた方の指導者である律法学者は本当にメシヤを待ち望んでいるのだろうか。そして律法学者を批判して言われた(マルコ12:38-40)。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
・ローマの植民地支配のもと、多くの民衆が重い税や賦役の負担で苦しんでいた。しかし、社会の指導者である律法学者は人々のうめきに耳を傾けず、ただ自分のことばかりを考えていた。長い立派な着物を着て、自分の偉さを見せびらかし、広場で挨拶されて鷹揚に頷き、会堂では当然のように上席に座る。民が飼うもののない羊のように弱っているのに、この羊飼いたちは「群れを養わず自分自身を養っている」(エゼキエル34:2)。世の終わりが近づこうとしているのに、何の危機感も持たず、満足しきっている。彼らこそ神の国から最も遠い。
・イエスは神殿の賽銭箱に向かって座りながら、指導者たちの腐敗を批判された。イエスのおられるところから人々が献金する様子がよく見えられた。当時、エルサレム神殿の中庭には、13の賽銭箱があり、献金の種類によって賽銭箱が分かれていた。箱のそばには祭司がいて、献金者は自分の献金の目的と金額を告げて祭司にお金を渡す。そのため、周りの人たちも誰がいくらくらい献金しているのかを知ることが出来た。時は過ぎ越しの祭りを前にした時期であり、イスラエル全土から多くの人が神殿に集まり、犠牲の動物を奉納したり、献金したりしていた。先のように献金の額を告げて納める仕組みのため、人々は先を争ってたくさんの献金をした。献金額の大小が、その人の信仰を測るものさしになっていた。
・その時、一人のやもめがレプタ二つを献金した。レプタ、当時使われていたギリシャ貨幣の最小銅貨レプトンの複数形、レプタ二つで1デナリの64分の1、1デナリが労働者1日分の賃金であったから、今日の貨幣価値では100円位のお金、言うなれば50円玉二つを献げたようなものである。子供でもするような額の献金だった。しかし、イエスはやもめが持っているもの全てを入れたことをその表情から悟られ、感動された。イエスがどのように感動されたのか、43節の言葉からわかる。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた「よく聞きなさい」。原語のギリシャ語では「アーメン、レゴー、ヒュミン、まことにあなた方に言う」という言い方だ。イエスはこのやもめの献金にアーメン、あなたは正しいと言われた。
・じっと見ておられたイエスには、やもめの気持ちが手を取るようにお解りになった。やもめの手元に今、レプトン銅貨が二つある。最期のお金だ。しかし、今日は神様に特別に恵みをいただいた、この感謝を表したい、そのためには手元にあるものの一部ではなく、全部を献げたい。やもめはこのお金を献げてしまったら今日のパンをどうするのかは考えない。やもめは農作業や家事を手伝ったりして幾ばくかのお金を稼ぎ、それで生活していたのであろう。レプタ二つはその残りで持っている全てであった。イエスはやもめの表情からそのことを知られたのであろう。持っている全てを献げる、後のことは父なる神に委ねる、そのやもめの信仰をご覧になってイエスは感動され、アーメンと言われた。

3.生涯の献げもの

・このやもめは持っているものをすべてを、即ち自分自身を献げた。ここに信仰がある。私たちがこのやもめに続きたいと思う時、何をしたらよいのか。私たちが全てを献げるとは、持っているものを全て売り払って貧しい人に施すことなのか。あるいは家族や家を捨てて修道院に入り全ての時間を神に献げることなのか。ある人たちはそう考え実行したが、平安は来なかった。犠牲的に献げてもそこに喜びは生まれない。献げるとは生かされている恵みに対する感謝だ。献げる事の出来ることを喜んだ時、その献げものは神に喜ばしい献げものになるのだ。
・今日の招詞にルカ6:38を選んだ。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
・与えること、献げることが恵みであることを原崎百子さんのご本(「わが涙よ、わが歌となれ」、新教出版社)を読んで感じた。著者は牧師夫人であったが、43歳の時肺ガンで亡くなられた。亡くなる5ヶ月前にガンのため長くはないことを告げられ、その日から詳細な闘病日記をつけ始め、死後にそれが公開された。彼女には8歳から16歳までの4人の子供がいたが、子供を残して死ぬことが一番の気がかりだった。彼女には仕えるべき夫と牧師夫人としての職責があったが、やはり彼女を本当に必要としていたのは子供たちであった。彼女は書いている「神様のなさることはすべては、その時わからなくても愛から出ていることに信頼してください」。彼女は若くして死んでいくが、残された時間を子供のこと、どうしたら子供たちが母の死に挫折しないで信仰を持って生きていくことが出来るかを考え祈り、それを記録して子供たちへ残した。そして最期に「お母さんを、お母さん自身を、あなた方にあげます」と書いた。この原崎さんの言葉は、マルコ12章のやもめの行為と同じ様に、後代に伝えられて行くだろう。彼女は祝福を受けたのだ、本を読み終わった時、そう思った。原崎さんの生き方は、イエスが言われた「自分を愛するように隣り人を愛する」(マルコ12:31)愛の一つのかたちであろう。母親が子供のために自分を献げ尽くすことが出来れば、それは生涯の献げものなのだ。イエスが言われたように「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。人を愛することは誰かに自分を献げることであり、その時私たちはその人を通して神を愛し、そして神から大きな祝福を受けるのだ。
・今53歳になった。人生の3分の2は生きた。その経験から言えることは、人が自己実現を求めて、即ち自分の満たし、満足を求めて生きても、そこには平安がないと言うことだ。人が自分のみの幸福を追求した時、それは律法学者のような生き方になる。長い衣を着て自分の地位を示し、広場で挨拶されて自分の地位の満足し、会堂で上席に座って自分の地位を確認するのだ。現代で言えば会社の役員のようなものだ。でもその喜びは続かない。やがては新しい人がその場を占め、彼は片隅に追いやられる。会社生活の中で多くの人を見てきた。同期のトップで役員に昇進し、得意になって会社の廊下を歩いていても、やがて役員を退任すれば誰も振り向かないようになる。自分を養っても幸せにはなれないのだ。「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(〓ヨハネ2:17)。正にそうなのだ。
・自分の経験から今日の聖書テキストを見て思う、律法学者の生き方よりも、やもめの生き方のほうが、現実として幸いなのだ。人間は自分を必要とする人に、必要なものを献げた時、祝福を受けるのだ。人間は他者を愛することによって神に愛される、言い換えれば本当の自己実現、消えることのない満たしを受けるのだ。ボランテイアを体験した人は異口同音に言う「人のお世話をしたが、お世話を通して、自分が豊かにされた。こんな楽しかったことはない」。ボランティアは楽しいから止められないのだ。「受けるよりは与える方が、さいわい」(使徒20:35)なのだ。私たちが自分を献げる時、神の祝福が「押し入れ、ゆすり入れ、あふれるまでに量をよくして」(ルカ6:38)、私たちに来るのだ。
・このやもめは自分の小さい献げものをイエスが見ておられたことを知らなかった。イエスがその行為にアーメンと言われたことも知らなかった。ましてや2000年経ってそれが世界中の教会で献げることの模範として語られるとは夢にも思わなかった。このやもめはあふれるばかりの祝福をいただいたのだ。自分を必要とする人に自分を献げてみよ、その時あなたにあふれるばかりの喜びが来る、試してみよと神は言われる(マラキ3:10)。試してみよう、この喜びを味わってみよう。その時、私たちは神の国にいるのだ。

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