1.イエスのエルサレム入城
・マルコ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤで宣教活動をされていましたが、いよいよエルサレムに入られます。神の都と呼ばれ、ユダヤ教信仰の中心であるエルサレム神殿のある首都です。イエスは過越祭の時に、エルサレムに入城されました。紀元30年3月から4月にかけてのことと思われます。その時、エルサレムの群集は手に棕櫚の葉を持って、イエスを歓迎したと伝えられています。そのため、イエスがエルサレムに入られた日曜日を「棕櫚の主日」と呼びます。エルサレムの群集はイエスを歓呼して迎えましたが、やがてイエスに失望し、「十字架につけろ」と叫び出します。イエスは、木曜日に捕らえられ、金曜日に十字架につけられます。今日私たちは、この、イエスのエルサレム入城の意味をマルコ11章から学んでいきます。
・エルサレムを目指して、旅を続けて来られたイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られました。近くにベタニア村が見えます。イエスは二人の弟子に、「向こうの村へ行ってろばを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にろばを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。「だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)と。
・弟子たちが村に行くと、表通りの家に子ろばがつないでありました。弟子たちは村人に断った上で、その子ろばを借り、イエスの元に連れてきました。イエスは子ろばに乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、都の人々は期待を持ってイエスを歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(10:9-10)。「ホサナ」、私たちを救ってくださいの意味です。「あなたがメシアであれば、このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫びました。その声の中を、イエスは一言も言われないで、進んで行かれます。
・イエスは「解放者としてのメシアを求める」人々の期待を知っておられました。その期待に応えるにはどのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエスがメシア=王であられるならば、その方がふさわしい。王は軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬ではなく、ろばに乗って、エルサレムに入られました。ろばは風采の上がらない動物です。愚鈍と卑しめられ、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ろばを選んで、エルサレムに入られました。
2.ろばの子に乗って入城された主
・今日の招詞にゼカリア書9:9-10を選びました。次のような言葉です。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
・マルコ11章の平行箇所マタイ21章では、イエスがエルサレム入城の時に、ろばに乗られたのは、聖書の預言の成就であったとして、ゼカリア書を引用しています。通常、イエスは歩いて旅をされました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてろばに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエスが、ゼカリア書に象徴されるような「平和の主」である事を人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って、あなたがたのところに来た」という、イエスのお気持ちが、ろばに乗るという行為に示されています。
・当時ユダを支配していたローマ総督は、ユダヤの重要な祭日には、滞在するカイザリアから、戦車や軍馬、弓を連ねて、エルサレムに入城しました。エルサレムにはローマの警備兵が常駐するアントニア要塞があり、その警備軍を増強し、治安維持を強化するためでした。ユダヤ教の祭日、特に過越祭においては、全国から多くの巡礼者が集まって人口が通常の10倍ほどに膨れ、国民的な宗教的感情が高まり、征服者であるローマに対する敵意から暴動となりかねなかったからです。ローマ軍はカイザリアから、すなわち西から、軍事力を誇示しながら、エルサレムに入りました。それに対して、イエスは、オリーブ山から、すなわち東から、数人の弟子たちを従えて、「ろばに乗って」入城されます。イエスの行進は、都の西側で起こっているもう一つの行進に対して、意識的に対抗するものでした。イエスのエルサレム入城は「軍事力や権力」の誇示ではなく、「謙遜と非暴力」の表現です。イエスは行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。しかし、あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。
・ろばは風采の上がらない動物で、戦いの役に立ちません。しかし、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも重荷を負うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。ろばに乗るメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫びはじめ、それが金曜日の受難へと導きます。「平和の主」を拒否したエルサレムの人々は、やがてローマに対して武力闘争を行います。紀元66年に始まるユダヤ戦争です。その結果、エルサレムはローマ軍に占領され、焼かれ、神殿も崩壊します。「剣を取る者は剣で滅びる」のです(マタイ26:58)。
3.この方に従っていく
・私たちもイエスに様々な期待を寄せます。「神の子であれば私の病を治して欲しい、神の子であれば私を幸せにして欲しい」と。八木誠一という聖書学者はイエスの生涯を回顧して言います「イエスは栄光への道を選ばなかった。私たちは、神は全知全能の支配者であり、最高で完全な存在であると考える。そして私たちが神を信じるという時に、神によって生活を保障され、危険から守られ、幸福と栄光を与えられることを期待する。しかし、イエスの生涯の物語は、このようなイエス・キリスト理解を、ひいては神理解を、断固として否定する」(八木誠一「イエスと現代」)。
・イエスは言われます「私が約束するのはそのようなことではない。私が何故ろばに乗って入城したかを理解してほしい」。聖書は徹底的に、軍馬に頼る生き方を拒否します。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」(詩篇20:8‐9)。「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れます。「倒れるものに望みを託すな」と聖書は言います。エジプトの軍馬に頼って国の安全を守るとは、現代の私たちがアメリカ駐留軍に頼って日本の防衛を考えることと同じです。尖閣諸島に中国軍が上陸したら、私たちはどうするのでしょうか。その時、私たちは、「エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ」という言葉をどのように聞くのでしょうか。
・イエスはろばに乗って、エルサレムに入城されました。ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも私たちの重荷を黙って負ってくれました。人は言うでしょう「イエスはろばに乗って入城したために、殺されたではないか。そのような人生に意味があるのか」。私たちは反論します「平和の主を拒否して、ローマに武力抵抗をしていったエルサレムは滅ぼされたではないか。軍馬に頼る生き方は破滅と滅亡の道ではないのか」。
・聖書はイエスの十字架死を敗北とは考えていません。ペテロは言います「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペテロ2:21-24)。先に紹介しました八木誠一は言います「「イエスは人生の真実を告げ、そして殺されてしまった。このことは、この世の罪と盲目の深さを、この世の「神の支配」に対する否定を示す。しかし、イエスは敗北しなかった。イエスは「復活」し、弟子たちはイエスの宣教を引き継いだ。このことは、世の否定を覆す「神の支配」の勝利を示す。「十字架と復活」とはこうして、この世の罪と虚無をあらわに照らし出し、しかも罪と虚無がこの世の最後究極の現実ではないことを証示するのである」。
・イエスがろばを調達されたベタニアとは、「悩む者の家」あるいは「貧しい者の家」と言う意味です。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアがイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天されました(ルカ24:50)。私たちはこの教会をベタニア村のような共同体にしたいと願います。ろばのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような共同体です。