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2018年7月15日説教(創世記18:16-33、執り成しの祈... 説教ブログ

1.ソドム滅亡の予告
・創世記18章、19章には、罪の町として知られていたソドム滅亡の物語が掲載されています。かつて栄えたソドムの町が突然世界から消え去り、その後に巨大な塩の柱が残されたことを、当時の人々は不思議に思い、「ソドムは神に裁かれて滅ぼされた」との伝説が生まれ、その伝説を、創世記記者が、アブラハムとロトの物語として編集していったと推測されています。私たちは創世記記者の信仰に注目して、この物語を読んでいきます。
・創世記記者は、主のみ使いがアブラハムを訪ねたところから、物語を語りはじめます「(彼らは)そこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた『私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」(18:17)。そして主はみ使いを通して言われます「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(18:20-21)。アブラハムの最初の召命から25年が経過していました。主はアブラハムを信頼し、ソドムの裁きについて、彼の意見を求められます。
・主は「ソドムとゴモラを罪のゆえに滅ぼす」とアブラハムに告げられました。「罪のゆえに滅ぼす」、洪水物語と同じ言葉です。しかし洪水物語ではノアが残され、そこから人類は再び繁栄を取り戻すことが出来ました。アブラハムは「正義と憐れみに富むあなたが、何故ソドムを滅ぼすのですか」と抗議します。「アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(18:23-25)。私たちの信じる神は独断で行為される方ではなく、人間の意見にも耳を傾けられる方であるとの信仰がここにあります。
・アブラハムがソドムの運命に関心を持つのは、一つはソドムに甥のロトが住んでいた故と思われます。しかしそれ以上に、「神は悪人の悔い改めを待っておられる方だ」と信じるからです。神は悪人でさえ滅ぶことを喜ばれない。預言者はその言葉を記しています「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)。アブラハムはソドムのために必死に言葉を連ねます。「『もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか』・・・アブラハムは重ねて言った『もしかすると、四十人しかいないかもしれません』・・・『もしかすると、三十人しかいないかもしれません』。・・・『もしかすると、二十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その二十人のために私は滅ぼさない』」(18:27-31)。
・アブラハムは最後に語ります「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」。それに対して主は言われます「その十人のために私は滅ぼさない」(18:32)。アブラハムはそこで止めます。ソドムの町には「正しい者が一人もいないであろう」ことを推察したからです。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(18:33)と創世記記者は結びます。
2.ソドム滅亡の伝承の背後に
・ソドムのあった死海地域は海抜マイナス418mと地表で最も低い場所で、アスファルトや硫黄等の可燃性鉱物が大量に地下に埋蔵されています。また東アフリカからトルコにかけての大地溝帯に位置していて、地震の多い地域です。現代の地質学者は、「ソドムの滅亡は地震等により地下の鉱物や気体が発火し、爆発と大火災を起こして、町々が埋没し、ソドムの遺跡は死海の下に眠っているのではないか」と推測しています。このソドム滅亡について、イエスも弟子たちも、神の裁きの結果だと認識しています。
・イエスは言われています「カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」(マタイ11:23-24)。私たちもまたソドムの住民であり、滅ぼされても仕方のない存在であるのに、神の憐れみにより生かされていることを知りなさいと、イエスは言われているのです。新約記者もソドムの滅亡を神の裁きとして理解しています。「神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」(第二ペテロ2:6)。
・ソドムは神の裁きで滅ぼされたのか、そうであれば、「地震や災害等の天災は神が裁きとして起こされるのか」という疑問を私たちは持ちます。1755年11月に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)は、当時の教会に大きな衝撃を与えました。その日は主の日で、多くの信徒が礼拝に参加しており、信徒たちは破壊された聖堂の下敷きになり、さらに起こった津波で流されました。信仰に熱いカトリックの国の首都が、主の日の礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、聖堂と市街地が破壊され、数万人の信徒たちが死んで行きました。人文学者ヴォルテールは「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲だ」と主張し、人々の信仰は大きく揺すぶられました。この時、地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではないと主張したのが、哲学者のインマヌエル・カントです。このカントの理解を私たちは継承しています。現代の私たちも、「地震や火山の噴火等はあくまでも自然災害であり、神の裁きではない」と理解しています。とすれば、ソドム滅亡を神の裁きと理解する創世記18章を私たちはどのように読むべきなのでしょうか。
3.物語が示す福音を見よ
・今日の招詞に創世記19:29を選びました。次のような言葉です「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(19:29)。創世記の記すソドム滅亡物語の主題は、ソドムの裁きと滅びではなく、その滅びの中からロトとその家族が救いだされたことにあります。何故ならば、神は裁くよりも遥かに大きく、救わんとしておられるからです。創世記記者は記します「ロトが正しい人であったからではなく、アブラハムがロトのために執り成ししたゆえに、主はロトを救いだされた」と。
・正義とは「人の罪の赦しを神に執り成し、祈る」ことです。イエスは自分を十字架にかけて殺そうとする者のために祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。これを聞いたローマの百人隊長は語ります「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)。アブラハムは多くの過ちを犯しましたが、その過ちを通して他者の救いのために祈るものとなりました。だからこそ、彼は「信仰の父」と呼ばれるのです。
・ロトは決して正しい人ではありません。19章後半を読みますと、酒に酔って酩酊し、助けだされた娘たちと交わって子を産ませるような失態を犯しています(19:33)。伝承ではこの子供たちが近隣民族のモアブ人、アンモン人になったとされています。しかし主はこのような罪の結果から生まれたモアブ人やアンモン人も祝福されます。モアブの婦人ルツからオベデが生まれ、オベデからエッサイが生まれ、そのエッサイの子がダビデです。ダビデの子ソロモンはアンモンの婦人ナアマを妻に迎え、そのナアマから跡継ぎのレハブアムが生まれ、その系図がイエス・キリストに繋がっていきます。つまり、イエスの血の中には、モアブ人の血も、アンモン人の血も流れているのです。
・創世記の記すソドム物語の主題は、ソドムの滅びの中からでも、アブラハムの執り成しの祈りにより、ロトと家族が救いだされたことにあります。今回の西日本地区の集中豪雨により200人を超える方が亡くなられました。なぜあの人が亡くなって、この人が生かされたのか、私たちにはわかりません。そこには不条理があります。滅ぼされたソドムにも生まれたばかりの乳飲み子もいたでしょう、彼らも亡くなった、そこにも不条理があります。
・この世の不条理をどのように受け止めていくのは難しい問題です。長崎被爆者のために医師として働き、自らも原爆症で亡くなって行った永井隆は1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬で浦上カトリック信徒を代表として「弔辞」を読みました。「原爆は神の摂理によって、この地点に持ち来らされました。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれました。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します」。これはどう評価するか、意見が分かれます。またアウシュビッツ強制収容所を生き残ったエリ・ヴィーゼルはあるユダヤ人ラビに聞いたそうです「アウシェビッツの後でどうしてあなたは神を信じることが出来るのですか」と。するとラビは「アウシェビッツの後で、どうして神を信じないでいられましょうか」と答えたそうです。
・不条理をどう受け止めるべきか、わかりません。ただ言えることは、ソドム物語を通して、災害から救われ、生かされた命の中から、新しい命が生まれてきた、という福音がここに語られていることです。イエスは姦淫の罪を犯した婦人に言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。過去に何があったかを問うのではなく、これからどう生きるかが私たちの課題です。創世記18-19章の中心テーマはソドム滅亡ではなく、ロトの救済であったことを再確認する時に、私たちは過去に目を向けて生きるのではなく、将来を主に委ねて生きる力が与えられるのです。
2018年7月8日説教(創世記12:10-20、試練と回心) 説教ブログ

1.アブラハムの信仰の揺らぎ
・創世記12章後半は、約束の地に導かれたアブラハムに与えられた試練についての物語です。アブラハムはメソポタミアのウル(現在のイラク)に住んでいましたが、「その地を離れて、私の示す土地へ行け」(12:1)という神の召しを受け、故郷を離れ、カナン(現在のパレスチナ)の地に行き、そこに祭壇を築いて「主の御名を呼びます」(12:8)。ところが約束の地で最初に与えられたものは、飢饉でした。「行けと言われて来たのに、来て見ると、食べるものもない。このままでは一族郎党、みんなが死んでしまう。自分は本当に神に召されたのだろうか、召されたのであれば何故」、アブラハムの信仰は動揺したと思います。
・彼の前には三つの選択肢がありました。一つは約束が幻だったとして故郷に戻ることです。故郷メソポタミアは豊かな土地であり、飢饉もありません。二つめは、約束をなおも信じてカナンの地に留まることでした。神は「あなたを祝福する」(12:2)と言われたのだから、養って下さると信じて留まり続ける道です。三つめの選択肢は、しばらくの難を逃れるために、食糧のある地に行くことでした。信仰的には留まることが望ましいと思われますが、当時のアブラハムにはそこまでの信仰はありませんでした。何故ならば、導かれる神がどのような方であるかを彼はよく知らなかったからです。
・アブラハムは、三つめの選択をして、食糧を求めて、豊かな穀倉地帯のエジプトに下ることにしました(12:10)。アブラハムは依然として信仰者です。しかし、今、彼は神の御旨を問うことをせず、自分の力を頼みにします。その結果、信仰は不従順となり、内側から挫折していきます。挫折した信仰は憂いを招き、憂いは不安をもたらします。彼は妻サラがひときわ優れて美しいことが気になります。不安に駆られたアブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となりました。エジプトに着くや、人々の視線は美しいサラの上に集中し、うわさは宮廷にも届き、エジプト王(ファラオ)はサラをハーレムに迎え入れます。そしてアブラハムはサラの兄として王から富を与えられます。「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」(12:16)。新参の外来者が妻の出世によって裕福な財産家になりました。アブラハムは信仰の父といわれる人ですが、その人が、生涯の始めにおいては、妻を妹と偽って、彼女を王に売って身の安泰を保ち、金持ちになったという経歴を持ちます。
・この聖書記事がナチス・ドイツのユダヤ人迫害の一つの理由とされたそうです。アドルフ・ヒトラーは語ったそうです「これがユダヤ人だ。すでにその父祖たちにおいて後のユダヤ主義の宿命的兆候が確認できるではないか。旧約聖書は忌まわしい物語だ」と(ヴォルター・リュティ「アブラハム」から)。確かにアブラハムの行為は世渡りとしては賢い行為かも知れませんが、信仰者としては卑しい行為であり、何よりも神の約束を反故にする行為です。非難されても仕方がない。しかしヒトラーの知らない神の物語はここから始まります。
2.神の救済と赦し
・主はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。恐ろしい病気、疫病の蔓延です。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知らされ、彼に問いかけます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」です。創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、また弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われました(4:10)。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われたのです。信仰の人、アブラハムは恥ずかしさのあまり、下を向いたことでしょう。
・しかし主はそのようなアブラハムを見捨てず、彼との約束を守られます。創世記は記します「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」(12:20)。アブラハムは与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。「罪を犯したのに神は私を赦してくださった」、私たちの信じる神は、私たちの想像も及ばないような方法で私たちを恵まれます。ここでの神は、エジプトのファラオを用いて、アブラハムをもう一度立ち上がらせるのです。
3.アブラハムの回心
・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。口語訳では「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。「アブラムは主の名を呼んだ」、アブラハムはエジプトから約束の地カナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。アブラハムは主の導きを信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきました。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約聖書を通じた福音です。
・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼び、その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。
・悔い改めた罪人は新しい生き方をします。アブラハムはエジプトで手に入れた多くの財産を持ってカナンに帰ってきました。一緒に行った甥のロトもまた多くの家畜を持つ者となります。そして「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」(13:7)と創世記は記します。多くの家畜を飼うだけの十分な水と草がそこには無かったからです。先には食べることの出来ない飢饉という試練がアブラハムを襲いましたが、今度は多くを持ちすぎる故の試練がアブラハムを襲います。しかし、今のアブラハムは、もう自分の力に頼る人ではなく、神の召しを聞くものに変えられています。彼はロトに言います「私たちは親類どうしだ。私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも、争うことはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう」(13:8-9)。
・一方には肥沃なヨルダン川流域の草地があり、他方には水も牧草も乏しい荒野があります。牧羊者であれば、誰でもヨルダン川流域を選びますが、アブラハムは選択権を甥のロトに委ねました。叔父であり、年長者であり、強者であるアブラハムが、甥であり、年少者であり、弱者であるロトに選択上の優先権を与えたのです。罪を犯して無条件で赦されたアブラハムは、今は、赦して下さった方の御旨に従おうと決意しています。だから彼は自分の望みを優先せず、相手の望みを優先し、争いは回避されました。アブラハムが自己の生存権を自力で守ろうとしたら争いは拡大したでしょう。今のパレスチナで戦争が続くのも、お互いが自己の生存権を主張して譲らないからです。アブラハムは新しい土地を示されました。生活者としてのアブラハムの心は平安ではなかったでしょう。ロトの選んだ地の方が良いに決まっています。その彼に神は言われます「目を上げよ、下を向くな。私はあなたと共にいる。私の祝福はあなたにある」(13:14)。アブラハムはその地で祭壇を築いて主を礼拝します「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」(3:18)。もしヒトラーが創世記12章だけでなく13章も読んだら彼は言うかもしれません「旧約聖書は確かに神が導かれた物語だ」と。
・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。
2018年7月1日説教(創世記12:1-9、祝福の始まり) 説教ブログ

1.信仰の決断をしたアブラハム
・7月から私たちは創世記を学んでいきます。創世記は1−11章が原初史と言われ、そこに記されているのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人々を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていた。神は創造の秩序の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。テラの息子アブラハムに「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)と言われます。「約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われた。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は神の言葉に従い、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルは約束の地に到達せず、ユダヤ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、さらにはイスラム教においても、「信仰の父」と呼ばれます。
2.信仰が揺らいだアブラハム
・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました。「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。
・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや「神に頼れない」と思い始めているのです。
・神の庇護を信じられない者は、他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私は・・・あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。「信仰の父」と称えられた人が、実は妻をエジプト王の側室に売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じです。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻を見捨てて、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。
3.信仰の揺らぎと悔い改め
・今日の招詞にヘブル11:1を選びました。次のような言葉です「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。アブラハムは信仰の偉人と称えられますが、彼もまた聖人ではなかったのです。約束の地に来て、住民が城砦を構え強大であることを知れば、身の危険を覚えて砂漠のネゲブに隠れます。飢饉でエジプトに下れば、自分の妻を利用して身の安全を図ります。その地でアブラハムは神から問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」、かつて蛇に騙されて禁断の木の実を食べたエバに語られ、妬みのために自分の弟を殺したカインに呼びかけられた言葉です。取り返しのつかない過ちを起こしたことを知らされたアブラハムは、恥ずかしさで下を向きます。彼も私たちと同じ罪人、同じ過ちを犯す人間だったのです。ここにおいて、アブラハムの生涯は私たちと関わりを持つものになります。
・アブラハムの最初の旅立ちは、神の呼びかけに答えて「行く先を知らずに出かけた」時でした(12:4)。冒険者としての旅立ちです。その彼が、エジプトで罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰り、そこに祭壇を築き、主の御名を再度呼びました(13:4)。その時が、信仰者としての再出発の時です。聖書で信仰者と呼ばれる人は、多くの過ちを犯しています。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、新しい人間となりました。ペテロはイエスを否認した後、大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙こそが、ペテロの洗礼の水です。パウロも、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、パウロを迫害する者から迫害される者に変えました。罪を犯して悔い改める、それが信仰です。
・哲学者の森有正は講演の中で次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはない」(森有正「土の器に、アブラハムの信仰」p.21)。エジプトのアブラハムは、自分の妻を利用して身の安全を図りますが、そのアブラハムに神は問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。アブラハムは「他人には知らせることができない心の一隅」で主に出会ったのです。
・私たちが自分の力に頼っている間は神が見えません。罪を犯し、泣いて、主の名を呼び求めた時、主は応えて下さる。人間は、過ちを犯し、砕かれた時でないと、主の御名を呼び求めない存在なのです。そして求めた時、神はご自身を現して下さり、見えない神が見えるようになります。そして、人は人生の歩みの中に、神の見えざる手が働いていることを知り、感謝します。まさに、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。私たちも、自分の罪を知り、泣き、悔い改めた時こそが、人生の再出発の時なのです。そのことをアブラハムの生涯は私たちに教えてくれます。
2018年6月24日説教(2コリント12:1-10、弱さの中の... 説教ブログ

1.弱さの中に恵みが
・第二コリント書を読み続けています。本日が最終回です。この手紙を通して明らかになったのは、パウロがコリント教会の離反に苦しみ、何とかしてコリントの人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙を書いているという事実です。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから本当のキリスト者ではない」、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。
・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(1コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではないのです。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自己の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。
・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、この手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、異邦人伝道旅行を始める前、彼がアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを長々と語ることをしません。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。
・パウロは深刻な病気を抱えていたようです。ある人は「癲癇」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。
2.聴かれない祈り
・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷のいちじるしき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか・・・簡単であってすげなかった。『我が恩恵汝に足れり』(第二コリント12章9節)というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。
・新約学の織田昭先生は語ります。「パウロの『とげ』が実際に何だったのか、この文章からは特定できないが、恐らく、これは、後にコリント書を読む多くの読者が、自分の持つ弱さや悲しみと引き比べながら、それぞれなりに慰めを受けられるように、聖霊がそうお導きになったのかも知れません。お互い弱い肉の人間として、病気の不安も、老いの悲哀も、事業の挫折もあります。もし私たちがお互い、自分の弱さを恥じないで共感できたら、私たちはみんな同じように主キリストだけを頼りにして、自分の弱さを克服できますし、その弱いままで強く変えられるのです。パウロの最後の言葉はこうでした。『私が弱い時、まさにその時、私は強くなれる。』」(織田昭・エリニカから)。
3.キリストのために苦しむ
・今日の招詞にピリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために良かれと思い、手紙を書き、訪問し、指導しました。そのコリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる力をいただきます。
・教会には誤解や争いが絶えません。これが「神の教会か」と思うこともしばしばあります。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は国宝のような宝物です。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきたのです。
・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは4冊の詩集を出しましたが、その第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」(アシュラム・センター)です。今日の聖書個所から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。次のような詩です「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実にはとても納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても困る時があります。その中で神を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と誇れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。私たちはパウロのようにはなれません。しかしパウロに憧れる事はできます。
・この世は力を賞賛し、強さを求めます。強さとは何でしょうか。アメリカ宗教史が専門の森本あんり先生は「宗教国家アメリカのふしぎな論理」という著書の中で述べます「アメリカ大統領ドナルド・トランプは破天荒な大統領だが、同時に熱心なクリスチャンとして知られる。彼が信奉するキリスト教は「成功の神学である」と。もともと聖書では神と人間の関係を、神は人間が不服従な時にも一方的に恵みを与えてくれるという「片務契約」で理解します。ところが、ピューリタニズムがアメリカに移植される過程で、「片務契約」は「双務契約」へと転移していきます。双務ということは、人間は神に従い、神は人間に恵みを与える義務があるというものです。これは信賞必罰、ギブ・アンド・テイクの論理であり、この論理の行き着く先には「神の祝福を受けているならば、正しい者だ」という考え方が語られます。「自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力した。だが、それだけでここまで来られたわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかったはずだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ」。これがドナルド・トランプの信奉する、そして多くの福音派の人々が信奉するキリスト教であると森本先生は語ります。「神は従う者には恵みを与え、背く者には罰を与える。自分は成功し、恵まれている。だから神は自分を是認している。自分は正しいのだ」。この世的に成功したければ神を信じなさいという勧めの中で、アメリカ人の5割の人が毎週の礼拝に参加します。
・「神を信じて従えばこの世の成功は約束される」という信仰は、申命記を始めとした旧約聖書の信仰ですが、イエスともパウロとも異なる信仰の在り方です。私たちの主イエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強い人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされ、キリストは今なお生きておられます。正にパウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。
2018年6月17日説教(2コリント9:6-15、恵みとしての... 説教ブログ

1.エルサレム教会への献金問題
・第二コリント書を読んでいます。第二コリント書では8章、9章が、「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立し、異邦人教会は母国エルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。エルサレム教会はユダヤ教をベースにした保守的な教会で、それに対して異邦人教会はギリシャ文化を土台にしたリベラルな教会群でした。その結果、異邦人教会とエルサレム教会との不和が拡大し、パウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援献金運動を進めていました。彼は語ります「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:27)。ただこの献金運動は諸教会に様々な波紋を生みました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・その次第が8章に記述されています。パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。献金には公平性と透明性が必要です。私たちの教会では毎月第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、どのように用いたのかを報告するようにしています。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」、蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「教会同士の関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金とは、神から与えられた恵みをお返しすることだ」とパウロは語ります。
2.恵みとしての献金
・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだとパウロは語ります。パウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたがたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。その人々にパウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。パウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。
3.恵みとしての献金
・今日の招詞に、1コリント12:26を選びました。次のような言葉です「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。教会はキリストの体です。ここで言う教会とは、一つ一つの地域教会を超えて存在する「見えざる公同の教会」です。一つ一つの地域教会が集まってキリストの体を形成します。ですから一つの教会が傷めば、他の教会も共に苦しみます。私たちの所属する日本バプテスト連盟には325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所が26もあります。多くは地方教会で、礼拝参加者10名以下の教会の多くは経常献金300万円以下であり財政的に牧師招聘が難しく、牧師のいない教会は消滅危険性が高いとされます。バプテスト連盟ではこのような小教会に様々な財政支援をしていますが、その財源は諸教会から捧げられる協力伝道献金です。
・今回、説教準備をしていて、ギリシャ語の献金には「ロゲイア」という言葉と「カリス」という言葉の二つがあることに気づきました。ロゲイアの語源はロゲオー=集める、集金する、です。現代語では「教会維持献金」になるでしょう。教会が成立すると、その維持経費が必要となり、教会はそれを月約献金、建築献金として、教会員の方々に拠出をお願いします。大事な献金です。しかし、パウロがここで用いている言葉はカリス=恵み、恩恵です。「恵みとして捧げもの」です。「エルサレム教会への献金は、自分の教会には直接的な恩恵をもたらさないが、神の宣教の業に参加する恵みの出来事なのだ」とパウロは語るのです。諸教会に捧げるために用いられる協力伝道献金はもちろんこのカリスになります。また今日、私たちは神学校週間を記念して伊藤真知子姉をお呼びし、讃美と証しの時を持ち、席上献金を神学校に捧げますが、この神学校献金もカリス=恵の業としての献金になります。私たちは自分たちの教会を支えるためのロゲイア的献金は捧げますが、直接の見返りのないカリス的献金を捧げることには躊躇します。
・私たちの教会の場合、建築献金を含めた献金総額は約900万円ですが、そのうち800万円は借入金の返済や牧師給等の教会維持のために用いられ(ロゲイア的献金)、外部に献金しているお金(カリス的献金)は100万円です。そのうち諸教会を支援する原資になる協力伝道献金は30万円です。これまでは60万円を協力伝道として捧げていましたが、会堂借入金の返済負担が重く、今年から30万円に減額しています。ロゲイア的献金がカリス的献金を圧迫しているのです。
・今日の聖書個所は私たちに献金に対する考え方の変更を求めているような気がします。私たちの教会は建築借入金返済や教会債返済積み立てために、当面は年間300万円のお金を必要としています。借入金を返済しているのに外部支援を増やす余裕はないという考え方も成立します。しかしある注解者は語ります「捧げ物の最終基準は捧げた後にどれだけ残るかという計算の結果によるものではない。唯一の基準はキリストの愛である」(アーネスト・ベスト「現代聖書注解・第二コリント」)。
・私たちは一つの教会ではできないことを共同して行うために連盟を結成し、連盟は諸教会からの協力伝道献金や神学校献金をそれぞれ必要な場所に届ける仕事を担っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」、パウロはマケドニア教会の働きについて述べています「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。私は証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした」(8:1-4)。今は私たちがマケドニア教会になる時です。「捧げることが出来るのは恵みである」、大事な問いかけをパウロは私たちに与えています。
2018年6月10日説教(第二コリント4:1-15、この土の... 説教ブログ

1.パウロの困難
・今日は第二コリント4章からパウロの言葉を学んでいきます。4章7節「私たちはこのような宝を土の器の中に入れています」はとても印象的な言葉です。ここには二つのことが語られています。一つはパウロが「土の器」であると非難されていた現実です。もう一つはそれにもかかわらず、パウロの語る福音は「宝」といえるほどの価値を持つことです。今日は第二コリント4章をこの二つの側面から学んでいきます。
・第一の側面はパウロが受けていた激しい批判です。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロはエルサレム教会からの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉も、心を閉じた人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。
2.この土の器に
・手紙を書いた当時のパウロは(紀元58年頃)、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私は土の器に過ぎない」と語ります。しかし伝えている福音は宝物であると彼は語ります「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを失敗者、廃棄される土の器のように見棄てていました。しかしキリストも十字架上で見捨てられています。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。
・しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。パウロ自身、命の危険をおかしながら伝道しているのです。ユダヤ教徒から、またローマ帝国の官憲から彼は憎まれていました。事実、パウロはこの手紙を書いた7年後(紀元65年)にローマで処刑されています。しかしパウロの心には復活の希望があります。だから、パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。
3.希望の福音
・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、気力も低下し、死ねば土に帰ります。しかし、「内なる人」、キリストと共にある命は衰えることがありません。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。
・私たちが福音を伝えるべき対象の日本人は、今現在、決して幸福ではありません。いろいろな調査を見ると、日本人は「豊かではあるが幸福ではない」という指標が出ています。これまで日本人を支えていた地域の絆、職場の絆、家族の絆がなくなり始め、人々が孤立化しているからです。神学者の栗林輝夫氏は述べます「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつての日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしました。その中で日本の教会は何を発信できるのか」。
・私たちは貧困強制社会の中で苦しむ同胞の存在を知っています。勤続10年でも非正規であるゆえに年収が200万円に満たない市役所の臨時職員がいます。大学院を出て博士号をとっても就職先がなく、複数の大学の非常勤講師を掛け持ちし、働いても、働いても暮らしが楽にならない人がいる現実を知っています。現在40歳前後の方は、大学を出た時は就職氷河期でやむなく非正規の職に就き、30歳になった時にはリーマン・ショックのあおりで派遣切りに遭い、40歳の現在はこれまで生活をサポートしてくれた親世代がリタイアし、親子共倒れの危機にある(アラフォー・クライシス)ことも承知しています。その危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか。それが私たちの課題です。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つのか、もしなければ教会などいらない。私たちはキリストの福音こそ宝であり力を持つと信じるゆえに宣教を続けます。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。神の子とされているのに、何故次々に困難や苦難が与えられるのか、自分は呪われているのではないかとさえ思える時もあります。それは、これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」です。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。パウロはその感謝を手紙の中で述べています。少し長くなりますが引用しましょう。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(1:8-10)。その神の力は教会の交わりを通して与えられます。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。
2018年6月3日説教(2コリント2:14-3:6、キリストの... 説教ブログ

1.キリストの香り
・今日から第二コリント書を読んでいきます。コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会内に動揺と混乱が生じていました。彼らは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け、律法を守ることによってではない」という福音を否定しました。その上彼らは「パウロはエルサレム教会からの推薦状を持たないから使徒とは認められない」と批難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書き、それが第二コリント書2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストに依って神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。
・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都ローマで凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には征服地から奪った宝物が運ばれていきます。次に捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、将校たちや兵士たちを従えて行進します。祭司たちが振りまく香りは、将軍と兵士たちには喜びと勝利と生命の香りであり、他方戦争捕虜たちにとっては死の香りでした。
・だからパウロは書きます「(私たちは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。「福音の香りも同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」とパウロは語ります。パウロは先にも語りました「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。福音はそれを聞く者に「根本的に生き方を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はその生き方を変えた。だからあなた方に福音を伝えた私たちは、あなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。
2.キリストの手紙
・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、異なる福音、律法による救いを唱え、教会を混乱させていました。彼らはエルサレム教会の使徒たちからの推薦状を携え、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていないから偽使徒だ」と攻撃しました。それに対して、パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」(2:17)と語ります。「神の言葉を語ると称して報酬を得ているだけの存在が、エルサレム教会からの推薦状を持っていても何の価値があるか」と。
・パウロは「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、それはあなたがたなのだ」と語ります。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、それまでの異教礼拝を止め、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。この二つの事柄は、私たちに次のことを示します。つまり、「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。
・ロバート・ベラーという宗教社会学者は、その著「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介しています。牧師は語ります「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(ロバート・ベラー「善い社会」、p207-208)。
・人生の危機に直面した時、キリストの言葉が本当に私たちを苦難から立ち上がらせる力があるのか、そのような体験的神学の学びを通して、私たちは訓練され、聖書が「生きて働く」福音になっていきます。その時、まさに「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味が、体験的に理解出来るようになります。ロバート・ベラーは最後に語ります「宗教共同体(教会)はまた、私たちが究極的な問題と取り組むのを助けてくれる。すなわち、費用便益計算(利害損得)以上のもの、欲望以上のものに基づいて生きるための道を探ることである」(同p228)。現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としています。しかし聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求めます。
3.土の器に宝を持って
・今日の招詞として2コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。今のパウロは、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロの履歴や外形に注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私を見るのではなく、私が持ち運んでいる福音を見よ」と語ります。それが招詞の言葉です。パウロは訴えています「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方はその私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ。私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ないだろう。だから私は自分が土の器であることを恥じない」と。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります。招詞の次に来る言葉です「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、過酷なものでした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。当時のパウロは「失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者」のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れています。それにもかかわらず、パウロはコリント教会の人々を「あなたがたこそ私の推薦書、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく、心の板に書かれたキリストの手紙」と呼びます。コリントの人々は教会の主導権を巡って争い、誘惑に負けて不品行を行い、金持ちと貧しい人は分断していました。それでも彼らは教会から離れず、パウロから離れず、主に従って生きたいともがいていました。それは赤裸々な人間の現実の中にあってもなお主から、教会から離れない私たちと同じです。私たちもまた「キリストの手紙」であり、世の人は私たちを見て、「キリストはどなたか」を知るのです。
・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。彼は雄弁な説教者ではなかった。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで、私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。
2018年5月27日説教(1コリント15:12-22、復活の命に... 説教ブログ

1.復活と体のよみがえり
・私たちにとってこの世で一番大切なものは何でしょうか。イエスは、それは命であると言われました「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ 9:25)。その通りだと思います。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞きます。しかし、私たちは言葉を信じきることが出来ませんから、言葉によって命が与えられません。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じでした。だからパウロはコリントの人々に手紙を書きました。その手紙の核心部分が今日読む第一コリント15章です。
・この箇所には、「死をどのように考えるか」が、記されています。パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方から、人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。イエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだイエスが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはコリントの人々に、あなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の基底にある「イエスの死からの復活」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの共同心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。
2.私たちは死んだらどうなるのか
・「復活を信じることの出来ない人生を考えてみなさい」とパウロは訴えます。人が死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32)、そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じです。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのかとパウロは怒ります。現代の日本人は、死を出来るだけ考えないように、現在の生を楽しもうと生きています。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に暮らすのが、日本人の求める幸福です。しかし、そんなものは幸せでもなんでもなく、死を見ようとしないだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れます。1985年8月12日に日航機が群馬・御巣鷹山に落ち、520人の方々が亡くなり、30年が経ちましたが、遺族は今でも命日に慰霊登山をされます。30年たっても死は人々を苦しめている、死の力はどうしようもなく大きい。この死を避けて、見ないようにして生きる生活は、「まやかし」です。今、私たちの生活から死が隠されています。死は病院や老人ホームでこっそりと取り扱われています。それでも私たちは死を見ないわけには行かない。いつかは私たちにも訪れるからです。死んだ後、私たちはどうなるのか、この大事な問題が生活の中で語られず、人々は死への準備なしに死んでいく。これは不幸なことだと思います。
・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、多くの方の死を看取りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問いに対して何も答えられませんでした。死後のことは誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きていく」、人はいつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・コリントの人々はパウロに反論しました「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の例えを語ります。「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語ります。自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があります。朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる、それが人間の死です。その人間が朽ちない、輝かしい、力強いものとしてよみがえる、それが復活です。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るのだとパウロは語ります。よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるでしょう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放されます。
3.復活信仰と日々の生活
・今日の招詞に1コリント15:54-55を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげ、死に対する恐怖は克服されたとパウロは語ります。人は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。
・例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。
・矢内原忠雄は昭和23年に語りました「かつてエゼキエルは敗戦の悲しみにある同胞に対して、『枯れた骨が生き返る』という復活の信仰を語りました(エゼキエル37:11-12)。今度の戦争によって、世界の至る所に、谷にも平野にも、海の底にも町にも、枯れた骨が散乱しました。これらの枯れた骨が生きた人として生き返るということは、驚くほど大きな言葉であります。科学はもちろん、これを否定するでしょう。しかし、科学の否定によって否定しきれない魅力が、この思想の中にあります。我々の愛する者の骨が白く戦場に散乱した時に、我々を慰めて、生きる力を与え、希望を与えてくれるものは、この信仰であります。「復活」を信じるならば、私どもに命があり、私どもは、再び起ち上がります。イエス・キリストによる復活の信仰、それだけがこの敗戦の焦土に立つ尽くす私どもに根本的な解決を与えてくれるのです(矢内原忠雄「人の復活と国の復活」、昭和23年3月28日、内村鑑三先生記念講演より)。
・パウロはコリント15章の終わりで言います「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちの肉体は朽ちます。クリスチャンも、そうでない人も同じく死にます。しかしキリストを信じる者はよみがえります。復活がないとすれば、私たちの生涯は死で終わり、怯えて暮らすしかありません。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節です。ここに私たちの信仰がかかっています。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されています。
2018年5月20日説教(1コリント14:1-19、礼拝の喜び... 説教ブログ

1.異言と預言は何が違うのか
・コリント書を読み続けています。先週、私たちはコリント13章「愛の讃歌」を読みました。そこにありましたのは、「愛の賞賛」ではなく、教会内の「愛の欠如」についての使徒の警告でした。「愛とは自分の救いを求めることではなく、隣人と共に生きるための配慮である」ことをあなた方はわかっていないとパウロは語っています。14章に入りますと、その隣人への配慮の無さが、「異言を語る」ことへの関連で取り上げられています。異言、自己陶酔の中で発せられる言葉や叫びを指します。ギリシア世界では「密儀宗教」(ミステリア)が盛んで、神との交わりの中に神秘体験を求め、霊的興奮状態の中での叫びや声を、聖霊を受けたしるしとして誇り、その神秘体験をしていない人々を「聖霊を受けていない者」として侮蔑する傾向がありました。パウロはそれを聞いて怒り、「異言」の問題をここで取り上げています。
・異言は、今日でもキリスト教・聖霊派(ペンテコステ派)と呼ばれる教派では、信仰体験の極致として大事にされています。使徒言行録2章には、ペンテコステの日にイエスの弟子たちが、聖霊を受けて異言を語り始め、その異言を聞いて3千人が信仰に入ったと記されています(使徒2:41)。ペンテコステ派の人々は現代でも聖霊降臨のしるしとして異言が降り、病気治しの奇跡が起きると語ります。彼らは異言を賜物(カリスマ)として受け入れますので「カリスマ派」とも呼ばれ、霊的興奮によるエクスタシーのために礼拝中に失神する人が出るほどです。心理学的には集団催眠のような出来事、例えば、誰かが過呼吸になった時、周りの人が次々に過呼吸に陥る事例が起こりますが、それに似ているのかもしれません。
・ただ、パウロ自身は霊的体験である「異言」を賜物として受け入れています。パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(14:18)とさえ述べています。しかし彼はそれ以上に、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(14:1)と語ります。預言とは今日でいう説教、御言葉の解き明かしのことです。預言もまた賜物であり、それは異言よりも大事であるとパウロは語ります。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げる」(14:2-4)からです。
・異言、霊によって高められる心は大事です。知識は人を信仰に導きますが、人の信仰を養うものは霊です。信仰は永遠なる方とのつながりの中に形成されます。そこには現実的な事柄と、現実を超えた超自然的な事柄の双方が含まれています。「隣人を愛せ」とは現実的な教えですが、その理由として「隣人もまた神の子である」との理解は、神を信じない人には不思議な言葉になるでしょう。信仰は霊的にしか理解できない部分があります。ですからパウロは聖霊の賜物である異言を軽んじません。しかし、異言は個人の霊性を高めても、教会を創り上げる徳ではないと語ります「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(14:5)。
2.霊と理性、それぞれの役割
・聖霊を受けるとは個人体験であり、他人の入れない世界です。ですからパウロは「異言は個人の霊性を高めるが、教会の徳を高めない」と語ります。異言は他人から見れば何を語っているかがわからない。6節以降にパウロはそのことを説明します「だから兄弟たち、私があなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう」(14:6)。そして語ります「同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう・・・だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人であることになります」(14:9-11)。
・「外国人=バルバロス」とは理解できない言葉を話す人々です。ラテン語でミサが行われても意味が理解出来なければ、誰も「アーメン」とは言えません。わからない言葉で語られても、その言葉は教会を形成しません。だからパウロは語ります「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(14:12-13)。パウロは「私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(14:19)と語ります。しかし理性だけでは教会形成には不十分です。パウロは語ります「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(14:15)。
3.礼拝の喜び
・今日の招詞に1コリント14:39-40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」。パウロは教会の中では「異言よりも預言を求めなさい」と語りました。異言は本人にしかわからないからです。彼は語ります「仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」(14:16-17)。造り上げる=オイコドメオーという言葉が14章に5回も用いられています。パウロの判断の基準は、それが「教会を造り上げるか否か」です。
・教会を造り上げるものは、だれでもが理解出来る言葉です。理解できる言葉が語られた時、そこに神の業が働きます。パウロは「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(14:24-25)と語ります。福音の言葉は人に自分の罪を悟らせ、悔い改めに招き、そして神を賛美させます。それこそ私たちが教会に集い、礼拝を持つ理由です。
・しかしパウロは同時に「異言を語ることを禁じてはなりません」とも語ります。霊的な養いもまた教会は必要としているからです。パウロの描くコリント教会の礼拝は現代のクエーカー派の礼拝に似ているようです。明治の偉人、新渡戸稲造がクエーカー派であったことは有名ですが、同派は「内なる光」を大事にし、特定の礼拝プログラムを持たず、誰かが語り始めるまで沈黙を守り、啓示を受けた人々が語る言葉を皆が聞きます。コリント教会でも二人か三人が異言を語り(14:27)、預言する場合は二人か三人が預言しなさいと語られています(14:29)から、同じような礼拝だったと推測されます。
・現代教会の礼拝は牧師が説教し、人々は讃美する以外は受け身にそれを聞くだけになりがちですが、本来の礼拝は「話を聞く」ために教会に集まるのではなく、「神を賛美」するために来るはずです。どうすれば全員が主体的に参加できる礼拝になるのか、コリント14章は様々の示唆を与えます。基本は礼拝を通して私たちがどう変えられていくかです。「教会は自分のために何をしてくれるのか」を求める時に、教会に対する不平や不満が出ます。そうではなく、「自分は教会のために何をなしうるか」を求め始めた時、礼拝は活性化し、私たちに生きる勇気を与えます。その勇気が私たちを世へと押し出します。ヘンドリック・クレーマーは語りました「教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠である」(クレーマー「信徒の神学」から)、牧師主導ではなく、信徒主導になった時、教会は生き生きとしたものになります。
・「韓国の教会は祈る教会、 台湾の教会は讃美する教会であるが、日本の教会は議論する教会である」と言われます。日本の教会は神学研究には熱心であるが、祈りと賛美に欠けているために成長しないと言われています。私自身、聖書学を大学院で学び直してみて、「その通りだ」と思います。理性は人を正しい信仰理解に導きますが、信仰を養い、育てる事はできないのです。韓国教会の多くは早天祈祷会を持っています。毎朝5時ないし6時に教会に集まって短い礼拝を持ち、各人が祈った後散会し、そのまま仕事に行くという形です。韓国のキリスト教徒の割合は国民の25%に上りますが、この韓国教会の成長を支えたのは、早天祈祷会です。日本でも早天祈祷やアシュラム(黙想会)を行う教会は多くの会衆を集めています。榎本保郎「聖書1日1章」は、今治教会での早天祈祷会奨励を集めたものです。
・毎朝集まって祈る教会生活は、週1回の主日礼拝にしか集まらない教会生活よりも力を持つのは事実です。しかし現代の日本でそれを行うのは現実的ではないと思えます。それを補うのが、家庭でなされる毎朝のデボーションであり、当教会でもこのような霊的養いの必要性を強く感じています。だから当教会ではデボーションのために「デイリーブレッド」という小冊子を共同購入し、皆さんに配布し、毎日のデボーションをお勧めしています。「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」、そのような教会形成をしたいと思います。
2018年5月13日説教(1コリント12:27-13:13、愛がな... 説教ブログ

1.コリント教会の実情と愛の賛歌
・今日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は「愛の賛歌」として有名で、結婚式等でよく読まれる箇所です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってきます。しかし、このコリント13章に何故突然に愛の讃歌が出てくるのか、それは愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったからです。コリントの教会の中には、「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがありました。「父の妻を自分の妻にしている」という道徳上の乱れがありました。教会内に財産をめぐる争いもありました。また結婚を肉の業として卑しむ風潮もありました。直前の12章では、異言を語る人々が「自分たちは聖霊を受けているが、あなた方は聖霊を受けていない」と見下す傾向があったことが伺えます。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱え、そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送っているのです。
・今日、私たちは愛の賛歌を12章27節からの区切りで読みます。そのことによって、パウロのいう愛とは何かがより鮮明に浮かび上がって来ます。12章でパウロは「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」と述べます。教会の中で、人はいろいろな役割を持ちます。教会全体を指導する使徒、使徒から教育されて説教する預言者、子供や新来者を教える教師、彼らは教会を指導する役割を持ちます。また賜物を持って教会に仕える人々がいます。病気を癒す賜物を与えられている人、経済的困窮者に支援物資を配る人、会計や管理的な事柄に責任を持つ人、異言を語る人もいます。さまざまな人々の奉仕によって、教会活動は多様に、豊かになります。しかし、ここに人間の罪の問題が出てきます。
・指導者たちは「自分たちこそ教会の頭脳であり、単なる手足ではない」と威張り始めます。奉仕者も「私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない」と言い始めています。賜物が人を攻撃し、貶める方向に向かい始めています。その人々にパウロは語ります「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」(12:27)。そして体とは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12:26)存在なのだと。指先が痛むだけで私たちは安眠を妨げられ、胃の調子がおかしくなれば一日が台無しになってしまう。体のどの部分、どの器官が、機能を停止しても体全体の調子は狂うのです。同じように教会員の一人が経済的な問題に苦しみ、心や体の不調に苦しむ時には、教会全体が苦しむのだとパウロは語っています。
・だからパウロは続けます「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(12:31)。私たちにもっとも必要な賜物とは何か、それは「お互いが相手のことを思い合うことを可能にする賜物」、                                                            「愛」です。ですから、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この「愛が無ければ全ての行為は空しい」とパウロは語ります。それが13章の愛の賛歌なのです。
2.愛が無ければ全ては空しい
・コリントの人々は各々の賜物(カリスマ)を誇り、神秘体験を自慢し、自己犠牲を賞賛しました。しかし、パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。どらやシンバルは、異教の礼拝に置いて人を陶酔に導くための道具として用いられます。単調なリズムを繰り返し、繰り返し、聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではありません。パウロは続けます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。教会で熱心な証しがされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しい。たとえ牧師が熱情あふれる説教を行って会衆が涙を流しても、その場限りの感動に終わるとしたら、それも虚しい。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(13:3)。愛が無ければ、全ての行為は無益だと彼は言います。
・そして13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「ねたまない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのか。コリントの人々は「ねたみ、高ぶり、いらだつ」存在だったからです。だから、「ねたみをやめなさい」、「高ぶることをやめなさい」、「いらだつことはやめなさい」とパウロは語ります。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではないことに留意すべきです。
・「愛は忍耐強い」、愛するとは相手のことを忍耐することだとパウロは語ります。「愛は情け深い」、キリスト者は往々にして、善良であっても思いやりのない存在になりがちです。牧師や信徒の「無思慮な一言が他者を傷つけ、教会の門を閉ざす」ことが起きています。それは向いている方向性が違うからです。教師が生徒の方を向く時、彼は愛ある教師になります。医者が患者の方を向く時、彼は愛ある医者になります。そして愛は自分の方ではなく、他者の方を向くのです。「愛は自慢せず、高ぶらない」、しかし教会の中にいかに高ぶりがあるか、長い教会生活をしている人は知っています。「愛は自分の利益を求めない」、パウロは繰り返し「すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない」と語ります。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭・本田哲郎氏はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛です。夫婦が愛し合い、友人を大切にすることはとても大事な愛です。しかし、それらは感情的な愛であり、基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要です。そしてアガペーとは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:7)愛です。この愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではありません。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。自分の中に「愛(アガペー)」がないことを知ることが最初の一歩です。
3.教会の基盤としての愛
・今日の招詞として1コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。コリント教会の人々は語りました「私は自由だ、何者にも束縛されない、すべてのことは許されている」と。しかし、パウロはキリスト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言います。何故ならば、主があなたのために死んで下さったからあなたがたは自由になった、それは購いとられた自由、責任を持つ自由なのです。「すべてのことが益になるわけではない」、愛は自己ではなく、他者の利益を求めます。
・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではない。しかし、神はそのあなたを子として下さった。その時、教会の兄弟姉妹も同じ神の子として、あなたの兄弟姉妹になるではないか。それなのに、何故兄弟姉妹が困惑するような自分勝手の行動が出てくるのかとパウロは問いかけています。私たちは愛をLoveと呼ぶことを止めるべきです。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉はRespect、尊ぶ、大切にする心です。キリシタン時代の宣教師は、「アガペー」を「愛」と訳さずに、「御大切」と訳しています。
・アガペーは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできないからです。
・最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(13:8)、しかし「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13:13)。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体です。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのです。教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能であり、そして最終的に残るものは「信仰と希望と愛である」とパウロは語ります(13:13)。
・私たちが教会で求めるべきは、自己の救い、自己の達成ではありません。それは既に達成されている。そうではなく「自分の利益ではなく他人の利益を追い求める」、他者の救い、隣人の喜びがわが喜びになった時、教会は教会になり、私たちは本当の生きる喜びを知るのです。最後にボンフェッファーの言葉を共に聞きましょう「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」39-440p)。
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