すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-25 13:33:13 (55 ヒット)

1. 埼玉県深谷市にある児童養護施設から参りました碾鶲貉氾未反修靴泙后L声4から続くクリスチャンホームに生まれました。私の名前からお父さんは牧師ですかと尋ねられる方がいらっしゃいますが、家族は農家です。両親には反発した時期もありましたが、導かれて23歳のときにイエス様を救い主として受け入れました。
2. 清水さんとは30数年前に青年海外協力隊員としてモロッコで知り合いました。私は、モロッコから帰国して、信仰がリバイバルされ、神様に導かれたのが、「貧しい子どもたちのために働く」ということでした。
3. そして、ワールド・ビジョンというクリスチャンの海外支援団体に入りました。その後25年間開発途上国の子どもたち、難民の子どもたち、ストリートチルドレン、障害児などの支援に携わりました。
4. 10年ほど前から日本の児童虐待の問題に心を動かされてゆき、物質的には途上国より満たされていても親の愛をしらない、心の貧しい日本の子どもたちへの思いが強くなりました。そして5年前にワールド・ビジョンを退職し、叔父叔母が創設した児童養護施設さんあいに園長として奉仕することになりました。
5. 全国には約600か所の児童養護施設虐待があり、約25000人の2歳から18歳までの家庭環境に恵まれない子どもたちが生活しています。家庭環境と言っても様々ですが、主に親に虐待を受けた子どもたちです。
6. 児童養護施設で生活する子は自分を愛することが苦手です。それは赤ちゃんの時から、親に愛情を注がれてこなかったことで、「自分は要らない存在」、「価値のない人間」ということが、深層心理にみついてしまっています。
7. ですから、子どもたちに「イエス様はあなたたちを愛していますよ」と言っても簡単には通じません。彼らにイエス様の愛を示すのには、彼ら自身が愛されるのに値する人間だと心から思えることから始めなければなりません。実はこれは大変なプロセスです。親の愛を体験していない子に愛を教える。これには、聴力を持たない人に音楽は素晴らしいさを教えるくらい難しいことです。
8. 具体的にさんあいで行われていることは、子どもたちの毎日の生活を支えることです。暖かいお料理を用意し、楽しく食事をする。お風呂に毎日入れてあげる。爪が伸びたら切ってあげる。寝る前に本を読んであげる。このような当たり前の生活の中で自分は大切にされていることを感じてもらうことが愛を知る第一歩となります。さんあいでは、「愛する」とは「大切にする」と訳しています。子どもたちを大切にする。食事を大切にする。健康管理を大切にする。勉強を大切にする。決していい加減な対応はしません。その中でイエス様の愛をしることの基礎を築こうと思っています。
9. 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所にきなさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」とイエス様は招いて下さっています。重荷を負っていない人間はひとりもいません。私自身も重荷を負っています。でも私より何倍もの重荷を小さな肩に負っているさんあいの子どもたちの手をとってイエス様のもとに行き、一緒に重荷を軽くして頂きたいを願っています。
10. 本日はペンテコステ礼拝です。私は昨年がんを患いました。辛かったこともありましたが、今振り返ると自分にとってはペンテコステの体験のようでした。弟子たちが力を得たように、がんを通して子どもたちのために内なる者が強められたと感じています。すべて神様に感謝です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-20 19:51:39 (59 ヒット)

1.復活と体のよみがえり

・今日、私たちは召天者を覚えて記念礼拝を行います。篠崎キリスト教会関係では、12名の方が対象になります。教会暦では11月1日が「諸聖人の日」、11月2日が「死者の日」とされています。教会暦の伝統ではこの日はお墓参りの日です。そのため、キリスト教会の多くが、11月第一主日に、「死者を覚える」礼拝を持ちます。仏教では死者の冥福を祈って「御経」を読みますが、キリスト教会では死者のために祈ることはしません。何故ならば死者は神の元に安らかに眠っていると理解するからです。そのため教会では、「死者の日」には家族の方に集まっていただき、故人を偲ぶと共に、「死とは何か」を聖書から聞いていきます。「残された者が良き死を迎えることが出来るように」との願いがそこにあります。そのためのテキストとして、今日は、使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の15章を読みます。この箇所には、「人間の死をどのように考えるか」が、中心的に記されているからです。
・パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。キリストの復活はキリスト教信仰の中心です。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方、すなわち人の肉体は滅びるが、霊魂は不滅であり、彼岸でさらに生き続けると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。それが15:3以下にあります信仰告白です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。キリストと呼ばれたイエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだキリストが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その復活の視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはローマ人への手紙の中で書きます「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロ−マ8:11)。パウロはコリントの人々にあなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は決定的な言葉を語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。また十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の背後にある「復活のイエスとの出会い」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの異常な心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、だから私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。

2.私たちは死んだらどうなるのか

・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、その生涯で3千人の方の死を見守りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問に対して何も答えられませんでした。誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きている」、いつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。つまり、それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・パウロがコリント書で語っているのも同じ意味ではないかと思えます。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(15:21-22)。アダムは創世記に出てくる最初の人間で、肉の人間を象徴しています。創世記の中で、神はアダムに、「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)と語ります。全ての人間は死という限界の下に生まれ、死ねば体は分解されて「ちり」に戻ります。しかし、キリストの復活によって全ては変わった。「最初の人アダム(肉の人間)は命のある生き物となったが、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」(15:45)。
・パウロは死者の復活を種の喩えで説明します「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(15:37-38)。植物の種は何もしなければ種のままに朽ち果てていきます。しかし地に蒔けば、やがて芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせます。種は一度土の中で死に、分解される(死ぬ)ことを通して、新しい体を形成していきます。しかし、最初の形(種)と次の形(花を咲かせる植物)は同じ存在です。人間でも同じように種(肉体)が死ぬ事を通して、植物(霊の体)が生まれていくとパウロは語ります「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(15:42-44a)。パウロが語るのは死んだ体の復元ではありません。死ぬ事によって新しい体が与えられる、それがパウロの語る復活です。そしてこれを信じる時、人は「死を新しい世界への出発だ」と認識できます。

3.復活信仰と日々の生活

・今日の招詞にコリント15:54を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。人間は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。これが聖書の知恵であり、私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。
・同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。しかし、パウロの語る「朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」ことには根拠があります。すなわち「キリストが復活され、彼は眠りについた人たちの初穂となられた」(15:20)からです。そしてキリストの復活は「ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ・・・最後にパウロにも現れました」(15:5-8)。つまり、多くの目撃証言に支えられている出来事なのです。
・柏木哲夫さんの言葉を再度振り返りましょう「人は死を背負って生きている」、「人は生きてきたように死ぬ」、そして「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来る」。柏木さんの言葉は経験的真実です。そして「キリストは眠りについた人たちの初穂となられた」というパウロの証言は目撃証言的真実です。キリスト者はこの経験的真実と目撃証言的真実を基礎に、復活の希望を持つのです。復活の希望を持つ故に、死を受け入れることが出来ます。死を受け入れることの出来ない人は語ります「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32b)。そこには刹那的な生き方しか生まれません。しかし死を受け入れることの出来た人は語ります「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(15:54b-55)。キリスト教信仰は「死への恐怖」から人を解放します。この解放にみなさんも招かれています。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-13 21:25:19 (93 ヒット)

1.異言と預言は何が違うのか

・コリント書を読み続けています。先週、私たちはコリント13章「愛の讃歌」を読みました。そこにありましたのは、「愛の賞賛」ではなく、教会内の「愛の欠如」についての使徒の警告でした。「愛とは自分の救いを求めることではなく、隣人と共に生きるための配慮であることをあなた方はわかっていない」とパウロは語っています。14章に入りますと、その隣人への配慮の無さが、「異言を語る」ことへの関連で取り上げられています。異言、グラソリア、舌(グロッサ)から生まれた言葉、自己陶酔の中で発せられる言葉や叫びを指します。ギリシア世界では「密儀宗教」(ミステリア)が盛んで、神との交わりの中に神秘体験を求め、霊的興奮状態の中での叫びや声を、聖霊を受けたしるしとして誇り、その神秘体験をしていない人々を「聖霊を受けていない者」として侮蔑する傾向がありました。パウロはそれを聞いて怒り、「異言」の問題をここで取り上げています。
・異言は、今日でもペンテコステ派(聖霊降臨派)と呼ばれる教派では、信仰体験の極致として大事にされています。使徒言行録2章には、ペンテコステの日にイエスの弟子たちが、聖霊を受けて異言を語り始め、その異言を聞いて3千人が信仰に入ったと記されています(使徒2:41)。ペンテコステ派の人々は現代でも聖霊降臨のしるしとして異言が降り、病気治しの奇跡が起きると語ります。彼らは異言を賜物(カリスマ)として受け入れますので、「カリスマ派」とも呼ばれ、霊的興奮によるエクスタシーのために礼拝中に失神する人が出るほどです。
・パウロ自身も霊的体験である異言を賜物として受け入れています。パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(14:18)とさえ述べています。しかし彼はそれ以上に、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(14:1)と語ります。預言とは今日でいう説教、御言葉の解き明かしのことです。預言もまた賜物であり、それは異言よりも大事であるとパウロは語ります。何故ならば、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げる」(14:2-4)からです。
・異言、霊によって高められる心は大事です。知識は人を信仰に導きますが、人の信仰を養うものは霊です。信仰は永遠なる方とのつながりの中に形成されます。そこには現実的な事柄と、現実を超えた超自然的な事柄の双方が含まれています。「隣人を愛せ」とは現実的な教えですが、その理由として「隣人もまた神の子である」との理解は、神を信じない人には不思議な言葉になるでしょう。私たちは人間の現実を超えた「贖罪(キリストの十字架の死による救済)」や「復活(キリストの復活の命にあずかる)」を信じています。その信仰は理性で信じるというよりは、霊的にしか理解できない事柄です。ですからパウロは聖霊の賜物である異言を軽んじません。しかし、異言は個人の霊性を高めても、教会を創り上げる徳ではないと語ります「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(14:5)。

2.霊と理性、それぞれの役割

・聖霊を受けるとは個人体験であり、他人の入れない世界です。だからパウロは「異言は個人の霊性を高めるが、教会の徳を高めない」と語ります。異言は外から見れば何を語っているかがわからないからです。6節以降にパウロはそのことを説明します「だから兄弟たち、私があなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(14:6-8)。そして語ります「同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう・・・だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人であることになります」(14:9-11)。
・「外国人=バルバロス」とは理解できない言葉を話す人々です。ラテン語でミサが行われても意味が理解出来なければ誰も「アーメン」とはいえないように、わからない言葉で語られても、その言葉は教会を形成しません。だからパウロは語ります「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(14:12-13)。パウロは「私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(14:19)と語ります。しかし理性だけでは教会形成には不十分です。パウロは語ります「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(14:15)。

3.霊で祈り、理性でも祈る

・今日の招詞に1コリント14:39-40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」。パウロは教会の中では「異言よりも預言を求めなさい」と語りました。異言は本人にしかわからないからです。彼は語ります「仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」(14:16-17)。造り上げる=オイコドメオーという言葉が14章に5回も用いられています(14:3,14:4,14:5,14:12,14:16)。パウロの判断の基準は、それが「教会を造り上げるか否か」です。
・教会を造り上げるものは、だれでもが理解出来る言葉です。理解できる言葉が語られた時、そこに神の業が働きます。パウロは「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(14:24-25)と語ります。福音の言葉は人に自分の罪を悟らせ、悔い改めに招き、そして神を賛美させます。それこそ私たちが教会に集い、礼拝を持つ理由です。
・しかしパウロは同時に「異言を語ることを禁じてはなりません」とも語ります。霊的な養いもまた教会は必要としているからです。先週の11月12日から14日にかけて、バプテスト連盟年次総会が天城山荘でありました。出席して改めて知らされたのは、日本国内の教会の疲弊です。連盟内には284の教会、41の伝道所、計325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所は26もあります。またこの1年で閉鎖に追い込まれた伝道所が7箇所もあります。地方教会の衰退の原因はいろいろあるでしょうが、その一つは教会の霊的力の低下ではないかと思えます。地方教会でも元気な教会はあり、一概に地方だからというのが教会衰退の理由ではないと思えるからです。では教会の霊的力を強めるにはどうしたら良いのか。パウロが語る「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」という言葉にヒントがあるような気がします。「韓国の教会は祈る教会、 台湾の教会は歌う教会であるが、日本の教会は議論する教会である」と言われます。日本の教会は神学研究には熱心であるが、祈りと賛美に欠けているために成長しない。私自身、聖書学を大学院で学び直してみて、「その通りだ」と思います。理性は人を信仰理解に導きますが、信仰を養う事はできないのです。
・韓国教会の多くは早天祈祷会を持っています。毎朝5時ないし6時に教会に集まって短い礼拝を持ち、各人が祈った後散会し、そのまま仕事に行くという形です。韓国のキリスト教徒の割合は国民の25%に上りますが、この韓国教会の成長を支えたのは、早天祈祷会だと言われています。日本でも早天祈祷やアシュラム(黙想会)を行う教会は多くの会衆を集めています。榎本保郎「聖書1日1章」は今治教会での早天祈祷会奨励を集めたものです。毎朝集まって祈る教会生活は、週1回の主日礼拝にしか集まらない教会よりも力を持つのは事実です。しかし現代の日本でそれを行うのは現実的ではありません。それを補うのが、家庭でなされる毎朝のデボーションであり、当教会でもこのような霊的養いの必要性を強く感じています。「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」、そのような教会形成をするために何をすればよいのか、これから執事会や教会総会の場で皆さんと話し合って行きたいと思います。今日の応答賛美を515番「静けき河の岸辺に」へと変えさせていただきました。説教箇所の変更に伴うものですが、この歌は海難事故で家族を亡くしたスパフォードという男性の書いた賛美歌です(原題「It Is Well with My Soul」)。人生の不条理の中で祈り続けた時、神の声が聞こえてきた、それを歌にしたものです。このような祈り、「霊で祈り、理性でも祈る」が求められていると思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-06 19:19:40 (99 ヒット)

1.コリント教会の実情と愛の賛歌

・今日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は「愛の賛歌」として有名で、結婚式等でよく読まれる箇所です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってきます。しかし、このコリント13章に何故突然に愛の讃歌が出てくるかを私たちは知る必要があります。それは愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったからです。コリントの教会の中には、「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがありました。「父の妻を自分の妻にしている」人のことが出てきます。今日で言うセクハラ、倫理の乱れがあったのです。教会内に財産をめぐる争いもありました。また結婚を肉の業として卑しむ風潮もありました。直前の12章では、異言を語る人々が自分たちは聖霊を受けているが、あなた方はそうではないと見下す傾向があったことが伺えます。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱えていました。そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送っているのです。
・今日、私たちは愛の賛歌を12章27節からの区切りで読みます。そのことによって、パウロのいう愛とは何かがより鮮明に浮かび上がって来ます。12章でパウロは「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」と述べます。教会の中で、人はいろいろな役割を持ちます。主の復活の証人である使徒、その使徒から教育されて説教する預言者、子供や新来者を教える教師、彼らは教会を指導する役割を持ちます。賜物を持って教会に仕える人々のことが出てきます。奇跡や病気を癒す賜物を与えられている人、困った人を援助する人、会計や管理的な事柄に責任を持つ人、異言を語る人もいます。さまざまな人々の奉仕によって、教会活動は多様に、豊かになります。しかし、ここで人間の罪の問題が出てきます。指導者たちは「自分たちこそ教会の頭脳であり、単なる手足ではない」と威張り始めます。奉仕者も「私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしないではないか」と言い始めています。賜物が人を攻撃し、貶める方向に向かい始めています。だからパウロは語ります「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(12:31)。私たちにもっとも必要な賜物とは何か、それはお互いが仕え合うことを可能にする賜物、愛です。ですから、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この愛が無ければ全ての行為は空しいとパウロは語ります。それが13章の愛の賛歌なのです。

2.愛が無ければ全ては空しい

・コリントの人々は各々の賜物(カリスマ)を誇り、神秘体験を自慢し、自己犠牲を賞賛しました。しかし、パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。どらやシンバルは人を陶酔に導くための道具として用いられます。単調なリズムを繰り返し、繰り返し、聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではありません。パウロは続けます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。教会で熱心な証しがされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しい。たとえ牧師が熱情あふれる説教を行って会衆が涙を流しても、その場限りの感動に終わるとしたら、それも虚しい。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(13:3)。愛が無ければ、全ての行為は無益だと彼は言います。
・そしていよいよ13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない・・・」。ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「ねたまない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのでしょうか。コリントの人々は「ねたみ、高ぶり、いらだつ」存在だったのです。だから、「ねたみをやめなさい」、「高ぶることをやめなさい」、「いらだつことはやめなさい」とパウロは語るのです。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではありません。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭である本田哲郎氏はそれを次のように説明します「人の関わりをささえるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人等への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛です。夫婦が愛し合い、友を大切にすることはとても大事な愛です。しかし、それらは感情的な愛であり、その基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要です。

3.教会の基盤としての愛

・今日の招詞として汽灰螢鵐10:23-24を選びました。次のような言葉です。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。コリント教会の人々は語りました「私は自由だ、何者にも束縛されない、すべてのことは許されている」と。しかし、パウロはキリスト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言います。何故ならば、主があなたのために死んで下さったからあなたは自由になった、それは購いとられた自由、責任を持つ自由だからです。「すべてのことが益になるわけではない」、愛は自己ではなく、他者の利益を求めます。
・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではありません。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。しかし、神はそのあなたを子として下さった。その時、教会の兄弟姉妹も同じ子として、あなたの兄弟姉妹になるではないか。それなのに、何故兄弟姉妹が困惑するような自分勝手の行動が出てくるのかとパウロは問いかけています。私たちは愛をLoveと呼ぶことを止めなければいけません。愛は感情ではないのです。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉はRespect、尊ぶ、大切にする心です。
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師でしたが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で行われた説教です。キングは言います「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけました。
・「愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力だ」、キングは歴史を導く神の力を信じました。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねました。人間の愛は、「隣人を愛し、敵を憎む」愛です。しかし、キングはそれを超える神の愛、アガペーを私たちの人間関係にも適用すべきだと言います。「天の父の子となるため」です。キングの言うように、私たちには敵を好きになることはできません。「好き」は感情であり、私たちは感情を支配することはできないからです。しかし、アガペーは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできない。何故ならば、神の赦しを乞い求めながら、他方で兄弟の赦しを拒むことはできないからです。この時、私たちは「神の子」となります。
・最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」、しかし「愛は決して滅びない」(13:8)。神の国が来る時、神は私たちと共にいます。もう預言を通して神を知る必要はありません。また異言を通して神の声を聴く必要もありません。神が直接語られるのですから。神についての知識を教えてもらうこともありません。今目の前におられるのですから。しかし、その終末の時にも「愛だけは残る」。何故ならば神は愛そのものであるからです。教会とはその終末を先取りする共同体です。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体であります。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのです。ですから、教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能なのだとパウロは私たちに呼びかけています。私たちは自分の救いを求めて教会に来るのではありません、私たちはもう救われているからです。私たちが教会で求めるべきは他者の救い、隣人の喜びなのです。その隣人との間を規定する言葉こそ愛なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-29 21:25:08 (74 ヒット)

1.コリント教会での間違った主の晩餐式

・コリント書を読み進めています。今日は11章を読んでいきますが、ここにあるのはコリント教会の分派騒動が、教会の礼拝の中核である「主の晩餐式」にまで悪影響を及ぼしている事実です。コリント教会には多くの異なった経歴の人々がいたと推測されます。教会の中にはギリシア人もユダヤ人やローマ人もいたと思われます。また豊かな人も貧しい人もいたし、自由人の他に奴隷の人もいたものと思われます(1:26)。出身も経歴も習慣も異なる多様な人々が、一つの家に集まり、共同の礼拝を持っていたのです。家の教会ですから、集会の人数は多くても50人くらいだったと思われます。
・多様な50人が集まれば、そこにはおのずからグループが出来ます。ギリシア人はギリシア人で集まり、ユダヤ人はユダヤ人同士、自由人も奴隷もそれぞれグループに分かれていたことでしょう。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はペテロに」という分派が生じます。パウロもある程度の仲間割れは仕方がないと考えています「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。私もある程度そういうことがあろうかと思います」(11:18)。しかし、仲間割れが主の晩餐の席上で起こったならば、それは教会ではないとパウロは語ります「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」(11:19−20)。
・具体的に何が起きていたのでしょうか。信徒の多くは奴隷や貧しい人々であり、彼らは日曜日も働かなければなりません。従って、主日礼拝は朝ではなく、みんなが集まることの出来る夕方から持たれ、その中心は各人が食料を持って来て分け合う、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事でした。金持ちの人々は夕刻にはそれぞれの食べ物をもって家の客間に集まり、主人が祈りと感謝を捧げて、パンを裂き、ぶどう酒を分けて飲食しました。日が暮れると、貧しい人々が一日の労働を終え、おなかを空かして礼拝に来ました。しかし、その時にはパンはほとんど残っておらず、先に来た人たちはぶどう酒の酔いで顔を赤くしているという状況でした。当時の貧しい人々の日常の食事は「パンと水」だけで、肉や魚をいただく食事は主の晩餐式だけだったと思われます。ところが仕事を終えて来たら、もう食事は残っていない。それが1回だけでなく、恒常的にそうであった。
・そのことをパウロは伝え聞き、怒ります「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(11: 21)。何故自分たちだけで先に食べて、貧しい人々を除外するようなことを平気で行うのか、それが主の晩餐としてふさわしいのかとパウロは叱責します。パウロは本気で怒っています。その言葉が22節以下にあります「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」(11:22)。

2.主の晩餐式とは何か

・パウロはコリントの人々に、そもそも「主の晩餐式とは何か」を23節以下で力説します「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(11:23-25)。パウロがここで語るのはパウロ自身もエルサレム教会から伝承した式文で、晩餐式の起源は主イエスが弟子たちと共に取られた最後の晩餐にあるというものです。
・最後の晩餐についての伝承がマルコ福音書にもあります。それによれば「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(マルコ14:22-24)。イエスはご自分の最後の時が来たことを悟り、これまで労苦を共にしてきた弟子たちにお別れの挨拶をされました。「私はやがて殺されるだろうが、私の流す血、私の裂く体は決して無駄にならない。そのことを覚えておいてほしい」と。そして最後に言われます「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。「私は死ぬが神の国はまもなく来る。その時また一緒に祝宴を開いてぶどう酒を共に飲もう」として、イエスはお別れをされたのです。
・弟子たちも決意を新たにしますが、いざイエスが捕らえられ、十字架で処刑される時には、恐怖にかられて逃亡します。しかし逃げ出した弟子たちに復活のイエスが現れ、弟子たちは再び集められ、イエスが復活された日曜日を「主の日」として礼拝を持ちます。その礼拝の中核になったのが、イエスの死を想起する「主の晩餐式」でした。だからパウロは語ります「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。主が再び来られれば、もはやパンと盃を持って主を想起する必要はありません。主の晩餐式は「イエスが私たちのために死んで下さった」という過去の出来事を記念すると同時に、「イエスが再び来て下さる。その時、神の国が来る」という将来の希望をも意味している行為なのです。そのイエスの死を想起する「主の晩餐式」で、ある者たちは勝手に食べ、別の者たちは食べることも出来ない、それでは「主の晩餐式」は成立しないとパウロは憤慨しているのです。

3.一つのパンが教会を一つにする

・今日の招詞に1コリント10:17を選びました。次のような言葉です「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。コリント教会では金持ちだけ集まって先に主の晩餐をいただき、貧しい人々は食事に与れないという事態が生じていました。彼らは「主の晩餐」の基本理解が出来ていませんでした。ですからパウロは言います「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(11:27-28)。パウロが述べる「ふさわしくないままに」とは、貧しい者を食卓から排除しながら「主の晩餐」にあずかることは間違っているという意味です。ですからパウロは、そのような事態を避けるために「食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい」(11:33)と勧告し、それでも空腹に耐えられないようであれば「家で食事を済ませなさい」(11:34)と語ります。
・コリント教会では、持っているものを分かち合えない故に、それは「主の出来事ではない」と批判されました。同じような出来事が今日でも起きています。2014年8月14日AFP通信によれば、「西アフリカ・リベリアのバラジャ村に住むファトゥ(12)さん一家で父親(51)がエボラ出血熱で死に、娘のファトゥさんと母親(43)もエボラを発症した。父親の遺体を収容した保健当局は、村人たちにファトゥさん一家には近づかないよう警告し、2人は朝から晩まで隣人に食べ物を求める叫び声を上げていたが、食べ物は与えられず、母親は8月10日に死亡、ファトゥさんも2日後に水も食料もないまま孤独な死を迎えた」と報告しています。他方、同国で診療にあたっていたアメリカ人医師と看護婦も感染し、救難援助でアメリカ本国に搬送され、入院して、今は快方に向かっているそうです。リベリア人は見捨てられ、アメリカ人には救いが与えられました。これはおそらくはやむを得ない出来事でしょう。しかし神の目から見れば、これはコリント教会で起きていたことと同じ意味合いを持ちます。パウロは「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」(11:29-30)と述べています。暴飲暴食のためにコリントの豊かな人々が病気になり、死ぬという事柄が起きていたのかもしれません。
・多くの教会ではこの「ふさわしくないままで」という言葉を、「洗礼を受けることなしに」と読み替えてきました。しかしパウロはコリント11章で、「洗礼が主の晩餐にあずかる要件だ」とは一言も述べていません。「主の晩餐」にあずかるにふさわしいか否かは、どこまでも各人の信仰的な反省に委ねるべき事柄であります。何故ならば、主の晩餐式は「教会を一つにする」ために行われるものであり、「教会の分裂を招く」ためではないからです。「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
・コリント11章で明らかなように、初代教会において「主の晩餐式」は共同の食事の中で祝われていました。それは愛餐(アガペー)と呼ばれています。食事の交わり、分かち合いこそ、イエスが最も大事にされていたものです。イエスは徴税人や罪人といわれる人々と共に食卓につき、そのために「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」と批判されました(ルカ7:34)。しかしイエスは人々との食卓の交わりを続けられました。「共に食べる」ことこそ、神の国の分かち合いとして大事にされていたからです。主の晩餐式が愛餐(アガペー)であれば、そこにおける参加者の割礼あるいは洗礼の有無は無関係です。しかし2世紀以降教会制度が確立してきますと、主の晩餐式は礼拝の中で行われる秘蹟(サクラメント)となり、信徒のみ(洗礼者のみ)に限定されるようになります。私たちは主の晩餐式を本来の姿「愛餐」に戻す必要があります。だから私たちの教会では洗礼を受けていなくとも、「イエスを主と信じる」決断をされた方は、共に晩餐にあずかるように招きます。それを通して「一つの体」になるためです。「皆が一つのパンを分けて食べる」、そこに教会の交わり(コイノニア)の原点があります。


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