すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-15 21:27:34 (52 ヒット)

1.ロトへの警告(1-14節)

・主の御使いは夕刻にソドムに着き、ロトの家に招かれる。ロトはソドムで結婚し、二人の娘を得ていた。
−創世記19:1-3「二人の御使いが夕方ソドムに着いた時、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った『皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください』。彼らは言った『いや、結構です。私たちはこの広場で夜を過ごします』。しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした」。
・そこにソドムの男たちが押しかけ、二人の旅人を出せと求める。
―創世記19:4-5「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから』」。
・ロトは抵抗するが、町の人々は有無を言わせず、押し入ろうとする。ロトは代わりに二人の娘を提供するというが人々は目もくれない。ロトの申し出は現代の私たちには論外であるが、客人を守るために娘を提供することは当時の人々には当然の論理だったのだろう。
−創世記19:6-9「ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った『どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから』。男たちは口々に言った『そこをどけ』。『こいつは、よそ者のくせに、指図などして』。『さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる』。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」。
・ソドムの罪の一つは男色(ソドミー)であったと言われる。男色は旧約聖書では死罪に当たる罪である。
―レビ記18:22-25「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前から私が追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである』」。
・預言者は、ソドムが自分たちの利益のみ求め、他者を顧みなかったことを滅びの原因と見る。
―エゼキエル16:49-50「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、私の目の前で忌まわしいことを行った。そのために、私が彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見た通りである」。
・イエスもソドムの罪を、隣人を迎え入れなかったことにあると見ておられる。
−マタイ10:14-15「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。

2.ソドムの滅亡とロトの救済

・御使いたちは今から裁きが始まるゆえに、「家族を連れて逃れよ」とロトに命じる。
−創世記19:10-13「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。二人はロトに言った『ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。私たちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、私たちを遣わされたのです』」。
・ロトは娘婿に共に逃げるように伝えるが彼らは嘲笑して従わない。結局、妻と二人の娘を連れて逃れる。
−創世記19:15-17「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った『さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまう』。しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。主の彼に対する憐れみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、その一人は言った「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう』」。
・日の出と共に裁きが始まった。具体的には地震によると思われる地下の硫黄の噴出が町を焼き尽くした。
―申命記29:23「全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、昔、主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである」。
・主はロトの一族を救済しようとするが、妻は逃げ遅れて死ぬ。
−創世記19:23-24「太陽が地上に昇った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」。
・死海周辺は天然アスファルトや硫黄のような可燃性鉱物に満ちていた。おそらくは地震等の地殻変動により、それらの鉱物が発火・爆発して周囲の町々を飲み込んでしまったのであろう。それは自然現象である。その自然現象の背後に創世記は神の裁きを見る。3.11の地震・大津波もまた自然現象である。私たちは3.11の背後に「見えざる神の手」を見るべきなのだろうか。また現代の人間は地球を何度も破壊できるだけの核兵器を所有している。それは硫黄とアスファルトに隣接して住んでいたソドムの危険性と同じなのではないか。さらに人間は原子力発電所を作り、電気を得ているが、一たび苛酷事故が起きればその地域は廃墟になってしまう。神は福島原発事故を通して私たちに警告を発しておられるのだろうか。ソドム滅亡の物語から現代の私たちに何を覚えるべきなのだろうか。

3.ロトと娘たちへの守り

・結婚相手を失った娘たちは、ロトによって子を生む。
―創世記19:30-31「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ・・・彼は洞穴に二人の娘と住んだ。姉は妹に言った『父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、私たちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう』。娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった・・・娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(私の肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である」。
・これはふしだらな行為なのであろうか。創世記記者はこの出来事を批判しない。このような形であれ、子孫を継続することは神の祝福と彼らは理解している。
−創世記1:28「神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。
・このようにして生まれてきた子供たち(モアブとアンモン)も、主の保護下にある。彼らもまたアブラハムの一族なのである。
―申命記2:9-19「主は私に言われた『モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた』。・・・主は私に仰せになった『あなたは、今日、モアブ領アルを通り、アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた』」。
・ロトはアブラハムのゆえに神に思い起こされて助けられた。一人の正しさは世を救う。キリスト者の地の塩としての存在意味もそこにあるのではないか。
−創世記19:29「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-08 16:39:04 (59 ヒット)

1.イサク誕生の予告

・三人の旅人がアブラハムの天幕を訪れ、アブラハムはこれを歓待する。過酷な砂漠にすむ遊牧民には、旅人をもてなすのは当然の慣習だった。アブラハムは旅人たちが主の使いであることには気づいていない。
−創世記18:1-5「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』。その人たちは言った『では、お言葉どおりにしましょう』」。
・アブラハムは三人にパンを提供し、子牛の料理を用意してもてなした。
−創世記18:6-8「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい』。アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」。
・やがて「サラに子供が生まれる」との予告がなされ、その時アブラハムは彼らが主の使いであることがわかった。
―創世記18:9-10「彼らはアブラハムに尋ねた『あなたの妻のサラはどこにいますか』。『はい、天幕の中におります』とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った『私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう』。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。
・サラはこの予告を聞いて冷笑する。彼女は生理もとっくの昔に終わり、今更アブラハムと性的交わりをする年齢ではない。その自分に子が与えられるはずがない。笑うしかないではないか。
―創世記18:10-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・主の使いは冷笑するサラを叱咤する「主に不可能なことがあろうか」と。サラは思わず「笑っていません」と弁解する。
―創世記18:13-15「主はアブラハムに言われた『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている』。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った『私は笑いませんでした』。主は言われた『いや、あなたは確かに笑った』」。
・ヘブル書の著者は、このときサラは「不可能を可能にする主を信じた」と記述するが正しくない。サラは信じなかったし、アブラハムも信じなかった。「不可能を可能にする」主を信じるためには、私たちはその事実を直接見る必要がある。そして神は私たちに見せて下さる。信仰はそこから始まる。
―ヘブル11:11「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」

2.ソドム滅亡の予告

・その後、主のみ使いは、「ソドムとゴモラをその罪のゆえに滅ぼす」予定であることをアブラハムに告げる。
―創世記18:16-21「その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた『私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである』。主は言われた『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」。
・ソドムとゴモラをその罪のゆえに滅ぼすとの主の言葉は、洪水物語と同じ類の言葉である。洪水物語では「人間の悪を許容する」と言われた主が、何故ここでは滅ぼすと言われるのか。アブラハムは抗議する。
―創世記18:22-25「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」。
・アブラハムがソドムの運命に関心を持つのは、一つはソドムに甥のロトが住んでいた故であろう。しかしそれ以上に、アブラハムは「悪人がその悪ゆえに滅ぼされることを願わず、正しい者の存在ゆえに赦されることを願う』気持ちがあったからであろう。正義とは「人の罪の赦しを神に執り成し、祈る」ことだとある注解者は記した。アブラハムは必死に執り成す。
−創世記18:27-31「アブラハムは答えた『塵あくたにすぎない私ですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか』。主は言われた『もし、四十五人いれば滅ぼさない』。アブラハムは重ねて言った『もしかすると、四十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その四十人のために私はそれをしない』。アブラハムは言った『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません』。主は言われた『もし三十人いるなら私はそれをしない』。アブラハムは言った『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その二十人のために私は滅ぼさない』」。
・アブラハムはソドムの町に10人の正しい人がいれば滅ぼさないとの主の確約を取るが、そこで止める。正しい者が一人もいないであろうことを知ったからである。
−創世記18:32-33「アブラハムは言った『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その十人のために私は滅ぼさない』。主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」。
・後の時代に主はエレミヤに言われた「エルサレムの町に正しい者が一人でもいれば私は滅ぼさない」(エレミヤ5:1)。「正しい者が一人でもいれば滅ぼさない」、それが神の宣言である。しかし、自分は正しいと言う者はいても、神の眼から見て正しい者は誰もいない。パウロの語る通りである。
−ローマ3:9-12「では、どうなのか。私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。
・ソドムのある死海地域は海抜マイナス418mと地表で最も低い場所で、アスファルトや硫黄等の可燃性鉱物が大量に地下に埋蔵されている。また東アフリカからトルコにかけての大地溝帯に位置している。ソドムの滅亡は地震等により地下の鉱物や気体が発火し、爆発と大火災を起こして、町々が埋没し、遺跡は死海の下に眠ると推測されている。町々の滅亡があまりにも劇的であり、人々は町々が「神の裁きにより滅ぼされた」と理解し、それが伝承となり、滅亡物語を生んだと思われる。
・ソドム滅亡の話はイエスの説話の中にも現れる。「私たちもまたソドムの住民であり、滅ぼされても仕方のない存在であるのに、神の憐れみにより生存が赦されている」ことを知れと、イエスは言われている。
−マタイ11:23-24「カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-01 20:53:36 (67 ヒット)

1.アブラハムの召命

・創世記1−11章は原初史だが、それは「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史である。「人は神に背き、離反したが、神は人を見捨てられない。神は新しい救いの業として、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通してすべての人を救うことを計画された。それがアブラハムの召命に始まった」と創世記著者は告白する。アブラハムは主の召命を受けて、どこに行くのかも問い返さず、それに従った。
−創世記12:1-4「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。
・アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民だった。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住している(創世記11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地であり、そこでは月神が礼拝されていた。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住し、テラはそこで死ぬ。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがあった。
−創世記12:4「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」。

2.アブラハムの旅立ち

・アブラハムは信仰の決断をした。ヘブル書はアブラハムの信仰をたたえる。
−ヘブル 11:8-10「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。
・アブラハムは約束の地に到着し、「あなたの子孫にこの土地を与える」との約束を受ける。そこには先住民族が住んでいたが、アブラハムはこの約束を信じ、祭壇を築いて主を拝した。
−創世記12:5-7「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」。
・シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理だった。彼はシケムを離れてベテルに南下する。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからだ。
−創世記12:8「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」。
・しかし、ベテルにも居場所はなかった。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかった。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移す。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めている。
−創世記12:9「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」。

3.アブラハムの罪とその赦し

・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉だった。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができない。アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下りる。
−創世記12:10「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」。
・これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝している。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はない。おそらくはアブラハムは一族と家畜を守るために、自分の判断でエジプト行きを決めた。この時、アブラハムの中で何かが崩れた。彼はもはや神に頼れないと思い始めている。神の庇護を信じられない者は他者を恐れる。アブラハムは妻サラが際立って美貌であることが気になる。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険だ。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからだ。そのためアブラハムは妻サラを妹と偽ってエジプトに下る。
−創世記12:11-13「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」。
・アブラハムの懸念は現実となった。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れ、アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になる。信仰の父と言われる人が、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになった。アブラハムは妻をエジプト王の側室に売って、身の安全と繁栄を図ろうとした。
−創世記12:14-16「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」。
・しかし、主はサラを救出される「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知り、彼に問いかける「あなたは私に何ということをしたのか」。
−創世記12:17-20「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った「あなたは私に何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、私の妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい』。ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」。
・「あなたは私に何ということをしたのか」、ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」は創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われた(4:10)のと同じ言葉だ。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われた。
・13章は帰国後のアブラハムを描く。アブラハムはエジプトからカナンに戻ると、最初に主を礼拝した。アブラハムは主を信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきた。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることだった。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まった。
−創世記13:3-4「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。
・創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語だが、12章後半は罪人アブラハムの物語だ。そしてそのどちらもがアブラハムなのだ。人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在だ。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されたが、主は二人に革の衣を与えて保護された(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られた(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られた(13:2)。私たちも罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていく。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのではないだろうか。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-24 17:41:13 (77 ヒット)

1.信仰の決断をしたアブラハム

・私たちは創世記を学んでいます。これまで創世記1−11章を学んできましたが、この原初史が記すのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。今日は、創世記12章を通して、アブラハムへの召命が、私たちの人生とどのような関わりを持つのかを学んでいきます。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(創世記11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていたのです。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)。「私があなたを養ってその子孫を増やす。約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われたのです。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は神に一言も問い返すことなく、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルはその約束の地に到達せず、ユダ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、さらにはイスラム教においても、「信仰の父」と呼ばれるのです。
・アブラハムは信仰の決断をしました。ヘブル書はアブラハムの信仰をたたえます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」(ヘブル 11:8-10)。

2.信仰が揺らいだアブラハム

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました。創世記は記します「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。創世記は記します「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。
・今日私たちが聖書教育を通して示されているのは、創世記12:1-7ですが、もう少し先まで読んでいきます。何故なら創世記12章は7節では完結していないからです。さて、約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。創世記は記します「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや神に頼れないと思い始めているのです。
・神の庇護を信じられない者は他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。事実、妻サラはアブラハムの異母姉妹です(創世記20:12、古代において異母兄弟姉妹間の結婚は珍しくなかった)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。信仰の父と言われる人が、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じで す。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻をエジプト王の側室に売って、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。
・しかし、主はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知り、彼に問いかけます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。この言葉はヘブル語では「マー・ゾート・アッシータ」と表現されます。創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われました(4:10)。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われたのです。信仰の人、アブラハムは恥じて下を向いたことでしょう。しかし主はそのようなアブラハムを見捨てず、彼との約束を守られます。創世記は記します「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」(12:20)。アブラハムは与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。

3.罪人を用いられる神

・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。新共同訳は「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と訳しますが、口語訳では「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。アブラハムはエジプトからカナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。アブラハムは主を信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきた。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、主はそのような罪人を用いて御業を行われるのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約を通じた福音です。
・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼びます。その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。創世記12章は7節までではなく、20節まで読まないと、本当のメッセージは生まれないのです。
・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-17 19:23:45 (102 ヒット)

1.弱さの中に恵みが

・第二コリント書を読み続けています。さて、この手紙を読み進みながら、明らかになったのは、パウロがコリント教会の離反に苦しみ、何とかしてコリントの人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙が書かれているという事実です。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから本当のキリスト者ではない」、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。
・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(1コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではないのです。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自己の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。
・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、この手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、伝道旅行を始める前、彼がアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを長々と語ることをしません。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは幻以上に彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。
・パウロは深刻な問題を抱えていたようです。ある人は「癲癇ではないか」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。あるいはパウロの活動を妨害するエルサレム教会がとげだったのかしれません。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。ですから彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。彼は語ります「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストのために、キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。

2.聴かれない祈り

・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷のいちじるしき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか。・・・簡単であってすげなかった。『我が恩恵汝に足れり』(第二コリント12章9節)というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。
・内村自身も、「聴かれない祈り」を経験しています。彼の娘ルツは16歳で天に召されています。内村は娘の病気が治るように繰り返し祈りましたが、祈り虚しく、ルツは死にます。内村の信仰が揺らぎます。何故祈りが聴かれなかったか。しかし内村はついに語り始めます「神は私の願いを斥けられて、私と私の愛する者を恵まれたことが分かった。死んだ私の娘は復活した。彼女の生存は、前よりもさらに確実なものとなった。天国の門は私のために開かれた。彼女の形体(かたち)が見えなくなって、私は彼女の霊を私の霊に懐くようになった。今や彼女は永久に私の娘である。誰も彼女を私から奪い取ることは出来ない」。そして語ります「私に聴かれない祈祷があるのは、神が特に私を愛して下さる最も確かな証拠である。幸いな者とは、神に悉くその祈祷を聴かれた者ではない。その最も願うことを聴かれない者である」。

3.キリストのために苦しむ

・今日の招詞にピリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために良かれと思い、手紙を書き、訪問し、指導しました。しかしコリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる慰めをいただきます。
・教会には誤解や争いが絶えません。これが「神の教会か」と思うこともしばしばあります。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は国宝のような宝物です。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきたのです。
・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは4冊の詩集を出しましたが、その第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」(アシュラム・センター)です。第二コリント12:9から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。次のような詩です「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実にはとても納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても困る時があります。その中で神を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と誇れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。私たちはパウロのようにはなれません。しかしパウロに憧れる事はできます。
・この世は力を賞賛し、強さを求めます。しかし私たちの主ナザレのイエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強いと思っている人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされ、今生きておられます。正にパウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。


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