すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2011-10-23 13:37:29 (1055 ヒット)

10月23日の説教ビデオは撮影に失敗してできませんでした。ただ音声のみは録音されていますので、音声ページからお聞きください。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-10-05 08:36:15 (1635 ヒット)

篠崎キリスト教会では水曜日の祈祷会で詩編を学んでいますが、詩編には度々死の問題が出て来ます。今週の詩編116篇もそうで、そこには死を深く見つめる言葉が記されています。日本人は死について考えたり、議論することの少ない民族であると言われています。考えない、あるいは考えることを拒否することは一つの逃避です。全ての人がやがて死に、死は人間に不安と恐怖を呼び起こす存在なのに、それに向き合おうとしないからです。聖書は死についてどのように語るのでしょうか。前に説教した列王記下20章のヒゼキヤの物語を紹介します。

・列王記下20章冒頭は記します。「ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て『主はこう言われる。あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』と言った」(列王記下20:1)。なんと冷たい言葉と思いますが、やはり真実は真実として伝えるのが預言者の役割なのでしょう。しかしヒゼキヤは大きな衝撃を受けます。列王記は記します「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください』。こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」(列王記下20:2-3)。
・主はこの祈りに答えてヒゼキヤの寿命を15年伸ばされました。この出来事が起こったのはいつのことでしょうか。ヒゼキヤは紀元前687年に死んでおり、その15年前とすれば、紀元前702年ごろ、ちょうどアッシリアの大軍がシリヤ・パレスチナ地方に侵攻し、ヒゼキヤがその対応に忙殺されていたころです。その心労が重なって病気になったのでしょうか。いずれにせよ症状は重く、もう回復の見込みはないと思われていました。
・ヒゼキヤは「顔を壁に向けて」祈りました。死ぬ時は誰も助けてくれず、人は死に対しては一人で立ち向かわなければいけないのです。また彼は祈った後、「涙を流して多いに泣いた」と列王記は記します。一国の王であり、信仰が厚くとも、人は死を前にすればおののくしかないです。ヒゼキヤはこの時39歳でした。人生の半ばで何故死ななければいけないのか、しかも国家存亡の非常時に、との思いが彼の心の中に沸き起こったことでしょう。並行箇所のイザヤ書ではこの時のヒゼキヤの祈りが記されています「私は思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか、陰府の門に残る齢をゆだねるのか」(イザヤ38:10)。ヒゼキヤは必死に「生かして下さい」と神に訴えたのです。
・主はこのヒゼキヤの祈りを聞かれて、彼の命を15年間延ばされます。ヒゼキヤは死の病から癒されましたが、それは彼自身のためというよりも、「アッシリアの王の手からこの都を救い出す」ためでした。この記事が私たちに示しますことは「人は使命がある限り生かされる。使命を終えずして死ぬことはない」というメッセージです。人は「生かされている間、生きる」というのが聖書の使信です。
・しかし私たちは疑問も持ちます。「3歳の子供が先天性の疾患のために天に召されるのも、その使命を終えた故だろうか」。少なくともそう受け入れるのが信仰ではないかと思います。ダウン症の子を与えられたエドナ・マシミラさんは次のように言います「神から贈られたこの子、柔和でおだやかなこの子という授かりものこそ、天から授かった特別な子供なのです」(ようこそダウン症の赤ちゃん)。人を生かすも殺すも神の御手の中にあり、私たちは「生かして下さい」と祈るしかない。神がもし許して下されば私たちは生かされるでしょうし、そうでなければ命を召される。しかし、その神は私たちを愛し、憐れんで下さる方であることを知るゆえに、神は最善の決定を為されると受け入れて行くのが信仰です。癒されれば感謝し、癒されなければそのことの中に意味を見出していくのが信仰者です。
・ヤコブは言いました「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです』」(ヤコブ4:14-15)。ヒゼキヤは死の病から癒されて、新たに15年の命をいただきました。死の床にあった時、ヒゼキヤは「人の命の年数は神の御手の中にあり、人は許された時間を生きるだけだ」ということを思い知ったことでしょう。まさにヤコブが言うように、「人は自分の命がどうなるか、明日のことは分からない。人は、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎない」のです。私たちは許されて60年、70年、あるいは80年の時間を生きる存在です。しかし同時に「為すべきことをする」十分な時間が与えられています。ヒゼキヤはイザヤの預言から「自分の在世中は平和と安定が続く」ことを聞き、感謝します。ユダの国を守るという使命を果たすだけの時間が与えられたことを感謝したのです。
・人はいつまでも健康で生きることが出来るわけではなく、いつかは死ぬ時が来ます。私たちはある意味で、刑の執行を猶予されている死刑囚なのです。メメント・モリ=死を忘れるなという言葉がありますが、死を忘れない生き方とは、刑の執行が猶予されていることを感謝する生き方です。それは残された時間を誠実に生きる生き方、ヤコブの言う「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」という生き方です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-09-28 09:29:19 (3662 ヒット)

篠崎キリスト教会では毎週水曜日の祈祷会で詩編を学んでいるが、詩編を学びながら思うことは、旧約には死後の救いに関する記述はなく、死とは陰府に行くこと、そこは神の声も聞こえない闇の世界であるという絶望に支配されていることだ。従って、旧約に置いては神の恵みは現世的になる。これは現代人の死生観に通じるものであろう。
他方、新約においては、イエスの復活が死生観の中心となり、イエスが復活されたように、私たちも復活するという希望が記述の中核となる。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。このイエスの言葉こそが私たちの希望の源泉なのだ。
以下、参考までに「聖書思想辞典」(三省堂版)の記述を掲げる。

1.旧約聖書
・死者は「もういない」(詩39:14 →ヨブ7:8 ヨブ7:21)。死者はもはや存在していないということが、死が人間に与える第一の印象である。生きている者は、死後の世界をとらえることができないからである。しかし、人間は死によって完全に無に帰するのではない。これが一般の原始的な考え方であり、旧約聖書も長い間これを踏襲している。体は地下の穴に横たえられても、死者のなにものかが、影のようなものが陰府 (ヘ:šeôl)に生き残ると考えられた。ただし、陰府に関する概念はきわめてばくぜんとしており、「滅びの穴」(詩40:3)・「墓穴の底」(イザ14:15)・「沈黙の国」(詩115:17)・「滅びの国」(詩88:12)・「忘却の地」(詩88:13 「闇{やみ}」(ヨブ17:13)などの言葉で表現されている。そこではすべての死者が、たといその屈辱には程度の差があるとはいえ(エゼ32:17-32)、ひとしく悲惨な運命のもとにおかれている(ヨブ3:13-19 イザ14:9-10)。
・彼らは、「塵」(ヨブ17:16 詩22:16 詩30:10)と「蛆」(イザ14:11 ヨブ17:14)にわたされている。彼らの生は、もはや眠りにすぎない(詩13:4 ダニ12:2)。もはや希望も、神の認識も、不思議なみ業の体験も、神への賛美もないからである(詩6:6 詩30:10 詩88:12-13 詩115:7 イザ38:18)。「死人のうちに放たれて墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」(詩88:6)という訴えまで神に向かってなされる。そしてひとたび陰府の門をくぐれば(ヨブ38:17 →知16:13)、ふたたび帰ることはない(ヨブ10:21-22)。
・このようにイスラエル人は、かつては、人間が先祖の列に加わるべき日に(創49:29)、死は人間を以上のようなさくばくとした世界に連れ去るものとしか考えることができなかった。このような考え方は、現代でもまだ多くの人々がもち続けている人類共通の、ごく自然的な来世観が具体的に表われたものともいえよう。イスラエル人がかなりのちまでこのような通俗的な考え方を保持していたのは、彼らが、エジプトの宗教やギリシアのイデア論的な思考とは反対に、架空の不死の世界を夢みて現世の生活を蔑視するようなことを拒んだ徴とも考えられる。実際には、啓示がその独自の手段によって死後の世界の神秘を照らすのを待っていたのである。

2.新約聖書
・キリストが人間となったのは、ただ罪びとなる人間と連帯関係にはいり、人間の死を受容するためだけではなかった。彼は、新しい人類の頭なる第二のアダムであったから(汽灰15:45 ロマ5:14)、その十字架上の死には、全人類が包含されていたといえる。したがって彼の死において「すべての人も死んだ」(競灰5:14)のである。彼の死は、洗礼において現われ、人間は洗礼によって十字架上のキリストと結ばれる。すなわち「キリストの死にあずかるために洗礼」(ロマ6:3)を受けて、「彼と共に葬られ」(ロマ6:4)彼の死にあやかるものとされる(ロマ6:5 フィリ3:10)。それゆえ、信仰者はいまや“死んだもの”であり、その命は、キリストとともに神のうちに隠されている(コロ3:3)。彼らは、地上に“死”の支配を映しだすいっさいの事柄に、つまり「罪」(ロマ6:11)・「古い自分」(ロマ6:6)・「肉」(ガラ5:24)・「罪の体」(ロマ6:6 →コロ2:11)・「律法」(ガラ2:19)・「世を支配する諸霊」(コロ2:20)などに死ぬ。
・このようにキリストとともに死ぬことは、実際には“死”そのものに死ぬことを意味する。信仰者は、罪の奴隷であったときには死んでいたけれども(コロ2:13 →黙3:1)、いまや「死んだ行ない」(ヘブ6:1 ヘブ9:14)をやめて「死者の中から生き返った者」(ロマ6:13)となっているのである。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、死から命へと移っている」(ヨハ5:24)とか、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ11:25)とイエスは言われた。彼を信じる者には、死はなんら恐るべきものではない。
・ここには、信仰の賭もある。これに反して、彼を信じない者は、自分の罪のうちに死ぬのであり(ヨハ8:21 ヨハ8:24)、こういう者にとってはキリストのかおりは、「死から死に至らせる香り」(競灰2:16)にほかならない。人類が“死”と格闘するドラマは、このように、人間一人びとりの生活のなかでくり広げられる。その結末は、各自がキリストと福音に出会ったとき、いかなる選択をおこなうかにかかっている。それは、ある人々にとっては「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(ヨハ8:51)というイエスの言葉に基づき永遠の命であるが、他の人々にとっては恐るべき“第二の死”である(黙2:11 黙20:14 黙21:8)。
・旧約時代に現われた人間の不死と復活への希望は、いまやキリストの奥義のなかに堅固な基礎を見いだして不動のものとなる。キリストの死との一致は、信仰者を現実に新しい命を生きるものとするだけでなく、「キリストを死者の中から復活させた方は、死ぬはずの体をも生かしてくださる」(ロマ8:11)という確信を植えつけるからである。復活のとき信仰者は、「もはや死のない」(黙21:4)新しい世界にはいるであろう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-05-25 17:02:40 (5205 ヒット)

「あっぱれな被災者を見た 『ケセン語訳新約聖書』著した医師・山浦玄嗣さん」という記事が朝日新聞大阪版2011年05月16日夕刊に掲載されました。大阪版ゆえに読んでいない方も多いでしょうから、ここに掲載します。 

岩手県大船渡市の医師山浦玄嗣(はるつぐ)さん(71)は、新約聖書の四つの福音書を地元・気仙地方の言葉に翻訳した「ケセン語訳新約聖書」の著者としても知られています。地元のカトリック教会に通う山浦さんは、東日本大震災の大津波が襲った三陸の診療室で何を見たのでしょうか。 

3月11日午後2時46分。私が理事長の山浦医院の午後の診察が始まる時間でした。自宅のすぐ隣にある医院に入ると間もなく、大きな横揺れを感じました。揺れはいつまでも収まらず、船酔いみたいに吐き気がしてきたころ、ようやく静まりました。幸い自宅も医院も床上に浸水しただけで済みました。でも、津波でたくさんの友だちが死に、ふるさとは根こそぎ流された。黒い津波が押し寄せるのを見て、イエスが十字架で叫んだ「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか?」を思い出しました。この一節は当時よく知られた詩の冒頭で「あなたに依(よ)り頼んで、裏切られたことはない」と締めくくられます。イエスは力尽きて、最後まで口にできなかったとされています。苦悩のなかで毒づきながら、それでも神への信頼は揺るがない。私も同じです。 

重油と下水と魚の死骸が混じった真っ黒で粘っこい泥をなんとか片づけ、14日の月曜日から医院を開けました。津波の後には寒い日が続きました。患者さんは停電し暗い待合室で、私が用意した毛布にくるまっていました。60人はいたでしょうか。患者さんには薬が必要なのです。不通になった鉄道の線路伝いに、家族のため雪で真っ白になり2時間かけ歩いてきたおじさんがいました。「遠いところ悪いが、5日分しか出せないよ」と言うと、ひとこと「ありがたい」。2時間かけて帰っていきました。もっと欲しいと言った患者さんもいます。でも「薬はこれだけしかない」と諭すと、はっとした顔になり「おれの分を減らして、ほかの人に」と譲りあってくれました。 「ががぁ(妻を)、死なせた」。目を真っ赤にしながらも涙をこらえた人。「助かってよかったなあ」と声をかけると、「おれよりも立派な人がたくさん死んだ。申し訳ない」と頭を下げた人。気をつけて聞いていましたが、だれひとり「なんで、こんな目に遭わないといけねえんだ」と言った人はいません。そんな問いかけは、この人たちには意味がありません。答えなんかないのです。この人たちが罪深いから被災したのでもありません。災難を因果応報ととらえる考えに、イエスは反対しています。 

人はみんな死にます。しかも、死はどれも理不尽なのです。でも、無駄な死はひとつもありません。死には必ず意味があります。診療室の人たちは不遇を嘆くのではなく、多くの死者が出た今回の出来事から何かを聞き取ろうとしていたのかもしれません。必要以上に持ち上げるつもりはありません。しかし、あのつらいなか、意味のない問いかけをすることなく、人のために何ができるか、本当に生き生きとした喜びを感じるには何をすればいいのかと、懸命に生きていました。あっぱれな人たちに、私は出会えたのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-05-22 15:47:48 (1267 ヒット)

5月22日は証しと説教をビデオ撮影しましたが、撮影に失敗しました。音声は録音されていますので、音声でお聴きください。


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