すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2012-05-10 10:51:26 (1059 ヒット)

篠崎キリスト教会では毎週の説教を聖書教育に沿って展開してきましたが、2012年5月より聖書教育は旧約の学びに入り、説教はマルコ伝に入ります。そのため、過去に行った旧約の学びを再録して提供します。

1.32,000人から300人へ

・ギデオンがミディアン人と戦うために角笛を吹くと、ギデオンの元に32,000人の人が集まった。敵は13万人を超えていた(8:10)。ギデオンは3万人でも少ないと感じていたが、主はこの3万人を「多すぎるから減らせ」と言われた。3万人が1万人になった。
―士師記7:1-3「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。主はギデオンに言われた『あなたの率いる民は多すぎるのでミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ』。こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」。
・これはギデオンには予想外のことであったろう。国難にあって馳せ参じた人々が簡単にいなくなる。落胆するギデオンに、神はさらに「1万人でも多すぎるから、さらに減らせ」と求められる。
―士師記7:4「主はギデオンに言われた『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだと私が告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない』」。
・1万人の人が試みに会わせられる。主は水を手ですくった300人だけを残せと言われた。彼らは水を飲みながらも周囲から目を離さなかった。戦う準備が出来ている者だけが残された。
―士師記7:5-7「彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた『犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい』。水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた『手から水をすすった三百人をもって、私はあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい』」。

2.主共にいませば

・ギデオンは不安だった。ゆえにギデオンは、「すぐに下れ」という主の命令には従わない。しかし、敵を視察してみよとの命令には従い、敵陣に忍び寄る。彼が見出したものは、ギデオンを恐れる敵の姿だった。
―士師記7:9-14「その夜、主は彼に言われた『起きて敵陣に下って行け。私は彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことが出来る』。・・・ギデオンが来てみると、一人の男が仲間に夢の話をしていた『私は夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった』。仲間は答えた『それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ』」。
・パンが天幕を倒す、農耕の民イスラエルが遊牧の民ミディアンを倒すとの意味であろう。ギデオンは勝利を確信し、敵陣に夜襲をかけ、敵は総崩れになった。
―士師記7:20-22「彼らは角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。三つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、『主のために、ギデオンのために剣を』と叫んだ。各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走した。三百人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・メホラの境まで逃走した」。
・平家の大軍が水鳥の音に驚き、敗走した富士川の戦いに似ている。戦いは数ではなく勢いだ。主が自分たちと共におられると信じるとき、少数のものでも大軍を破ることが出来る。
申命記20:2-4「戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない『イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである』」。
・イエスが7つのパンで5千人を養われた時、多くの民が集まった。しかし、イエスが「肉のパンではなく、霊のパンを求めよ。私を食べよ」と言われた時、多くは去り、12人のみが残った。教会も12人がいれば十分なのだろうか。
―ヨハネ6:66-69「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に『あなた方も離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた『主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています』」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2012-05-06 08:33:40 (904 ヒット)

篠崎キリスト教会では毎週の説教を聖書教育に沿って展開してきましたが、5月より聖書教育は旧約の学びに入り、説教はマルコ伝に入ります。そのため、過去に行った旧約の学びを再録して提供します。


1.カナンに立ち向かうデボラとバラク

・エフドの死後、イスラエルは堕落し、苦難が与えられる。カナン王ヤビンが抑圧者として苦しめる。
―士師記4:1-3「エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである」。
・その結果、イスラエルは孤立し、民は困窮した。この時、デボラが召されて士師として立てられる。
―士師記5:6-7「ヤエルの時代に、隊商は絶え、旅する者は脇道を行き、村々は絶えた。イスラエルにこれらは絶えた。私デボラはついに立ち上がった。イスラエルの母なる私はついに立ち上がった」。
・デボラは立てとの声を聞き、将軍バラクに軍勢を率いてシセラと戦うように求める。
―士師記4:6-7「ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った『イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。私はヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。私は彼をお前の手に渡すと』」。
・平地は戦車を持つカナン人の支配下にあった。誰も戦車を持つ相手とは戦おうとはしなかった。バラクも自分たちだけの力では戦えないと思っていたが、神の霊を受けたデボラが同行するのであれば戦おうと言った。
―士師記4:8-9「『あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、私は行きません』。デボラは『私も一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです』と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった」。
・戦いはキション河のほとりのメギドで行われた。大雨が降り、河が氾濫し、戦車の車輪がぬかるみに取られ、シセル軍は総崩れになった。
―士師記5:19-21「王たちはやって来て、戦った。カナンの王たちは戦った、メギドの流れのほとり、タナクで。だが、銀を奪い取ることはできなかった。もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した、太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め」。

2.信じて立つものは勝利する

・戦いに敗れたシセルは逃走するが、ヤエルの計略により、殺される。
―士師記5:24-27「女たちの中で最も祝福されるのは、カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で、最も祝福されるのは彼女。水を求められて、ヤエルはミルクを与えた。貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。彼女は手を伸ばして釘を取り、職人の槌を右手に握り、シセラの頭に打ち込んで砕いた」。
・5章にあるデボラの歌はイスラエル最古の歌と言われている。それは鉄の戦車を恐れて何も出来なかった民が、神の励ましによって敵を追い出すことが出来た幸いを歌う。
―士師記5:8-11「新しい神々を選び取ったので、城門に戦いが迫ったが、イスラエルの四万人の中に、盾も、槍も見えたであろうか。わが心はイスラエルの指揮する者らと共に、この民の進んで身をささげる者と共にある。主をほめたたえよ。栗毛の雌ろばに乗り、敷物を置いてその背に座り、道を行く者よ、歌え。水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。・・・そのときこそ、主の民は、城門に向かって下って行く」。
・全ての民が戦いに参加したのではない。戦いの帰趨を様子見する部族もあったことを士師記は隠さない。
―士師記5:16-17「なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座して、羊の群れに吹く笛を聞くのか。ルベンの諸支族には、大いに心に究めるものがあった。ギレアドはヨルダンの向こうにとどまった。ダンは、なぜ舟に宿るのか。アシェルは海辺に座し、舟着き場にとどまった」。
・戦いは主がなされる。そうであれば戦車900台も脅威ではなくなる。信じて立つ、その信仰が必要だ。
―詩篇44:5-9「神よ、あなたこそ私の王。ヤコブが勝利を得るように定めてください。あなたに頼って敵を攻め、我らに立ち向かう者を、御名に頼って踏みにじらせてください。私が依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ、我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます」。
・人の目には不可能なことでも信じれば可能になる。信じきるときに新しい出来事が生まれる。
―ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2012-04-01 08:41:57 (995 ヒット)

創世記はアブラハムとサラが、神の約束を信じることが出来なかったことを隠しません。人間は、絶望的な状況に置かれた時、それでも約束を信じ続けることはできないのです。アブラハムとサラが「神には出来ないことはない」と信じるに到ったのは、奇跡としか思えない状況の中で子が与えられてからです。人間は本質的に不信仰であり、「神に出来ないことはない」と観念的に信じても、絶望的な状況の中では信じ切ることが出来ません。しかし、信じ切ることの出来ない人間に神の奇跡が与えられ、人は信じる者とされて行きます。獄中のペテロは、自分はやがて殺されるだろうと諦めていました。しかし神は救って下さった。この時、ペテロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であることを知りました。ペテロの救済を祈っていた教会も、祈りながらも本当に実現するとは思っていなかった。しかし実現した。彼らもまた「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」ことだと知りました。奇跡を目の前に見た時、人は信仰者になるのです。

信仰とは「信じることの出来ない不合理なことを、理性を殺して信じる」ことではありません。「ただ、信ぜよ」というのは本当の信仰ではありません。信仰とは、自分が不信仰であることを知らされ、それでも神は信じることの出来ない人間に恵みを与えられる、それを知ることから始まるのです。人間は「信仰するから救われる」のではなく、「救われたから信じる」のです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2012-03-31 20:05:03 (1233 ヒット)

篠崎キリスト教会では下記日程で、受難日礼拝・イースター礼拝を行います。

受難日礼拝 メッセージ 水口仁平牧師
4 月7 日(土)16:00〜


イースター礼拝 メッセージ 川口通治牧師
4 月8 日(日)11:00〜



篠崎キリスト教会
〒133-0065 東京都江戸川区南篠崎町1-28-15
TEL・FAX:03-3678-5243


投稿者 : admin 投稿日時: 2012-02-24 12:58:09 (1360 ヒット)

・2012年2月19日の礼拝でルカ19章のザアカイ物語を読みました。彼はエリコの徴税人の頭であり、金持ちで社会的地位もありました。しかし人々から嫌われ、冷たい視線の中にさらされていた孤独な人でした。そこにメシアと評判されるイエスが来られます。噂ではイエスの弟子には同じ徴税人仲間のレビがいました。ユダヤ教社会で差別され、疎外されていた徴税人をあえて弟子にするイエスの人柄に彼は心惹かれ、「ぜひ会いたい」と思い、走って先回りし、木に登りました。人々はザアカイのそんな姿を見て笑ったことでしょう。社会的地位も富もある、大の大人が、思いつめたように走り、木に登ったりしたのです。

・しかしイエスはそのザアカイの一途な求めに感動され、その感動がザアカイの家の客になることを決意させます。この決意は摩擦を伴うものでした。徴税人の家の客になることはユダヤ人民衆の批判を受けることだからです。ザアカイはイエスから声をかけられ、びっくりし、また喜びました。誰もが汚いものでも見るような目で彼を見ていました。しかしこの方は違う、自分の家に泊まると言ってくださった。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

・このザアカイ物語の前、ルカ18章に盲人バルティマイの癒しの話があります。「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた」。人々はこの男を黙らせようとしましたが、彼は必死にイエスに叫び続けます。イエスは彼の必死さを見て、彼に声をかけられます「何をしてほしいのか」。盲人は答えます「主よ、目が見えるようになりたいのです」。イエスが言われます「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

・バルティマイ物語とザアカイ物語には共通点があります。共に必死に求め、イエスがそれに答えて下さったという点です。人生の機会は一度しかありません。バルティマイもザアカイも自分の前に来た機会を逃しませんでした。バルティマイは必死に叫んで目を癒されました。救いをもたらしたものは彼の応答でした。ザアカイは必死にイエスを求め、木の上にさえ登りました。そしてイエスから言葉をいただきました。私たちもまたこのイエスに出会いました。その出会いを生かすも殺すも私たちのこれからの応答次第なのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。求めれば与えられます。言い換えれば「求めない者には与えられない」。これは真理です。


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