すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2011-09-28 09:29:19 (3404 ヒット)

篠崎キリスト教会では毎週水曜日の祈祷会で詩編を学んでいるが、詩編を学びながら思うことは、旧約には死後の救いに関する記述はなく、死とは陰府に行くこと、そこは神の声も聞こえない闇の世界であるという絶望に支配されていることだ。従って、旧約に置いては神の恵みは現世的になる。これは現代人の死生観に通じるものであろう。
他方、新約においては、イエスの復活が死生観の中心となり、イエスが復活されたように、私たちも復活するという希望が記述の中核となる。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。このイエスの言葉こそが私たちの希望の源泉なのだ。
以下、参考までに「聖書思想辞典」(三省堂版)の記述を掲げる。

1.旧約聖書
・死者は「もういない」(詩39:14 →ヨブ7:8 ヨブ7:21)。死者はもはや存在していないということが、死が人間に与える第一の印象である。生きている者は、死後の世界をとらえることができないからである。しかし、人間は死によって完全に無に帰するのではない。これが一般の原始的な考え方であり、旧約聖書も長い間これを踏襲している。体は地下の穴に横たえられても、死者のなにものかが、影のようなものが陰府 (ヘ:šeôl)に生き残ると考えられた。ただし、陰府に関する概念はきわめてばくぜんとしており、「滅びの穴」(詩40:3)・「墓穴の底」(イザ14:15)・「沈黙の国」(詩115:17)・「滅びの国」(詩88:12)・「忘却の地」(詩88:13 「闇{やみ}」(ヨブ17:13)などの言葉で表現されている。そこではすべての死者が、たといその屈辱には程度の差があるとはいえ(エゼ32:17-32)、ひとしく悲惨な運命のもとにおかれている(ヨブ3:13-19 イザ14:9-10)。
・彼らは、「塵」(ヨブ17:16 詩22:16 詩30:10)と「蛆」(イザ14:11 ヨブ17:14)にわたされている。彼らの生は、もはや眠りにすぎない(詩13:4 ダニ12:2)。もはや希望も、神の認識も、不思議なみ業の体験も、神への賛美もないからである(詩6:6 詩30:10 詩88:12-13 詩115:7 イザ38:18)。「死人のうちに放たれて墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」(詩88:6)という訴えまで神に向かってなされる。そしてひとたび陰府の門をくぐれば(ヨブ38:17 →知16:13)、ふたたび帰ることはない(ヨブ10:21-22)。
・このようにイスラエル人は、かつては、人間が先祖の列に加わるべき日に(創49:29)、死は人間を以上のようなさくばくとした世界に連れ去るものとしか考えることができなかった。このような考え方は、現代でもまだ多くの人々がもち続けている人類共通の、ごく自然的な来世観が具体的に表われたものともいえよう。イスラエル人がかなりのちまでこのような通俗的な考え方を保持していたのは、彼らが、エジプトの宗教やギリシアのイデア論的な思考とは反対に、架空の不死の世界を夢みて現世の生活を蔑視するようなことを拒んだ徴とも考えられる。実際には、啓示がその独自の手段によって死後の世界の神秘を照らすのを待っていたのである。

2.新約聖書
・キリストが人間となったのは、ただ罪びとなる人間と連帯関係にはいり、人間の死を受容するためだけではなかった。彼は、新しい人類の頭なる第二のアダムであったから(汽灰15:45 ロマ5:14)、その十字架上の死には、全人類が包含されていたといえる。したがって彼の死において「すべての人も死んだ」(競灰5:14)のである。彼の死は、洗礼において現われ、人間は洗礼によって十字架上のキリストと結ばれる。すなわち「キリストの死にあずかるために洗礼」(ロマ6:3)を受けて、「彼と共に葬られ」(ロマ6:4)彼の死にあやかるものとされる(ロマ6:5 フィリ3:10)。それゆえ、信仰者はいまや“死んだもの”であり、その命は、キリストとともに神のうちに隠されている(コロ3:3)。彼らは、地上に“死”の支配を映しだすいっさいの事柄に、つまり「罪」(ロマ6:11)・「古い自分」(ロマ6:6)・「肉」(ガラ5:24)・「罪の体」(ロマ6:6 →コロ2:11)・「律法」(ガラ2:19)・「世を支配する諸霊」(コロ2:20)などに死ぬ。
・このようにキリストとともに死ぬことは、実際には“死”そのものに死ぬことを意味する。信仰者は、罪の奴隷であったときには死んでいたけれども(コロ2:13 →黙3:1)、いまや「死んだ行ない」(ヘブ6:1 ヘブ9:14)をやめて「死者の中から生き返った者」(ロマ6:13)となっているのである。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、死から命へと移っている」(ヨハ5:24)とか、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ11:25)とイエスは言われた。彼を信じる者には、死はなんら恐るべきものではない。
・ここには、信仰の賭もある。これに反して、彼を信じない者は、自分の罪のうちに死ぬのであり(ヨハ8:21 ヨハ8:24)、こういう者にとってはキリストのかおりは、「死から死に至らせる香り」(競灰2:16)にほかならない。人類が“死”と格闘するドラマは、このように、人間一人びとりの生活のなかでくり広げられる。その結末は、各自がキリストと福音に出会ったとき、いかなる選択をおこなうかにかかっている。それは、ある人々にとっては「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(ヨハ8:51)というイエスの言葉に基づき永遠の命であるが、他の人々にとっては恐るべき“第二の死”である(黙2:11 黙20:14 黙21:8)。
・旧約時代に現われた人間の不死と復活への希望は、いまやキリストの奥義のなかに堅固な基礎を見いだして不動のものとなる。キリストの死との一致は、信仰者を現実に新しい命を生きるものとするだけでなく、「キリストを死者の中から復活させた方は、死ぬはずの体をも生かしてくださる」(ロマ8:11)という確信を植えつけるからである。復活のとき信仰者は、「もはや死のない」(黙21:4)新しい世界にはいるであろう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-05-25 17:02:40 (4957 ヒット)

「あっぱれな被災者を見た 『ケセン語訳新約聖書』著した医師・山浦玄嗣さん」という記事が朝日新聞大阪版2011年05月16日夕刊に掲載されました。大阪版ゆえに読んでいない方も多いでしょうから、ここに掲載します。 

岩手県大船渡市の医師山浦玄嗣(はるつぐ)さん(71)は、新約聖書の四つの福音書を地元・気仙地方の言葉に翻訳した「ケセン語訳新約聖書」の著者としても知られています。地元のカトリック教会に通う山浦さんは、東日本大震災の大津波が襲った三陸の診療室で何を見たのでしょうか。 

3月11日午後2時46分。私が理事長の山浦医院の午後の診察が始まる時間でした。自宅のすぐ隣にある医院に入ると間もなく、大きな横揺れを感じました。揺れはいつまでも収まらず、船酔いみたいに吐き気がしてきたころ、ようやく静まりました。幸い自宅も医院も床上に浸水しただけで済みました。でも、津波でたくさんの友だちが死に、ふるさとは根こそぎ流された。黒い津波が押し寄せるのを見て、イエスが十字架で叫んだ「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか?」を思い出しました。この一節は当時よく知られた詩の冒頭で「あなたに依(よ)り頼んで、裏切られたことはない」と締めくくられます。イエスは力尽きて、最後まで口にできなかったとされています。苦悩のなかで毒づきながら、それでも神への信頼は揺るがない。私も同じです。 

重油と下水と魚の死骸が混じった真っ黒で粘っこい泥をなんとか片づけ、14日の月曜日から医院を開けました。津波の後には寒い日が続きました。患者さんは停電し暗い待合室で、私が用意した毛布にくるまっていました。60人はいたでしょうか。患者さんには薬が必要なのです。不通になった鉄道の線路伝いに、家族のため雪で真っ白になり2時間かけ歩いてきたおじさんがいました。「遠いところ悪いが、5日分しか出せないよ」と言うと、ひとこと「ありがたい」。2時間かけて帰っていきました。もっと欲しいと言った患者さんもいます。でも「薬はこれだけしかない」と諭すと、はっとした顔になり「おれの分を減らして、ほかの人に」と譲りあってくれました。 「ががぁ(妻を)、死なせた」。目を真っ赤にしながらも涙をこらえた人。「助かってよかったなあ」と声をかけると、「おれよりも立派な人がたくさん死んだ。申し訳ない」と頭を下げた人。気をつけて聞いていましたが、だれひとり「なんで、こんな目に遭わないといけねえんだ」と言った人はいません。そんな問いかけは、この人たちには意味がありません。答えなんかないのです。この人たちが罪深いから被災したのでもありません。災難を因果応報ととらえる考えに、イエスは反対しています。 

人はみんな死にます。しかも、死はどれも理不尽なのです。でも、無駄な死はひとつもありません。死には必ず意味があります。診療室の人たちは不遇を嘆くのではなく、多くの死者が出た今回の出来事から何かを聞き取ろうとしていたのかもしれません。必要以上に持ち上げるつもりはありません。しかし、あのつらいなか、意味のない問いかけをすることなく、人のために何ができるか、本当に生き生きとした喜びを感じるには何をすればいいのかと、懸命に生きていました。あっぱれな人たちに、私は出会えたのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-05-22 15:47:48 (1141 ヒット)

5月22日は証しと説教をビデオ撮影しましたが、撮影に失敗しました。音声は録音されていますので、音声でお聴きください。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-04-20 08:40:33 (2447 ヒット)

 イザヤ24:17-20は人間の罪の故に、天の水門は開かれ(大洪水が来る)、地の基は震え動く(大地震が起こる)との預言が記されている。大地震と大洪水、まるでこの度の東日本大震災を預言したような箇所だ。
-イザヤ24:17-20「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み、穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない」。

 イザヤ24−27章はイザヤ黙示録と呼ばれる。時代背景はわからない。おそらくは紀元前2〜3世紀の預言者がイザヤ書を再解釈し、ここに編入したのではないかと思われる。イザヤ24−27章の預言者もこの終末待望の中にある。24章は神の世界審判の預言だ。神は新しい世界を創造されるために、旧い世界を破壊される。「主は地を裸にして荒廃させ」、創造以前の混沌への復帰が預言される。
−イザヤ24:1-3「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめて住民を散らされる。民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて同じ運命になる。地は全く裸にされ、強奪に遭う。主がこの言葉を語られた」。

 私たちはこのような終末預言をどのように聞くのであろうか。パウル・ティリッヒは、第二次世界大戦直後、イザヤ24:18「地の基ふるい動く」という説教を行った。二度の世界大戦を経験し、広島やアウシュヴィッツの悲惨を見た者は、もはや人間の善意に期待する楽観的な説教をすることは出来ない。
−「これらの言葉を真剣に取り上げないで過ごした数十年、否、数世紀さえもがあった。しかし、そうした時代は過ぎ去ったのである。今やわれわれは、こうした言葉を真剣に考えなければならない。なぜなら、彼らの言葉は、人間の大多数が今日経験し、またおそらく余り遠くない将来において全人類が嫌というほど経験することであろうこと、すなわち、『地の基がふるい動く』ということを目の当たりに見るように描いているからである。預言者の幻は、今や歴史的現実とさえなろうとしている。『地は全く砕け』という言葉は、もはや単なる詩的形容ではなく、厳しい現実である。これこそ、今や、われわれが足を踏み入れた時代の宗教的意義である」。
 
 日本列島は地震と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命であり、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を知っている。だから私たちは時間と共にそこから立ち直る事は可能である。しかし、今回の震災の最も大きな問題点は、原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にある点だ。「天災は裁きではない、しかし人災は罪の結果起こる」、ティリッヒは語る。
−「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と降伏のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。

 その結果起こったことは「地の基を震え動かすような」破壊であった。それは人間の想像を絶するものであった。イザヤが述べたような出来事が起こった。
-イザヤ24:5-6「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされわずかの者だけが残された」。

 ここで私たちは預言者たちが何故「地の基震え動く」と預言することができたかを知らねばならない。預言者たちは破壊の先に救いを見た。例え地の基は震え動くとも、そこに「動かざる存在を見た」のだ。裁きは滅びではなく救いなのだ。「人を救うために主は裁かれる」、そこに私たちは希望を見る。
−イザヤ51:6「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、蚋のように死に果てても、私の救いはとこしえに続き、私の恵みの業が絶えることはない」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-04-20 08:24:18 (1414 ヒット)

受難日礼拝
4月22日(金)19時〜20時 説教:水口仁平協力牧師

イースター礼拝
4月24日(日)11時〜12時 説教:川口通治主任牧師

いずれも西尾家会堂 東京都江戸川区南篠崎町1-20-9で行われます。


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