すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2008-06-29 21:59:26 (1386 ヒット)

 6月29日15時より、水口仁平協力牧師の就任式が行われました。メインゲストは水口兄の出身、品川バプテスト教会の日隈先生でした。水口兄とは55年のお付き合いのある先生です。

 81歳は通常は牧師退任の年齢です。しかし、神様は水口兄を81歳での牧師として召してくださいました。この召しは水口兄の60歳からの20年間の学びの上に成り立っております。

 いつ始めても良い、遅すぎることはない、そのことの証の場となった就任式だったような気がしました。

(就任式の説教他を音声ページに収録いたしました。よろしければお聞き下さい)

川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2008-06-22 21:42:13 (1026 ヒット)

本日の教会学校のテーマは
『主の食卓を囲んで』(マタイ福音書14:12〜26)
から、最後の晩餐についてでした。

晩餐に関して、一人一人感想など
自由に思った事を述べる時間の中で
山根さんが言ったことが非常に心に残りました。


『食卓が飽きないようにする・・・』


その瞬間に『初めの愛』に戻るという
ヨハネ黙示録に見られる7つの教会へ
チャレンジを贈る内容の一つが想い起こされました。

家庭の主婦や、またはそれに代わる家事に従事
している方であれば、3度の食事を“工夫”して
用意するという事が、どれだけ“時間”と“能力”を
捧げなければいけないか・・・ご存知だと思います。

例えば、結婚当初は愛する家族のために頑張って
美味しい・素敵な食卓を工夫する・・・

それが1年・・2年・・・・・・時間が経つにつれ
多少の手際の良さがあったとしても
“手抜き”な要素は否めません。


主の聖餐をあずかるとき、この食卓は
決して“手抜き”ではなく、いつでも
『全身・全霊の愛』が注がれている事を
本当に有難たく想います。


だから『食卓が飽きないように』・・・・・

いつでも主に救われた“初めの愛”に
戻るというチャレンジが与えられましたので

“手抜き”どころか、イエス様がこんなにも
愛して、ご自分の身体までも捧げてくださった
事を感謝しながら、次回に用意されている
聖餐式を迎えたいと想います。


2008,6,22 K・S


投稿者 : ゲスト 投稿日時: 2008-06-21 14:17:21 (1467 ヒット)

 前にこの広場に投稿があった、マタイ20章「ぶどう園の労働者」のたとえを読み直してみました。読めば読むほど不思議な物語です。次のような物語です。

 「ぶどう園の主人が夜明けに出かけて行き、一日1デナリの約束で労働者をぶどう園に送った。9時ごろに行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、ぶどう園に送った。12時、3時にも同じようにした。5時ごろにいくとほかの人々が立っていたので、またぶどう園に送った。夕方になって、5時に雇われた人たちは1デナリを受け取った。最初に雇われた人たちはもっと多くもらえるだろうと思っていたが、1デナリだったので、主人に不平を言った。だが主人は『最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ』と言った」

 公平、あるいは平等という観点から見ると、12時間働いた人たちの不平は当然です。働いた成果によって評価されるのが、この社会の約束です。

 他方、全ての人に門戸が開かれていても、全ての人が成功するわけではなく、失敗者はこの世で冷たい扱いを受ける現実から見るとき、負けた人に限りなく暖かい目を注ぐ主人に、私たちは共感します。

 先日起きた秋葉原の無差別殺傷事件の犯人は派遣労働者として「もののような扱いを受けていた」と告白しています。本人が事件を起こしたきっかけは、勤務先から派遣契約を中途解約される予定を知らされたことにあるとも言われています。働きたい人は、正社員になれて、定時の仕事だけで生活できる社会にしなければ、このような事件はまた起きるかも知れません。

 主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのでしょうか。それは1デナリがないと今日のパンが食べられないからです。5時から働いた人は怠けて1時間しか働かなかったのではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいたのです。しかし、労働に向かないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って彼らを12時間働いた人と同じに待遇して下さったのです。

 この物語は「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」と言う言葉で閉じられています。

 秋葉原事件の犯人は25歳でした。25歳で、「将来はない、道は閉ざされている」と感じる人々がいることに、私たちは衝撃を受けます。30歳でも、40歳でも、また80歳でも、常に道は開いている。朝6時に雇われた人ばかりでなく、12時に雇われた人も、更には夕方の5時に雇われた人さえにも、今日必要なパンを与えてくださる神がおられる。この物語の意味を伝える必要があるように思います。

川口通治


投稿者 : ゲスト 投稿日時: 2008-06-11 18:52:06 (1383 ヒット)

 篠崎教会では、水曜夜の祈祷会で旧約聖書を1章づつ読んでいます。創世記から始まったこの旧約の学びが今は列王記下21章まで来ました。その6年間の学びがホームページの旧約書庫に入っています。6年間学びを続けて思いますのは、旧約聖書を読むには忍耐が必要だということです。時には祭儀や儀式が数章にわたって続き、ここからどのように御言葉を読み取ればよいのか、わからなくなる時もあります。しかし、そのような忍耐の後で、目からうろこの喜びがあります。最近経験した喜びは申命記の発見です。

 列王記下21章は悪王と呼ばれたマナセの年代記です。マナセの父ヒゼキヤ王は預言者イザヤに従って善政を行いました。しかし、子のマナセの時代になると、アッシリアの勢力が強まり、マナセはユダヤに異教礼拝を取り入れます。親アッシリア派の台頭の中で、イザヤたち独立派の祭司は迫害されていきました。この時代にイザヤはのこぎり刑で殺されたと言われています。その迫害の中で、残された祭司たちは父祖からの伝承をまとめなおし、律法を編集して行きました。その結果出来上がった文書が申命記と言われています。

 マナセの孫ヨシヤはこの申命記に従い、改革を進めますが、やがてエジプトとの戦いで戦死、改革は挫折します。そしてヨシヤの死後、10年で国は滅びました。ヒゼキヤの改革もヨシヤの改革も全ては無駄に終わったかに見えました。申命記を編集した祭司たちの努力も報いられませんでした。しかし、イスラエルの民は亡国の後もバビロンで生き残り、やがてこの申命記を持って故国に帰り、新しいイスラエルを立てます。そして申命記は旧約聖書の中の一巻として残りました。
 
 それから500年後、この申命記の精神を生きられたのがナザレのイエスです。イエスは伝道を始める前に荒野で試練を受けられましたが、「石をパンに変えよ」との悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある」(申命記8:3)と答えられます。「神殿の屋根から飛び降りたらどうか」との悪魔の誘いには、「あなたの神である主を試してはならないとも書いてある」(申命記6:16)と答えられました。「私を拝めば世の全てを与えよう」との誘惑には「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」(申命記6:13)と答えられました。

イエスの言葉の多くは申命記の新しい解釈によるものです。無駄に見えた申命記の編集がイエスによってよみがえり、今日の私たちに伝えられています。主の御言葉の不思議さを感じます。

川口通治


投稿者 : ゲスト 投稿日時: 2008-06-05 10:46:20 (1376 ヒット)

はじめまして。初投稿をさせていただきます。
いつも聖書の学びに篠崎教会のホームページを読ませていただいています。このように広く学びの場を設けていただいていることを心から感謝しております。

今日はマタイの20章を読みました。主人にたとえられる神様が、ぶどう園の労働に招くため、焼けるような暑さの中、自ら広場に出て仕事もなく立ち尽くす人々を招き続けておられるのだな、と思いました。

6時、9時、12時、15時、17時
と一日に5回も暑い広場に失業者を探しに行かれたのです。
ここで、時間の間隔に注目すると、
6時から9時まで3時間、以降3時間ごと・
しかし、15時から17時は間隔が2時間です。
3時間、3時間、3時間、2時間・・・・

なぜ最後だけ2時間なのか?とひっかかってしまいました。
もしかしたら最後に雇われた人にも、
労働の恵みとその喜びを
与えるためなのではないか、と感じました。

どんなに人生の遅くに招かれた人でも、
神様のために働くめぐみや喜びを味わう1時間が
与えられていると思うのはうれしいです。
まだ救われていない私の家族も、
神様はきっと招いてくださり、そして、
神様に仕える喜びの時間も備えてくださるということを
信じることができます。


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