すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-01 09:42:03 (133 ヒット)

1.イエスのバプテスマ

・今日から半年間にわたってマルコ福音書からイエスの生涯の物語を見て行きます。これまで礼拝説教で読んできました聖書教育誌は5月から旧約聖書の学びに入りますが、今、私たちの教会に必要なものは旧約ではなく、イエスの福音であると判断し、マルコ福音書を学び直すこととしました。聖書には三つの福音書がありますが、その中で、マルコは最初に書かれた福音書です。紀元60年代から70年代にかけて書かれたと言われています。紀元64年、ローマ帝国はキリスト教徒の大迫害を行い、この時、ペテロやパウロはローマで殉教しています。またユダヤの地ではローマ帝国支配に反対する内乱が生じており、その混乱の中でエルサレム教会の指導者ヤコブも殉教しています(62年)。これまで教会を支えて来た使徒たちが次々に殺され、国そのものが滅亡に直面する中で、これから何を基準に教会を形成していけば良いのか。その時、使徒たちに親しく仕えていたマルコが使徒たちから聞いたイエスの出来事や言葉を集め、「神の国は既に来ている」とのメッセージを記しました。それがマルコ福音書です。最初に書かれた福音書、新約聖書の最初に来るべき書がマルコの福音書なのです。
・マルコは福音書を次のように書き始めます「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。ギリシャ語原文を直訳すると次のようになります「始まった、福音が、イエス・キリストの」。「始まった」という言葉はギリシャ語アルケーです。このアルケーと言う言葉は、当時の人々が読んでいた70人訳ギリシャ語聖書では創世記冒頭に使われています「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)、「初めに」、ヘブル語「べレシート」がギリシャ語「アルケー」に翻訳され、その言葉をマルコは福音書冒頭に用いています。旧約聖書も新約聖書も、「初めに」と言う言葉で始まっているのです。この「初めに」と言う言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られてこの天地は再び創造された」と宣言しています。
・何が始まったのか、「福音が始まった」とマルコは言います。福音=ギリシャ語「エウアンゲリオン」、良い知らせの意味です。「イエスが来られて良い知らせが始まった」とマルコは言います。当時エウアンゲリオンという言葉はローマ皇帝即位の告知に使われました。ローマ皇帝=世界の支配者、人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現こそ、エウアンゲリオン=良い知らせであると帝国の人々は告知されたのです。その言葉をマルコはイエス・キリストの出現に用いています。敬愛するペテロやパウロがローマ皇帝によって殺され、祖国ユダもローマ帝国の支配下にあえぐ状況の中で、あえて「福音」という特別な言葉をイエスに用いています。マルコは、「ローマ皇帝が王ではなく、イエス・キリストこそ真の王であり救い主である」と命をかけて信仰告白をしているのです。
・マルコは続けます「イエス・キリストの」、イエスはヘブル名「ジョシュア」のギリシャ語訳、キリストはヘブル語「メシア」のギリシャ語訳です。ナザレのイエスこそ救い主なのだとの信仰告白です。マルコはその信仰をマラキ書やイザヤ書を引用して説明します「預言者イザヤの書にこう書いてある『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(1:2-3)。イエスが生まれられた時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの支配下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自らを選びの民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神は、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。
・その期待が、引用されたマラキ書とイザヤ書の言葉の中にあります。マラキは歌います「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ3:1)。「神が世を救うために来られるしるしとしてまず使者が送られる」とマラキは預言し、マルコはその使者こそ「洗礼者ヨハネ」であり、そのヨハネの紹介でイエスが世に出られることを予告します。そしてイエスが来られた時こそ解放の時であることを、マルコはイザヤ書40:3を通して歌います「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。国を滅ぼされ、異国の地に捕囚として捕らえられている民に、故国に戻る時が来たので準備せよ、バビロンからエルサレムまでの長い道のりは既に整えられたという喜ばしい知らせが与えられました。その言葉をマルコはイエスの宣教の始めに用いています。

2.ヨハネのメッセージとイエスのメッセージの違いを見よ

・マルコは1:4から洗礼者ヨハネの記事を書き始めます。ヨハネは「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:4-5)と。イエスは故郷ガリラヤで、ヨハネがユダヤ全土に悔い改めを宣教し始めたとの知らせを聞かれ、「時は満ちた」、「神がイスラエルを救うために行為を始められた」との燃える思いに駆り立てられ、ガリラヤを出られました。その時、30歳であったとルカは伝えています。それまでイエスは故郷のナザレで、家業である大工をされていましたが、ヨハネの呼びかけに答えて、故郷を捨て、ユダヤに向かわれたのです。イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられますが、その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。この洗礼を通して、イエスはご自分が神の子として召されたことをお知りになりました。
・人びとは力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、メシア=救い主ではないかと思いましたが、ヨハネは人々の思惑を否定し、「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)と言いました。マルコは「その方こそ、ナザレのイエスであった」と主張しています。マルコは、ヨハネに「私はかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言わせています。ヨハネはイエスの準備をしただけであって、私たちはヨハネではなく、イエスをこそ見つめるべきであるとマルコは言います。
・ヨハネが宣べ伝えた宣教は「悔い改めよ、そうしなければお前たちは滅ぼされるだろう」というものです。ルカ3章にヨハネの言葉が残されていますが、彼は述べます「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:7-9)。ヨハネの宣教は終末時の審判です。「今こそ神が世界を裁かれる時が来た」と彼は告知しました。だから荒野で、預言者の衣を着て、悔い改めを人々に迫ったのです。
・それに対してイエスは荒野を出てガリラヤに行かれ、神の国の福音を説かれて言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。イエスの最初の肉声は「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした。ヨハネの宣教とイエスの宣教の違いを理解することは大事なことです。何故ならば多くの場合、私たちはイエスではなく、ヨハネの宣教を宣べ伝えているからです「罪を認めなさい。悔い改めなしには救いはない」、「信じなさい、信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ=福音ではありません。「神の国は近づいた」、イエスは信じない者のために活動された、そこに「良い知らせ」があるのです。

3.福音〜喜ばしきおとずれ

・今日の招詞としてルカ7:22-23を選びました。次のような言葉です「それで、二人にこうお答えになった『
行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」。
・洗礼者ヨハネはその後、捕らえられ、牢に幽閉されていましたが、牢の中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣して聞かせます「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:20)。ヨハネが期待したメシアは罪人たちを滅ぼし、正しい者のための世を来たらせる裁き主でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されています。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。神の国は裁きではなく救いであることをヨハネは理解できなかったのです。ヨハネはイエスにつまずきました。そのヨハネにイエスはイザヤ61章を引用してお答えになりました。それが招詞の言葉です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、「福音とは喜ばしき訪れであり、その喜びの知らせを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行く」のだと。
・街中を宣伝カーで走りながら、「信じなければ死んで裁きにあう」、「洗礼を受けない者は地獄に落ちる」などと音声を流している団体があります。彼らの伝えていることは福音ではありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われる」ためです(ヨハネ3:17)。イエスは言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、イエスが来られて神の国が始まった、誰でもそれを信じる者は救われる、その良い知らせを伝えるために私は来たのだとイエスは宣教の業を始められたのです。イエスは後にナザレの会堂でも同じ事を宣言されます「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。
・神の国は既に来ているのです。どこに、この教会の真ん中に。マルコ1:12-13は暗示的な文章です「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。洗礼を通して御子イエスの霊を受け、神に向かって「父よ」と呼びかける私たちも、イエスと同様にサタンの試練にさらされています。人として生きる苦しみ、事故や病気などの災難、また差別や戦争などの苦難は、信仰者にも襲いかかります。「野獣たち」、私たちの周囲にあって私たちの思い通りにならないものも、私たちと共にあります。しかし天使たちが荒れ野のイエスを守ったように、イエスが私たちのそばにいて私たちを支えてくれます。洗礼を受けて信仰の道を歩む私たちが出会う試練と、それでも与えられる守りと仲間たちがここに描かれています。「ときは満ちた、神の国は来た、ここに神の国がある」、これこそ私たちがイエスから託された福音、良い知らせなのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-24 20:04:41 (140 ヒット)

1.イエスの奉献

・イエスは8日目に割礼を受けられ、ヨシュア(主は救い)と名づけられた。そして清めの期間が過ぎて、神殿に奉げものを捧げるために連れて行かれた。両親が奉げたのは貧者の奉げものとされた鳩であった。
−ルカ2:22−24「モ−セの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた時、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは、主の律法に『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される。』と書いてあるからである。また、主の律法に言われている通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。』」

2.シメオンの賛歌

・ヨセフとマリアが宮に入った時、預言者シメオンに出会う。老預言者シメオンは「自分はメシアに出会った」と讃歌を歌い始める。このシメオンの賛歌は「ヌンク・ディミティス」(今こそ主よ、僕を去らせたまわん)として、カトリック教会の典礼歌になっている。
−ルカ2:29-32「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
・しかし賛歌の後半はイエスの十字架を預言する。メシアは信じる者には救いの石であるが、信じないものにはつまずきの石になると彼は預言する。
−ルカ2:33-35「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるからです。」
・むさしの福音ルーテル教会の牧師・大柴譲治師は、この記事を「死を前にした最後の言葉」と語る。
−2006年12月1日週報巻頭言から「クリスマスの出来事は私たちに真の希望とは何かを教える。望みなしに人は片時も生き得ない。人間を最後まで支えるものは神の整えられたこの「救い」であり「啓示の光」であるとシメオンは歌う。神の希望に向かって生き、死の門を越えて行ったキリスト者たちの言葉を思い起こす。「これが最後です。しかしこれが始まりです」(ボンヘッファー)。「ああ、これでオレは安心してジタバタして死んでゆける」(椎名麟三)。「人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」(松下容子)。それらは「永遠の今」を讃美する一人ひとりの「ヌンク・ディミティス」だった。」

3.バッハ「カンタータ第82番「我は満ちたれり」

・J.S.バッハはカンタータ第82番「我は満ちたれり」でこの記事を作曲している。ルカ2:29にあるシメオンの「満ち足りて死を思う」言葉をその中心として描いた。そして,その「死」の思いを焦点化し発展させることによって「聖霊の啓示の成就の喜び」という主題を浮き上がらせた。また,その歌詞は祈る「私」たちとも密接に関連づけられ,さらにバッハの圧倒的な表出力を持つ音楽言語によってそのテーマはより具体化され,映像を見るかのような具体性をもって聴衆に訴えかける。
−第1曲「私は満ち足りています、私は救い主を、敬虔な者たちの希望を、待ち望むこの腕に抱きしめたのです。私は満ち足りていすます。私はあのお方を見たのです、私の信仰はイエスをこの胸に抱きしめたのです。今や私の望みは、今日にでも喜びのうちにこの世を去ることです。」
−第2曲「私は満ち足りています。私の慰めはただ一つ、イエスが私のもの、そして 私はイエスのものになりたいのです。信仰において私はイエスを抱き、シメオンと共に、すでにあの世の命の喜びを見ています。さあ、このシメオンと共に歩みましょう。ああ、この肉体の鎖から主が私を救って下さいますように!ああ、この世からの別れが来たら、世よ、喜びをもってお前に言おう、お前はもう沢山だと。
−第3曲「まどろめ、疲れた目よ、おだやかに浄福のうちに閉じるがよい。世よ、私はもはやここにはとどまらない、お前の中には私の取り分はない、魂の益になるような取り分は。まどろめ、疲れた目よ、おだやかに浄福のうちに閉じるがよい。この世で私の建てるものは惨めなものばかり、だが、あそこでは、あそこでは見るだろう、甘い平安と静かな憩いを。まどろめ、疲れた目よ、おだやかに浄福のうちに閉じるがよい。」
−第4曲「私の神よ、その美しい今はいつ来るのですか。私が平安の中で世を去り、冷たい大地の砂の中に入り、そして彼の地であなたの懐に憩う日は。別れの用意はできています。この世よ、おやすみ。」
−第5曲「私は私の死を喜び迎えよう。ああ、今日にでもそうなれば!その日、すべての苦難から私は解放される、この世で私を縛っているすべての苦難から。ああ、今日にでもそうなれば!その日、すべての苦難から私は解放される、この世で私を縛っているすべての苦難から。」 (作詞者不詳)


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-17 21:09:07 (157 ヒット)

1.イエスの誕生

・イエスはローマ皇帝アウグストゥスの時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとルカは記す。アウグストゥスは帝国内のすべての住民に税と兵役を課すための住民登録を命じ、それぞれが本籍地への移動を強制された。
−ルカ2:1−3「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であった時に行われた、最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」
・ヨセフはベツレヘムの出身であったので、臨月のマリアを連れて、ベツレヘムへ向かった。しかしベツレヘムには泊めてくれる宿が無く、マリアは家畜小屋でイエスを産み、飼い葉桶に寝かせたとルカは記す。
−ルカ2:4−7「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
・聖書学者の多くは、イエスは、紀元前4年頃にガリラヤのナザレで生まれ、ベツレヘム生誕は伝説であろうと考えている。キリニウスの住民登録は紀元6年であり、また住民登録は居住地でなされた。ルカは歴史学者であり、事情に精通していた。それにも関わらず、彼はイエス生誕の時と場所を、紀元6年のベツレヘムにした。当時の人々はアウグストゥスを「救い主」(ソーテール)と呼び、「主」(キュリエ)と呼んで崇めた。しかしルカは「時の皇帝アウグストゥスではなく、その治世下に生まれになったイエスこそ本当の救い主である」と告げるためにこの物語を記録している。
・ルカはイエスが家畜小屋でお生まれになったと記す。神はその子を極貧の中で、最も卑しい者として生まれさせた。初代教会はここに神の恵みを見た。
−ピリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

2.天使の讃美

・イエスの誕生を見守ったのは、当時の社会から排除されていた羊飼いたちだった。羊飼いは貧しさのゆえに賃金労働者として他人の羊の番をしていた。世の支配者たちは誰もメシアの誕生を知らなかった。
−ルカ2:8−12「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
・ルカはイエス生誕時、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という天からの声があったと伝える。「告げる」、ギリシア語「エウアンゲリゾー」は、「福音(エウアンゲリオン)」の動詞形であり、元々はローマの皇帝礼拝で用いられた言葉だった。歴史資料は「皇帝アウグストゥスこそ、平和をもたらす世界の“救い主(ソーテール)”であり、神なる皇帝の誕生日が、世界にとって新しい時代の幕開けを告げる“福音(エウアンゲリオン)”の始まりである」と告げる(ベルリン・ペルガモン博物館蔵碑文)。それに対してルカは、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」と述べる。
・ルカはその時、「天使の大集団が神の栄光と地の平和を祈り讃える大合唱を行った」と記す。
−ルカ2:13−17「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが離れて天に去った時、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」
・ルカ福音書の誕生物語では、「世界の救い主」と讃えられた皇帝アウグストゥスが、全世界に向けて人口登録を命じ、この命令によって、ナザレで生まれるはずのイエスが、ベツレヘムで生まれる。ベツレヘムこそメシアが生まれると預言された場所であった(ミカ5:1)。ルカは「ローマ皇帝の権力が旧約聖書の預言の成就をもたらした、神はローマ皇帝さえもその道具としてお用いになった」と記述している。
・「この方こそ主メシアである」という天使の言葉は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそ、真の救い主であると主張している。この記事を読んだローマの人々は嘲笑っただろう「ユダヤの救い主を見よ、彼らの救い主は家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた。誰がこのような救い主を拝むのか」。その死から300年後ローマ帝国はキリスト教を受け入れ(313年ミラノ勅令)、やがてキリスト教は帝国の国教となる(392年)。イエスの生誕を知らなかったローマ皇帝の子孫が、キリストと呼ばれたイエスの前に、頭を下げて拝んだ。

3.イエスの奉献

・イエスは8日目に割礼を受けられ、ヨシュア(主は救い)と名づけられた。そして清めの期間が過ぎて、神殿に奉げものを捧げるために連れて行かれた。両親が奉げたのは貧者の奉げものとされた鳩であった。
−ルカ2:22−24「モ−セの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた時、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは、主の律法に『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される。』と書いてあるからである。また、主の律法に言われている通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。』」
・ヨセフとマリアが宮に入った時、預言者シメオンに出会う。老預言者シメオンは「自分はメシアに出会った」と讃歌を歌い始めるが、讃美の後半はイエスの十字架を預言している。メシアは信じる者には救いの石であるが、信じないものにはつまずきの石になると彼は預言する。
−ルカ2:25−35「その時、エルサレムにシメオンという人がいた・・・シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるからです。』」
・神殿には預言者アンナもいて、啓示を受けてイエスを祝福した。その後、イエスは神の恵みにより知恵が増し、たくましく成長した。
−ルカ2:36−40「また、アシエル族のファヌエルの娘でアンナという預言者がいた・・・彼女は近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んで人々に幼児のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレへ帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」

4.幼年時代のイエス

・ユダヤ人は十二歳でバル・ミツバ(律法の子)となる。成人式である。イエスにもその時がきた。
−ルカ2:41−45「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についた時、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親は気づかなかった・・・親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」
・両親は神殿で律法学者と話すイエスを見出した。母親の叱責に子は反発する。この物語は聖家族と言われる家庭にも、親と子の断絶があったことを示すエピソードである。
−ルカ2:46−52「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた・・・両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうして私を捜したのですか。私が父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった・・・イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-10 18:28:21 (119 ヒット)

1.マリア、エリサベトを訪ねる

・エルサレム神殿の祭司であったザカリアに、「妻エリサベトが懐妊して子が与えられる」との天使の告知があった。不妊で高齢の妻が懐妊するという奇跡告知だ。それから6ヶ月後、今度はナザレの少女マリアに天使が現れ、受胎告知が行われる。マリアは結婚前の女性だった。「結婚していない女性が子を産む」という驚くべき出来事の告知をルカは並行して描く。マリアはエリサベト懐妊を聞いて彼女を訪問する。
−ルカ1:39−40「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」。
・エリサベトは自分の身に起こった不思議な出来事が、マリアにも起こったことを聞き、彼女を祝福する。
−ルカ1:41-45「マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。私の主のお母さまが私の処に来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました。』」
・このエリサベトのマリア祝福の記事が、後に有名な歌曲「アヴェ・マリア」の原詩となった。
−アヴェ・マリア「おめでとう、マリア、恩寵に満ちた方、主はあなたとともにおられる。女性のうちで祝福された方、そしてあなたのお腹の子、イエスも祝福されている。聖なるマリア、神の御母、罪人なる我らのために祈りたまえ。今も、我らの死の時も、アーメン」。
・「神にできないことはない」、エリサベトとマリアはこの言葉を受け入れて、今お互いに出会っている。その出会いの中で、エリサベトは叫ぶ「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。この物語は私たちに大切なメッセージを与える。「子が与えられることは神の祝福の業だ」ということだ。ユダヤ人は「子どもは父と母と神の霊から生まれる」と理解した。現代の私たちは、「子は与えられるものではなく、作るものだ」と考えている。「作る」、そこには神はいないから、作るのをやめる=人工妊娠中絶もまた人間の自由となる。統計によれば、日本での妊娠中絶は年間20万件、100件の懐妊のうち20件は中絶という形で、生まれるべき命が闇から闇に葬り去られている。「子どもは父と母と神の霊から生まれる」ことの大事さを覚えたい。

2.マリアの賛歌

・エリサベトに祝福されたマリアは「マリアの賛歌」を歌う。「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの賛歌は、今日でもカトリック教会で、主日ミサの典礼歌として歌い継がれている。
−ルカ1:46−48「そこで、マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。』」
・マリアの賛歌はサムエル記上2:1-10のハンナの歌を基底にした歌であり、旧約の伝承に立つ歌だ。ルカが創作したフィクションであろう。しかし、そこにはフィクションでしか表現できない真理がある。
−ルカ1:49−53「『力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。』」
・マグニフィカートにある「権力のある、富んでいる者は、弱く貧しい者と場を入れ替わる」という運命の逆転こそ、「貧しい人々は幸いである」と語るルカの福音(良い知らせ)の真髄である。
−ルカ6:20-25「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる・・・ しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」。
・エリサベトもマリアも信じがたい言葉を、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れ、そこから偉大な物語が始まった。「神がなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」、という信仰がそこから生まれた。未婚で生まれる子も障害を持って生まれる子も神の祝福の中にあるという信仰だ。

3.洗礼者ヨハネの誕生

・エリサベトは生まれた子をヨハネと名付け、夫ザカリアも承認する。これは人々には驚きだった。通常は父親の名前を子につけるのに、二人はそうしなかった。
−ルカ1:57−63「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜びあった。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った・・・父親に『この子に何という名をつけたいか』と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚いた。」
・やがてザカリアの舌がゆるみ、神を賛美し始めたので、近隣の人々は驚き、目に見えぬ大きな力の働きを感じ恐れた。子の名前「ヨハネ」は、「主は恵み深い」である。子供の名は親の期待と祈りを表すものだが、ヨハネの名はすでに神の恩寵を表していた。
−ルカ1:64−66「すると、ザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい。この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」
・ザカリアはヨハネの誕生を祝って歌う。「ベネディクトス」と呼ばれる賛歌である。ザカリアは神が「救いの角」を用いてイスラエルを救うと預言した。この「救いの角」はヨハネではなく、イエスである。ザカリアはヨハネ賛歌ではなく、イエス賛歌を歌っている。
−ルカ1:67−70「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者の口を通して語られた通りに。』」
・イスラエルは周囲を敵に囲まれた国で、敵からの解放は民族の悲願であった。
−ルカ1:71−75「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていて下さる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の前に清く正しく。」
・ザカリアは、幼子ヨハネを「主に先だって行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる者」と預言した。「ヨハネではなくイエスこそメシアである」とのルカの宣言がここにある。
−ルカ1:76−80「『幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先だって行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。』幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」
・ヨハネが生まれた頃、人々は神に油注がれたメシア(救済者)が現れるのを待ち望んでいた。彼らはヨハネこそメシアではないかと期待したが、ヨハネは「自分はメシアを導くための先導者だ」と語った。
−ルカ3:15−17「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『私はあなたたちに水でバプテスマ(洗礼)を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私はその方の靴のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテマ(洗礼)をお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』」
・マリアとエリサベトが会った時、エリサベトの胎内の子が「喜んで躍った」とルカは記す。ルカは成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、このマリアとエリサベトの会話の中に先取りされていると理解している。しかし、これは伝承であり、実際はイエスとヨハネは旧知の間柄ではなかったと思われる。
−ルカ7:18-19「ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。
・おそらくはヨハネ福音書の伝えるように、洗礼者ヨハネが神の国運動を始めた時、イエスはヨハネの許に行って洗礼を受け、そこからイエスの宣教活動が始まったのであろう。洗礼者ヨハネは「イエスを教育し、世に送り出す」ための役割を果たした。
−ヨハネ1:32-34「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人であると私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-12-03 19:04:34 (218 ヒット)

1. マリアに臨んだ困難

・クリスマスを前にした主日に、マリアへの受胎告知の聖書箇所を与えられました。先週土曜日のチャペルコンサートでこの場面をお話したばかりですが、今日は違う視点から考えてみます。私たちは「受胎告知」と言いますと、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」の絵を思い浮かべ、ロマンチックな光景を想像しますが、実際の場面はかなり深刻です。それはマリアの言葉に表れています「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。未婚のマリアに妊娠が告げられました。女性にとって子を産むことは祝福ですが、未婚の女性が子を生むことは様々な社会的困難を招きます。何故神はこのような形で御子を世に送ることを決断されたのでしょうか。
・ルカは天使ガブリエルがナザレ村のマリアのもとを訪れて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)と言う挨拶をしたところから物語を始めます。マリアは驚きます「何がおめでたいのか、何が起こっているのか」わからないからです。その彼女に天使は伝えます「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。マリアはヨセフと婚約していますが、まだ結婚はしていません。その未婚のマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられます。マリアはこの知らせを聞いて「戸惑った」とルカは記します(1:29)。
・ヨセフはこの妊娠に何も関わっていません。婚約中の女性が婚約相手以外の子を妊娠する、それは人の眼からみれば不倫を犯したことになります。「戸惑わざるを得ない」出来事です。現に婚約者ヨセフもそう思い、マリアを密かに離別しようとします(マタイ1:18-19)。彼女は天使に抗議します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。口語訳は「私にはまだ夫がありませんのに」と訳します。夫なしに子を産む、社会の差別と偏見の中で身ごもることは現在でも大変なことです。日本の人工妊娠中絶件数が年間24万件もあることは、婚外妊娠が困難な出来事であることを示しています。当時はもっと大変でした。当時の律法は不倫を犯した者は姦通罪として石打の刑にすると定めていました(申命記22:23-24)。彼女は解決のつかない困難を与えられたのです。それにもかかわらず、天使はマリアに伝えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる・・・神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。マリアはためらいました。長い沈黙があったことでしょう。そして彼女は答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)。

2. 「聖霊による誕生」をどのように受け入れていくか

・イエスの誕生の次第は多くの人々に困惑を与えました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。またルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。それは「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもさらにマルコもイエスがヨセフの実子ではない、イエスはマリアの婚外妊娠によって生まれられたことを隠しません。この婚外妊娠をどのように受け止めるのかが福音書記者に課せられた課題の一つでした。
・当時のヘレニズム・ローマ世界では、偉人や英雄の誕生に関して、「神による妊娠」や「処女降誕」といった考え方がありました。偉人や英雄は世の常ならざる仕方で生まれると当時の人々は考えたのです。ギリシア帝国を創り上げたアレキサンダーやローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスも処女から生まれたという伝承があります。イエスも神の子であれば、それにふさわしい形で生まれられたであろうと人々が思うのは当然で、この伝承が福音書に中に取り込まれていったことは想像できます。歴史上のイエスを知らない福音書記者たちはイエスの処女降誕を当然のこととして受け入れていったのでしょう(イエスが生まれられたのが紀元前4年頃、マルコ福音書が書かれたのが紀元70年前後、マタイやルカが福音書を書いたのは80〜90年頃と言われています)。
・また、キリスト教が分離していった母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。紀元3世紀にキリスト教教父オリゲネスは「ケルソス駁論」という書物を著しました。反駁の対象とされたケルソスはギリシアの哲学者ですが、ユダヤ人から聞いた話として、「聖霊によるイエスの出産(マリアの処女懐胎)というキリスト教の主張は、婚外妊娠という事実を隠すための虚偽にすぎない」と批判しています。このような批判に対して、三世紀頃から「イエスは処女降誕によって生まれられた。イエスは人の罪を贖うために無原罪(原罪を継承する人間の父親からではなく)で生まれられた」という護教的な神学が生まれ、それが教会の信仰として継承されていったと考えられています。今でも多くの教会が用いている使徒信条では「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と告白します。
・私たちはこの処女降誕物語を伝承として受けとめます。歴史的には確認できないという意味での伝承です。ではこの物語が伝承に過ぎなければ、ルカ1章の物語は意味がないのでしょうか。そうではありません。ルカが伝えたいことは、マリアが処女降誕によってイエスを生んだことではなく、婚外出産という困難を与えられながら、それを信仰を持って受け入れていったことです。マリアの示した信仰の従順こそがルカの大事なメッセージです。聖書は人間を通して書かれた神の書です。人間を通して書かれたゆえに、著者の生きた時代の制約を受けます。しかし神の書であるゆえに、時代を超えた真理を示します。その真理とは「神にできないことはない」(1:37)という言葉です。マリアは信じがたい言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。そこから偉大な物語が始まったのです。「神がなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」、彼女はそれを信じた。ルカはその信仰の決断をここに示しているのです。

3. 御心のままに

・同じく信仰の決断が主題になっているのが、曽野綾子の小説「哀歌」です。アフリカ・ルワンダに赴任した一人の修道女の物語です。主人公の鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任します。彼女は、教会や学校を併設する修道院で、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をします。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の少数民族ツチ族に対する集団虐殺が始まります。フツ族民兵は軍を後ろ盾にツチ族への暴行、虐殺、略奪を開始し、避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くします。その混乱の中で修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、そのことが原因で妊娠します。彼女は身も心も疲れて日本に帰国しますが、修道会は妊娠した修道女に冷淡で、春菜はどうしてよいかわかりません。
・春菜は、最初は妊娠中絶を考えます。中絶すれば、「何事も無かった」ように生きていくことが出来ます。他方、子を中絶しない場合、生まれる子は「皮膚の色が黒い子」となり、そのような混血児を抱えて日本社会で生きていくことは大変なことです。しかし相談した神父の言葉、「神は御自分で為されたことには、必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」という信仰が春菜の気持ちを変えていきます。「神は私にこの子を与えて下さった、それが納得できない形で与えられたにせよ、この子と共に暮らそう、そのことによって不利益を受けるのであれば受けていこう」と彼女は決意します。
・神父の言葉を契機に、考えの中心点が自己から他者(この場合はおなかの子)に変えられていきます。彼女の決断はこの世の基準では愚かな決断になるでしょう。しかし信仰の決断としては別の評価が成立します。彼女はおなかの子を、自分に与えられたものとして生きていくことを決意したのです。そのことによって不利益を受ける=現在の自分に死ぬことは、無意味なことではありません。イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる」(ヨハネ10:17)。現在に死ぬことは将来に生きるためです。イエスは十字架を通して、現在を死ぬことを通して、復活されました。イエスは十字架で死ぬために、クリスマスにこの世に来られた、その死により私たちに命が与えられた、それがクリスマスのメッセージです。私たちも与えられた十字架を担って死ぬことにより、新しい命に生きる者と変えられます。今日一人の姉妹が信仰告白をしてバプテスマを受けられます。姉妹は一度死ぬためにバプテストリーの水に全身を入れられます。そして新しく生まれるために水から引き起こされます。バプテスマは十字架と復活を象徴する儀式なのです。
・今日の招詞にヨブ記36:15を選びました。次のような言葉です「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる」。マリアに与えられた道は困難な道でした。しかし、戸惑いながらも彼女は答えます「お言葉どおり、この身に成りますように」。婚約者ヨセフは当初マリアを離別しようと思いますが、マリアの罪ではないことを知り、やがて彼女を妻として受け入れ、子を自分の息子として認知します。ルカ1章後半に「マリアの賛歌」がありますが、その47-48節で彼女は歌います「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。岩波訳聖書で佐藤研氏はそれを次のように訳します「私の心は私の救い主なる神を喜びます。そのはしための悲惨を顧みて下さったからです」。「はしための悲惨を顧みて下さった」、婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアは歌ったと佐藤氏はここに見ます。
・私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる経験を私たちはします。「お言葉どおり、この身に成りますように(御心のままに)」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。「思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことであ る。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない」(飯嶋和一著「出星前夜」p212から)。「御心のままに」、今日はこの言葉をクリスマスの福音として共に聞きたいと願います。


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