すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-06 19:29:04 (82 ヒット)

1.洪水物語は二つの資料(伝承)で構成されている

・創生記は6章から8章が洪水物語であり、異なった二つの資料が合成されて記事が書かれている。一つはヤーウェ資料(J,紀元前10世紀のダビデ・ソロモン時代)、他は祭司資料(P,紀元前5世紀のバビロン捕囚時代)である。最初にJ資料の物語が語られ、それを補正するようにP資料が重複して書かれたとされる。8章は洪水の終わりを描く。8:1はP資料である。彼らは「洪水は自然に治まったのではなく、神がノアと人々を思い起こし、風を吹かせられたので治まった」と記す。
-創世記8:1「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」。
・災いの終わりは常に神の想起である。出エジプトでも神の想起が滅亡から救済への転回点をなす。
-出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。
・次の節はP資料(8:2a,8:3b-5)とJ資料(8:2b-3a)が混在している。P資料では洪水は364日(150日の降雨、150日の洪水、64日の減水)で大掛かりであるが、J資料では120日(40日の降雨、40日の洪水、40日の減水)と地域的である。洪水は象徴的には神の審きである。P資料を書いた捕囚期の祭司たちは完膚なきまでの神の審き(国の滅亡、70年間の捕囚)をそこに表現している。
-創世記8:2-5「また、深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って、第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった。水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日には山々の頂が現れた」。
・箱舟はアララト山の頂上に留まったとP資料は書く。アララト山(現在のアルメニア地方)は5千メートルを超える当時世界一とされた山である。水が減るとノアは烏を放って、減り具合を確かめる。
-創世記8:6-9「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した」。
・ギルガメシュ叙事詩の洪水物語では、鳩と烏と燕が放たれている。この部分はJ資料であるが、メソポタミヤ洪水伝承の影響を受けている。さらに7日待って鳩を放すとオリーブの木の葉をくわえて戻り、さらに7日後にはもう戻らなかった。水が引いたのである。
-創世記8:10-14「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた」。

2.箱舟から出る

・13節から資料はPに代わる。J資料では箱舟から出るタイミングはノアが放った鳩によるが(人間の努力)、P資料では神の命により、ノアたちは箱舟を出る。
-創世記8:15-19「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。』そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た」。
・下船したノアが最初に行ったのは礼拝であった(20節からJが再登場する)。彼は祭壇を築き、清い家畜と鳥を、焼き尽くす献げものとして捧げた。
-創世記8:20「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた」。
・焼き尽くす献げものは罪を贖うためのものであった。全焼の献げもの=ギリシア語ホロー・コスト(全部を・焼く)がやがて罪を贖う殉教者の意味となり、20世紀のユダヤ人大量殺戮がホローコストと呼ばれ、有名になる。カトリック信徒・永井隆は長崎の浦上に落ちた原爆を「神の摂理による大いなる燔祭(ホローコスト)」と呼んだ(長崎の鐘)。
-レビ記1:3-4「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」。
・8:16-19に「箱舟を出る」という言葉が繰り返される。先の創世記7章には、「箱舟に入る」という言葉が繰り返された(7:7,7:13、7:15)。箱舟はエルサレム神殿と同じ大きさであり、神殿が象徴されている。箱舟に入る=神殿に入る=非日常に身を置く。箱舟から出る=神殿から出る=日常世界に戻る。信仰者は7日目に神殿(教会)に入り,世の洪水から身を離し、礼拝が終われば神殿(教会)から出て、世に戻ることが強調されている。

3.洪水は人間に何の変化ももたらさなかった。しかし、神の心には劇的な変化があった

・神は人間の滅ぼしを決意されたが(6:5-7)、洪水の後では限りない忍耐と寛容をもって人間に関わろうとされる。人間の悪の故に呪われた土地が、神の裁きを経て回復される。
-創世記8:21-22「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない』」。
・「人が心に思うことは、幼いときから悪い」、人間の悪自体は変わらない。しかしそうであってもそれを「受け入れる」との神の宣言がここにある。人は罪を重ねるが、神は滅ぼし尽くすことはされない。バビロン捕囚の中の民たちはその声を必死に聞いた。捕囚地の預言者第二イザヤは、バビロン捕囚からの開放の預言をノアの洪水を通して聞く。
―イザヤ54:9「これは、私にとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあのとき誓い、今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと。」
・洪水の後で変化したのは人間ではなく、神だった。神は人間の悪を耐え忍び、受け入れられたとJ資料作者は語る。イエスが語られた神も、悪人にさえ恵みを下さる神である。
-マタイ5:45「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-30 18:51:00 (97 ヒット)

1.洪水伝承

・洪水伝説は世界各地に伝わる。おそらくは氷河期末期に世界各地で起こった大洪水の記憶が伝説となって各地に残ったのであろう。バビロニアにも洪水伝承があり(ギルガメシュ叙事詩等)、創世記記事との類似から、聖書学者の多くは、ギルガメシュ叙事詩がノアの洪水物語の原型になったと考えている。
・洪水物語が二つの資料により構成されているのは、文献学から明らかである。J資料(ヤハウェ資料)は紀元前10世紀ごろの王国時代に書かれ、神の名はヤハウェである(新共同訳では主)。他方P資料(祭祀資料)は紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に書かれ、神の名はエロヒーム(新共同訳では神)である。6章は1−8節がJ資料、9−22節がP資料、7章は概ねJ資料である。洪水伝承を受けたJ資料が先に成立し、その改訂・増補版としてP資料が成立した。洪水物語は史実というよりは、伝承を受けた人々の解釈史である。
・6:1-4は古代からの伝承で、神の子とは「神のかたち」に造られた人を指すのであろう。人が欲望の赴くままに異性と性的関係を結ぶ。美しい女を権力者たちが自分のものにする。性が乱れた時、社会が乱れる様を描く。
−創世記6:1-2「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」。
・J資料記者は洪水の背景に罪(性の乱れ)を見る。おそらくは多くの妻妾を抱えたダビデ・ソロモン王時代の風潮を批判しているのであろう。
―創世記6:3-4「主は言われた『私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから』。こうして、人の一生は百二十年となった。当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」。
・神は天上に鎮座される神ではない。神は人間を創造し、彼らの罪に胸を痛め、造ったことを後悔される神である。神は創造者を拒否する人間をもその自由に任せたもう。そして人は悪を選択した。ここに神の悔いが、神の痛みが生ずる。
−創世記6:5-7「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する』」。
・神の裁きは人の滅亡ではなく、人の再生である。だから神はノアを残され、彼を通しての人類再創造をなされたとJ資料記者は考察する。
−創世記6:8「しかし、ノアは主の好意を得た」。

2.神は人を造ったことを後悔された

・6:9からP資料が始まる。アダムの罪(男女の罪)がカインの罪(兄弟の罪)を招き、カインの罪がレメクの罪(隣人に対する罪)を招き、罪が全人類に及んだ。この部分を書いた捕囚期の祭司たちは、罪の裁きとしての洪水の上に、自分たちへの裁き(国の滅亡=バビロンへの捕囚)を見ている。
−創世記6:11-13「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた『すべて肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす』」。
・しかし神は一人の正しい者(ノア)を見て、彼を残される。義なるが故に自分の創造された世界を滅ぼされる神は、愛ゆえに人を許される神でもある。そのため、神は一人の人を残して、世を再創造される。預言書には、「残りの者による再建」という思想が繰り返し見られる。捕囚期の祭司たちは、ノアの救いの中に自分たちの救済への希望を込めている。
―エレミヤ書29:14「私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」
・このノアはレメクの子だ(5:29)。七十七倍復讐すると宣言した男の子だ。そのレメクが自分たちの罪からの贖いを求めて、子にノア(慰め)と名付ける。
−創世記5:28-29「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」。
・ノアは神が命じられるままに箱舟を作る。創世記記者(P資料記者)は箱舟の建設の中にエルサレム神殿の再建、捕囚からの解放を祈願している(箱舟の大きさは神殿と同じである、エゼキエル40−43章、列王記上6−7章)。
−創世記6:15-16「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ(135メートル)、幅を五十アンマ(22.5メートル)、高さを三十アンマ(13.5メートル)にし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」。
・箱舟にはすべての生き物のつがいが一組ずつ入るように命じられた。
−創世記6:17-22「『見よ、私は地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。私はあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい』。ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」。
・他方創世記7章では清い動物は七つがい、清くない動物は一つがいとされる。J資料がここからまた始まる。
−創世記7:1-3「主はノアに言われた。『さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけは私に従う人だと、私は認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように』」。

3.新約聖書に見るノアの理解

・イエスは洪水を終末の審きの出来事と考えられた。
−マタイ24:37-39「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。
・ペテロ書はバプテスマを受ける(箱船に入る)ことを、裁き(洪水)からの救済と理解する。
−1ペテロ3:20-21「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」
・ヘブル書はノアを、「見ずに信じた者」と理解している。
−ヘブル11:7「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-23 21:27:25 (86 ヒット)

1.楽園追放

・創世記3章前半において、人間の罪とは何かが明らかにされる。人間の罪は、神が「食べてはいけない」と禁止されたものを食べたことにあるのではない。過ちを犯してもそれを自己の責任として受け止めることができず、その責任を他者に、最後には神のせいにしてまで逃れようとする。そこに罪の原点がある。罪とは過ちを犯すことではなく、その過ちを認め、謝罪できないところにある。だから、神は人を楽園から追放することを決められる。楽園に住むには人はあまりに幼く、外に出て成長する必要があったからだ。
・しかし、楽園追放は罪に対する呪いではない。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。神は着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放された。つまり死ぬべき人を生かそうと決意された。
-創世記3:20-24「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある』。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。
・人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になる。地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知る。楽園の外に出ることを通して、初めて人は神の恵みを知り、神を求める者に変えられていった。
-創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」。
・女も同じだ。女は苦しんで子を産むことを通して、死ぬべき存在であるのに、生命の継承を許して下さる神の恵みを知る。労働は苦しみであり、出産もまた苦しみだが、その苦しみを通して、本当の喜びを知る道を、神は与えて下さった。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知る。失楽園は決して呪いではなく、祝福なのである。人は過ちを通して成長していく、ここから人間の歴史が始まったと創世記は語る。
-創世記3:16 「神は女に向かって言われた『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する』」。
・私たちは創世記の物語をバビロニアの創造神話や日本の古事記のような神話として聴く時、それは私たちの生き方とは関わりがない物語に終わる。そうではなく、私たちが創世記を、古代イスラエル人の信仰告白として聴く時、すなわち人は何故、他者を愛することが出来ないのか。人は何故、他者と向き合って生きることができないのかを聴く時、自分の本当の姿=罪を知り、その罪からの解放を求めるようになる。
・イエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられた。罪人の一人は自分の罪を悔い、「このような私でも天国に行くことは出来ますか」とイエスに懇願する。それに対してイエスが言われた言葉が「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言う言葉だ。この楽園=ギリシャ語パラデイソスはヘブル語のパルデス(園)から来る。エデンの園である。イエスは天の御国を楽園として語られている。旧約聖書はイスラエル民族の歴史を描いた書であり、人の歴史は争いの歴史だ。創世記3章は男女の争いを語り、創世記4章は兄弟の争いを語り、出エジプト記は民族の争いを語る。人は他者を愛することが出来ない。だから争いが起き、苦しみが始まる。そこに私たちの原罪がある。その原罪を十字架につけない限り、平安はない。だから私たちはキリストを仰ぐ。キリストの十字架死によって、私たちは贖われ、楽園=神の国の平安に入る。
-ルカ23:42-43「そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい』と言った。するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた」。
・イエスは最後の晩餐の席上でも楽園について語られる。最初の人アダムは人を愛することが出来なかった故に楽園を追われた。私たちもアダムの末として人を愛することが出来ない故に、天の楽園に戻ることは出来ない。その私たちのためにイエスが十字架で死なれ、十字架を通して、天に戻る道を与えられた。
-ヨハネ14:2「私の父の家には住む所がたくさんある。あなたがたのために場所を用意するために私は天に帰る」。

2.弟を殺したカインの罪

・創世記4章は、楽園を追放されたアダムとエバに子が与えられ、カインとアベルが生まれるところから物語が始まる。兄のカインは土を耕す者(農耕者)に、弟アベルは羊を飼う者(牧羊者)となった。
-創世記4:1-2「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」。
・収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきたが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」。
-創世記4:3-5「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた」。
・主が何故そうされたかについて創世記は何も述べない。「神が不公平をされるわけはない。カインの捧げ物が受け入れられなかったのはカインが悪いからだ」と考えて不条理を合理化してはいけない。人の世には、理由のつかない不条理や不公平があるという現実を見つめることが大事だ。ヨブ記の友人たちは慰めるために来たのに、教理にこだわってヨブを裁き始める。
−ヨブ記8:1-4「シュア人ビルダドは話し始めた。いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ。神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」。
・不公平、不条理に直面した時、私たちはどうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、神に苦情を言うのか。アベルは善人でカインは悪人だったからだと決めつけてしまうと、この大事な問いかけが失われ、物語を私たちと無縁なものにしてしまう。
−創世記4:6-7「主はカインに言われた『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。
・神はカインの応答を待たれる。神への怒りであれば神に問えばよい。神はそれを待っておられる。しかしカインは何も言わず「顔を伏せた」ままだ。そのことによって、神に向くべき怒りが弟アベルに向かう。
−創世記4:8「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いた時、カインは弟アベルを襲って殺した」。
・弟を殺したカインに主は問われる「お前の兄弟はどこにいるのか」。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し、「あなたはどこにいるのか」と問われた(3:9)。今、子のカインが主から問われる「あなたの兄弟はどこにいるのか」と。
−創世記4:9-12「主はカインに言われた『お前の弟アベルは、どこにいるのか』。カインは答えた『知りません。私は弟の番人でしょうか』。主は言われた『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる』」。

3.罪を犯した者を捨てられない神

・カインの罪により血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになる。古代では気候不順があれば飢饉が生じ、大地の不毛が人々をその住む所から追い立てた。古代の人々は、大地の不毛を「人の罪により地が呪われた」と理解した。チエルノヴィリの原発事故によりウクライナの農地は汚染され、福島原発事故により、地域の村や町が廃墟になりつつある。「地はあなたの故に呪われる」、「人間の罪が地を汚している」、状況は現在も続いているのではないか。
・カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知り、恐れおののく。自分も殺されるかもしれないという恐怖を通して、カインはアベルの苦しみを知り、神に助けを懇願する。
−創世記4:13-14「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう』」。
・神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれ、彼の保護のためにしるしをつけられたと創世記は語る。
−創世記4:15「主はカインに言われた『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」。
・この「カインのしるし」をめぐって物語が展開するのが、ジョン・スタインベックが書いた「エデンの東」(1952年、1955年映画化)だ。創世記では弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」(4:16)とあり、「エデンの東」という小説のタイトルはここから来ている。創世記1章で「産めよ、増えよ、地に満てよ」(1:28)と祝福された家族が何故互いに争うものになったのか、人は原罪を背負って、エデンの東に住む存在なのだ。私たちもまた「カインの末裔」なのだ。しかし神はカインに「しるし」を与え守ってくださった。現代の私たちにとって「カインのしるし」とは何なのか。

4.しるしとしての十字架

・神はカインを追放されたが、彼にしるしをつけて保護された。カインは妻を娶り、カインの子孫からレメクが生まれる。彼は語る「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。七倍の復讐はカインを保護するためのものだったが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己のためだ。レメクには罪の自覚はない。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対する。自己の力への信頼が競争と対抗を生む。この人間中心主義の流れが現代にも継続されている。
-創世記4:23-24「レメクは妻に言った『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍』」。
・他方、神はアダムとエバに新しい子を与えられる。セトであり、彼の子孫たちは主の御名を呼び始める。
−創世記4:25-26「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。
・ここに、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」求める人々の系図が生れていく。赦されたから赦していく、神中心主義の流れだ。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきた。キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚する。
-マタイ18:21-22「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・私たちは自己の真実の姿、罪を知るために聖書を読む。「打たれたら打ち返す」社会の中で、「七の七十倍までの赦し」(無制限の赦し)を求めていく。それはイエスの十字架を見つめた時にのみ可能になる。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちも赦しの中にある事を知る。十字架を仰ぐ時、私たちは「主の名を呼び求める者」に変えられていき、与えられる不利益や苦しみをも喜ぶ者となる。
-ピリピ1:29「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-17 10:41:12 (95 ヒット)

1.罪の始まり

・創世記を読み始めています。本日は創世記3章を読みますが、3章は2章から連続する物語です。創世記2章では人間が男と女に創造され、園の中で神と共に暮らしていた事が書かれていました。3章では、人間が誘惑に負けて神の戒めを破ってしまい、その結果、園を追放されるという、有名な失楽園物語が描かれています。教会は伝統的にこの創世記3章に「罪」の問題を見てきました。私たちも今日、この創世記3章を通して、「罪とは何か」、「人間は何故罪を犯すのか」を考えていきたいと思います。
・3章の冒頭では蛇が誘惑者として登場します。創世記は語ります「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」(3:1)。神は人間に言われました「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)。「園のすべての木から取って食べなさい」、人間に与えられたのは自由でした。ただしその自由は「善悪の知識の木からは食べてはならない」という戒めの中の自由でした。人間にはそれで十分でした。何故ならば「善悪の知識の木」から食べなくとも他に多くの食べ物があり、不足はなかったからです。しかし蛇はこの自由を逆転させて、不自由を全面に押し出すようにして人を誘惑します「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか。あなたはかわいそうだ、全く自由がないではないか」と。蛇は聖書では知恵の象徴です。伝統的神学ではこの蛇をサタンとし、人間はサタンに誘惑されて罪を犯したとします。しかしこの物語が示すのは人間に与えられた知恵が、「なぜ食べてはいけないのか」とささやき、人は内心のささやきの命じるままに行為したのです。
・女は反論します「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2-3)。蛇は言葉を続けます「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3:4-5)。ここでは、人間が神のように賢くなることを神は嫌っておられるのだという悪意ある解釈がなされています。そして女も神の禁止命令は不当だと考えるようになります。物事の善悪を見極めることがそんなに非難されるべきことなのか、人の心の中の不満が増します「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(3:6)。女は我慢できなくなって食べ、一緒にいた男にも渡したので、男も食べました。
・ここに人間の本質が見事に映し出されています。2:17で人間には制約が置かれていました「善悪の知識の木からは食べてはならない」、それは制約なしには人間は共同生活を営むことができないからです。共同生活を営む人間にとって、自由は制約があってこそ初めて成り立つことです。例えば「人を殺してはいけない」という制約のない社会では、人間は欲望のままに相手を殺し、混乱と無秩序がそこに生まれます。「共に生きる」には制約が不可欠のです。しかし人間は限界が置かれるとその限界を煩わしい、不自由だと思う存在です。哲学者のエマニュル・カントは「アダムとエバが善悪の木の実を食べた時、人間は理性に目覚めた」と解釈します。ある意味でこの物語は「人が幼時から成人になるためにたどる原体験」を示しています。
・その木が「善悪を知る木」と名付けられているのは象徴的です。ここでいう「善悪」という表現は両極端な言葉を結びつけ、その中に納まるすべてのものを包括するヘブル語の修辞法です。つまり「善悪」は、「善と悪に至るすべての知識の総称」を意味し、その木の実を取って食べることは、「善悪」のすべての知識を、自分を基準にして自由に決定づけることを意味します(銘形秀則氏・牧師の書斎より)。「その実を食べるな」という禁止は、「私は神の判断を仰がずに、善悪は自分が決める」という人間の主権宣言に対して、「自由は責任を伴うことを覚えよ」と神が警告されたのです。「責任を負えるのであれば食べよ、そうでなければ食べるな」と、創世記は人間の自由意志とその責任の重さを、エデンの中央に置いているのです。

2.罪の本質
 
・男と女は禁断の木の実を食べました。「善と悪を分別できるようになって何が悪いのか」、「賢くなることによって新しい可能性が開けるではないか」という内心の声に二人は勝つことができませんでした。女は実を食べ、共にいた男にも与えたので彼も食べます。男は蛇が女を誘惑する時、そこにいました。女が誘惑に負けて木の実を食べた時も制止することはなく、女から勧められると何も言わず食べました。エデンの園の悲劇は女が蛇に欺かれたことで始まり、その場に居合わせた男がそれを受け入れたことで拡大していきます。男も女と同罪なのです。しかし保守的な教会は「男も女と同罪」とは認めません。
・私たち日本バプテスト連盟の母教会にあたるアメリカ南部バプテスト連盟では女性教職者を認めないことを2000年度に決定しました。その根拠として挙げられたのが、汽謄皀2:11-15他です。テモテ書は語ります「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」(汽謄皀2:11-15)。「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」、あまりにも皮相的な聖書解釈だと思います。創世記を忠実に読む限り、男もまた誘惑に負けた。それ以上にここに書かれているのは堕罪物語ではなく、楽園に住む無知な子供たちが楽園を出て責任ある大人になる、人間成長が象徴的に描かれている物語なのです。その物語を根拠に女性牧師を禁止することは明らかに聖書の誤った読み方です。
・さて、禁断の実を食べた結果何が起きたかが、3:7に記述されています「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人は無花果の葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。神のようになりたいと思って禁断の木の実を食べた二人に起こったことは、「自分たちが裸であることを知った」ことでした。今まで神の方を向いていた視線が自分の方を向くと、自分の汚れが見え、その汚れを隠そうとした。「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ(た)」(3:8)。人間の視線が自己を向いた、その瞬間から人間は神から身を隠すようになった、そこに人間の罪の姿があると創世記は語ります。

3.罪からの解放
 
・今日の招詞にエゼキエル書33:14を選びました。次のような言葉です「また、悪人に向かって、私が、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない」。禁断の木の実を食べた人に対し、神は呼びかけられます「あなたはどこにいるのか」(3:9)。人間は神からの呼びかけによって神に背く自分の姿を認識します。そのような人間を見て神は問われます「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)。その問いかけに男は答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。「あの女が取って与えた。悪いのはあの女です」と彼は言っています。「あの女」とは、彼の妻です。神が彼女を造り、連れて来て下さった時、「これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉」と感動の叫びをあげた相手です。その相手を「あの女」と呼び、自分の罪の責任をなすりつけようとしています。さらにはそこを超えて「あなたがあの女を与えた」と責任を神にまで拡げています。責任を問われた女は「蛇が騙したので、食べました」と責任を蛇に押し付けます。さらには「蛇を造ったのはあなたではないか」という神への責めも女の言葉に含まれています。これが、自由を獲得して、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。自分のしたことの責任を自分で負うことをせず、ひたすら他の人のせいにしていく、それが人間の求めた自由だったと創世記記者は語っているのです。
・ここに罪の本質があります。もし人がここで自分の責任を認めたら、神は間違いなく人間を赦されたでしょう。それを示すのが招詞の言葉です。「彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら・・・彼は必ず生きる。死ぬことはない」。つまり、神の戒めを破った、禁断の木の実を食べた、そのことに罪の本質があるのではなく、罪を認めようとせず、自己弁解し、他者に責任を押し付けようとした、さらには神に責任を押し付けようとした、そこに罪の本質があると物語は語っています。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。神を信じる人は罪を犯した時、「あなたはどこにいるのか」と神に問われ、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「私が悪いのではない」と言い逃れをするために、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まります。私たちは今、楽園の外の「弱肉強食の世界」に生きています。ホッブズが語るようにこの社会は「万人の万人に対する闘争」の世界です。それは私たちが人間である限り、必然のことです。その中で私たちは、「自分の責任を隣人に押し付ける」生き方ではなく、「自分を愛するように隣人を愛する」(マルコ12:33)生き方を選び取っていくのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-09 21:12:24 (113 ヒット)

1.人間の創造

・私たちは今、創世記を読み始めています。先週私たちは創世記1章を読み、それがイスラエル国の滅亡とバビロン捕囚という苦しみの中で生まれてきたものであることを学びました。私たちが今生きているこの世界、この現実の中に「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があります。「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」、しかし神の「光あれ」という言葉が響くとそこに光が生まれ、混沌が秩序あるものに変わっていった、そこに異国に捕らわれていた人々は希望を見出していった、それが創世記1章であることを知りました。
・今日私たちは創世記2章を読みますが、そこには1章と異なる別の創造物語が記載されています。創世記1章では光の創造から始まり、天地が創造され、そこに植物や動物が造られ、最後に人間が創造されて物語が締めくくられます。他方、今日読みます創世記2章では、まず人が土の塵から創造され、神の命の息が吹きこまれて生きる者になり、その人のために植物や動物が創造されたと描かれています。なぜ二つの創造物語があるのか、著者が異なるからです。文献学的には、創世記2章は紀元前10世紀ソロモン王国時代に書かれたと言われています。国土が拡張され、産業が興り、国は豊かになった、しかし同時に人々は驕り高ぶり、自分たちだけで何でもできるように思い、人間の力を過信するようになっていた。その同時代の人々に著者は、「人間は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語ります。創世記は最初に紀元前10世紀のヤーウェストと呼ばれる人々が基本を構築し、紀元前6世紀の捕囚時代の祭司たちがそれに加筆補正してできた書物と考えられています。
・創世記は2章4節から新しい物語を語り始めます。「主なる神が地と天を造られた時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(2:4-5)。創造前の世界は水がなく、また土を耕す者もいないため荒涼たる世界であったと著者は記します。大地は水が与えられ、耕す者がいて、初めて収穫をもたらします。その大地に主は水を与えてくださった、それが2:6「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」に表現されています。あと必要なものは耕す人です。それ故に神は人間を創造されたと創世記は語ります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。ここに二つのことが語られています。一つは神が「土の塵」で人を創造されたこと、二つ目は神が「命の息(霊)」を吹き込まれて人は生きる者となったということです。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、はかない存在に過ぎないことを示します。人は死ねば土に返って行く、はかない存在です。しかし、その無価値な存在に、神は「命の息」を吹き込まれた。そして人は生きるようになった。肉体は土でできていても精神は神の霊で構成されている、人間はそのような存在だと創世記2章は語ります。
・そのような人間に、神は園を耕し、管理する業を委ねられます。「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」(2:8)、そして「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。「耕す=ヘブル語アーバド」は「働く、仕える」という意味も持ちます。仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかったが、人が地に働きかけ、耕して行く時、地は収穫をもたらします。耕す(cultivate)時に、そこに文化(culture)が生まれていく、ここに聖書の労働観があります。人は働くために創造され、使命感をもって働く時こそ、本当に生きる存在となるとの主張です。

2.向き合う存在としての他者の創造

・人を創造された神は、園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたと著者は書きます。そして、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)と言われました。3章ではアダムとエバが戒めを破って知識の木の実を食べることが記述されます。教会ではこの物語を「堕罪物語」、あるいは「原罪の起源を説明するもの」と理解してきました。しかし、創世記の文脈からはそう読むべきではないと思います。この物語ははるか昔に起こった何かについて語るのではなく、現在の人間の在り方について語っているのです。なぜこの世に罪があるのか、なぜ人は憎みあい、殺しあうのか、それは人が「神のために働き、仕えることに幸福と自由を見出す」生き方ではなく、「神のようにすべてを知り、自分の力で生きることにより、幸福と自由を勝ち取る」という生き方を選択したからではないかと理解し、そのことを物語として提示しているのです。神を中心に他者と共存して生きる道か、自己を中心に他者を支配する道かが人間に与えられ、人は他者を支配する道を選んだ、だからこの世には罪が満ち溢れていると創世記著者は考えています。
・さて、人は創造されましたが、共に生きる者が居ませんでした。そこで神は言われます「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)。人は一人でいるべき存在ではなく、他者との出会いと交わりの中に生きる存在であると聖書は語ります。「人に合う助ける者」として最初に動物が創造されますが、動物はその役割を果たさなかった、なぜなら動物は人との人格的関係を持てなかったからだと創世記は語ります。そして最初の向き合う存在=他者として女が造られます。21-22節「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた」(2:21-22)。人と共に生きる者として女性が創造されました。そして「男=イシャーから取られたものだから女=イシュと呼ぼう」と名づけられます(2:23)。一つの体から造られた故に、男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という新しい命を生み出していくという理解です。「こういうわけで男は父母を離れ、女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)。結婚によって家族が形成され、それが社会の基本単位を構成していきます。
・先に創世記2章は紀元前10世紀のソロモン時代に書かれたと申しました。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っていました。そのような中で創世記2章の著者は、人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではないと批判しています。また当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶って子をなしてもよいとされていました。そのような風潮に対し、彼は夫婦関係こそ社会の基本単位であって、人はそのように創造されたと主張しています。今から3000年前に夫婦関係こそ家族の基本であるとの主張があったことは驚くべきことであります。

3.他者と向き合うことが出来ない存在が変えられる

・女が造られることによって、人は一人ではなく、共に生きるものとなりました。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。今日の招詞に創世記3:11-12を選びました。次のような言葉です「神は言われた『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか』。アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』」。エデンの園で、神は「園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」(2:9)、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(2:17)と命じられました。しかし、人は、禁じられたその実を食べ、神から譴責されます。人は禁断の実を食べたことにより罪人となり、楽園を追い出されたと通常は理解されていますが、創世記を注意深く読むとそうではないことが明らかになります。人の犯した最大の罪は、神の命じた戒めを守らなかったこと以上に、神が与えて下さった恵みを捨てたことです。人は一人では生きることが出来ない故に向き合う存在を与えられましたが、いざとなるとそのともに生きるべき妻を捨ててしまったのです。
・人は妻が与えられた時、妻を「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これをいとしみました。ところが自分の責任を問われるようになると人は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と責任を妻に転嫁します。彼は自分の犯した罪の責任を取ろうとしないばかりか、その責任を神につき返します「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。女も言います「蛇が悪いのです。あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかった」。神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれ、人は楽園から追放されます。人は罪のゆえに楽園から追放されて、荒れ野のような世を生きなければならなくなった。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪だと創世記2章を書いた著者は語ります。
・しかし、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は人間を裸のままに追放されたのではなく、着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されます。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になりました。人は地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配できないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知ります。「食べれば死ぬ」と言われた罪を犯したのに、神は生きるための糧を神が与えてくださる事を知ります。女は苦しんで子を産むことを通して「お前たちは死ぬ」と呪われた存在であるのに、生命の継承を許してくださる神の恵みを知りました。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ったのです。
・私たちがこの創世記2章の物語を、単なる神話と受け止めたとき、それは私たちと無関係の文書になります。そうではなく、創世記を私たちに語られた神の言葉として受け入れた時、人は何故他者を愛することが出来ないのか、人は何故最愛の人さえも平気で裏切るのかという私たちの本質が問われ、自分の本当の姿、罪が明らかになります。そして「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになります。私たちは自分たちが今楽園の外(エデンの東)にいることを知るからこそ、教会に集まり、創世記を共に読みます。そして「他者と向き合う」ことができる存在に変えられるように、主なる神に祈るのです。


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