すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-29 19:09:00 (119 ヒット)

1.イシマエルの母ハガルの妊娠

・アブラハムは「子を与える」との約束を神から受け、それを信じた(15:4)。しかし妻サラは不妊で子供が生まれる気配もない。アブラハムとサラは約束の成就を待ち切れず、自分たちの力で神の約束を満たそうとした。
−創世記16:1-3「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った『主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません』。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」。
・妻に子が産まれない時、側女に子を産ませて世継ぎを得ることは許されていた。しかし相続の際には紛争が生じ、申命記はその処理規定を設けている。律法もやむを得ないものとして多妻制を認めている。しかし、側女に子が生まれ正妻に子がなければ、側女は正妻を見下すようになる。アブラハムの家でも妊娠したハガルが正妻サラを下に見るようになり、嫉妬に狂ったサラはハガルを追放するようアブラハムに迫る。
−創世記16:4-5「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。サライはアブラムに言った『私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように』」。
・サラとアブラハムが為したことは、約束の成就を待たずに、自力で解決しようとしたことだった。二人は「子を授かる」のではなく、「子を造る」ことを選択した。現在でも子のない夫婦は不妊治療を行ってでも子を持とうとする。子供なしには家族とは言えないのだろうか。難しい問題だ。
-不妊治療を行った男性からの告白「40歳を過ぎた頃から、学生時代の友人と飲みに行くと、必ず『不妊治療』の話になった。妻の必死な姿を日々目の当たりにしているから、安易に『止めよう』とは言えない。僕も授かれるものなら授かりたいという気持ちもある。ただ、僕は途中から『無理だろう』ということはわかっていた。人工授精も、体外受精もやったが、何度も妻は流産した。それでも、彼女が諦めの境地に達するまでは、僕からは『終わりにしよう』とは言えなかった。彼女が自分を責め、あらゆる努力をしていたのを間近で見ていたからだ。その頃は、家に帰るのが辛かった。私たちが不妊治療を終焉させることが出来たのは、妻が45歳を過ぎてからだ。一般的な年齢よりかなり早く、更年期障害になった。それで妻は、ようやく、残りの人生を二人で過ごしていく踏ん切りをつけることができた」(朝日新聞2015年10月23日)。
・アブラハムはハガルの追放を黙認し、サラはハガルを家から追い出す。これが「信仰の父」(ヘブル11:17)と言われ、「信仰の母」(1ペテロ3:6)と言われた二人が行ったことだ。創世記は二人の醜さを隠さない。二人も私たちと同じように、過ちを犯し続けながらも主の名を呼び続けた
-創世記16:6「アブラムはサライに答えた。『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』。サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」。

2.イシマエルの誕生

・ハガルは逃げて砂漠をさまよう。そのハガルに主の使いが現れ、元いた場所に帰るように促す。
―創世記16:7-9「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』。『女主人サライのもとから逃げているところです』と答えると、主の御使いは言った。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」。
・彼女は女奴隷であり、故郷のエジプトに戻っても保護してくれる家はなかったであろう。彼女はアブラハムの天幕に帰る以外に子供を安全に生む道はなかった。主は使いを通して、「私があなたと生まれてくる子を守る」と語られる。
-創世記16:10-12「主の御使いは更に言った。『私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』。主の御使いはまた言った。『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。 彼は野生の驢馬のような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす』」。
・イシュマエル、「神聞きたもう」の意味である。当時の世界では奴隷は人の数にも入らなかった。しかしそのような女奴隷さえも気にかけてくださった神に、ハガルは感謝し、神を「エル・ロイ」と呼んだ。
-創世記16:13-14「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないか』と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある」。
・ハガルはアブラハムの天幕に戻り、アブラハムとサラも事の次第を聞いて悔い改め、ハガルを迎え入れ、彼女は子を産む。その子はイシュマエルと名付けられた。
-創世記16:15-16「ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。
・このイシュマエルがアラブ人の祖となる。神はアラブ人さえも祝福されている。今日のイスラエルではアラブ人(パレスチナ人)は迫害されているが、これは聖書的には間違った行為である。アラブ人もユダヤ人も共にアブラハムの子なのだ。
-創世記25:7-9a「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」。
・人がこの神(エル・ロイ=私を顧みられる神)を見出した時、どのような境遇の中にも帰っていくことができる。それはヨブが苦しみの中で見出した神であった。
―ヨブ記36:15「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。
・この神こそが、放蕩息子が立ち返ることを待ち望まれる神である。
ルカ15:20-21「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」

3.イシマエルの追放

・イサクの誕生でアブラハム家に笑いが生まれた。しかしその笑いが一瞬にして悲劇に変わる。感謝してイサクを受け取ったサラが、今度は嫉妬のために側室の子イシマエルの追放を画策する。
−創世記21:8-10「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」。
・子の生まれないアブラハム夫妻はイシマエルを相続人として育ててきた。イシマエルもまたアブラハムの子なのである。しかし正妻の子が生まれると、側室の子は邪魔になる。サラの信仰も現実の前に砕ける。アブラハムは二人の子を前に悩む。しかし神は、「相続人はイサクであり、イシマエルは追放せよ」と言わ、アブラハムは神の言葉に従う。
−創世記21:11「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」。
・アブラハムはイシマエルとその母を追放する。二人の生存は主に委ねられた。
−創世記21:14「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」。
・母と子が荒野をさまよう。彼らはやがて水がつき、死を覚悟する。
−創世記21:15-16「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」。
・しかし神はイシマエルとその母を保護される。彼もまたアブラハムの子だからである。
−創世記21:17-21「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいた時、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた」。

4.新約聖書はこの物語をどう受け止めたのか

・パウロはガラテヤ書の中で、イサクを霊の子と呼び、イシマエルを肉の子と呼んで区別し、ユダヤ人同胞にあなた方は霊の子であり、相続人であると強調する。
−ガラテヤ4:22-31「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした・・・兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。要するに、兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」。
・創世記は「イシマエルがイサクを迫害した」とは記していないし、神は「イシマエルをも顧みられた」とある。パウロでさえ、聖書の読み方を間違えるのだろうか。へブル書もまたアブラハムとサラの信仰を強調している。人は聖書からも読みたいことを読んでいくのだろうか。
−へブル11:11-12「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」。
・ユダヤ教は、通常イシマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されている。イスラムでは、イシュマエル(イスマーイール)に対して肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシマエル母子を追体験するものとされている。イスラムの伝統では、イシマエルを全てのアラブ人の先祖とみなしている。イスラム教の開祖ムハマッドは「コーラン」の中で、みずからをイシマエルの子孫と称しているという。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-22 17:31:34 (162 ヒット)

1.創世記17章のサラ

・妻サライも名を変えるように言われる(サライ→サラ)。そしてサラを通して後継ぎを与えると約束されるが、アブラハムはこれを笑う。
―創世記17:15-17「神はアブラハムに言われた『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る』。アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
・疑うのが当然である。24年間も成就しない約束を信じ、高齢になった老夫婦に子を与えるとの約束を信じることができるだろうか。アブラハムは先に側女ハガルとの間にイシマエルをもうけている。彼を跡継ぎにすると言明するが、神はその子ではないと言われる。
-創世記17:18-19「アブラハムは神に言った『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』。神は言われた『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする』」。
・サラもアブラハム同様に神の約束を信じることはできない。
―創世記18:11-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、サラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・100歳の男と90歳の女からどうして子が生まれよう、冷笑するしかない出来事ではないか。信仰の父と呼ばれるアブラハムでさえ、信じることはできなかった。そのアブラハムを主は用いられる。二人が信じたのは約束が現実になった時である。
-創世記21:1-6「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。
・神はアブラハムに言われる「私は全能の神であるゆえに、あなたは全き者となれ」。この全き=ターミームは道徳的な完全ではなく、神を信じることにおいての完全である。アブラハムはこれまでも繰り返し神を疑い、約束を待てず、自分の力で子を持とうとしてきた。そのアブラハムに改名が言い渡され、この日から疑う者、待てない者ではなく、信じて待つ者、神に己を委ねる者になれという意図がそこに込められている。

2.創世記18章のサラ

・三人の旅人がアブラハムの天幕を訪れ、アブラハムはこれを歓待する。過酷な砂漠にすむ遊牧民には、旅人をもてなすのは当然の慣習だった。アブラハムは旅人たちが主の使いであることには気づいていない。
−創世記18:1-5「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』。その人たちは言った『では、お言葉どおりにしましょう』」。
・アブラハムは三人にパンを提供し、子牛の料理を用意してもてなした。
−創世記18:6-8「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい』。アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」。
・やがて「サラに子供が生まれる」との予告がなされ、その時アブラハムは彼らが主の使いであることがわかった。
―創世記18:9-10「彼らはアブラハムに尋ねた『あなたの妻のサラはどこにいますか』。『はい、天幕の中におります』とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った『私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう』。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。
・サラはこの予告を聞いて冷笑する。彼女は生理もとっくの昔に終わり、今更アブラハムと性的交わりをする年齢ではない。その自分に子が与えられるはずがない。笑うしかないではないか。
―創世記18:10-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・主の使いは冷笑するサラを叱咤する「主に不可能なことがあろうか」と。サラは思わず「笑っていません」と弁解する。
―創世記18:13-15「主はアブラハムに言われた『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている』。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った『私は笑いませんでした』。主は言われた『いや、あなたは確かに笑った』」。
・ヘブル書の著者は、このときサラは「不可能を可能にする主を信じた」と記述するが正しくない。サラは信じなかったし、アブラハムも信じなかった。「不可能を可能にする」主を信じるためには、私たちはその事実を直接見る必要がある。そして神は私たちに見せて下さる。信仰はそこから始まる。
―ヘブル11:11「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」

3.創世記21章のサラ

・長い間約束されていた子が終に生まれた。サラは男の子を生み、アブラハムは子にイサクという名前を与える。イサク(彼は笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられた。
−創世記21:1-4「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」。
・サラは不可能を可能にする神を賛美して歌う「神は私に笑いをお与えになった」と。
−創世記21:5-7「息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』。サラはまた言った『誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかし私は子を産みました、年老いた夫のために』」。
・イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳であったとされる。不可能を可能にする神の業が示された。後代の人々は二人の信仰がそれを可能にしたと二人を讃える。
―ローマ4:18-22「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。
・しかしパウロの称賛は事実と異なる。創世記のアブラハムは子の誕生を疑ったし、サラも信じなかった。私たちは事実を見つめたうえで神の奇跡を見る必要がある。神は人間の不信にもかかわらず、その業をなさる。
−創世記17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
−創世記18:12「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-15 21:27:34 (100 ヒット)

1.ロトへの警告(1-14節)

・主の御使いは夕刻にソドムに着き、ロトの家に招かれる。ロトはソドムで結婚し、二人の娘を得ていた。
−創世記19:1-3「二人の御使いが夕方ソドムに着いた時、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った『皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください』。彼らは言った『いや、結構です。私たちはこの広場で夜を過ごします』。しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした」。
・そこにソドムの男たちが押しかけ、二人の旅人を出せと求める。
―創世記19:4-5「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから』」。
・ロトは抵抗するが、町の人々は有無を言わせず、押し入ろうとする。ロトは代わりに二人の娘を提供するというが人々は目もくれない。ロトの申し出は現代の私たちには論外であるが、客人を守るために娘を提供することは当時の人々には当然の論理だったのだろう。
−創世記19:6-9「ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った『どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから』。男たちは口々に言った『そこをどけ』。『こいつは、よそ者のくせに、指図などして』。『さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる』。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」。
・ソドムの罪の一つは男色(ソドミー)であったと言われる。男色は旧約聖書では死罪に当たる罪である。
―レビ記18:22-25「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前から私が追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである』」。
・預言者は、ソドムが自分たちの利益のみ求め、他者を顧みなかったことを滅びの原因と見る。
―エゼキエル16:49-50「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、私の目の前で忌まわしいことを行った。そのために、私が彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見た通りである」。
・イエスもソドムの罪を、隣人を迎え入れなかったことにあると見ておられる。
−マタイ10:14-15「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。

2.ソドムの滅亡とロトの救済

・御使いたちは今から裁きが始まるゆえに、「家族を連れて逃れよ」とロトに命じる。
−創世記19:10-13「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。二人はロトに言った『ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。私たちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、私たちを遣わされたのです』」。
・ロトは娘婿に共に逃げるように伝えるが彼らは嘲笑して従わない。結局、妻と二人の娘を連れて逃れる。
−創世記19:15-17「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った『さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまう』。しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。主の彼に対する憐れみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、その一人は言った「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう』」。
・日の出と共に裁きが始まった。具体的には地震によると思われる地下の硫黄の噴出が町を焼き尽くした。
―申命記29:23「全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、昔、主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである」。
・主はロトの一族を救済しようとするが、妻は逃げ遅れて死ぬ。
−創世記19:23-24「太陽が地上に昇った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」。
・死海周辺は天然アスファルトや硫黄のような可燃性鉱物に満ちていた。おそらくは地震等の地殻変動により、それらの鉱物が発火・爆発して周囲の町々を飲み込んでしまったのであろう。それは自然現象である。その自然現象の背後に創世記は神の裁きを見る。3.11の地震・大津波もまた自然現象である。私たちは3.11の背後に「見えざる神の手」を見るべきなのだろうか。また現代の人間は地球を何度も破壊できるだけの核兵器を所有している。それは硫黄とアスファルトに隣接して住んでいたソドムの危険性と同じなのではないか。さらに人間は原子力発電所を作り、電気を得ているが、一たび苛酷事故が起きればその地域は廃墟になってしまう。神は福島原発事故を通して私たちに警告を発しておられるのだろうか。ソドム滅亡の物語から現代の私たちに何を覚えるべきなのだろうか。

3.ロトと娘たちへの守り

・結婚相手を失った娘たちは、ロトによって子を生む。
―創世記19:30-31「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ・・・彼は洞穴に二人の娘と住んだ。姉は妹に言った『父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、私たちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう』。娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった・・・娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(私の肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である」。
・これはふしだらな行為なのであろうか。創世記記者はこの出来事を批判しない。このような形であれ、子孫を継続することは神の祝福と彼らは理解している。
−創世記1:28「神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。
・このようにして生まれてきた子供たち(モアブとアンモン)も、主の保護下にある。彼らもまたアブラハムの一族なのである。
―申命記2:9-19「主は私に言われた『モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた』。・・・主は私に仰せになった『あなたは、今日、モアブ領アルを通り、アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた』」。
・ロトはアブラハムのゆえに神に思い起こされて助けられた。一人の正しさは世を救う。キリスト者の地の塩としての存在意味もそこにあるのではないか。
−創世記19:29「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-08 16:39:04 (105 ヒット)

1.イサク誕生の予告

・三人の旅人がアブラハムの天幕を訪れ、アブラハムはこれを歓待する。過酷な砂漠にすむ遊牧民には、旅人をもてなすのは当然の慣習だった。アブラハムは旅人たちが主の使いであることには気づいていない。
−創世記18:1-5「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』。その人たちは言った『では、お言葉どおりにしましょう』」。
・アブラハムは三人にパンを提供し、子牛の料理を用意してもてなした。
−創世記18:6-8「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい』。アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」。
・やがて「サラに子供が生まれる」との予告がなされ、その時アブラハムは彼らが主の使いであることがわかった。
―創世記18:9-10「彼らはアブラハムに尋ねた『あなたの妻のサラはどこにいますか』。『はい、天幕の中におります』とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った『私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう』。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。
・サラはこの予告を聞いて冷笑する。彼女は生理もとっくの昔に終わり、今更アブラハムと性的交わりをする年齢ではない。その自分に子が与えられるはずがない。笑うしかないではないか。
―創世記18:10-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・主の使いは冷笑するサラを叱咤する「主に不可能なことがあろうか」と。サラは思わず「笑っていません」と弁解する。
―創世記18:13-15「主はアブラハムに言われた『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている』。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った『私は笑いませんでした』。主は言われた『いや、あなたは確かに笑った』」。
・ヘブル書の著者は、このときサラは「不可能を可能にする主を信じた」と記述するが正しくない。サラは信じなかったし、アブラハムも信じなかった。「不可能を可能にする」主を信じるためには、私たちはその事実を直接見る必要がある。そして神は私たちに見せて下さる。信仰はそこから始まる。
―ヘブル11:11「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」

2.ソドム滅亡の予告

・その後、主のみ使いは、「ソドムとゴモラをその罪のゆえに滅ぼす」予定であることをアブラハムに告げる。
―創世記18:16-21「その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた『私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである』。主は言われた『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」。
・ソドムとゴモラをその罪のゆえに滅ぼすとの主の言葉は、洪水物語と同じ類の言葉である。洪水物語では「人間の悪を許容する」と言われた主が、何故ここでは滅ぼすと言われるのか。アブラハムは抗議する。
―創世記18:22-25「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」。
・アブラハムがソドムの運命に関心を持つのは、一つはソドムに甥のロトが住んでいた故であろう。しかしそれ以上に、アブラハムは「悪人がその悪ゆえに滅ぼされることを願わず、正しい者の存在ゆえに赦されることを願う』気持ちがあったからであろう。正義とは「人の罪の赦しを神に執り成し、祈る」ことだとある注解者は記した。アブラハムは必死に執り成す。
−創世記18:27-31「アブラハムは答えた『塵あくたにすぎない私ですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか』。主は言われた『もし、四十五人いれば滅ぼさない』。アブラハムは重ねて言った『もしかすると、四十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その四十人のために私はそれをしない』。アブラハムは言った『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません』。主は言われた『もし三十人いるなら私はそれをしない』。アブラハムは言った『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その二十人のために私は滅ぼさない』」。
・アブラハムはソドムの町に10人の正しい人がいれば滅ぼさないとの主の確約を取るが、そこで止める。正しい者が一人もいないであろうことを知ったからである。
−創世記18:32-33「アブラハムは言った『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その十人のために私は滅ぼさない』。主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」。
・後の時代に主はエレミヤに言われた「エルサレムの町に正しい者が一人でもいれば私は滅ぼさない」(エレミヤ5:1)。「正しい者が一人でもいれば滅ぼさない」、それが神の宣言である。しかし、自分は正しいと言う者はいても、神の眼から見て正しい者は誰もいない。パウロの語る通りである。
−ローマ3:9-12「では、どうなのか。私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。
・ソドムのある死海地域は海抜マイナス418mと地表で最も低い場所で、アスファルトや硫黄等の可燃性鉱物が大量に地下に埋蔵されている。また東アフリカからトルコにかけての大地溝帯に位置している。ソドムの滅亡は地震等により地下の鉱物や気体が発火し、爆発と大火災を起こして、町々が埋没し、遺跡は死海の下に眠ると推測されている。町々の滅亡があまりにも劇的であり、人々は町々が「神の裁きにより滅ぼされた」と理解し、それが伝承となり、滅亡物語を生んだと思われる。
・ソドム滅亡の話はイエスの説話の中にも現れる。「私たちもまたソドムの住民であり、滅ぼされても仕方のない存在であるのに、神の憐れみにより生存が赦されている」ことを知れと、イエスは言われている。
−マタイ11:23-24「カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-01 20:53:36 (107 ヒット)

1.アブラハムの召命

・創世記1−11章は原初史だが、それは「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史である。「人は神に背き、離反したが、神は人を見捨てられない。神は新しい救いの業として、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通してすべての人を救うことを計画された。それがアブラハムの召命に始まった」と創世記著者は告白する。アブラハムは主の召命を受けて、どこに行くのかも問い返さず、それに従った。
−創世記12:1-4「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。
・アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民だった。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住している(創世記11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地であり、そこでは月神が礼拝されていた。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住し、テラはそこで死ぬ。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがあった。
−創世記12:4「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」。

2.アブラハムの旅立ち

・アブラハムは信仰の決断をした。ヘブル書はアブラハムの信仰をたたえる。
−ヘブル 11:8-10「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。
・アブラハムは約束の地に到着し、「あなたの子孫にこの土地を与える」との約束を受ける。そこには先住民族が住んでいたが、アブラハムはこの約束を信じ、祭壇を築いて主を拝した。
−創世記12:5-7「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」。
・シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理だった。彼はシケムを離れてベテルに南下する。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからだ。
−創世記12:8「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」。
・しかし、ベテルにも居場所はなかった。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかった。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移す。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めている。
−創世記12:9「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」。

3.アブラハムの罪とその赦し

・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉だった。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができない。アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下りる。
−創世記12:10「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」。
・これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝している。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はない。おそらくはアブラハムは一族と家畜を守るために、自分の判断でエジプト行きを決めた。この時、アブラハムの中で何かが崩れた。彼はもはや神に頼れないと思い始めている。神の庇護を信じられない者は他者を恐れる。アブラハムは妻サラが際立って美貌であることが気になる。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険だ。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからだ。そのためアブラハムは妻サラを妹と偽ってエジプトに下る。
−創世記12:11-13「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」。
・アブラハムの懸念は現実となった。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れ、アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になる。信仰の父と言われる人が、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになった。アブラハムは妻をエジプト王の側室に売って、身の安全と繁栄を図ろうとした。
−創世記12:14-16「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」。
・しかし、主はサラを救出される「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知り、彼に問いかける「あなたは私に何ということをしたのか」。
−創世記12:17-20「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った「あなたは私に何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、私の妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい』。ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」。
・「あなたは私に何ということをしたのか」、ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」は創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われた(4:10)のと同じ言葉だ。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われた。
・13章は帰国後のアブラハムを描く。アブラハムはエジプトからカナンに戻ると、最初に主を礼拝した。アブラハムは主を信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきた。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることだった。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まった。
−創世記13:3-4「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。
・創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語だが、12章後半は罪人アブラハムの物語だ。そしてそのどちらもがアブラハムなのだ。人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在だ。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されたが、主は二人に革の衣を与えて保護された(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られた(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られた(13:2)。私たちも罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていく。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのではないだろうか。


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