すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-10 21:12:30 (108 ヒット)

1.エルサレム教会への献金問題

・第二コリント書を読み続けています。本日読みます9章は前回8章と並んで「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立してきました。やがてそれら異邦人教会が母国のエルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、それと同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。私たちの教会も新小岩バプテスト教会を母教会として生まれましたが、今では母教会とは違う形の教会形成を行っています。そのためパウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援のための献金を進めていました。献金は結果的には成功したようですが(ローマ15:25-27)、その過程では様々な混乱が起こりました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。複数者を送るのは献金運動についての誤解を解くためでした。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。教会がお金を扱うときにはこのような慎重さが求められます。私たちの教会でも毎月始の第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、それをどのように用いたのかを、1円単位で報告しています。献金には公平性と透明性が必要だからです。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」。蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金できるということは、たくさん与えられたことだ。その恵みをお返しするのが献金ではないか」とパウロは語ります。
・パウロは後にエルサレム教会へ献金を届ける旅に出ますが、その時次のように述べています「しかし今は(ローマのあなた方の所ヘは行かず)、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:25-27)。エルサレム教会から「霊的なものにあずかったのですから、肉のもので(献金を通して)彼らを助ける」のだと。

2.恵みとしての献金

・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだと。イエスが語られたように、「神を愛するとは隣人を愛する」ことです(ルカ10:27-28)。だからパウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・パウロの願いは、献金の交わりを通して、エルサレム教会と異邦人教会の間の誤解が解け、共に神を讃美するようになることです。パウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。そしてパウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。

3.私を試してみよと言われる神

・今日の招詞としてマラキ3:10を選びました。次のような言葉です。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」。マラキは「神はあなた方が貧しいことは知っておられる。しかしその貧しさの中で収穫の十分の一を捧げてみよ、そのことを通して、あなた方が神に生かされていることが明らかにされるであろう」と語ります。ここでのマラキは物質的な見返りを約束しています。マラキは続けます「私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」(マラキ3:11-12)。献金には祝福が伴います。
・曽野綾子「心に残るパウロの言葉」の中に、「神様、ケチケチしないで」という一文があります。曽野さんの知り合いの男性、ボランティア活動に熱心で、時々まとまった額のお金も捧げていたそうですが、ある時に彼女に語ったそうです。「面白いことに余分に出すと、その分くらい信じられないほどの儲けがある。神様が埋め合わせをしてくださるのかと思う。それである時、思い切って神様に言って見たのです“出した分の埋め合わせなど、そんなケチケチしたことをしないで、もっとガバっと儲けさせて下さい”。ところが面白いもので、決してそうはならない。あくまでもその分くらい埋め合わせをして下さる」。献金を通して恵まれる出来事は実際にあります。教会会計が「恵みの会計」と言われる根拠も底にあります。不思議なことに必要な分は与えられますが、必要以上のものは与えられない。
・しかし私たちには疑念も残ります。例えば、「飢餓が発生している所で、最後の一口の食物を子どもに与えた者は自分の死期を早めるだけではないだろうか」、あるいは「災害救助のために献金をしても、私の年金額が増えるわけではない」、その現実もまた確かにあります。私たちにはバランスのとれた献金理解が必要です。マラキ書から「十分の一献金」の考え方が生まれましたが、硬直的に考える必要はないと思います。パウロは語ります「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(9:7)。日々の糧に事欠く人が十分の一献金を捧げることは家計を破綻させます。神は決してそのような献金を望まれない。他方、高額所得の人が十分の一を捧げたらそれで十分に捧げたことにはなりません。献金は投資ではなく、既に多くのものをいただいた事に関する感謝です。十分の一はあくまでも基準であって、「持てるものに応じて、心に決めた通りに」、捧げれば良いのです。
・今日貧困が世界的な現象になっています。この問題は、私たちの献金で解決できるわけではありません。そのためには社会の構造転換が必要です。同時にその中で、私たちが出来ることを行っていくことは大事です。だから私たちの教会では、毎月第三主日の席上献金をペシャワール会、海外医療協力会、ギデオン協会等に捧げることによって社会の構造転換に関わっていくのです。それは小さな行為ですが、献金を通して資産・所得の再配分行為に参加していきます。献金は神からの贈り物であり、私たちが献金できるように恵んで下さったのは神であり、献金を通して私たちは隣人を愛していくのです。「福音がどんなに高等な理論として説かれても、実際の生活に生きてこなければ福音ではない」(榎本保郎)、私たちは「献金を通して隣人を愛せという教えを具体化していく」のです。そのことを覚えたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-04 08:50:13 (94 ヒット)

1.パウロの困難

・新しい年を迎えました。2015年はどのような年になるのでしょうか。あるいはどのような年にしていただくのでしょうか。私たちは今年もパウロの福音の言葉に耳を傾けていきたいと思います。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロは私たちからの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、何故わかってくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている。だから伝道がうまくいかないのだ」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉さえも心を開かれない人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。

2.この土の器に

・今のパウロは、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私を見るのではなく、私が持ち運んでいる福音を見よ」と語ります。それが7節の言葉です「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。パウロはここで訴えています「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方はその私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ。私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ないだろう。だから私は自分が土の器であることを恥じない」と。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。現在のパウロは失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを神の祝福を受けていない失敗者のように見ていたことでしょう。まるで廃棄される土器のように見棄てていたのでしょう。しかしキリストも十字架上で廃棄されました。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。だから語ります「こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(4:12)。パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。このイエスの十字架と復活こそがパウロの命の源泉であるのです。

3.希望の福音

・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命、肉体は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、また気力も低下していきます。人は土で作られた故に、死ねば土に帰るのです(創世記2:7)。しかし、「内なる人」、キリストと共にある生命は衰えることがありません。神によって生かされている命は、年をとってもなお生命力を増すのです。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは次のように語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。そしてキリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。それを実際に体験するために、私たちは洗礼を受けるのです。そしてこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。つまり「内なる人」をいただくのです。
・OECDの「幸福度調査」(Better Life Index,2012年)によれば、日本人は経済的に豊かなのに幸福度は低いという結果が出ています(日本の幸福度は21位/36カ国)。これまでは経済的豊かさこそが国民を幸せにすると考えられていましたが、どうやら違うようです。社会学者の吉中季子氏は「幸福度と社会的孤立度とは強い相関を持つ」と考えています(名寄市立大学社会福祉研究紀要)。社会的孤立度を図る指標「自分以外の人と一緒に過ごす時間が殆ど無い」という人が日本では15.3%もいて、これはOECD諸国平均(6.7%)の二倍以上、この孤独感が日本人の幸福度を大きく低下させているようです。日本では、かつてあった地域共同体や会社共同体が崩れ、また家族共同体も崩れ始め、人と人の絆が低下しています。都道府県別調査では福井、富山、石川等比較的に地域共同体が強い地方が幸福度上位を占め、東京や大阪の大都市圏はかなり低くなります。人は一人では行きていけない、誰かのサポート無しには生きていけない、そのサポートが極端に低くなり始めているのが現在の日本です。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。そのイエスの力は教会の交わりを通して与えられます。だからパウロはコリント教会が如何に頑なでもコリントから離れないのです。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-28 08:58:05 (109 ヒット)

1.キリストの香り

・クリスマスを前にしたアドベント第三主日に、私たちは第二コリント書2章後半から3章前半の部分を読んでいきます。「クリスマスなのに何故コリント書か」と疑問に思われる方もおられるかもしれません。一つにはこれまでコリント書を1章ずつ読み進めてきたからですが、同時に今日の箇所には、私たちがどのようにクリスマスを迎えるべきかについての御言葉があると思えるからです。コリント書を読んでいきましょう。
・コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会の人々の信仰は動揺していました。具体的には、伝道者たちは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け、律法を守ることによってではない」という福音を否定しました。そしてパウロは「エルサレム教会からの推薦状を持たないから使徒ではない」と非難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書き、それが2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。
・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都ローマで皇帝と大群衆の前に凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には征服地から奪った宝物が運ばれていきます。次に捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、将校たちや兵士たちを従えて行進します。
・祭司たちが振りまく香は、将軍と兵士たちには喜びと勝利と生命の香りであり、他方戦争捕虜たちにとっては死の香りでした。だからパウロは書きます「(それは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。パウロは「福音の香りも同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」と語るのです。パウロは先にも語っています「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。福音はそれを聞く者に「根本的に生き方を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はその生き方を変えた。だから私たちはあなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。

2.キリストの手紙

・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、異なる福音、律法による救いを唱え、教会を混乱させていました。彼らはエルサレム教会の使徒たちからの推薦状を携え、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていない」から偽使徒だと攻撃しました。パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」と語ります。「神の言葉を語ると称して報酬を得ているだけの存在が、エルサレム教会からの推薦状を持っていても何の価値があるか」と。
・それに対してパウロは「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、それはあなたがたなのだ」と語ります。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、それまでの異教礼拝を止め、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。この二つの事柄は、私たちに次のことを示します。つまり、「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。
・オランダの神学者ヘンドリック・クレーマーは1958年ケンブリッジ大学で講演し、その内容を「信徒の神学」として刊行しました。彼は語ります「現在は教職者が教会の管理者・代弁者であり、信徒の姿は見えないが、歴史的には信徒が教会形成に重要な役割を果たしてきた。しかし、やがて指導者の教職化・祭司化が始まり、按手を受けて礼典を執行する聖職者と礼典の受領者としての信徒の分離が進行した。宗教改革においても説教と礼典執行については教職委任の方向が残り、教職者が支配的な地位を占め続けた」。「しかし」と彼は続けます「教会は世にあって、世に仕える。その世で働く者こそ信徒であり、教会が世に仕えるためには信徒が不可欠である」。彼は日本に来た時に次のように語りました「日本の伝道は牧師がする直接伝道より、信徒の生活による間接伝道が必要だ。イエスは『あなた方の光を人々の前に輝かせ』と言われた(マタイ5:16)。『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言われた。御言葉を日々実行しなさい。それが伝道である。日本の教会は建物と牧師だけの教会である。信徒は死んでいる。その結果、教会は日本社会の中から浮き上がっている」。皆さんは「キリストの香り」、「キリストの手紙」なのです。日本の伝道が振るわないのは、みなさんが伝道の前線ではなく、後方にいるからではないかと思います。皆さんが伝道の最前線に立った時、日本の教会は確実に変わっていきます。

3.土の器に宝を持って

・今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れました。コリントの人々はパウロの行動を見てそれを人間的に判断し、その後ろにおられる神を見なかったからです。同じように、牧師と信徒の間の信頼関係が崩れた時、教会は危機を迎えます。何故なら、教会で御言葉が語られ聞かれるためには、語る者と聞く者との間に信頼関係がなければいけないからです。それは人間的な信頼関係ではなく、「神がこの人を私の牧者として遣わされた」という信頼関係です。牧師そのものの人間性を見れば、その信頼関係は揺らぎます。彼もまた「土の器」に過ぎないからです。しかしその牧師を神が立たせて下さったと受け入れた時、信頼関係が成立します。説教も同じです。人間が神の言葉を語ることは出来ません。語るのは人間であり、語られる説教もまた人間の言葉です。しかし、その言葉の中に神の言葉を聞きとった時、その説教は神の言葉になります。
・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。また彼は雄弁な説教者ではなかったようです(10:10「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」)。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで、私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。
・私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。クリスマスはキリストの生誕をお祝いする時です。世の人々はクリスマスソングを歌い、プレゼントを交換し、ケーキを食べます。しかし、私たちは、そのようなクリスマスを迎えることが出来ない多くの方々のために、キリストの香りを届け、キリストの手紙を配達します。「あなたは一人ではない。慰め主が共におられる。私たちはその方から使者として今日来ました」として、訪問する時です。手元には、クリスマス礼拝を知らせる一枚のチラシがあります。それは単なるチラシに過ぎませんが、「救われる者には命から命に至らせる香り」になりうるし、「墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられた手紙」にもなりうるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-25 13:33:13 (92 ヒット)

1. 埼玉県深谷市にある児童養護施設から参りました碾鶲貉氾未反修靴泙后L声4から続くクリスチャンホームに生まれました。私の名前からお父さんは牧師ですかと尋ねられる方がいらっしゃいますが、家族は農家です。両親には反発した時期もありましたが、導かれて23歳のときにイエス様を救い主として受け入れました。
2. 清水さんとは30数年前に青年海外協力隊員としてモロッコで知り合いました。私は、モロッコから帰国して、信仰がリバイバルされ、神様に導かれたのが、「貧しい子どもたちのために働く」ということでした。
3. そして、ワールド・ビジョンというクリスチャンの海外支援団体に入りました。その後25年間開発途上国の子どもたち、難民の子どもたち、ストリートチルドレン、障害児などの支援に携わりました。
4. 10年ほど前から日本の児童虐待の問題に心を動かされてゆき、物質的には途上国より満たされていても親の愛をしらない、心の貧しい日本の子どもたちへの思いが強くなりました。そして5年前にワールド・ビジョンを退職し、叔父叔母が創設した児童養護施設さんあいに園長として奉仕することになりました。
5. 全国には約600か所の児童養護施設虐待があり、約25000人の2歳から18歳までの家庭環境に恵まれない子どもたちが生活しています。家庭環境と言っても様々ですが、主に親に虐待を受けた子どもたちです。
6. 児童養護施設で生活する子は自分を愛することが苦手です。それは赤ちゃんの時から、親に愛情を注がれてこなかったことで、「自分は要らない存在」、「価値のない人間」ということが、深層心理にみついてしまっています。
7. ですから、子どもたちに「イエス様はあなたたちを愛していますよ」と言っても簡単には通じません。彼らにイエス様の愛を示すのには、彼ら自身が愛されるのに値する人間だと心から思えることから始めなければなりません。実はこれは大変なプロセスです。親の愛を体験していない子に愛を教える。これには、聴力を持たない人に音楽は素晴らしいさを教えるくらい難しいことです。
8. 具体的にさんあいで行われていることは、子どもたちの毎日の生活を支えることです。暖かいお料理を用意し、楽しく食事をする。お風呂に毎日入れてあげる。爪が伸びたら切ってあげる。寝る前に本を読んであげる。このような当たり前の生活の中で自分は大切にされていることを感じてもらうことが愛を知る第一歩となります。さんあいでは、「愛する」とは「大切にする」と訳しています。子どもたちを大切にする。食事を大切にする。健康管理を大切にする。勉強を大切にする。決していい加減な対応はしません。その中でイエス様の愛をしることの基礎を築こうと思っています。
9. 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所にきなさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」とイエス様は招いて下さっています。重荷を負っていない人間はひとりもいません。私自身も重荷を負っています。でも私より何倍もの重荷を小さな肩に負っているさんあいの子どもたちの手をとってイエス様のもとに行き、一緒に重荷を軽くして頂きたいを願っています。
10. 本日はペンテコステ礼拝です。私は昨年がんを患いました。辛かったこともありましたが、今振り返ると自分にとってはペンテコステの体験のようでした。弟子たちが力を得たように、がんを通して子どもたちのために内なる者が強められたと感じています。すべて神様に感謝です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-20 19:51:39 (101 ヒット)

1.復活と体のよみがえり

・今日、私たちは召天者を覚えて記念礼拝を行います。篠崎キリスト教会関係では、12名の方が対象になります。教会暦では11月1日が「諸聖人の日」、11月2日が「死者の日」とされています。教会暦の伝統ではこの日はお墓参りの日です。そのため、キリスト教会の多くが、11月第一主日に、「死者を覚える」礼拝を持ちます。仏教では死者の冥福を祈って「御経」を読みますが、キリスト教会では死者のために祈ることはしません。何故ならば死者は神の元に安らかに眠っていると理解するからです。そのため教会では、「死者の日」には家族の方に集まっていただき、故人を偲ぶと共に、「死とは何か」を聖書から聞いていきます。「残された者が良き死を迎えることが出来るように」との願いがそこにあります。そのためのテキストとして、今日は、使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の15章を読みます。この箇所には、「人間の死をどのように考えるか」が、中心的に記されているからです。
・パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。キリストの復活はキリスト教信仰の中心です。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方、すなわち人の肉体は滅びるが、霊魂は不滅であり、彼岸でさらに生き続けると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。それが15:3以下にあります信仰告白です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。キリストと呼ばれたイエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだキリストが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その復活の視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはローマ人への手紙の中で書きます「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロ−マ8:11)。パウロはコリントの人々にあなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は決定的な言葉を語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。また十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の背後にある「復活のイエスとの出会い」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの異常な心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、だから私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。

2.私たちは死んだらどうなるのか

・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、その生涯で3千人の方の死を見守りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問に対して何も答えられませんでした。誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きている」、いつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。つまり、それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・パウロがコリント書で語っているのも同じ意味ではないかと思えます。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(15:21-22)。アダムは創世記に出てくる最初の人間で、肉の人間を象徴しています。創世記の中で、神はアダムに、「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)と語ります。全ての人間は死という限界の下に生まれ、死ねば体は分解されて「ちり」に戻ります。しかし、キリストの復活によって全ては変わった。「最初の人アダム(肉の人間)は命のある生き物となったが、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」(15:45)。
・パウロは死者の復活を種の喩えで説明します「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(15:37-38)。植物の種は何もしなければ種のままに朽ち果てていきます。しかし地に蒔けば、やがて芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせます。種は一度土の中で死に、分解される(死ぬ)ことを通して、新しい体を形成していきます。しかし、最初の形(種)と次の形(花を咲かせる植物)は同じ存在です。人間でも同じように種(肉体)が死ぬ事を通して、植物(霊の体)が生まれていくとパウロは語ります「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(15:42-44a)。パウロが語るのは死んだ体の復元ではありません。死ぬ事によって新しい体が与えられる、それがパウロの語る復活です。そしてこれを信じる時、人は「死を新しい世界への出発だ」と認識できます。

3.復活信仰と日々の生活

・今日の招詞にコリント15:54を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。人間は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。これが聖書の知恵であり、私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。
・同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。しかし、パウロの語る「朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」ことには根拠があります。すなわち「キリストが復活され、彼は眠りについた人たちの初穂となられた」(15:20)からです。そしてキリストの復活は「ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ・・・最後にパウロにも現れました」(15:5-8)。つまり、多くの目撃証言に支えられている出来事なのです。
・柏木哲夫さんの言葉を再度振り返りましょう「人は死を背負って生きている」、「人は生きてきたように死ぬ」、そして「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来る」。柏木さんの言葉は経験的真実です。そして「キリストは眠りについた人たちの初穂となられた」というパウロの証言は目撃証言的真実です。キリスト者はこの経験的真実と目撃証言的真実を基礎に、復活の希望を持つのです。復活の希望を持つ故に、死を受け入れることが出来ます。死を受け入れることの出来ない人は語ります「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32b)。そこには刹那的な生き方しか生まれません。しかし死を受け入れることの出来た人は語ります「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(15:54b-55)。キリスト教信仰は「死への恐怖」から人を解放します。この解放にみなさんも招かれています。


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