すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-03-10 15:41:49 (99 ヒット)

2019年3月16日聖書教育の学び(2007年9月30日説教、ルカ16:19−31、この世で富むか、天の国で富むか)

1.富は祝福なのか呪いなのか

・先週私たちはパウロがテモテに書いた手紙を通して、富の問題を考えました。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です」(汽謄皀6:10)とまで言います。パウロは富そのものを否定しませんが、その富を自分だけのために用いようとする時、富は自分も他人も滅ぼす悪の根源になると言うのです。このパウロの言葉はイエスの言葉をよりどころとしています。イエスが富について話された箇所の一つがルカ16章です。今日は先週に続いて、富、あるいはお金の問題について、聖書から聞いていきます。
・イエスが集まった人々に「不正な管理人の話」をされたところから16章が始まります。こういう話です「ある金持ちの財産管理をしている者が、主人の財産を浪費して、解雇されることになった。管理人は職を失った時のことを考え、主人に負債のある者を呼び出し、ある人の負債を半分に、別の人は20%負けてやった。管理人を辞めさせられても、人々に恩義を売っておけば援助してくれるだろうと考えたからだ」。イエスはこの抜け目の無い管理人をほめられます「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(16:9)。彼は主人の金を用いてでも、富を現在ではなく将来のために使ったことをイエスは賞賛されたのです。そして言われます「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。
・パリサイ人はこの話を聞いて嘲笑しました。彼らは「自分たちは、神と富の双方に仕えることができる」と考えていたからです。彼らの考えはこうです「自分たちが豊かなのは一生懸命働いたからだ。貧乏人が貧しいのは彼らの働きが足りないからだ。聖書は正しい者は神の祝福を得る、その祝福とは穀倉が満たされる事だと言っているではないか(申命記28:8)。経済的繁栄は神の恵みなのだ」。このパリサイ人の考え方は今日でも主張されています「たくさん働いた人が多くの収入を得るのは当然であり、一部の人が貧しいのは自業自得なのだ」。前の小泉首相が主張し、安部政権が継承した「市場原理主義、自己責任原則」です。日本ではこの政策によって貧富の格差が拡大しました。先日発表されました国税庁調査では、年収300万円以下の労働者比率が38%になりました。短時間労働を志向する傾向のある女性を除いた男性だけでは、21.6%が年収300万円以下です。働いても、家族を養えない人が労働人口の1/5になったのです。もはや個人の努力の問題ではなく、社会構造の問題です。貧富格差をどうするかは、2000年前からあった、そして解決されていない問題なのです。この問題を解決するためにイエスは、「金持ちとラザロの例え」を語り始められます。この問題は現代の私たちの問題なのです。

2.金持ちとラザロの例え

・物語は三幕の劇のように構成されています。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場します。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は別に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもありません。ただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っているだけです。その金持ちの屋敷の前に貧乏人ラザロがいました。彼は飢えと病気で動けず、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていましたが、ただ犬が来てラザロの傷をなめるだけでした。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままです。
・第二幕は22節から始まります。ラザロも金持ちも死にましたが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれています。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いしラザロは食べるものもありませんでしたが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き金持ちは苦しんでいます。金持ちは苦しさのあまり、天国のアブラハムに呼びかけます「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。生前に金持ちはラザロを貧乏人として馬鹿にしていました。今でもラザロを召使のように思っています。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求めています。アブラハムは金持ちの呼びかけに冷たく答えます「私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」(16:26)。もう最後の裁きが為された、覆すことはできない、自分のことしかしか考えなかったお前は神の国に入ることはできないと宣告されています。
・三幕目は27節から始まります。金持ちは自分のことはあきらめましたが、兄弟のために救いの使者を送ってほしいと願います「私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えました。アブラハムはこの願いも拒絶します「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(16:29)。どう生きるべきか、何をなすべきか、「モーセと預言者」に、すなわち「聖書」に書いてあるではないか。神の御心が書かれている聖書の言うとおりにすればよいのだと。金持ちは反論します「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等のしるしが与えられれば兄弟たちも信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶します「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を通して神の御旨は明らかになっている、聞こうとしない者が悪いのだとアブラハムは言いました。しかし、神は私たちにもう一度機会を与えてくれました。それがイエスの死と、死からの復活です。だから私たちは「主は復活された。復活の主の言葉を聞け」と宣教を続けるのです。

3.貧しい人に手を大きく開きなさい

・この物語は因果応報を教えたものではありません。今は貧しくとも来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさいと言われているのではありません。また、金持ちは金持ちゆえに陰府で苦しむではありません。聖書はザアカイという金持ちの救いの話も記述しています(ルカ19:8-9)。この金持ちは貧しい者を憐れまなかったから地獄に落ちたのです。富が悪いわけではありません。ただ、その富を自分のためだけに使うことは、不正であり、責任を問われることなのです。
・今日の招詞に申命記15:11を選びました。次のような言葉です「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。この申命記15章を見ますと、パリサイ派の人々が、聖書をいかに自分の都合の良いように、持っている富を隣人に与えなくても良いように読んでいたかがわかります。私たちの持っているもの、命もお金も時間も全て神から貸与されたものです。私たちはそれを良い管理人として管理しなければいけないのに、それをあたかも自分だけのもののように用いるとき、私たちはその報いを受けなければいけないと聖書は教えるのです。
・アルベルト・シュバイツアーはその生涯をアフリカの人々の医療のために捧げたことで有名ですが、彼が医者としてアフリカに行くきっかけになったのは、30歳の時に読んだこの「金持ちとラザロの話」です。彼は自伝「水と原生林のはざまで」という本の中で次のように述べています「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。その金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。彼は大学教授の職を捨て、医学を学び、38歳で医者として赤道アフリカに行きました。
・私たちはシュバイツアーではありません。しかし、同じように「金持ちとラザロの話」を読みました。何かを行う事が求められています。私たちがクリスチャンであるかどうかは、私たちが人を愛するかどうかにかかっています。人を愛するとは相手に関心をもっていくこと、相手が困っていればそれを自分の問題として考えることです。具体的には、「自分の財布を開き、自分の時間を割く」ことです。申命記は私たちに警告します「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならない。・・・富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が・・・今日のようにしてくださったのである」(申命記8:17-18)。私たちが持っているものは、私たちが手に入れたものではなく、神の憐れみによって与えられたのです。ですから、神から預けられたものを神に返していく、隣人のために用いていく生き方が必要です。そのような生き方が天の国で富むことです。
・この世で富んでもそれは一時的なものであり死ぬ時には持っていけない、死ぬ時に持っていけないものに支配されるなと言われているのです。世の金持ちは、本当は不幸なのです。何故なら、彼は満ち足りているゆえに、この真理を知らないし、知ろうともしないのです。だからイエスは言われます「富んでいるあなたがたは、不幸である・・・今満腹している人々、あなたがたは、不幸である・・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」(ルカ6:24-26)。私たちは経済的な貧しさや挫折や苦難を通して、この真理を知りました。だから、バプテスマを受けてキリスト者となりました。「そこからもう一歩踏み出しなさい。自分の財布を開いて、そのお金を天に積みなさい」と招かれていることを、今日は共に覚えたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-03-04 09:22:41 (82 ヒット)

2019年3月10日聖書教育の学び(2016年8月17日祈祷会、ルカ13:1-21、悔い改めなければ滅びる)

1.悔い改めなければ滅びる

・イエスが話しておられた時、数人がイエスの前に来て、「総督ピラトが巡礼に来ていたガリラヤ人たちを神殿境内で殺した」と報告した。ガリラヤ地方は反ローマの拠点で、治安上の問題で事件が起きたのであろう。それを聞いたイエスは群衆に向かい、「殺されたガリラヤ人はあなたたちより罪が重いのではない。あなた方も罪を悔い改めなければ、同じように滅びる」と厳しく戒められた。
-ルカ13:1-3「ちょうどその時、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」
・当時のユダヤ教では、律法を遵守して罪のない生活をしていれば、災いが臨むことはないという因果応報を教えていた。しかしイエスはこれを否定された。人間の義や正しさを人前で誇っても、神の前では何の意味もない。ヨハネ福音書もイエスが因果応報を否定されたことを伝える。
-ヨハネ9:1-3「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」
・イエスは次にシロアムの塔崩壊で死んだ十八人の例を示し、「彼らもまた犯した罪の罰で死んだのではない。あなたたちも悔い改めなければ同じように滅びる」と戒められた。ファリサイ派の人々は「異教徒に協力した故に天罰が当たったのだ」と言っていたようである。
−ルカ13:4-5「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
・現代の私たちは災害や病気が神から来るのではなく、それぞれに原因があることを知っている。中野毅は論文「近代化・世俗化・宗教」で、「人は災害や病気の中に神秘を見なくなっている」と語る。
-中野毅・論文より「多くの国民は、3.11に東日本を襲った大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『宿業』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原爆のみならず原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った。宇宙の誕生から人類としての進化過程も解明されてきた。病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かってきた。そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も,経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている。われわれは運命、宿業、神の命令などの超越的な存在や時間に依拠しない生活を始めており、天災や人災、飢餓や病気への対策も、宇宙や世界の捉え方も、世俗的な時間や空間において考えている」(創価大学社会学報、2012.3)。
・しかし、その現代人も、「大災害の中で、私は生き残って、あの方は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのかという実存的な問い」に応えることはできない。ここにイエスが2000年前に提起した問いが、今日においてもなお大きな意義を持つことが示される。

2.「実のならない無花果の木」の譬え

・葡萄と無花果はイスラエルの象徴である。その無花果の木に三年たっても実がならず、園の主は木を切り倒せと命じた。譬えの葡萄園の主は神で、無花果の木はイスラエル民族、三年はイエスの公生涯であろう。それだけ経っても悔い改めの実を結ばぬイスラエル民族を滅ぼせと神が命じている譬えである。
−ルカ13:6-7「そして、イエスは次の譬えを話された。『ある人が葡萄園に無花果の木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。“もう三年もの間、この無花果の木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。”』」
・無花果の木を伐採せよと命じられた園丁は、「もう一度手入れし肥料を与えますから、伐採を待って下さい」と主人に願う。園主は神で、無花果の木を懸命にかばう園丁はイエスである。イスラエル民族を滅びから救う努力を惜しまぬイエスがこの譬えになっている。
−ルカ13:8-9「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
・この譬えは神と人の間に立つ仲介者としてのイエスの特質を表している。当然イエス自身の言葉ではなく、ルカの編集句であろう。ルカは紀元70年にイスラエルがローマにより滅ぼされた歴史を見据えている。
―ロ−マ8:34「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」

3.安息日に腰の曲がった婦人を癒す

・イエスは十八年間、腰が曲がった女を憐れみ癒したが、その日が安息日だったので、見ていた会堂長はイエスを批判した。彼は律法の形式にこだわるが、病で苦しむ女への憐れみはそこになかった。
−ルカ13:10-14「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」
・安息日の癒しを批判した会堂長にイエスは言われた。「安息日に牛や驢馬を引いて水を飲ませに行くあなたたちこそ安息日を犯しているではないか。自らを反省せず、私の癒しを非難するのはまさに偽善ではないか。」イエスの鮮やかな反論に、会堂長らは恥入り、聞いていた群衆はイエスの行った多くの業を褒めた。」
−ルカ13:15-17「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛や驢馬を飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」
・当時の人々は、病気は悪霊によるものと考え、イエスもまた癒しを、悪霊追放とみている。「病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かり、それらが招く災害や被害への対策・対処も経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている」現代人は、このような癒しの記事をどのように受け取るのだろうか。また私たちはこの記事をどのように現代人に語るべきなのだろう。

4.「からし種」と「パン種」の譬え

・イエスは神の国の成長をからし種の成長に譬えた。からし種は植物の種の中では極小の部類だが、木のように成長して、数メートルの大きさになり、小鳥が巣を作り、その黒い実を好んで啄む。
−ルカ13:18-19「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何に例えようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』」
・またパン種の譬えを語られる。パン酵母は小麦粉に練りこまれ発酵してパンを大きく柔らかく膨らます。1サトンは12.8リッター、3サトンでは150人分のパンになる。神の国の現実もそれと同じで、今はごくわずかな存在であるが、やがて人が驚くような大きな現実になると預言される。ルカはイエスの譬えを用いて、神の支配が既にイエスの中にあることを証しする。
−ルカ13:20-21「また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」
・ルカはからし種とパン種の譬えで、天の国の成長する特質を述べているが、天の国の特質は多様で「畑に隠された宝」や「高価な真珠」などにも譬えられている。
−マタイ13:44-45「『天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。』」
・神の国とは神の支配を意味する。それは「信じる者の心の中にある」とイエスは語られる。
−ルカ17:20-21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。神の国は実にあなたがたの間にあるのだ。』」


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-24 16:47:29 (115 ヒット)

2019年3月3日聖書教育の学び(2016年7月20日祈祷会、ルカによる福音書11:1-28、祈る時には)

1.祈る時には

・イエスの時代、祈りは教師が弟子たちに教えることで継承されていた。イエスも弟子たちから、ヨハネが弟子に教えたように、祈りを教えてほしいいと乞われた。
−ルカ11:1「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った。」
・主の祈りは、簡潔で要点をすべて含んでいる。まず神へ「父よ」と呼びかけ「御名が崇められますように、御国が来ますように」と神の国が来ることを願う。
−ルカ11:2「そこでイエスは言われた。『祈る時には、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」』
・イエスは「祈りは父を呼ぶことから始まる」と教えられた。結核を病み、若くして死んだ詩人・八木重吉は、病の床で、息を吐き、息を吸う度に、「御父上さま」と呼ぶ。呼吸が神を呼ぶ祈りとなる。
—八木重吉・神を呼ぼう「てんにいます おんちちうえを よびて おんちちうえさま おんちちうえさま ととなえまつる いずるいきによび 入りきたるいきに よびたてまつる われはみなを よぶばかりのものにてあり もったいなし おんちちうえ ととのうるばかりに ちからなく わざなきもの たんたんとして いちじょうのみちをみる」。
・「御名が崇められますように。御国が来ますように」、闇の中にある者は、光を求める。
−詩編130:6「私の魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」。
・その日の糧を求めるのは、食べることのできない貧しさの中で生きているからだ。同時に祈りは「私たちの祈りだ」、私たちだけではなく、隣人も食べられる日が来ることを待望する。
−ルカ11:3「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」
・人は誘惑に負けて罪を犯す。だから「罪の誘惑に負けないように」祈る。
−ルカ11:4「私たちの罪を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないで下さい。」』」
・私たちの人生は誘惑の連続だ。苦難があれば人は神を疑い、幸福な時は神を忘れる。「誘惑に負けて信仰を失うことがないように」、祈れと言われる。箴言30章は旧約における「主の祈り」だ。
−箴言30:7-9「二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それを拒まないで下さい。むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。

2.求めよ

・イエスは神に求める者に必要な心得を譬えで示される。
−ルカ11:5-7「また弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、真夜中にその人の所へ行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」』
・神に何かを願い祈る者はそこであきらめない。粘り強く求め続ける。
−ルカ11:8「しかし、言っておく。その人は友だちだからということでは起きて何か与えることはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」
・神の救いを得ようと志す者は、閉じられた門が開かれるまで、門を叩き続ける努力が必要だ。門を叩き、道を探し、救いを求める者こそが、求道者なのである。
−ルカ11:9-10「『そこで私は言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』」
・願い求める者に答える神の答えを、イエスは人間の父親の温情にたとえて説明される。
−ルカ11:11-13「『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。』」

3.ベルゼブル論争

・イエスは悪霊につかれた人から悪霊を追い出された。そこにいた群衆は驚いた。
−ルカ11:14「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」
・イエスの悪霊払いの成功を嫉む者は、「イエスは悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と中傷した。
−ルカ11:15-19「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」
・イエスは中傷する者に二つの明白な論理で対応された。一つは「内輪もめの愚かさ」の論理である。
―ルカ11:17-20「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、どうしてその国が成り立って行くだろうか。私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所へ来ているのだ。』」
・アメリカ合衆国第16代大統領エブラハム・リンカーンが、大統領に選ばれる2年前の1858年、共和党州大会で聖書の「ベルゼブル論争」を基にして、「分れたる家」演説を行った。リンカーンのこの演説は「奴隷制廃止」で起こるであろう連邦解体の危機の警告となり、北部共和党員の共感を得、後の「ゲティスバ−ク演説」と共にリンカーンの二大演説と称されている。
−リンカーン・分かれたる家「半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国が長く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解することを望んではいません。家が分かれて争い倒れることを私は望みませんし、連邦が南北に分れて争うことも望みません。」

4.汚れた霊が戻って来る

・当時のユダヤ教では、祈祷師や霊能者が悪霊を追い出すということをしばしば行っていた。イエスはこの事実を取り上げて、彼らの悪霊追放を認めて、イエスがなされる悪霊追放をベルゼブルの力に帰すことの矛盾を突かれた。そして「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのではないか」と言われた。神の国は既に来ている。目が見えず口の利けないこの人が癒されたことこそ、神の憐れみのしるしではないのか。何故、それを一緒に喜ぶことが出来ないのかと。
−ルカ11:21-23「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」
・当時、病気は悪霊の仕業だと考えられていたので、祈祷や呪文による治癒は悪霊祓いの結果であると見られていた。そのさい、治癒は一時的で、再び以前よりも悪い状態に陥るケースもしばしばあり、そのような場合は、追い出された悪霊が仲間の悪霊を引き連れて戻ってきたのだと説明されていた。ルカは「イエスによって悪霊を追い出してもらった者は、新しい主人であるイエスの霊を宿して生活し、自分を空き家にしないように」とここで語っている。
−ルカ11:24-26「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-17 17:21:59 (123 ヒット)

2019年2月24日聖書教育の学び(2012年1月22日説教、ルカ10:38-42、必要なことはただ一つ)

1.マルタとマリア

・今週の聖書箇所「マルタとマリア」の物語は、先週の「善きサマリア人の例え」同様、ルカ福音書だけが伝える物語です。客をもてなすために忙しく働くマルタが、ただ座ってイエスの話を聞いているマリアを「叱って下さい」とイエスに呼びかけ、それに対してイエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめられる場面です。今日の聖書箇所は私たちに何を求めているのでしょうか、考えてみます。
・物語はイエスが旅の途中にマルタの家にお入りになることから始まります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(10:38)。マルタ、マリアの姉妹はエルサレム近郊のベタニア村の住人であることがヨハネ福音書から知られています(11:1)。マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちと親しくされていたようです。ヨハネ福音書によればイエスは活動期間中、祭りの度ごとにエルサレムに上っておられますから、何度かベタニアのマルタの家に立ち寄っておられ、その中の一回で起こったことを、ルカはここに置いたと考えられます。
・彼女にはマリアという姉妹がいました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10:39)とルカは記します。マリアはマルタの姉妹とあるだけで、姉か妹かは分かりません。しかし、ヨハネ11章に描かれている様子から、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。マリアはイエスの足もとに座って、イエスの言葉に耳を傾けていました。姉のマルタは、一行のもてなしのためせわしく立ち働いていましたが、イエスのそばに近寄って言いました「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40)。マルタは長女で、おそらく既に両親が亡くなっていた家を取り仕切っていたのでしょう。彼女は一行をもてなすために台所で忙しく立ち働らいています。そのマルタが、イエスの足もとに座って話を聴いているマリアを見て、こう言ったのは当然の感情として理解できます。マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに手伝おうともしない」とマリアを批判したのでしょう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れません。「男は台所仕事をする必要はない、しかし女であれば手伝うべきだ」とマルタは考えたのでしょう。
・それに対してイエスは答えられました「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:41-42)。イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられるところに、マルタに対する思いやりが感じられます。イエスはマルタの働きを評価しながら、同時に彼女に大事なことを教えようとされます。イエスの答えの中心は「多くのこと」と「ただ一つ」の対照です。この世界での生活が要求する「多くのこと」と、神が求められる「ただ一つ」のことの対照です。私たちは世で生きていく限り、生活するための多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあります。しかし、私たちが神から恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけなのです。イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタを優しく諭されます。
・イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているわけではありません。問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない姿勢だと言えます。当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性は神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタは当時の女性として当然の役割を果たしていたのに、マリアのように座ってラビの話を聞くことは女性としては普通ではないことになります。イエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。このイエスの自由さが男女の役割分担に縛られ、人との比較の中でしか自分や妹を見ることのできなかったマルタにとって、解放されるための「福音」だったのではないでしょうか。

2.必要なことはただひとつ

・福音書の二重構造に私たちは注目する必要があります。ルカはこのマルタの記事を通して、当時の教会のあり方を批判していると思われます。マルタは「イエスを家に迎え入れた」、マルタの家はイエスを迎え入れたことによって、救いが来ているのです。今ルカを通してイエスの言葉を聴いている人たちは、福音の使者を迎え入れることによって復活者イエスを迎え入れ、キリストの救いを体験し、「家の集会」に集まっている人たちです。この家の人たちにイエスは言葉を語られます。「家の集会」は、「主の食卓」と「御言葉を聴く」営みから成っています。当時の「主の晩餐式」は単にパンとぶどう酒をいただくだけでなく、実際の食事をしました。ところが、集会の一部の人は、「食卓」の準備に忙殺され御言葉を聞くことが出来なかった。食事の支度をするのは多くは女性です。女性がもてなしのために御言葉を聞くことができない、それは教会の在り方としておかしいとルカはここで警告しています。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食のことが準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。私たちの教会でも食事の支度はほとんど女性が行い、男性はそれを当然のように受け入れていますが、本当はどこかおかしいのです。
・イエスの言葉は、現代の私たちに語りかける「主」の言葉です。主は、多忙な生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」私たちに語りかけておられます。主は言われます「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、私たちも、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、すなわち神の言葉に耳を傾け、言葉に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、やるべきことがどれほど多くても、それを理由に御言葉を聴く機会を取り上げてはなりません。すべての人が、イエスを通して語られる神の言葉を聴いて、その言葉に生かされるようになることが、この多忙な現代社会に生きる人たちに必要なことなのです。

3.幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人たちだ

・今日の招詞にルカ11:28を選びました。次のような言葉です「しかし、イエスは言われた『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」。イエスが病人をいやされるのを見たり、神の国の奥義を語られるのを聞いたりしたガリラヤの民衆は、イエスの存在に圧倒されて賞賛を惜しまなかったことでしょう。その中から一人の女性が感動のあまり、賛嘆の声を上げました「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11:27)。胎と乳房は子を宿し、産み、育てる、女性だけの器官です。偉大な人物を産み、育て、世に送り出すことは、女性の誇りです。イエスのような人物を産み、育て、世に送り出した母親に対して、女性としての幸せを賛嘆する声が、女性の中から湧き上がります。しかし、そのような女性の幸いに対する賛嘆の叫びに対して、イエスは別の幸いを指し示されます。それが今日の招詞の言葉です。
・すべての女性に胎と乳房はあります。しかし、それがあるからといって、すべての女性が幸いであるとは限りません。イエスはどの女性でも幸いであるうる道を指し示されます。「神の言葉を聞き、それを守る人」です。それはどのような境遇の女性にもできます。子がない女性、子の反抗に苦しむ母親、不幸な結婚に苦しむ女性、結婚していない女性、その境遇や状況にかかわらず、「神の言葉を聞き、それを守る」ことはだれにでもできます。そのことがイエスは幸せだと言われたのです。
・私たちはなぜ、日曜日、せっかくの休日に教会に集まるのでしょうか。神の言葉を聞く為です。そして教会では神の言葉が語られます「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。それにもかかわらず、社会の中では男女間に差別があります。教会も伝統的に牧師は男性で、彼は御言葉の学びに専念し、教会の雑事は女性である牧師夫人が行うことが暗黙の了解になって来ました。私たちの教会の現実もそうです。でも実はそれはおかしいのです。また日本には女性牧師は少ないという現実があります。女性が御言葉を語ることに拒否感を持つ人々が多いからです。私たちもまた、主の足元に座って御言葉を聞くマリアを排除しているのです。
・その排除が極端になれば、「女性教職は認めない」という南部バプテスト連盟のようになります。南部バプテスト連盟では2000年発表された新しい信仰告白で、「女性教職の任職禁止」を打ち出しました。根拠となった聖書箇所は第一テモテ2:11-15です「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」。このような言葉が聖書の中にあることに私たちはどう考えるべきでしょうか。テモテ書はパウロの弟子が書いたと言われていますが、イエスの時代から二世代、三世代と下るに従い、教会が保守化し、その中で書かれた言葉です。私たちは聖書が神の言葉であることを信じます。同時に聖書は人間によって書かれたものであり、それゆえに時代の制約を受けることを認識して読むべきです。その解釈において、イエスの言葉、イエスの教えのフィルターの中で御言葉を聞く必要があります。その時、マルタに「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたイエスの言葉が浮かび上がってきます。イエスは男女の伝統的分業意識から自由でした。だから私たちも自由である必要があります。パウロは「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。そこではもはや・・・男も女もありません」と言いました。だから私たちも伝統的役割分担から解放されて、男女の新しい在り方を模索する必要があることを、「マルタとマリア」の物語は教えているのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-10 17:29:15 (120 ヒット)

2019年2月17日聖書教育の学び(2018年1月1日説教、ルカ10:25-37、あなたが隣人になりなさい)

1.同胞を見捨てる祭司やレビ人

・今日はルカ10章の「良きサマリア人の譬え」について、共に考えて見ます。譬えはイエスと律法の専門家の問答から始まります。律法の専門家が「イエスを試そうとして」質問したとルカは語り始めます「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」(10:25)。律法の専門家は聖書とその解釈に精通しています。彼は「永遠の命」を受けるためには何をすべきかを当然知っています。知っているのにあえて聞く、イエスを試すためです。イエスは慎重に答えられます「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。律法の専門家は答えます「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」。「主を愛しなさい」という言葉は申命記6:5にあり、「隣人を愛しなさい」という言葉はレビ記19:18にあります。彼は答えを知っているのです。ですからイエスは言われます「あなたは答えを知っている、あなたに欠けているのはその実行だ、正しい答えを知っているのであれば実行したらどうだ」と。
・イエスの反論にたじたじとなった律法の専門家は、「自分を正当化する」ために聞き直します「私の隣人とはだれですか」。この答えも彼は知っているはずです。隣人への愛を教えるレビ記は、隣人とは同胞のユダヤ人であることを前提にしています(レビ記19:17)。隣人を愛しなさいとは同胞たるユダヤ人を愛せよと言うのが律法の規定です。専門家は「自分はユダヤ教の教師として同胞のために尽くしている」と誇りたかったのです。そのうぬぼれた彼に、イエスは思いもしない例えを語られます。それが「良きサマリア人の例え」です。サマリア人はユダヤ人ではありません。隣人を愛するとは同胞を愛することなのか、イエスは問われています。
・イエスは語られます「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:30-31)。ある人とは当然ユダヤ人でしょう。ユダヤ人がエリコに下る道すがら追いはぎに襲われ、身包みはがれた上に半殺しにされて放置された。そこに祭司が通りかかった。祭司であれば神に仕える聖職者、自分を助けてくれると期待したのに、祭司はその人を見ると道の向こう側を通って行った。何故祭司は倒れている同胞を助けなかったのでしょうか。基本は係わり合いになるのを恐れたのでしょう。もう一つは律法違反を恐れたためと思われます。律法は祭司が遺体に触れて汚れることを禁じています(レビ記21:1「遺体に触れて身を汚してはならない」、民数記19:11「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」)。この男は死んでいるかもしれない、死んでいる男に触れたら律法を破ることになる、そのようなことはしたくないという思いが祭司の胸中にあったかもしれません。つまり、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくるのです。
・次にレビ人が来ました。レビ人もまたエルサレム神殿に仕える下級祭司です。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていたと伝えられています。レビ人も倒れている同胞を見ると、よけて通り過ぎました。例えの登場人物として最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのでしょう。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っている。しかし、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。それを神は喜ばれるだろうかと。

2.同胞でないのにユダヤ人を助けるサマリア人

・例えの三番目の登場人物がサマリア人です。イエスは異邦人であるサマリア人が、ユダヤ人である祭司とレビ人が見捨てた旅人を見て、「憐れに思い」、手を差し伸べたと言われます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(10:33-35)。サマリア人は何故助けの手を差し伸べたのか。「憐れに思った」からです。憐れに思う=ギリシャ語スプラングニゾマイという言葉はスプランクノン(内臓)から来ています。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、内臓が痛むほど、心が揺り動かされたためだとイエスは言われました。人に自分の境界線を越えて行為をもたらすもの、それが愛だとイエスは言われています。
・サマリア人は元々イスラエル民族の一部でしたが、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた後、移民してきた異邦人と混血し、ユダヤ人からは「汚れた民族」として排斥されてきました。そのサマリア人が隣人になった。イエスは律法の専門家に尋ねられます「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は「誰が隣人ですか」と聞いてきました。彼にとって隣人とは同胞のユダヤ人です。しかし、今イエスは「隣人とは民族を超えるのではないか」と聞き直されます。律法の専門家はやむなく答えます「(隣人になったのは)その人を助けた人です」。彼はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼は隣人になることが出来なかった、彼は自分の正しさだけを考え、「他者のために心を揺り動かされ」なかったためです。

3.この例えは私たちに何を語るのか

・私たちはこの物語から何を聞くのでしょうか。隣人愛の教訓を聞くのか。そうではありません。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしない」と言うことです。愛とは「誰が隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うのが愛です。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いです。
・今日の招詞にマルコ10:21を選びました。次のような言葉です「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい』」。イエスの所へ、ある裕福な青年が来て尋ねます「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この青年にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」。イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。「彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善い事をすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。そこに彼の問題がある」と。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。金持ちの青年は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。イエスはその彼に驚くべきことを言われます。それが招詞の言葉です。「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていた。彼は自分の救いのことだけを考えていた。だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。
・自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか、何も持たないから「受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」、どのようにして神には出来るのか、神が万能だからか、そうではないでしょう。神の子が、「人間の弱さを自らの身に引き受けて」死なれたからです。十字架の上で砕かれたのは私たちの自我だったのです。自我を砕かれる、幼子のようにさせられていく時に、私たちは救われるのです。教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に、「心を揺り動かされて(スプラングニゾマイ)行う」業です。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考えるべき問題でしょう。ただ「隣人になることを通して関係性が生まれる」ことは事実です。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないでしょう。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)、与えることによって、関係性が広がって行きます。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫るのです。


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