すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-23 19:32:16 (4 ヒット)

1.喜べない状況でも喜びなさい

・フィリピ教会は物心両面で常にパウロを支えてくれた教会であり、パウロは感謝していた。しかし、そのような教会の中にも争いがあった。パウロは敢えて二人の婦人の名前を出して、和解を勧める。
−フィリピ4:2「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。
・二人は共に熱心にパウロを支えてくれた。それにもかかわらず、互いにいがみ合っていた。パウロは教会の長老に、和解の労をとるように求める。教会が一致しないと、本来の福音伝道の業に取り組めないからだ。
−フィリピ4:3 「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい。二人は、命の書に名を記されているクレメンス他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。
・何故いがみ合いが教会の中で生じるのか。キリストは私たちの和解の為に死んで下さった。キリストの死によって私たちは神と和解した。神と和解した者は人とも和解する。人と和解できないとしたら、神との和解がないのだ。
−エフェソ2:14-16「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではない。挫折も失意も仲たがいもある。しかし、その中で喜んで行く。パウロは獄中にあっても喜んでいる。主が共におられるなら、どのような時も喜べるではないか。
−フィリピ4:4-5「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。
・思い煩いがある時は、その出来事を神の前に出して祈りなさい。神は祈りを聞いて下さる。
−フィリピ4:6-7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。

2.足るを知る

・パウロはフィリピ教会からの贈り物に感謝の意を示す。それはお金が欲しいからではなく、お金に込められたフィリピの教会員たちの気持ちがうれしいからだ。
−フィリピ4:15-17「フィリピの人たち、あなたがたも知っている通り、私が福音の宣教の初めにマケドニア州を出た時、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなたがたの他に一つもありませんでした。また、テサロニケにいた時にも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろあなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」。
・献金は神の恵みだ。それは受ける方にとって恵みであるだけでなく、差し出す方にも恵みだ。自分のことしか考えられない人間が、他者の為に持ち物を差し出すものにさせられた。その事をパウロは喜ぶ。
−フィリピ4:18-19「私はあらゆるものを受けており豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さる生贄です。神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」。
・神は常に必要なものを必要なだけ与えて下さる。教会の予算についても私たちは思い煩わない。必要なものは与えてくださるし、願っても与えられなければ、今は不要だとの御心として受取っていく。
−フィリピ4:11-13「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」。
・人は貧しい時は他者を妬み、豊かになれば他者をさげすむ。だから神は常に必要なものだけを与えて下さる。
−箴言30:7-9「むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
・神が必要なものは与えて下さるから思い煩わない。自分の救いから他者の救いに思いが移っていく。
−フィリピ4:9「私から学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。

3.フィリピ4章の黙想

・フィリピの教会に不和があった。教会も人の集まりだから、そこには意見の違いや対立が生じる。信仰の先輩たちは教える「教会に不満を持つ人、意見の違う少数者の人が教会を去ろうとする時、あなたがたはその人たちを無理に引き止めたり、出て行った人たちに戻るように呼びかけない方が良い。それはいたずらに混乱を招くだけだから」。意見の異なる人々が教会を出るならそれに任せよというのは経験に基づく知恵であろう。しかし、パウロは語る「あなたがたはそうしてはいけない。気の合う人、意見を同じくする人とだけ礼拝を共にするのは教会ではない」と。
・パウロは今エペソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いている。フィリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を持たせてエパフロディトを派遣したが、彼は重い病気になってフィリピに帰ることになった。そのエパフロディトに託して、ピリピの人々に感謝を表したのがフィリピ人への手紙だ。フィリピ書は礼状なのだが、パウロはその礼状の中で、あえて教会の中に争いに触れる。
−フィリピ4:2-3節「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。
・この手紙は個人的な手紙ではなく、教会に宛てて書かれた公式の手紙であり、教会の礼拝の場で読まれることを期待して書かれた。その手紙の中で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いている。パウロは何故この問題を個人的な問題として、教会の外で解決するようにしないのか。教会の指導者に個人的な手紙を書き、問題の解決を依頼することも出来たのに、何故あえて教会全体の場に持ち出すのか。パウロは「都合の悪い事実があってもそれを覆い隠すな。不和があれば、それを公の場に出して、主の名によって解決しなさい」と求めている。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)、教会の主がキリストであれば、そこに集う人々は和解できるはずだ、もしそれが出来なければ教会ではないと言っている。
・ルカ17章の「らい病を患う十人の癒し」は一致の難しさを伝える。共に病苦を患う間は民族の差異は乗り越えられたのに、健常になり、社会が関わってくると、その差異が分裂をもたらす。
−2019.03.24説教草稿(十人の癒しと一人の救い)から「イエスが村に入られると、らい病を患っている十人の人が出迎えた。らい病(ヘブル語ツァーラト)者は、「自分はらい病なので近寄らないでくれ」と叫ぶことを義務付けられていました。だから彼らは遠くからイエスに癒しを呼びかけています。らい病者の集団にはユダヤ人もサマリア人もいました。それは当時のユダヤ教社会ではありえないことでした。らい病という困難な苦しみが民族差別の壁を破らせ、彼らを一つにしていたのでしょう。その彼らにイエスは出会われました。イエスは彼らを憐れみ、言われました「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。
−「十人はイエスの言葉を受けて祭司の所に向かいます。これは必死の信仰です。癒されるかどうかもわからないのに祭司の所に向かい始めているのです。その彼らの信仰が彼らの病を癒しました。道の途中で「彼らは清くされた」とルカは記します。病気を癒された十人のうち、サマリア人だけがイエスのもとに帰って来ました。サマリア人は、自分の体の清めを証明してもらう前にやるべきことがあると思ったのです。「神のみがらい病を癒しうる。だから行くべきは祭司の処ではなく、癒しを執り成してくださったイエスの処だ」と思った。だからイエスの許に戻ってきた。イエスは彼を見て言われます「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」。彼ら十人の群れは同じらい病であった時は、生活の絆が固く保たれていました。しかし一度病が癒されると、ユダヤ人はユダヤ人、サマリア人はサマリア人に分離してしまった」。
・この現実の中で、私たちは教会の一致を考える。教会は共通の困難、共通の目標がある時のみ、一致できる。だから目標の共有がぜひとも必要だ。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)、一致を求める。篠崎キリスト教会の2019年度教会標語は、「違いを受容し、喜び合う教会」だ。「違いを受容し」、一致する。そのような教会を目指したい。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-18 20:11:39 (10 ヒット)

2019年6月23日聖書教育の学び(2019年3月13日祈祷会、フィリピ3章、キリストに生きる)

1.自分の義を捨てよ

・フィリピ書1〜2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙だ。2章の終わり、3章の始めでパウロは書く「私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、ピリピ書を貫くパウロの使信だ。その穏やかな感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になる。
−フィリピ3:2「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」。
・パウロはフィリピ教会を巡回訪問するユダヤ主義者を、「犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と激しい言葉で批判する。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。旧約聖書に定められたように、割礼を受け、律法を守らないといけない」と指導して、伝道者を各地の教会に派遣し、フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。「割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから彼らはよこしまな働き手なのだ」、とパウロは巡回伝道者を批判する。
−フィリピ3:3「彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。
・パウロもかつては律法による救い求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もあった。
−フィリピ3:5-6「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。
・しかし、キリストに出会って、誇りをみな捨てた。律法が人を救う力を持たない事を知ったからだ。
−フィリピ3:7-8「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」。
・パウロはキリストに出会って、「ユダヤ教の教師」から「キリスト教の伝道者」になった。そのことによって彼は教師という職を失い、ユダヤ教側から「裏切り者」として、命を狙われるようになる。パウロはすべてを失くしたが、キリストを得た。キリストに出会って命を見出した。命を見出した人はこれまで大事だと思っていたものさえ捨てる。キリストに出会った人は、自分の内には何の正しさも無く、ただキリストが死んで下さったから救われた事を知るゆえに、自分の誇りも捨てる。
−フィリピ3:8-9「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。
・律法による義を求める人は自分だけの救いを求めている。それは自己の義を捨てて十字架にかかって下さったキリストとは違う生き方だ。キリストに倣うのであれば、その苦しみをも喜ぶ。
−フィリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

2.完成を目指して

・私たちは既にキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていく。
−フィリピ3:12-14「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
・「私に倣え、私が弱さの中でキリストを目指して走っている姿を見よ」とパウロは語る。
−フィリピ3:17「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。
・律法による義を求める者は、キリストの十字架を排除している。彼らはもはやキリスト者ではない。
−フィリピ3:18-19「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。
・私たちの本籍は天にある。地上で救いを完成する必要はない。キリストが来て下さるのを待てばよい。
−ピリピ3:20-21「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。

3.フィリピ3章の黙想

・パウロは語る「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに「永遠の命を求める」のか、「現世での救いを求める」のか、信仰の分かれ目がある。多くの人は現世での救いを求める。
・島田裕巳は「日本の10大新宗教」の中で語る。
−「現代の新宗教である創価学会はおよそ1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいる。他方、日本で150年の宣教の歴史を持つキリスト教人口は100万人しかいない。人々は何故、何故新宗教と呼ばれるこれらの教えに惹かれるのか。大教団に成長した新宗教のほとんどは『日蓮系・法華系』の教団だ。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世の救いを強調する法華信仰に惹かれる。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている」。
・これは「律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれる」とするユダヤ主義者の考え方と共通している。しかし、パウロはこのような考え方を、「そうではない」と否定する。パウロは言う「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」。フィリピはローマの植民都市だった。ローマから遠く離れていたが、市民はローマ市民権を与えられ、ローマに属する者とされていた。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天から派遣されている天の市民なのだとパウロは語る。
・天の市民であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということだ。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。
−フィリピ4:4-6「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではなく、挫折も失意も仲違いもある。しかし、その中で喜んで行く。人生は短く、その終わりは見えている。だから、「不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴える。マザーテレサも語る「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ。だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」と。
−マザーテレサ・あなたの最良のものを「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい・・・最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-09 19:22:39 (30 ヒット)

2019年6月16日聖書教育の学び(2019年3月6日祈祷会、フィリピ2章、教会の一致を祈るパウロ)

1.フィリピの教会に和解を伝えるパウロ

・フィリピ教会は物心両面で常にパウロを支えてくれた教会であり、パウロは感謝していた。しかし、そのような教会の中にも争いがあった。パウロは敢えて二人の婦人の名前を出して、和解を勧める。信仰心に優れ、パウロを支えてくれた人でさえ、不和を抱える現実があった。
−フィリピ4:2-3「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。
・パウロはフィリピ教会に書く「主にあって一つになり、私を喜ばしてください」と。
−フィリピ2:1-2「あなたがたに幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」。
・キリストに従う決意をしたのに、何故分派や分裂が起こるのか、それはまだ肉の人だからとパウロは言う(第一コリント3:3-4)。
−フィリピ2:3-5「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
・2:6−11は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌をパウロが引用したとされる。そこにあるのは「キリストは神であられたのに人となられ、十字架に至るまで従順であられた」、それ故に「神はキリストを死から蘇らせ、天に上げられた」との告白である。イエスは自ら墓から出られたのではなく、自分で天に上げられたのではない。あくまでも神が死から蘇らせ、神が天に上げられた。
−フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
・「神が全てを解決してくださる」から、あなた方はその「神を寄り頼め」、「自分が、自分が」と主張して、教会を分裂させることは、イエスに従う者の取るべき道ではない。
−フィリピ2:9-11「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

2.あなた方のために死んでも良いと語るパウロ

・パウロは、今、エペソの獄にいる。しかし、彼は自分が獄中にあることを喜んでいる。逮捕・入獄という非日常により、生活の安定が崩されたのに、何故喜ぶことが出来るのか。そのことによって福音が前進したと思えたからである。
−フィリピ1:12-14「兄弟たち、私の身に起こったことが、福音の前進に役立ったと知ってほしい。私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・フィリピの教会はパウロの伝道で立てられた。教会は巡回伝道を続けるパウロのために祈り、支援を続けた。今回もパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、エペソに派遣した。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っている。パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈る。
−フィリピ2:12「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい。恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。
・パウロは「つぶやきや疑いを捨てなさい」と語る。フィリピの中にもそのような不平不満があったのであろう。神の前に恐れとおののく時、不平や理屈は出てこない。「不平と理屈」、口語訳は「つぶやきと疑い」と訳されている。このつぶやきこそ、救いを約束する神に対する不服従だ。私たちも神に出会い、信じる者とされたが、救いはまだ途上にあり、完成していない。約束されたものを手中に出来ない緊張がつぶやきを生む。つぶやいた者は神を疑う「神は本当におられるのか」。このつぶやきと疑いが私たちを神から離れた「傷のあるもの」とする。
−フィリピ2:15-16「つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」。
・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にある。人間としては、釈放されて再びフィリピを訪れることを願っているが、適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めている。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っている。民の罪を購う「贖いの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清める。パウロが死に、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、「あなたがたのために喜んで死のう」とパウロは言う。
―フィリピ2:17−18「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」。

3.共に喜ぶものとなりなさい

・パウロは獄中にあって動けないため、弟子テモテをフィリピに送る。テモテを暖かく迎えて欲しい教会に頼む。テモテは自分のためではなく、キリストのために生きている。だから、彼に習いなさいと。
−フィリピ2:19-22「私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのように私と同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」。
・今はとりあえずテモテを送るが、パウロ自身もやがてフィリピを訪れたいと希望を述べる。
−フィリピ2:23−24「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」。
・パウロはエパフロディトを教会に執り成す。エパフロディトはパウロに仕えるために教会から派遣されたが、病気になって失意の内にフィリピに帰る。「彼を暖かく迎えて欲しい。彼は主の為によく頑張った」とパウロは思いやる。
−フィリピ2:25-29「エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のとき奉仕者となってくれました・・・彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました・・・そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、私も悲しみが和らぐでしょう。主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。私に奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。
・信仰は、「キリストにある愚者」を生む。ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」の中で、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した。「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことだ。パウロもテモテもエパフロディトもキリストにある愚者であった。この人たちは、キリストが自分のために死んで下さったことへの応答として人生を生きた。私たちもそうありたい。
−第二コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-02 18:08:47 (48 ヒット)

2019年6月9日聖書教育の学び(2019年2月27日祈祷会、フィリピ1章、いつも喜びなさい)

1.エペソの獄中からのパウロの手紙

・フィリピはマケドニア州にある港町で、パウロが初めてヨーロッパ伝道を行った記念すべき町である。 キリスト教はユダヤで始まったが、発展したのはヨーロッパだ。「福音がアジアからヨーロッパに伝わる」ことがなかったら、その後の世界史は大きく変わったであろう。パウロのフィリピ伝道は歴史の大きな転換点になった。そのフィリピで、パウロはリディアという一人の裕福な婦人に出会い、彼女はパウロの話を聞いて、回心し、洗礼を受ける(使徒16:14-15)。やがてこのリディアの家の教会がフィリピ教会となっていき、その後はパウロの伝道活動を支援する教会となっていく。
・パウロはフィリピを離れた後、テサロニケやコリント、エペソ等で伝道活動を続けるが、フィリピ教会はパウロの活動支援のためにエパフロディトに託して献金を送り、彼はパウロの助手として働き始めるが、重い病気に罹り、フィリピに帰る事となった。パウロは帰還するエパフロディトに託して、支援感謝の手紙を書く。それが「フィリピの信徒への手紙」である。
−フィリピ2:25-29「私は、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです・・・そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、私も悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください」。
・フィリピの教会は常にパウロを支援し、支えてくれた。パウロはそれに深く感謝している。
−フィリピ1:3-5「私はあなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それはあなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。
・フィリピはパウロの伝道によって立てられた。人々を信仰に導いたのはパウロであるが、実はパウロを通して働いて下さったのは神であった。その神の祝福が最後の日まであるように、パウロは祈る。
−フィリピ1:6-7「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、私は確信しています。私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。
・あなたがたに、何が大事であるかを知る力と見抜く力を神が与えてくれるように、パウロは祈る。
−フィリピ1:9-11「私は、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、・・・神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。

2.キリストにあって獄にいる事を喜ぶ

・フィリピの人たちはパウロが獄に繋がれ、伝道が挫折したのではないかと心配していた。パウロは神がこの入獄を通して恵まれた事を伝える。兵営の兵士たちの中に信仰に導かれる者たちが出たのであろう。
−フィリピ1:12-14「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・パウロは先にフィリピでも投獄されているが、その時には、フィリピ監獄の看守とその家族が信仰に導かれるという体験をした(使徒16:25-34)。今、同じ出来事がこのエペソでも起ころうとしている。さらにパウロたちが牢獄の中にあっても宣教の熱意に燃えているのを見て、エペソの信徒たちも伝道を活発化させ、パウロを喜ばせた。他方、エルサレム教会から派遣された教師たちは、パウロの不在中に、教派的な宣教活動を強化していたようだが、パウロはそのことさえ喜ぶ。主の名が伝えられているからだ。
−フィリピ1:15-18「自分の利益を求めて、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます」。
・パウロは裁判の結果、自分が無罪放免されるのか、あるいは有罪として処刑されるのかを知らない。しかしどちらの結果になるにせよ、神の導きに委ねようと考えている。パウロの考える救いは牢獄からの解放とか、外面的な危険からの救出という出来事ではなく、あくまでも永遠の命、究極的な霊の救いなのだ。
−フィリピ1:20-24「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。
・キリストの為に苦しむ事も、恵みなのだ。その事を通して、キリストを証ししようとパウロは述べる。
−フィリピ1:27-29「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。

3.フィリピ1章の黙想

・パウロは獄中にいる。監獄に捕らえられた者は、自分は無実であるのに拘束されたと不満を述べ、これからどうなるのかを心配し、どうすれば無罪放免されるかを悩む。しかし、パウロは憤慨もせず、落胆もせず、欲求不満にもならない。何故ならば、自分がこの獄中にいるのは、神がこの出来事を通して、福音を伝えようとしておられるのだと理解しているからだ。フィリピ書には「喜ぶ」という言葉が17回も出てくる。パウロは死罪を言い渡され、処刑されるかもしれない状況の中で喜ぶ。
・フィリピ書は私たちに、「苦難の意味」を考えるように迫る。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられる。ある人は健康に生まれ、別の人はそうでない。ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけなかった。私たちにはそれが何故か、理解できないが、理解できなくとも良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それが現実を見つめる「平静さ」という勇気だ。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知る。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知る。私たちは苦難を通して人間に絶望し、その絶望の中で、暗闇も神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がつく。
・日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師に勇気を与えた書もフィリピ書だった。鈴木牧師は死が避けられないことを知り、嘆いた。信仰者にとっても死は恐怖なのだ。彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ書だった。パウロはフィリピ書の中で、「死ぬとはキリストの元に行くことだ」と述べる。
-フィリピ1:21-24「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。
・鈴木正久は最後に「死を超えた明日」を与えられたことを感謝して死んでいく。
-鈴木正久・病床日記「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-29 10:17:48 (38 ヒット)

2019年6月2日聖書教育の学び(2019年1月9日祈祷会、ガラテヤ6章、重荷を担い合いなさい)

1.指導者の重荷を担い合いなさい

・ガラテヤ教会の指導者たちは、自分たちは「霊に導かれている」と誇りながら、実際は、教会を間違った方向に導こうとしていた。そして教会内の反対者と反目しあっていた。
−ガラテヤ5:15「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。
・指導者が間違った方向に行こうとしている時、教会員は彼らを正す義務がある。パウロは、「柔和な心で彼らを正しい道に立ち返らせなさい、裁いてはいけない、互いに重荷を担いなさい」と勧める。
−ガラテヤ6:1-2「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。
・私たちは洗礼を受けてキリスト者になるが、罪を犯し続ける。では洗礼を受けて何が変わるのか、それは「自分が罪を犯し続ける存在であり、それなのにキリストに赦されて現在を生かされている」ことを知ることだ。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなり、そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生む。「重荷を担い合う」とは、肉の働きから来る罪との戦いだ。誰かが罪を犯して苦しんでいるのならば、一緒に苦しみなさい。間違っても、「自分はそんな罪は犯さない、罪を犯す人は弱いのだと思い上がってはいけない」とパウロは戒める。
−ガラテヤ6:3-5「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです」。
・私たちの行為は、最終的に神の御前で審判を受ける。その時、「あの人に比べて悪いことはしていない」とか、「世間の人は賞賛してくれた」等は何の意味も持たない。「神の前に立って恥ずかしくないように、今現在を生きなさい」とパウロは語る。
−ガラテヤ6:6-7「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい・・・神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。
・人は自分の蒔いたものを刈り取る。善であれ悪であれ、行いに応じて報いを受ける。良いことをすれば神は報いてくださる。善を行うには忍耐が必要だが、時が来れば必ず与えられる。信じて行いなさい。
−ガラテヤ6:8-10「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。

2.割礼を受けることは十字架を否定することだ。

・あなたがたに割礼を勧める者は、ユダヤ教徒やローマ帝国からの迫害を免れるために、そうしようとしている(当時の教会は地域のユダヤ人から迫害され、帝国からは非公認宗教者として迫害されていた)。
−ガラテヤ6:12-13「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」。
・パウロの反対者たちは、自分たちの行為がキリストの福音を踏みにじっているとは思いもしなかった。しかし迫害を避けるためのユダヤ教や帝国との妥協が、肉の思いとなり、十字架を否定する行為になる。
−ガラテヤ5:11「この私が、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」。
・私たちは割礼のような外面的な行為で救われるのではなく、十字架で救われるのだ。キリストの十字架によって私たちも共に死んだのだ。割礼があるかどうかでなく、死んで新しくされたかが大事なのだ。
−ガラテヤ6:14-15「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。
・私が迫害によって受けた傷こそ、イエスの焼印だ。イエスの焼印を身にまとう者がキリストに背いて、ユダヤ教や帝国と妥協することは出来ない。あなたがたもわかってほしい。
−ガラテヤ6:17「だれも私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです。
・もし人が神からの招きを受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられる。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされる。私たちも洗礼という形で、「イエスの焼き印」を身に帯びる。それはイエスと共に十字架に死に、イエスと共に新しい命を生きるという「焼き印」であり、その焼き印を受けて人は教会に加わる。教会は地上にあるゆえに問題を抱えた群れではあるが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのだ。

3.ガラテヤ6章の黙想

・パウロは語る「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(6:12)。ここでパウロは二つの批判をしている。一つは、割礼を強制しようとしている人々は、他の人から良く思われようとしているのだとの非難だ。彼らは「あなた方の救いのためではなく、自分たちの改宗運動の成功という功績を求めてそうしているのだ」と。現代の教会においても、伝道の実績をバプテスマ者の数で計る傾向がある。その時、功績をあせって、まだバプテスマを受ける準備の出来ていない人に無理にバプテスマを受けさせるようになる。そのようなバプテスマは、神の業ではなく人の業に、教会の業ではなくビジネスになっていく。パウロは反対者たちの運動の背後に、功績をあせる彼らの気持ちを見ている。
・第二に彼らは異邦人改宗者に割礼を強制することによって、キリストの十字架ゆえに受ける迫害を回避しようとしている。当時の教会に対するユダヤ教からの迫害は激しかった。特にユダヤ教の牙城であるエルサレムではそうだった。キリスト者は背教者として、ユダヤ人社会から村八分にされた。そこでエルサレム教会はユダヤ教徒が最も大切にする割礼を受けさせることによって、ユダヤ教と妥協しようとした。「生まれたばかりの教会は厳しい環境の中にあり、その中でどのようにしてこの教会を守り、広めていくかを考えると、無駄な軋轢は避けたほうが良い」。割礼は聖書に定めてある契約のしるしだ。彼らは反論した「神はユダヤ人を選びの民とされ、しるしとして割礼を受けよと命じられた。私たちは良きユダヤ人であってこそ、良きキリスト者になれる。割礼を受けることが何故反キリストになるのか」。
・同じ事を戦時中の日本の教会も言った「良き日本人であることが良きキリスト者の基本だ。日本人として天皇陛下を敬うのは当然であり、国が東亜共栄圏の理想を推し進めているのであれば、教会も協力すべきだ」。戦時中の教会は、敵性宗教を信じる非国民として社会から排斥されていた。教会は迫害を回避するために、戦闘機を奉納したり、韓国や中国の反日キリスト者を説得するために宣教師の派遣も行った。厳しい環境の中で教会を守りたいという行為が、戦争協力になり、「殺すな」という戒めを守ることの出来ない教会になっていった。同じことが現在のアメリカでも起きている。「国がテロとの戦いを推し進めている以上、教会も協力すべきだ」。アメリカの教会の多くはイラク戦争やアフガン戦争の勝利を祈っている。何がいけないのか。彼らはキリスト者である前にアメリカ人であると言っている。キリスト者であることより、自分の民族を前に出す。そこに誤りがある。何故なら、私たちの国籍は天の国だからだ。
・パウロは語る「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6:14)。パウロは十字架を復活の光の中で見ている。キリストは弱さのゆえに十字架にかけられたが、神はこのキリストを復活させて下さった。十字架の苦難があるゆえに復活の栄光がある、受けるべき苦難を受けることによって、神は私たちに栄光を下さる。目先の苦難、ユダヤ人からの迫害や同胞からの疎外を避けようとして、するべきでないことをした時、それは神の福音とは異なる福音、人間の教えになってしまう。そして人間の教えには命を救う力はない。
−ピリピ1:29-30「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。


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