すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-12 15:45:22 (23 ヒット)

1.イサクの花嫁探し

・アブラハムは年老い、死が近づいて来た。彼は死を前に息子イサクに嫁を取らせ、一族の未来を確かなものにしたいと願い、同じ信仰の者を嫁に求めた。カナンの民はハム族であり、アブラハムは同じ民族(セム族)の嫁をめとるために、メソポタミヤに行くことを信頼している僕に命令した。
―創世記24:1-4「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った『手を私の腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたは私の息子の嫁を私が今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように』」。
・律法は異邦人との結婚を禁止する。神を知らない民との婚姻は、信仰の継承を難しくする恐れがあった。アブラハムが息子に当地の娘との結婚を望まなかったのも、信仰的配慮のためであった。
―申命記7:3-4「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである」。
・アブラハムの命を受け、メソポタミヤに向かったのは、家令のエゼキエルであったと思われる(15:2)。彼は嫁を迎えるための条件を主人に確認する。
―創世記24:5-9「僕は尋ねた『もしかすると、その娘が私に従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか』。アブラハムは答えた『決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、私に誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることが出来るようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は私に対するこの誓いを解かれる』・・・ そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った」。

2.リベカの選び

・こうして召使はアブラハムの故郷、メソポタミヤに嫁を迎えるために旅立った。召使は嫁の選びを神に委ねた。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください」、その結果、アブラハムの親族ナホルの一族であるリベカに出会った。
―創世記24:10-14「僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った『主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって私は、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう』」。
・召使はリベカが神の定めて下さったイサクの嫁にふさわしいかを試す。
―創世記24:15-21「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた『水がめの水を少し飲ませてください』。すると彼女は『どうぞ、お飲みください』と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」。
・リベカこそイサクの嫁にふさわしいと見た召使は、彼女に贈り物として金の鼻輪と腕輪を与え、家に案内するように頼む。
−創世記24:22-25「らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ベカの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら『あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家には私どもが泊めていただける場所があるでしょうか』と尋ねた。すると彼女は『私は、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答え、更に続けて『私どもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます』と言った」。
・リベカの知らせで彼女の兄ラバンが来て、召使を家に案内し、召使は「リベカを主人の息子の嫁に迎えたい」と話し、リベカ同意の上に彼女の嫁入りが決まった。
−創世記24:58-61「リベカを呼んで『お前はこの人と一緒に行きますか』と尋ねた。『はい、参ります』と彼女は答えた。彼らは妹であるリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、リベカを祝福して言った『私たちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように』。リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、らくだに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った」。
・こうしてリベカはイサクの許に嫁ぎ、やがてヤコブとエソウを生む。神の約束はリベカを通して、ヤコブに継承されていく(旧約において神は「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と言われるようになる)。
−創世記24:62「イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り『野原を歩いて、私たちを迎えに来るあの人は誰ですか』と僕に尋ねた。『あの方が私の主人です』と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。

3.この物語から何を学ぶか

・アブラハムも召使もリベカも結婚を神の定めに従う出来事としてとらえている。人生が神の定めの許にあるとする生き方を私たちはここで学ぶべきであろう。神に従う生き方とはどのような生き方か。「夜と霧」を著し、アウシュビッツでの体験を記録に残したヴィクトール・フランクルは神の摂理について語る
-ヴィクトール・フランクルの言葉から「ウィーンにドイツ軍が入ってきてユダヤ人のシナゴーグ(礼拝堂)を片端からつぶしていった。ユダヤ人狩りだ。その時期に、たまたまアメリカに留学する話がまとまった。これ幸いに平和の国アメリカでしっかり勉強したいと思ったが、いざ出発の日が近づいてくると、どうにも気持ちがおさまらない。その時あるシナゴーグが爆破され、父親が爆破されたシナゴーグの破片を持ってきた。その破片は、十戒が納められている棺の、一から十までのナンバーの「五」という数字の石のかけらだった。十戒の五、「汝の父と母に従え」だ。その「五」という数字を見た時に、私は留学を断念して、どんなことがあっても父と母に従って収容所に行こう、という決心をした」。
・「その収容所で妻も子も両親も失くし、私だけが生き残った。父と母に従ったことによって、神の祝福が与えられたか。父も母も家族も皆、死んでしまった。しかし、すべてを失ったけれども、あの時、御言葉に従って、父と母に従い収容所に行く決断をしたことは決して間違っていなかったと思う。そのことを今、十戒の民の一人として誇りに思う」。
・結婚によって子が生まれ、子が約束を継承して行く。私たちにおいても、子の結婚の相手に信仰者を求める、ないしは信仰の誓いを求めることは信仰の継承という意味で、大事な事柄であろう。イエスも「結婚は神が定めたもの」と言われた。キリスト者は結婚をどのように考えるべきなのだろうか。
-マタイ19:3-6「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った。イエスはお答えになった『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
・現代人は三組に一組が離婚する。2012年度人口動態調査によれば、年間の結婚数は668千組、離婚数は235千組、離婚率は35.1%である。結婚が信仰の事柄であるとすれば、キリスト者は離婚についてどう考えるべきなのだろうか。カトリック教会はイエスの教えを倫理として受取り、離婚を禁止する。他方、プロテスタントは離婚を容認する。イギリスの詩人ジョン・ミルトンは熱心なピュ-リタンであり、彼は「結婚とは夫婦が神によって霊的にも身体的にも一心同体となる結びつきだ」だと理解し、そのような結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに離婚が認められるべきだと考えた。結婚も離婚もまた神の摂理の下にある。基本的にはカトリック的な生きかたに惹かれる。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-06 21:41:29 (28 ヒット)

1.サラの死

・サラは127歳で死んだ。サラの死をアブラハムは嘆いた。
−創世記23:1-2「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。
・アブラハムは、サラのためにカナンの地に墓地を購入しようとする。
―創世記23:4「私は、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」。
・アブラハムは自分を寄留者と表現する。信仰者はこの世では寄留者、旅人である。
―ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。

2.墓地の購入

・寄留者が地上で持つ唯一のもの、それが家族と自分のための墓地である。アブラハムはそれを所有したいと申し出たが、土地の民は譲渡ではなく貸与を申し出て、婉曲にそれを断った。彼らは異国人に土地を所有させたくないと考えている。
―創世記23:5-6「ヘトの人々はアブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あなたは、私どもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、私どもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。私どもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません』」。
・しかし、アブラハムはあくまでも譲ってほしいと交渉する。
―創世記23:7-9「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし、頼んだ『もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、私の願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください』」。
・所有者のエフロンはアブラハムに「差し上げる」という。贈与とは古代特有の売買の婉曲表現である。「差し上げると言ったのに、あくまでも買いたいと言うから、やむを得ず売却した」という形式をとるための交渉手続きであった。
―創世記23:10-15「エフロンはその時、ヘトの人々の間に座っていた。ヘトの人エフロンは、町の門の広場に集まって来たすべてのヘトの人々が聞いているところで、アブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。私の一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください』。アブラハムは国の民の前で挨拶をし、国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ『私の願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます』。エフロンはアブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたと私の間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください』」。
・相手の言い値は銀400シュケル、法外な値段であった。エレミヤが故郷アナトトの畑を買った時の価格は銀17シュケルであった(エレミヤ32:9)のに比べ、相場の数十倍の金額である。銀1シュケルが11.4gであるので、400シュケルは銀4500gにもなる。しかし、アブラハムは価格交渉をせず、そのまま受け入れる。こうしてアブラハムは妻のための墓地を購入した。
−創世記23:16-18「アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった」。

3.墓地購入の意味

・これが約束の地でアブラハムに与えられた最初の土地であった。アブラハムは地上では寄留民であることを表明したが、この地上に死者のための墓地を購入した。アブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬された。
―創世記25:7-10「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」。
・アブラハムは満足して死んだと思われる。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るための一片の土地があれば良い。トルストイは「人にはどれほどの土地がいるのか」という民話を書いた。少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、その遺骸を葬るための身体の大きさの墓穴にすぎなかったという作品である。
−詩編49:11-13「人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。
・旧約の人々は復活を知らない。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨である。自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題であった。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、やがてアブラハムのひ孫になるヨセフも、臨終に際して「自分の遺骨を約束の地に葬る」ように命じて死ぬ。
−創世記50:24-25「ヨセフは兄弟たちに言った。『私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます』。それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、私の骨をここから携えて上ってください』」。
−出エジプト記13:19「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、私の骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-29 19:09:00 (31 ヒット)

1.イシマエルの母ハガルの妊娠

・アブラハムは「子を与える」との約束を神から受け、それを信じた(15:4)。しかし妻サラは不妊で子供が生まれる気配もない。アブラハムとサラは約束の成就を待ち切れず、自分たちの力で神の約束を満たそうとした。
−創世記16:1-3「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った『主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません』。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」。
・妻に子が産まれない時、側女に子を産ませて世継ぎを得ることは許されていた。しかし相続の際には紛争が生じ、申命記はその処理規定を設けている。律法もやむを得ないものとして多妻制を認めている。しかし、側女に子が生まれ正妻に子がなければ、側女は正妻を見下すようになる。アブラハムの家でも妊娠したハガルが正妻サラを下に見るようになり、嫉妬に狂ったサラはハガルを追放するようアブラハムに迫る。
−創世記16:4-5「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。サライはアブラムに言った『私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように』」。
・サラとアブラハムが為したことは、約束の成就を待たずに、自力で解決しようとしたことだった。二人は「子を授かる」のではなく、「子を造る」ことを選択した。現在でも子のない夫婦は不妊治療を行ってでも子を持とうとする。子供なしには家族とは言えないのだろうか。難しい問題だ。
-不妊治療を行った男性からの告白「40歳を過ぎた頃から、学生時代の友人と飲みに行くと、必ず『不妊治療』の話になった。妻の必死な姿を日々目の当たりにしているから、安易に『止めよう』とは言えない。僕も授かれるものなら授かりたいという気持ちもある。ただ、僕は途中から『無理だろう』ということはわかっていた。人工授精も、体外受精もやったが、何度も妻は流産した。それでも、彼女が諦めの境地に達するまでは、僕からは『終わりにしよう』とは言えなかった。彼女が自分を責め、あらゆる努力をしていたのを間近で見ていたからだ。その頃は、家に帰るのが辛かった。私たちが不妊治療を終焉させることが出来たのは、妻が45歳を過ぎてからだ。一般的な年齢よりかなり早く、更年期障害になった。それで妻は、ようやく、残りの人生を二人で過ごしていく踏ん切りをつけることができた」(朝日新聞2015年10月23日)。
・アブラハムはハガルの追放を黙認し、サラはハガルを家から追い出す。これが「信仰の父」(ヘブル11:17)と言われ、「信仰の母」(1ペテロ3:6)と言われた二人が行ったことだ。創世記は二人の醜さを隠さない。二人も私たちと同じように、過ちを犯し続けながらも主の名を呼び続けた
-創世記16:6「アブラムはサライに答えた。『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』。サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」。

2.イシマエルの誕生

・ハガルは逃げて砂漠をさまよう。そのハガルに主の使いが現れ、元いた場所に帰るように促す。
―創世記16:7-9「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』。『女主人サライのもとから逃げているところです』と答えると、主の御使いは言った。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」。
・彼女は女奴隷であり、故郷のエジプトに戻っても保護してくれる家はなかったであろう。彼女はアブラハムの天幕に帰る以外に子供を安全に生む道はなかった。主は使いを通して、「私があなたと生まれてくる子を守る」と語られる。
-創世記16:10-12「主の御使いは更に言った。『私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』。主の御使いはまた言った。『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。 彼は野生の驢馬のような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす』」。
・イシュマエル、「神聞きたもう」の意味である。当時の世界では奴隷は人の数にも入らなかった。しかしそのような女奴隷さえも気にかけてくださった神に、ハガルは感謝し、神を「エル・ロイ」と呼んだ。
-創世記16:13-14「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないか』と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある」。
・ハガルはアブラハムの天幕に戻り、アブラハムとサラも事の次第を聞いて悔い改め、ハガルを迎え入れ、彼女は子を産む。その子はイシュマエルと名付けられた。
-創世記16:15-16「ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。
・このイシュマエルがアラブ人の祖となる。神はアラブ人さえも祝福されている。今日のイスラエルではアラブ人(パレスチナ人)は迫害されているが、これは聖書的には間違った行為である。アラブ人もユダヤ人も共にアブラハムの子なのだ。
-創世記25:7-9a「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」。
・人がこの神(エル・ロイ=私を顧みられる神)を見出した時、どのような境遇の中にも帰っていくことができる。それはヨブが苦しみの中で見出した神であった。
―ヨブ記36:15「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。
・この神こそが、放蕩息子が立ち返ることを待ち望まれる神である。
ルカ15:20-21「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」

3.イシマエルの追放

・イサクの誕生でアブラハム家に笑いが生まれた。しかしその笑いが一瞬にして悲劇に変わる。感謝してイサクを受け取ったサラが、今度は嫉妬のために側室の子イシマエルの追放を画策する。
−創世記21:8-10「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」。
・子の生まれないアブラハム夫妻はイシマエルを相続人として育ててきた。イシマエルもまたアブラハムの子なのである。しかし正妻の子が生まれると、側室の子は邪魔になる。サラの信仰も現実の前に砕ける。アブラハムは二人の子を前に悩む。しかし神は、「相続人はイサクであり、イシマエルは追放せよ」と言わ、アブラハムは神の言葉に従う。
−創世記21:11「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」。
・アブラハムはイシマエルとその母を追放する。二人の生存は主に委ねられた。
−創世記21:14「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」。
・母と子が荒野をさまよう。彼らはやがて水がつき、死を覚悟する。
−創世記21:15-16「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」。
・しかし神はイシマエルとその母を保護される。彼もまたアブラハムの子だからである。
−創世記21:17-21「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいた時、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた」。

4.新約聖書はこの物語をどう受け止めたのか

・パウロはガラテヤ書の中で、イサクを霊の子と呼び、イシマエルを肉の子と呼んで区別し、ユダヤ人同胞にあなた方は霊の子であり、相続人であると強調する。
−ガラテヤ4:22-31「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした・・・兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。要するに、兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」。
・創世記は「イシマエルがイサクを迫害した」とは記していないし、神は「イシマエルをも顧みられた」とある。パウロでさえ、聖書の読み方を間違えるのだろうか。へブル書もまたアブラハムとサラの信仰を強調している。人は聖書からも読みたいことを読んでいくのだろうか。
−へブル11:11-12「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」。
・ユダヤ教は、通常イシマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されている。イスラムでは、イシュマエル(イスマーイール)に対して肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシマエル母子を追体験するものとされている。イスラムの伝統では、イシマエルを全てのアラブ人の先祖とみなしている。イスラム教の開祖ムハマッドは「コーラン」の中で、みずからをイシマエルの子孫と称しているという。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-22 17:31:34 (65 ヒット)

1.創世記17章のサラ

・妻サライも名を変えるように言われる(サライ→サラ)。そしてサラを通して後継ぎを与えると約束されるが、アブラハムはこれを笑う。
―創世記17:15-17「神はアブラハムに言われた『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。私は彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る』。アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
・疑うのが当然である。24年間も成就しない約束を信じ、高齢になった老夫婦に子を与えるとの約束を信じることができるだろうか。アブラハムは先に側女ハガルとの間にイシマエルをもうけている。彼を跡継ぎにすると言明するが、神はその子ではないと言われる。
-創世記17:18-19「アブラハムは神に言った『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』。神は言われた『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする』」。
・サラもアブラハム同様に神の約束を信じることはできない。
―創世記18:11-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、サラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・100歳の男と90歳の女からどうして子が生まれよう、冷笑するしかない出来事ではないか。信仰の父と呼ばれるアブラハムでさえ、信じることはできなかった。そのアブラハムを主は用いられる。二人が信じたのは約束が現実になった時である。
-創世記21:1-6「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』」。
・神はアブラハムに言われる「私は全能の神であるゆえに、あなたは全き者となれ」。この全き=ターミームは道徳的な完全ではなく、神を信じることにおいての完全である。アブラハムはこれまでも繰り返し神を疑い、約束を待てず、自分の力で子を持とうとしてきた。そのアブラハムに改名が言い渡され、この日から疑う者、待てない者ではなく、信じて待つ者、神に己を委ねる者になれという意図がそこに込められている。

2.創世記18章のサラ

・三人の旅人がアブラハムの天幕を訪れ、アブラハムはこれを歓待する。過酷な砂漠にすむ遊牧民には、旅人をもてなすのは当然の慣習だった。アブラハムは旅人たちが主の使いであることには気づいていない。
−創世記18:1-5「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』。その人たちは言った『では、お言葉どおりにしましょう』」。
・アブラハムは三人にパンを提供し、子牛の料理を用意してもてなした。
−創世記18:6-8「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った『早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい』。アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」。
・やがて「サラに子供が生まれる」との予告がなされ、その時アブラハムは彼らが主の使いであることがわかった。
―創世記18:9-10「彼らはアブラハムに尋ねた『あなたの妻のサラはどこにいますか』。『はい、天幕の中におります』とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った『私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう』。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。
・サラはこの予告を聞いて冷笑する。彼女は生理もとっくの昔に終わり、今更アブラハムと性的交わりをする年齢ではない。その自分に子が与えられるはずがない。笑うしかないではないか。
―創世記18:10-12「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
・主の使いは冷笑するサラを叱咤する「主に不可能なことがあろうか」と。サラは思わず「笑っていません」と弁解する。
―創世記18:13-15「主はアブラハムに言われた『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている』。サラは恐ろしくなり、打ち消して言った『私は笑いませんでした』。主は言われた『いや、あなたは確かに笑った』」。
・ヘブル書の著者は、このときサラは「不可能を可能にする主を信じた」と記述するが正しくない。サラは信じなかったし、アブラハムも信じなかった。「不可能を可能にする」主を信じるためには、私たちはその事実を直接見る必要がある。そして神は私たちに見せて下さる。信仰はそこから始まる。
―ヘブル11:11「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」

3.創世記21章のサラ

・長い間約束されていた子が終に生まれた。サラは男の子を生み、アブラハムは子にイサクという名前を与える。イサク(彼は笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられた。
−創世記21:1-4「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」。
・サラは不可能を可能にする神を賛美して歌う「神は私に笑いをお与えになった」と。
−創世記21:5-7「息子イサクが生まれた時、アブラハムは百歳であった。サラは言った『神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう』。サラはまた言った『誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかし私は子を産みました、年老いた夫のために』」。
・イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳であったとされる。不可能を可能にする神の業が示された。後代の人々は二人の信仰がそれを可能にしたと二人を讃える。
―ローマ4:18-22「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。
・しかしパウロの称賛は事実と異なる。創世記のアブラハムは子の誕生を疑ったし、サラも信じなかった。私たちは事実を見つめたうえで神の奇跡を見る必要がある。神は人間の不信にもかかわらず、その業をなさる。
−創世記17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
−創世記18:12「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-15 21:27:34 (50 ヒット)

1.ロトへの警告(1-14節)

・主の御使いは夕刻にソドムに着き、ロトの家に招かれる。ロトはソドムで結婚し、二人の娘を得ていた。
−創世記19:1-3「二人の御使いが夕方ソドムに着いた時、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った『皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください』。彼らは言った『いや、結構です。私たちはこの広場で夜を過ごします』。しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした」。
・そこにソドムの男たちが押しかけ、二人の旅人を出せと求める。
―創世記19:4-5「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから』」。
・ロトは抵抗するが、町の人々は有無を言わせず、押し入ろうとする。ロトは代わりに二人の娘を提供するというが人々は目もくれない。ロトの申し出は現代の私たちには論外であるが、客人を守るために娘を提供することは当時の人々には当然の論理だったのだろう。
−創世記19:6-9「ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った『どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから』。男たちは口々に言った『そこをどけ』。『こいつは、よそ者のくせに、指図などして』。『さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる』。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」。
・ソドムの罪の一つは男色(ソドミー)であったと言われる。男色は旧約聖書では死罪に当たる罪である。
―レビ記18:22-25「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前から私が追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである』」。
・預言者は、ソドムが自分たちの利益のみ求め、他者を顧みなかったことを滅びの原因と見る。
―エゼキエル16:49-50「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、私の目の前で忌まわしいことを行った。そのために、私が彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見た通りである」。
・イエスもソドムの罪を、隣人を迎え入れなかったことにあると見ておられる。
−マタイ10:14-15「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。

2.ソドムの滅亡とロトの救済

・御使いたちは今から裁きが始まるゆえに、「家族を連れて逃れよ」とロトに命じる。
−創世記19:10-13「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。二人はロトに言った『ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。私たちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、私たちを遣わされたのです』」。
・ロトは娘婿に共に逃げるように伝えるが彼らは嘲笑して従わない。結局、妻と二人の娘を連れて逃れる。
−創世記19:15-17「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った『さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまう』。しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。主の彼に対する憐れみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、その一人は言った「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう』」。
・日の出と共に裁きが始まった。具体的には地震によると思われる地下の硫黄の噴出が町を焼き尽くした。
―申命記29:23「全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、昔、主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである」。
・主はロトの一族を救済しようとするが、妻は逃げ遅れて死ぬ。
−創世記19:23-24「太陽が地上に昇った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」。
・死海周辺は天然アスファルトや硫黄のような可燃性鉱物に満ちていた。おそらくは地震等の地殻変動により、それらの鉱物が発火・爆発して周囲の町々を飲み込んでしまったのであろう。それは自然現象である。その自然現象の背後に創世記は神の裁きを見る。3.11の地震・大津波もまた自然現象である。私たちは3.11の背後に「見えざる神の手」を見るべきなのだろうか。また現代の人間は地球を何度も破壊できるだけの核兵器を所有している。それは硫黄とアスファルトに隣接して住んでいたソドムの危険性と同じなのではないか。さらに人間は原子力発電所を作り、電気を得ているが、一たび苛酷事故が起きればその地域は廃墟になってしまう。神は福島原発事故を通して私たちに警告を発しておられるのだろうか。ソドム滅亡の物語から現代の私たちに何を覚えるべきなのだろうか。

3.ロトと娘たちへの守り

・結婚相手を失った娘たちは、ロトによって子を生む。
―創世記19:30-31「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ・・・彼は洞穴に二人の娘と住んだ。姉は妹に言った『父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、私たちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう』。娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった・・・娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(私の肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である」。
・これはふしだらな行為なのであろうか。創世記記者はこの出来事を批判しない。このような形であれ、子孫を継続することは神の祝福と彼らは理解している。
−創世記1:28「神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。
・このようにして生まれてきた子供たち(モアブとアンモン)も、主の保護下にある。彼らもまたアブラハムの一族なのである。
―申命記2:9-19「主は私に言われた『モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた』。・・・主は私に仰せになった『あなたは、今日、モアブ領アルを通り、アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。私はアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた』」。
・ロトはアブラハムのゆえに神に思い起こされて助けられた。一人の正しさは世を救う。キリスト者の地の塩としての存在意味もそこにあるのではないか。
−創世記19:29「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。


(1) 2 3 4 ... 56 »