すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-09 12:33:31 (7 ヒット)

2018年12月16日聖書教育の学び(2012年12月16日説教、マタイ1:18-25、インマヌエル誕生の告知)

1.イエスの生誕告知

・クリスマスを前にしたアドベントの時を迎えています。今日が降誕前第二主日,次週はクリマスマ主日です。今日私たちに与えられました聖書箇所はマタイ1章のイエス降誕の告知記事です。ルカ福音書では主役は母マリアで,彼女に受胎告知が為されますが、マタイ福音書の主役はマリアの夫ヨセフです。マタイは物語を始めます「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。「聖霊により身ごもる」、マタイは、普通の人にとってはつまずきになるであろう言葉を、何の説明もなしにここに述べます。
・人は通常は父と母から生まれます。ヨセフはマリアの婚約者でしたが、まだ一緒には暮らしていません。その婚約者が自分の知らない内に身ごもった、人間的に見れば、マリアが姦淫の罪を犯したと思わざるをえないでしょう。当時のユダヤでは婚約は結婚と同様の法的意味を持ち,仮に婚約中の女性が姦淫を犯すと,その女性は石打の刑にされました(申命記22:23-24)。ヨセフはマリアの妊娠に驚き、マリアを離別しようとします「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。自分の関知しない妊娠を受け入れることはできない、しかし表沙汰にすればマリアへの制裁がある、だからヨセフはこっそりと離別しようとしたのでしょう。しかし、夢で主の使いが現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と聞かされます。
・現代の私たちが「聖霊による懐妊」につまずくように、ヨセフもつまずいたでしょう。「聖霊により身ごもる」、人間的には理解が難しい問題です。ただ、ヨセフはマリア自身に妊娠の責任がないことを何らかの理由で納得し、マリアとその子を受け入れる決心をします。マタイはその間の事情を一切説明しません。しかし、私たちは疑問を覚えます「神は何故、人がつまずくような方法で、イエスをこの世に送られたのだろうか」という疑問です。
・そのイエスの出生の意味を知る手がかりが、誕生物語の前にあるイエスの系図の中にあると思えます。この系図には4人の婦人の名前が記されています。最初のタマル(1:3)はエルの妻となりますが、エルが死に、当時の習慣に従って、弟の妻となります。しかし、その弟も死に、舅のユダは、次の子も死ぬのではないかとおそれ、タマルを三男の嫁にせず、実家に戻します。子を産まずに実家に戻されることは、当時の女性にとって最大の屈辱でした。タマルは、遊女を装って舅ユダに近づき、子を産みます(創世記38章)。次のラハブ(1:5)はエリコの遊女でした(ヨシュア記2:1)。彼女はイスラエル軍のエリコ攻略を助け、イスラエルの武将と結婚します(ヨシュア記6:22‐25)。しかし、前身は遊女であり、世間的には汚れた女性です。三番目のルツ(1:5)はモアブの女性で、夫は早く死に、姑を助け、やがて夫のいとこと結ばれて、子を産みます(ルツ記4章)。ルツはユダヤ人の嫌う異邦の女性でした。最後のウリヤの妻バテシバ(1:6)は、夫が戦場にいる時ダビデ王に召し入れられて妊娠し、ダビデは夫ウリヤを殺して彼女を妻とし、バテシバはダビデによってソロモンを生みます(競汽爛┘覽11-12章)。彼女もまた姦淫の女性といわれても仕方がない経歴の持ち主です。
・家父長制をとる古代の系図は、通常は男性だけで構成されますが、イエスの系図の中には、4人の女性の名が入っており、しかも彼女たちは、異邦人とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれています。何故でしょうか。マタイは「世の人々が恥とし、不名誉とし、引け目とする出来事を、神は受け入れ、清くしてくださる、そのためにキリストを遣わされた」という信仰をここで告白しているのです。
・人間の歴史は罪の歴史です。系図はまさにそれを示します。その罪の歴史を断ち切り、購うために、神はその一人子を罪の只中に遣わされた。神は人間の生誕にまつわる全ての悲惨を、イエスの上に置かれた。マタイはそう理解してこの系図を書いているのです。系図の最後にマタイは書きます「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:16)。もし、ヨセフがマリアとその子を受入れなければ、この系図は完成しなかったでしょう。同時に、マリアとその子もまた悲惨さの中に放り込まれたでしょう。当時母子のみで生きていくのは困難な社会でした。世には多くの悲惨がある、どうすればこの世からそれらの悲惨な出来事をなくすことができるのか、それは「神に働きかけられた人の善意の働き以外にはない、そのことを示すために、神はヨセフを用いられた」とマタイは理解したのです。

2.インマヌエル(神共にいます)の命名

・ヨセフは生まれた子を「イエスと名づけなさい」と命じられます(1:21)。イエスとはヘブル語「イエホシュア=ヤハウェ救いたもう」という意味です。この「イエホシュア」が短縮されますと「ヨシュア」になります。このヘブル語ヨシュアがギリシャ語「イエスース」になり、日本語では「イエス」になります。私たちの教会には二人の「ヨシュア」が与えられています。末常喜愛君、宮崎良弥君の二人の幼児です。このお二人はイエスのように「主は救いたもう」という祝福の名前を与えられているのです。
・「主は救いたもう」、たとえ私たちの親が、タマルやバテシバのような罪人であっても、否、私たち自身が肉の欲に負けて罪を犯さざるを得ない弱さを持っていても、神は私たちの弱さを理解し、受け入れ、救って下さることを示すために、ヨセフに「イエス=神救いたもう」という名前をつけよと命じられます。神が求めておられるのは、私たちの罪を裁くことではなく、私たちがイエスを通して清められることです。だから「神は救いたもう」という名前が幼子につけられました。
・次にマタイはイザヤ7:14の預言を引用します「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。インマヌエルはヘブル語で、「神共にいましたもう」という意味です。「神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨さがあなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、いやしてくださる、神がそのような方であることを、この生まれる子は証しするであろう」と主の使いはヨセフに語ったとマタイは伝えます。クリスマスに起きたことは、「イエス=神救いたもう」という名の子が私たちに与えられ、その子は「インマヌエル=神共にいます」ことを約束する子だとの祝福があったということです。

3.インマヌエルの方との出会い

・今日の招詞としてヨブ記42:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。ヨブは正しい人で、神を畏れ、子どもに恵まれ、多くの財産を持ち、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。彼は家族を奪われ、財産を奪われ、いまわしい病気が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、ヨブは神に呪われていると思い始めます。ヨブは当初、災いを受け容れますが、苦難がひどくなるに従い、運命を呪い始めます。そして神に異議申し立てをします「何故あなたは正しく生きてきた私に悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか」。
・そのヨブの訴えに対して、神が大風の中から回答されます「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(38:2)。神はヨブの疑問に直接答えられず、ただ「あなたはどれだけ私のことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのか」と聞かれます。この神の問いかけに、ヨブは自分が全てを知るわけではないことを知らされ、そのような自分をも神は心に留めておられることに気づかされます。だからヨブは告白します。それが今日の招詞の言葉です。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。ヨブが苦難の中で求めたのは、神の臨在の確認、「インマヌエル」でした。人間は「神が共におられる」ことさえわかれば,不条理や苦難に耐えることが出来ることをヨブ記は私たちに示します。
・マタイ福音書では、神の御子が「インマヌエル」と預言されて生まれてきたと伝えます。このインマヌエルなる方はどのような生涯を送られたのでしょうか。「ひとりの孤独な生涯から」という詩をご紹介します。作者は不明です「彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。母親は、貧しい田舎の人であった・・・彼は30才になるまで大工として働いた。それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした・・・彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足なえを歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。ほどなく、世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。友人たちは、みな逃げ去った。彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた・・・長い19の世紀が過ぎていった。今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類に与えた影響、人々の命に与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった」。
・この方、インマヌエルと呼ばれた方は多くの人々の人生に影響を与え,今も与え続けています。ロバート・スチーブンソンという作家(“宝島”、“ジキルとハイド”の作者)がある時、らい病者たちが収容されたハワイの島を訪れました。その島では、修道院のシスターたちがらい病者の世話をしていました。彼は次のような詩を歌います「このところには哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう。一目見て、しり込みする。しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目にとまるは歎きの浜で看取りする姉妹たち。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」。インマヌエルと呼ばれた方は、「愛と和解のヴィジョン」を説かれ、少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、この方のために死んでいきました。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、人の心の中に燃え上がり、いく人かの「キリストにある愚者」が、このヴィジョンに従って生きました。このキリストにある愚者こそがこの方を継承して,この世に希望を与え続けるのです。クリスマスは私たちにも、「そのような者になりなさい」と招く時なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-02 16:23:14 (16 ヒット)

2018年12月9日聖書教育の学び(2016年12月4日説教、マタイ1:1-17、罪びとを憐れまれる神)

1.キリストの系図の中に、四人の女性たちの名がある

・アドベント(待降節)の時を迎えています。今年のクリスマスはマタイ福音書から御言葉を聞きます。今日はマタイ1章前半にありますイエス・キリストの系図を見ていきますが、その系図の中に、四人の女性の名が出てきます。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例です。しかも、その四人の女性はそれぞれに暗い過去を持ちます。彼女たちは、異邦人出身とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれてこの系図に記されています。何故でしょうか。今日はこの系図を手掛かりに、「イエス・キリストの福音とは何か」を見ていきます。
・4人の女性の最初は、3節に出てくるタマルです。彼女は創世記38章に出てきますが、ユダの長男エルの妻となりましたが、夫エルは子供を残さずに死にます。当時の慣習では、兄が子供を残さずに死んだ場合は弟が兄嫁を妻として迎え、兄のために子をもうけるレビラート婚が一般的でした。その慣習に従ってタマルは弟オナンの妻となりますが、このオナンも子を残さずに死にます。その時は更にその弟と結婚する慣習ですが、舅のユダは三男シェラをタマルの夫にした時、シュラまで死んでしまうことを危惧し、タマルと結婚させようとしませんでした。当時、婦人が子供を産まないということは恥ずべき事と考えられていたため、タマルは遊女を装って舅ユダに近づき、ユダから二人の子ペレツとゼラフを産みます。マタイは「ユダはタマルによってペレツとゼラを (生んだ)」(1:3)と記します。
・5節に出てくるラハブはエリコの遊女(ヨシュア記2〜6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けました。ヨシュアは、それに感謝し、ラハブに夫を与え、そのラハブから生まれたのがボアズです。マタイは「サルモンはラハブによってボアズを(生んだ)」(1:5)と記します。ラハブが何故遊女になったのかは分かりません。遊女は当時の社会でも蔑まれる存在でした。その遊女がイエス・キリストの系図に入っています。5節後半のルツはモアブの女で、エリメレクの子マフロンと結婚しますが、夫は死に、さらに義父も死んで、姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、姑を助けます。彼女はその地でエリメレクの親族ボアズと結婚し子を産みます(ルツ記4章)。マタイは「ボアズはルツによってオベドを(生んだ)」(1:5)と書きます。
・6節に出ますウリヤの妻とはダビデの武将ヘテ人ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫ウリヤが戦場にいる時ダビデ王に見初められて床を共にし、妊娠します。ダビデは自分の部下であったウリヤを部下の将軍に命じて戦場で死なせ、未亡人バテシバを妻として娶ります。このバテシバからソロモン王が生まれます(サムエル記下11‐12章)。しかしマタイはここでバテシバの名前を出さずに「ウリヤの妻」とだけ記します。バテシバはウリヤの妻であってダビデの妻ではなかった。それなのにダビデはその夫人を無理やりに自分のものとした。「メシアはダビデの子から生まれる」と信じられていた時代に、そのダビデこそ罪びとであったことをマタイは強調しています。
・四人の女性に共通するのは、それぞれに後ろめたい過去を持つことです。タマルは舅ユダとの姦淫を通して、子を生みました。ラハブの職業は娼婦で、かつ異邦人でした。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいます。また、ルツもユダヤ人の嫌う異邦出身の女性でした。イスラエルの歴史の中にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ等、賞賛されるべき女性はたくさんいますが、彼らの名前は系図には現れません。逆に、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえて、マタイはキリストの系図の中に選んでいます。何故なのか、昔から、多くの人が疑問に思ってきたところです。

2.罪びとを憐れまれる神

・イエスはヨセフとマリアの長男としてお生まれになられましたが、マルコ福音書によれば、故郷ナザレ村の人々はイエスのことを「マリアの子」(マルコ6:3)と呼んだと記します。父兄社会の中では人は通常は父親の名前で呼ばれますから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリアの子」と呼ばれています。この表現は「ヨセフの子ではなくマリアの子」、「イエスは私生児であった」という響きを持っており、ユダヤ人の中でイエスの出生に悪口をいう人たちがいたことを示します。キリスト教がユダヤ教から分離独立していったのは紀元70年ごろですが、母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。
・そう批判されても仕方のない状況下でイエスがお生まれになったのは、事実です。マタイはその事実を踏まえ、仮に私たちの両親が、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神は罪を犯す私たちの悲しみを知っておられ、それを赦しておられると主張するためにあえて系図の中に4人の罪ある女性たちの名前を挿入したと思われます。パウロは語ります「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)。
・四人の女性たちはそれぞれ罪を犯しましたが、それは生きるために止むを得ない罪でした。タマルは舅の子を生みますが、当時の女性にとって嫁いで子を産まずに去るということは耐え難い屈辱でした。だから、あえて舅の子を生みます。その舅の子ペレツがイエスの系図を構成します。ラハブは娼婦でしたが、誰が喜んで娼婦になどなるでしょうか。恐らくは家が貧しく娼婦として売られた等の事情があったはずです。しかし、そのラハブの産んだ子から神の子の系図を構成するボアズが生まれています。ウリヤの妻バテシバはダビデに無理やり王宮に連れ去られ、夫はダビデに殺されています。バテシバの一生は決して平和ではなかった。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたとマタイは主張しているのです。
・この福音書を書いたマタイも悲しみを知っています。彼は当時の社会の中で、嫌われ排除された徴税人であったとされています(9:9)。しかし、イエスはそのようなマタイをも弟子として受け入れて下さった。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれたと思われます。それ故に「罪びと」と言われたマタイの苦しみも知って下さった。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それを知るマタイだからこそ、キリストの系図の中に4人の差別された女性の名前を入れたのではないかと思えます。

3.罪の赦し

・今日の招詞にヨハネ8:10-11を選びました。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。人々はイエスを罠にかけるために姦淫を犯した女をイエスの前に連れてきて言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。イエスは言われます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。このイエスの言葉に人々は一人一人立ち去って行きました。自分は罪びとではないと言える人は一人もいなかったからです。イエスは女に言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
・千葉県館山市に、「かにた婦人の村」という施設があります。もと売春をしていた女性たちの厚生施設として深津文雄牧師が造りました。日本では戦前・戦後を通じて売春が公に認められていましたが、昭和33年売春防止法が施行され、売春で暮らしを立てていた女性たちのために全国に婦人施設が作られました。しかし、女性たちの中には長い間の売春生活により、性病にかかり、体や神経を蝕まれた人たちも多く、その人たちは行き場がなかった。その人たちが暮らせる場所として造られたのが「かにた婦人の村」です。中野バプテスト教会の修養会で20年前にそこを訪問したことがあります。施設が出来てから40年近くがたち、収容されていた人たちは皆老人になっており、中には梅毒のため廃人同様になっている人たちもいました。また家族の引取りがなかった人たちの遺骨が納められた納骨堂もありました。生きている人たちに会い、また既に骨になっている人たちとも出合い、男性の欲と罪が多くの女性を苦しめた現実を目の前に見て、自分が男性であることを恥ずかしく思った記憶があります。貧しさのため、あるいは戦争のために、多くの人が売春婦として売られ、苦しんで行きました。神は、その女性たちの悲しみと苦しみを知り、それを憐れます。
・神は私たちが弱さのために罪を犯すことを知っておられます。そして私たちが罪を認めた時に私たちの罪を赦されます。精神科医の神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で語ります「罪深いままでよいのだ、ありのままでよいのだ、そのままでお前の罪は赦されているのだ、と。もしそのような声が世界のどこからか響いてくれば、罪の人ははっと驚いて歓喜の涙にかきくれ、とりつくろいの心も捨てて、あるがままの身を投げ出し、その赦しを素直に受け入れるだろう」(同書p156)。この赦しがマタイ福音書冒頭に、またヨハネ8章にもあるのです。この赦しを経験した者は、もはや以前の生活には戻れません。だから、私たちは教会に来るのです。何故ならば、私たちもこの赦しを経験したからです。福音書の最初のページは赦しから始まっています。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美したいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-25 21:16:50 (46 ヒット)

2018年12月2日聖書教育の学び(2012年12月9日説教、マタイ28:16−20、インマヌエルの神に出会う)

1.マタイにおける復活顕現

・アドベント第2週を迎えました。今日、聖書教育によって与えられた聖書箇所はマタイ28:16-20、復活されたイエスが弟子たちに世界伝道をお命じになるところです。何故、クリスマスを前に、復活のイエスの言葉を聞くのか、それはマタイの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)が「インマヌエル」を意味するからです。「インマヌエル」はヘブライ語で「神は共におられる」という意味です。マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。インマヌエルの神とはどのような方であるのかを、クリスマスを前にした今,聞いていきます。
・28章を読んでみましょう。マタイは書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(28:16)。弟子たちはイエスの十字架刑の時にその場から逃げ出し、やがて失望して故郷ガリラヤに戻ります。そのガリラヤで弟子たちは復活のイエスと出会います。その時の記事が今日のマタイ28章です。マタイは記します「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。「弟子たちはイエスに出会っても、まだ復活を信じることが出来なかった」ことをマタイは隠しません。死んだ人間が生き返る、そんなに簡単に信じることは出来ないのです。弟子たちの中に,これは「幻覚」であり、自分たちは「亡霊を見ている」と思う者が居ても当然です(ルカ福音書24:37では復活のイエスに出会った弟子たちが「恐れおののき,亡霊を見ているのだと思った」とあります)。
・同時にこの箇所を、マタイは自分の教会の信徒に宛てて書いています。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年頃、イエスの復活を直接に体験した第一世代の弟子たちは既に死に,今教会にいる第二世代、第三世代の弟子たちは復活顕現の直接体験をしていません。「見て信じる」ことさえ難しいのに,「見ないで信じる」ことはさらに困難です。初代教会の中にも「イエスの復活を信じることの出来ない」信徒たちがいたのです。その人々にマタイは「イエスは本当に復活された。11人の弟子たちは本当に復活のイエスに出会い、イエスから言葉を受けた。その言葉を私は使徒たちから聞いてあなた方に伝えるのだ」と語っています。その言葉とは18節以下の言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:18b-20a)。イエスの宣教命令と呼ばれる言葉ですが,今日はこれらの言葉の解釈はしないで、20節後半の言葉、「インマヌエル」に集中しましょう。
・マタイは記します「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。この「いつもあなたがたと共にいる」という言葉こそ,インマヌエルの意味です。インマヌ=われらと共に、エル=神、「神はわれらと共におられる」が元来の意味です。「十字架で死なれたイエスは,復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」とマタイは証しします。イエスは死なれたが,宣教の言葉の中に臨在しておられる、それがマタイの信仰です。マタイは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)とのイエスの言葉を伝えています。人が祈りを合わせる時、イエスはそこにおられると彼は証しします。また聖餐式における言葉「取って食べなさい。これは私の体である・・・この杯から飲みなさい。これは私の血・・・である」(26:26-28)も、主の晩餐の時にイエスがそこに臨在されているという信仰を示しています。

2.インマヌエルの主に出会う

・マタイの信仰は「十字架で死なれたイエスは,復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」というものです。私たちも同じ信仰を持ちますが、なかなか主の臨在を実感できないのが現実です。つまり,インマヌエルのキリストとの出会い体験がない故に、「疑いつつ信じる」という信仰生活になりがちです。2000年前にペテロやパウロが体験した復活のイエスとの出会いが、「私たち自身の体験」にならない限り、私たちの信仰は弱いままで終わり、やがて教会を離れるようになります。先週お話しましたように、「かつて信仰告白して洗礼を受けられた人の半数以上の方が教会から離れておられる」事実こそ,この出会いの必要性を訴えます。では私たちはどのようにして復活のイエスと出会うことが出来るのでしょうか。
・いろいろな出会い方があると思いますが,今日はドイツの神学者ユルゲン・モルトマンの出会い体験を聞いていきます。彼は1926年にドイツで生まれ、第二次大戦で国防軍兵士として出征し、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。彼は自分の体験をこのように書きます「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され,私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた・・・私は神と人間に見捨てられように感じ、私の青春の希望は消え失せてしまった。私の前には将来が見えてこなかった。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた・・・受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時(マルコ15:34「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」)、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し,イエスの元に一人の方がいますことを知った。それは私の神への叫びでもあった」。モルトマンは続けます「私はイエスによって理解してもらっているように感じ、苦しみ試みられ神に見捨てられたイエスを理解し始めた・・・私は生きる勇気を奮い起こした。このかつての苦しみを共にした兄弟であり,罪責からの救済者であるイエスとの交わりは、それ以来もはや私を見捨てることはなかった。十字架にかけられたイエスこそ、私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」前書きより)。
・聖書には三人称的な読み方と,二人称、一人称的な読み方があると言われています。通常は何も感じないで聖書を読みます。三人称的な読み方です。しかし、聖書の中の言葉が忘れられない印象を与える時があります。それが二人称的な読み方です。そして私たちが人生の危機の中にある時、聖書の言葉が私たちに直接語りかける、自分の人生を根底から変えてしまう、そういう出会いをする時があります。モルトマンが経験した出会いはこの一人称的な言葉との出会いで、この出会いを通して,モルトマンは復活のイエスと出会いました。私も同じような体験をしたことがあります。その体験が27年間勤めた会社を辞めて神学校に導く契機になりました。人はあるとき,パウロが言うように「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)というような体験をします。それがインマヌエルなる方との出会いです。

3.イエスの宣教命令を受けて

・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。トルストイの描いた民話に「愛ある所に神あり」という物語があります。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけています。彼は惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後にマタイ福音書の言葉が述べられます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。モルトマンは聖書の言葉を通してインマヌエルな方と出会いましたが、マルチンは人々との出会いの中で「インマヌエル」なる方と出会います。そして、このインマヌエルこそマタイ福音書の最初の言葉であり,最後の言葉,マタイが最も伝えたかった言葉です。
・ゲルト・タイセンという聖書学者が「イエス運動の社会学」という本を書きました。彼は、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した人です。彼は書きます「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって「キリストにある愚者」が起こされた、それが、イエスが来られた以降の最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことです。聖書の言葉はこの「キリストにある愚者」を生み出していくのです。そして私たちも「キリストにある愚者」として、招かれているのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-18 22:01:52 (32 ヒット)

2018年11月25日聖書教育の学び(2009年10月29日祈祷会、イザヤ65章、求めよ、そうすれば与えられる)

1.求められることを待ち望む神

・捕囚から帰還した人々は生活の苦しさを訴え、「主の手が短くて救えない。主の耳が鈍くて聞こえない」と不満を言っていた(59:1-2)。それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」、「主は常にあなたたちに救いの手を向けてこられた」と反論する。
-イザヤ65:1-2「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」。
・「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と預言者は批判する。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前だった。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していた。
-イザヤ65:3-5「この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき、墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら、『私に近づくな、私はお前にとってあまりに清い』と言う。これらの者は、私に怒りの煙を吐かせ、絶えることなく火を燃え上がらせる」。
・信仰の異教化との戦いが旧約の一つのテーマだ。約束の地に入った民はバール信仰に魅せられ、アッシリアの勢力が強まるとアッシリアの神々を拝んだ。旧約に「主の目に悪とされる」という記述が49回も出てくるが、多くは異教礼拝を指している。これは旧約だけでなく、現代の問題でもある。キリスト教においても韓国のキリスト教は道教や儒教との混合教の要素を持つ。「聖書のみ」、信仰の異教化を防ぐためにはそれに徹する必要がある。
-列王記上16:30-31「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」。
・主は御言葉がゆがめられることを許されない。それが捕囚後の生活が祝福されない主因だとイザヤは告発する。
-イザヤ65:6-7「見よ、私の前にそれは書き記されている。私は黙すことなく、必ず報いる。彼らのふところに報いる。彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき、丘の上で私を嘲った。私は、初めから彼らがしてきた業を量り、そのふところに報いる」。

2.求める者への祝福と求めない者への裁き

・異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいる。その者たちは祝福すると主は言われる。その時、不毛地のシャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられる。
-イザヤ65:8-10「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな、そこには祝福があるから、と人は言う。私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」。
・アコルの谷は、罪を犯したアカンが家族と共に石で打ち殺された谷(ヨシュア7:24‐26)であり、この場所は「苦悩の谷」と呼ばれた。その「アコルの谷」が、「牛の群れの伏す所となる」。ホセアはイスラエルの民が悔い改め、回復される時、乾いた砂地の谷は、「望みの門」(ホセア2:15)となると預言している。
・しかし祝福は全ての人に与えられるのではない。預言者は冷静にこのことを伝える。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知だ。
-イザヤ65:11-14「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、禍福の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の目に悪とされることを行い、私の喜ばないことを選んだからである・・・見よ、私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける。見よ、私の僕らは心の喜びに声をあげるが、お前たちは心の痛みに叫びをあげ、魂を砕かれて泣き叫ぶ」。
・「求める者は与えられる」(マタイ7:8)。しかし求めない者には救いは与えられない。その冷徹な事実を見よ(放蕩息子の父親は憐れみ深いが、その息子が帰ったゆえに救いがなされた。帰らなければ破滅しかないであろう)。
-ルカ15:20-24「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した・・・『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」。

3.新しい天と新しい地の幻

・イザヤは65章前半で「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と言った。「主はあなたからの呼びかけを待っておられるのだ、あなたが呼べば答えてくださるのだ」と。
-イザヤ65:1「私に尋ねようとしない者にも私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも私はここにいる、ここにいると言った」。
・その主の応答こそ、新しい天地の創造だ。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見る。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始める。
-イザヤ65:17-18「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語る。
-イザヤ65:19−20(口語訳)「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる」。
・イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かったのだろう。サハラ以南のアフリカ諸国の平均寿命は40〜50歳だ。栄養不良による乳幼児死亡率の高さ、不衛生による感染症死や戦乱による死者も多い。イザヤ書を私たちが「自分の出来事」として読んでいく時、このアフリカの人々にどのように関っていくのか。
-ルカ10:27-28「彼は答えた『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります』。イエスは言われた『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」。
・家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していた。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告される。
-イザヤ65:21-23「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」。

4.幻を持つことの意味

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見る。
-イザヤ65:25「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。
・ヨハネもまた、ローマ帝国の迫害により消滅しようとする教会共同体に、神の国の幻を提示する。
―黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
・これは幻であって現実ではない。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていく。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型だ。
−1963年キング牧師の演説から「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・これは人道主義ではない。信仰の出来事だ。神が行為される故に私たちも行為していく。幻は希望なのだ。どのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼び求める行為なのだ。
−イザヤ65:24「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-11 20:56:08 (69 ヒット)

1.絶望の中で希望を語る預言者

・バビロンにいた捕囚民は荒廃した土地への帰還を引き受け、国の再建作業に着手した。しかし神殿再建は異邦人の妨害や飢餓等により頓挫し、経済生活は改善しなかった。「主は私たちを見捨てられたのではないか」との疑念が彼らの間に起こった。救いを待つ間は希望がある。しかし救いが来ない、自分は見捨てられたと思った時、人は絶望する。
-イザヤ64:9-11「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか」。
・「自分たちは捨てられた」という民に、預言者は「主がエルサレムを回復して下さるまで、私は沈黙しない」と約束する。
-イザヤ62:1-2「シオンのために、私は決して口を閉ざさず、エルサレムのために、私は決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう」。
・「主はその訴えを聞いてくださり、あなたがたを新しい名で呼ばれる時が来る」。「一旦捨てられたエルサレムは再び夫を与えられ、花婿が花嫁を喜びとするように、神があなた(エルサレム)を喜びとされる時が再び来る」と預言者は断言する。
-イザヤ62:3-5「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。あなたは再び『捨てられた女』と呼ばれることなく、あなたの土地は再び『荒廃』と呼ばれることはない。あなたは『望まれるもの』と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」。
・同じ頃、預言者ゼカリヤは叫んだ「いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは七十年も続いています」(ゼカリヤ1:12)。第三イザヤもまた叫ぶ「あなたがこの都を回復してくださらない限り、私は黙りません」と。預言者の叫びは民ではなく神に向けられている。
-イザヤ62:6-7「エルサレムよ、あなたの城壁の上に、わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは」。

2.信仰とは叫びだ

・このイザヤの叫びに応じて主は幻を見せてくださる「もう敵が侵略して私たちの穀物を奪い取ることはない。私たちの造ったぶどう酒を侵略者たちが飲むこともない」と。私たちは豊かな実りを楽しむことが出来るようになる。
-イザヤ62:8-9「主は、御自分の右の手にかけて、力ある御腕にかけて、誓われた。私は再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を、異邦人に飲ませることも決してない。穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し、ぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む」。
・エルサレムの城壁は破れ、城門は朽ち果てている。さあみんなで修復しよう。障害になっている石を取り除き、土を盛り上げて、城門に続く大路を築け。まだシオンに戻らず諸国をさまよっている同胞ユダヤ人を迎えるために。
-イザヤ62:10「城門を通れ、通れ、民の道を開け。盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え、石を取り除け。諸国の民に向かって旗を掲げよ」。
・ディアスポラの同胞が諸国から帰ってくる時、あなた方は「聖なる民、主に贖われた者、尋ね求められる女、捨てられることのない都」と呼ばれると預言者は高らかに歌い上げる。
-イザヤ62:11-12「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ、あなたは尋ね求められる女、捨てられることのない都と呼ばれる」。
・人が道に迷ったり、捕らえられた時、彼は救いを求めるが、救いが来ないことが明らかになった時、人は絶望する。その絶望から彼らを立ち上がらせる信仰こそ「インマムエル」の信仰である。「どのような状況の中にあっても主は耳を傾けてくださる、共にいてくださる」、それを信じる時に状況も変わり始める。
-イザヤ49:4-6「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力。今や、主は言われる・・・私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。

3.神が行為されるとの黙示

・エルサレム回復の祈りをしてきたイザヤは、63章で突然エドムの裁きを語り始める。帰国後も外国勢力の収奪と支配の中で救いを見出せない民族の苛立ちが背景にある。帰国を指導したセシバザルの神殿再建はサマリヤ人の介入で失敗し、国の独立をかけたゼルバブルの戦いはペルシャによって圧殺された。悪の勢力の前にイスラエルの希望はことごとく打ち破られ、人々は神の直接介入による救いに希望を託した。イザヤは敵対者エドムの血に染まった主の幻をみた。
-イザヤ63:1-3「『エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは・・・』、『私は勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの』、『なぜ、あなたの装いは赤く染まり衣は酒ぶねを踏む者のようなのか』、『私はただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとり私に伴わなかった。私は怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、私の衣は血を浴び、私は着物を汚した』」。
・エドムは死海南部の国でヤコブの兄弟エソウの建てた国だ。イスラエルの兄弟国であったが、バビロニア軍侵攻の時には混乱に乗じてエルサレムを侵略し、人々の財宝を奪い、多くの者を殺した。この時の仕打ちはイスラエル民族の恨みとなり、イスラエルは報復を誓い、エドムに対する裁きが求めた(イザヤ34:5-6参照)。
-詩篇137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを。エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを、『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
・現実のイスラエルは無力であり、外国勢力の支配下にある。しかし主はイスラエルを解放してくださる。その手始めとしてエドムが裁かれる。これは黙示だ。ヨハネがバビロン滅亡を通してローマ帝国の崩壊を預言したように(ヨハネ黙示録18:1-3)、イザヤもエドムの滅ぼしを通して「ペルシャ帝国からの解放」を歌い上げる。
-イザヤ63:4-6「私が心に定めた報復の日、私の贖いの年が来たので、私は見回したが、助ける者はなく、驚くほど、支える者はいなかった。私の救いは私の腕により、私を支えたのは私の憤りだ。私は怒りをもって諸国の民を踏みにじり、私の憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた」。

4.天を裂いて降りたまえとの祈り

・民は叫んだ「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)、それに対して預言者は叫ぶ「違う、これまでの救済の歴史を考えてみよ」と。
-イザヤ63:7-9「私は心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主が私たちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを。主は言われた、彼らは私の民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」。
・その主があなた方を捨てられたのはあなた方が主に背いたからだ。かつてモーセを用いてあなた方を救われた主は、あなた方の背信によってあなた方から目をそむかれた。だから今主はあなた方と共におられない。
-イザヤ63:10-11「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。そのとき、主の民は思い起こした、昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は」。
・預言者は神に嘆願する「民はあなたの力とあなたの憐れみに疑問を感じています。どうかあなたの力と憐れみを彼らに示してください」と。
-イザヤ63:15「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません」。
・「主よ、あなたが私たちの父です。どうか私たちのところに来て下さい。私たちを懐疑と不信の泥沼から救ってください」と預言者は祈る。
-イザヤ63:16-17「あなたは私たちの父です・・・「私たちの贖い主」、これは永遠の昔からあなたの御名です。 なにゆえ主よ、あなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」。
・「主よ、私たちは苦しい年月を過ごしてきました。敵はあなたの聖所を踏みにじり、私たちは異邦人の支配を受けています。どうか主よ、今こそ天を裂いて降って来てください」とイザヤは祈る。
-イザヤ63:18-19「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」。


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