すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-15 10:16:37 (29 ヒット)

1. 神の都をたたえる歌

・本詩は「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と歌い、多くの讃美歌の題材にもなってきた。主題は万軍の主に対する信頼であり、8節、12節の繰り返しがその主題を示している。
-詩篇46:8(46:12)「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」
・最初に詩人は、天地を支配される主をほめたたえる。主ご自身が「私たちの砦、避けどころ」であるがゆえに、大地や山々が揺れ動き、海が荒れ狂おうとも、私たちは恐れないと詩人は歌う。「山々が揺らぎ」、「海の水が騒ぎ」、「山々が震える」、いずれも創造以前の原始の混沌を意味する言葉だ。主はその混沌を秩序に変えて、天地を創造された。
-詩篇46:2-4「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。
・天地を支配される方は、また歴史をも支配される方である。国々がどのように武力を誇ろうとも、主の前においては何の意味もなく、主の御声で地の力は溶けさる。主は住まいである聖所、神の都シオンを守って下さる。
-詩篇46:5-7「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」。
・現実のイスラエルは東のメソポタミヤ、西のエジプトの二大帝国の狭間の中で、常に独立が脅かされ、繰り返し占領され、支配されてきた。その中で詩人は「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」との信仰を表明する。
-詩篇46:9-10「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。
・詩人は「私たちはこの主に依り頼んで国の平和を守る」と宣言する。
-詩篇46:11「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる」
・「私たちは主に依り頼んで国の平和を守る」、日本国憲法と同じ精神がここに流れている。
−憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。

2.神の都とは何か

・この詩の背景にあるのは、「神の都シオンは永遠である」というシオン神学がある。イザヤは「聖なる万軍の主の御座であるエルサレムは滅びない」と宣言し、国際情勢の変動に動揺する為政者に対して「恐れるな、平静であれ」と説き、「大国にも軍備にも頼るな」と戒めた。アッシリアが攻めて来た時、イザヤの預言通り、武力に勝る敵軍が撤退した。
−イザヤ37:36-37「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」。
・それに対してエレミヤは罪を犯した民を主は罰せられ、シオンでさえも捨てられると説いた。エレミヤの言葉を「聖なる都」に対する冒涜とした祭司たちは裁判でエレミヤの死刑を求め、シオンの不可侵性を守ろうとした。
−エレミヤ26:9「なぜ、あなたは主の名によって預言し、この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなると言ったのか・・・祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った『この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました』」。
・しかしエルサレムは破壊され、エルサレム神殿は焼き払われた。シオンは不可侵ではなかった。
−列王記下25:8-10「第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した」。
・エルサレムが聖なる存在ではなく、神が聖なる方だと知った人々は、「争いを終わらせる主」を待望するようになる。
−ミカ4:1-3「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と・・・主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名だ。20世紀の前半は戦争の世紀だった。二次大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てると言う決意で土台石にこの言葉を刻み込んだ。しかし、戦争は終わらなかったし、今でも続いている。それにも関わらず、私たちはこの御言葉を読む。この言葉は亡国と言う苦難の上に建てられた人類の遺産だ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-07 17:29:49 (41 ヒット)

1.神の偉大と人間の卑小

・詩篇8編は創造主を讃える詩篇だ。祈り手は夜空に果てしなく広がる星を見て、この無限の天空を創造された主に驚嘆し、神の偉大さを幼児も認めて賛美すると言う。
−詩篇8:2-3a「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」。
・神の偉大さの前には人が創造する王宮も砦も何の意味も無い。しかし人はそれらを支えとし、誇りとして、主に逆らう。私たちが生涯を捧げて造った事業も建造物も無限の存在の前にはあってなきものだ。
−詩篇8:3b「あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます」。
・無限の宇宙を創造された神の前に立った時、人は圧倒され、「自分は何者なのか」と問わざるを得ない。
−詩篇8:4-5「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。
・人間と訳された「エノシュ」は人の弱さを示す言葉だ。人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎない。
−創世記2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。
・しかし同時に、神は人間を万物の長として造られた。祈り手は創世記1章の人の創造を思い起こしている。
−創世記1:26-28「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。

2.それにもかかわらず人をいとしまれる神

・この詩篇はバビロン捕囚後に作られている。創世記1章は祭司資料であり、捕囚期に編集された。その創世記を念頭に置いた詩篇だ。イスラエルは国を滅ぼされ、王宮も神殿も失い、丸裸の存在になった。敗戦の民として、彼らは自己の卑小さを思い知らされる。それでも神は、自己の姿に似せて人を創造されたことを彼らは思う。自分たちは卑小ではあるが、同時に永遠の存在とつながり続けている。その思いが創世記を生み、詩篇8編を生んだ。
−詩篇8:6-7「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。
・人が創造した王宮も神殿も城壁も一瞬に消失してしまった。全てを無くした今、彼らは主の言葉を思い起こす。滅亡の前、イザヤは「あなたの語る言葉を誰も聞かないが、国が滅びた時に聞くようになる。残された者のために語れ」と命じられた。人が神の偉大さを知る時は人が砕かれた時、全てを無くした時、挫折こそ人を人とする。
−イザヤ6:9-11「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』。私は言った『主よ、いつまででしょうか』。主は答えられた『町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで』」。
・人は塵だから塵に帰る。主を知る者は、「自分がいかに卑小か」を知る故に、驕り高ぶらない。
−詩篇90:3-6「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。
・その人に、主は万物の支配を委託される。主を知る者は、「主が愛してくださる」ことを知る故に絶望しない。
−イザヤ43:1-4「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする」。
・神を見失った人は、人間存在をこの二重の視点(卑小でかつ偉大な存在としての人間)で見る事が出来ない。だからある時は驕り高ぶり傲慢になるが、次には自己に絶望し卑小になる。祈り手は神を知る喜びを歌う。
−詩篇8:10「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-30 15:03:53 (41 ヒット)

2018年10月7日聖書教育の学び(2009年5月27日祈祷会、詩篇1編、幸いだ、その人は)

1.詩篇全体に対する序詞としての第1編

・詩篇の内容は讃美と感謝・祈りと嘆きであるが、詩篇はイザヤ書と並んで新約聖書に最も多く引用されている。一例を上げれば、イエスの公生涯は詩篇で始まり(詩篇2:7)、詩篇の言葉で終わっている(詩篇22:2)。初代教会にとって聖書とは詩篇だった。新約をもう一度読み直すという視点でこれから詩篇を読んでいきたい。
-マルコ1:10-11「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた」。
-マルコ15:34「三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・詩篇1編は全体の序文であり、「幸いだ、その人は」で始まる。詩篇は祝福から始まる。教え=トーラー(戒め、律法)を毎日唱和し、それを守る人は幸いだと言われる。御言葉に生かされる生活の幸いが歌われる。
-詩篇1:1-2「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。
・主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福される。
-詩篇1:3「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
・パレスチナでは水は貴重だ。流れとは用水路、木はなつめやしを指すのかも知れない。「流れのほとりに植えられた木」はエレミヤ17:7-8にあり、詩篇1編と構成が似ている。エレミヤ書を参考に造られたのではないか。
-エレミヤ17:7-8「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。
・その一方で律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと言われる。詩篇編集者である作者は「邪悪な者が栄え、義人が苦しむ現実があることを知る」。しかし主はそのような現実を変えて下さるとの信仰がここにある。
-詩篇1:4-6「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。

2.山上の祝福との対比の中で

・幸いだ(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では(マカリオス)となる。マカリオスは「山上の祝福」の冒頭の言葉だ。イエスは詩篇1編を念頭に置かれながら山上の祝福を述べられたのではないか。
-マタイ5:3-4「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。
・詩篇記者は、神はこの世の不条理を糾してくださると歌った。イエスはこの世では正しい者が悲しみ、悪しき者が栄える現実があることを見つめ、その現実を神が糾すために自分を派遣されたと宣言される。
-ルカ4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・律法を守ることの出来ない人々を、パリサイ人たちは、「アム・ハ・アレツ(地の民)」として排除した。しかし、イエスは律法を守る人が幸いなのではなく、福音を聞き、それを信じる人こそが幸いなのだと言われた。ここに旧約(行為の戒め)を継承し、かつ超える新約(愛の戒め)がある。
-マタイ21:31-32「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。
・新約の視点から見れば、律法は廃すべきものであり、イエスによって福音の道が開けたと私たちは思う。しかし、イエスは律法を廃するためではなく、完成するために来たと言われる(マタイ5:17-18)。救いの条件としての律法ではなく、救われた恵み、応答として主の戒めを守っていくことこそ大事ではないか。
-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか・・・信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-16 21:16:31 (63 ヒット)

1.サムソンとペリシテ人との戦い

・サムソンはペリシテの女をめとるが、妻はサムソンの秘密を同胞のペリシテ人に漏らしてしまう。
−士師記14:17-20「宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。七日目のこと、日が沈む前に町の人々は彼に言った。『蜂蜜より甘いものは何か、獅子より強いものは何か。』するとサムソンは言った。『私の雌牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかっただろう。』その時主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添っていた友のものとなった。」
・女の父親は妻をサムソンから離縁させ、同胞のペリシテ人の男に嫁がせた。
−士師記15:1-2「しばらくして小麦の収穫のころ、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、『妻の部屋に入りたい』と言ったが、彼女の父は入らせなかった。父は言った。『私はあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」」
・怒ったサムソンは報復にペリシテ人の畑を焼いてしまう。
−士師記15:3-5「サムソンは言った『今度は私がペリシテ人に害を加えても、私には罪がない』。サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした」。
・このエピソードは伝説ではあろうが、ある面、事実でもあろう。獣に松明を結びつけ戦場で計略に用いたとする記録は、古今東西にかなりの例がある。イタリアに侵入したカルタゴの名将ハンニバルは、ローマ軍を混乱に陥れるために計略を用い、闇夜に2000頭の牛の角に松明を結びつけて山の斜面を登らせたのである。やがて角が焼けはじめると、牛は山中を走り回ったのでローマ側は、敵に包囲されていると思ったという。
・ペリシテ人たちは報復にサムソンの嫁と舅を殺す。サムソンはペリシテ人を殺し返し、エタムに逃れる。
−士師記15:7-8「サムソンは彼らに『これがお前たちのやり方なら、私はお前たちに報復せずにはいられない』。と言って、彼らを徹底的に打ちのめし、下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ」。
・ペリシテ人は報復のためにイスラエルに攻め入り、恐れたイスラエルの人々はサムソンを縛って、ペリシテ人に差し出す。サムソンと共に戦うイスラエル人はいなかった。しかし、主はサムソンと共におられた。
−士師記15:14-16「サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。彼は、真新しいロバのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した」。
・ここには敵を殺すことに対する罪悪感はなく、殺した敵の数を誇る風潮がある。サウルやダビデの時もそうだった。「敵を愛せ」と言われた神の言葉は響いていない。敵を殺すことが正義である時代であった。
−サムエル記上18:5-7「イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』」。

2.サムソンの罪と悔い改め

・その後、サムソンはまたもペリシテの女に迷う。妻デリラは欲と同胞からの脅しの中で、サムソンに言い寄り、力の秘密を探ろうとする。デリラの度重なる哀願の前に、サムソンは自分の秘密を教える。
−士師記16:15-17「デリラは彼に言った『・・・三回もあなたは私を侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった』。来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた『私は母の胎内にいた時からナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、私の力は抜けて、私は弱くなり、並の人間のようになってしまう』」。
・サムソンは髪の毛をそられ、力は彼を去った。彼は捕らえられ、目をくりぬかれて奴隷にさせられる。
−士師記16:20-21「サムソンは眠りから覚めたが、主が彼を離れられたことには気づいていなかった。ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた」。
・サムソンの髪の毛はまた伸び始めた。サムソンは自分の罪を悔い、祈りの中に神との交わりが回復した。おごり高ぶるものは砕かれるが、その労苦の中から主の名を呼び求めれば主は再び答えて下さる。
−詩篇107:10-14「彼らは、闇と死の陰に座る者、貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ人となった。神の仰せに反抗し、いと高き神の御計らいを侮ったからだ。主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し、束縛するものを断ってくださった」。
・サムソンは最後の力を振り絞ってペリシテ人と戦う。そこには自分の命をも捨てる真剣な祈りがあった。
−士師記16:28-30「サムソンは主に祈って言った『私の神なる主よ。私を思い起こしてください。神よ、今一度だけ私に力を与え、ペリシテ人に対して私の二つの目の復讐を一気にさせてください』。それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。サムソンは『私の命はペリシテ人と共に絶えればよい』と言って、力を込めて押した。建物は・・・そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった」。
・新約聖書・ヘブル書はサムソンを信仰の勇者とする。彼は罪を犯しても幼子のように神に立ち返ることが出来た。放蕩息子の信仰が彼にはあったのだ。弱かったのに強いものとされたのだ。
−ヘブル11:32-34「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。

3.サムソン物語をどう読むか

・勝村弘也は「サムソン物語雑考」の中で語る「士師記13〜16章に描き出されているサムソンの姿は、読者に独特の奇妙な印象を与える。サムソンは、ここで〈士師〉の一人に数えられているようではあるが、イスラエルをペリシテ人の抑圧から解放したわけでもなく、何らかの軍勢を指揮したわけでもない。彼はどこまでも単独で行動する〈テロリスト〉的な人物に見える。聖書の読者は当惑するほかない。」
・「サムソン誕生の経緯は極めて異常なのであるが、これは申命記史家がサムソンを全く特異な人物として描こうとしているからに他ならない。生まれてくる息子にではなく母親の方に厳格な食物規定が命じられる等の〈特異なもののモチーフ〉がくり返し出てくるのはこのためである。サムソンは、ふつうの士師でもナジル人でもない。しかし、まさにこの男からイスラエルの解放は〈開始〉されたと申命記史家は主張しているのである。サムソンによってペリシテ人に対する闘争は始まった。ペリシテからの救出ないし解放はダビデによって完成するが、サムソンはこのサウルからダビデへと続く展開の先駆者と見られていることになる。」
−士師記13:5「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神に捧げられたナジル人です。彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始めるでしょう」。
・旧約聖書「士師記」のサムソンとデリラの物語は、文学・美術・音楽・映画などで数多く取り上げられて有名だ。17世紀英国の叙事詩『失楽園』を書いたミルトンは、この物語をギリシャ悲劇の様式に倣った劇詩として創作した(闘士サムソン)。そこにはかつて天下無双の怪力を誇った英雄の姿はなく、妖艶な女性の魅力に負けた結果、敵方に囚われ、視力を奪われ、労役を科せられながら過去を内省して苦闘する人間の姿が描かれている。ジョン・ミルトンは41歳の時、過労で失明している。自らが失明して、彼は失明したサムソ
ンの悲しみと祈りを理解したのであろう。ミルトンは古代の詩人や預言者、ホメロスやティレシアスらをあげ、盲目が〈内面の目〉を培い、真の洞察に至ることを説く。彼は記す「盲目であることが悲惨なのではない、盲目に耐えられないことが悲惨なのだ。真理のための受難は、崇高なる勝利への勇気なのだ」。
・サムソンのように、失明を乗り越えた多くの先覚者たちがいる。紹介したい。
−2014年11月16日コンサート奨励から「全盲の玉田敬次牧師は神学校を卒業して宮城県の教会に牧師として赴任しますが、全盲の自分が晴眼者ばかりの教会に赴任して仕事が出来るだろうかという不安を持っていました。その彼に恩師が語ります「教会は牧師一人が働くところではなく、役員や会員が一緒になって奉仕する場所である。目に見える牧師はつい自分一人でやっていくことが多い。しかしあなたは目が見えないから、嫌でも信徒の手助けを借りなければならない。その方が真の教会の姿である」。玉田牧師はやがて故郷に戻り、芦屋三条教会の牧師になり、この教会から育った信仰者の一人が小森禎司先生です。小森先生も全盲でしたが、励ましを受けて明治学院大学で英文学を学び、やがて桜美林大学の教授となり、ジョン・ミルトン研究に生涯を捧げられました。ジョン・ミルトンは「失楽園」を書いたピューリタン詩人として有名ですが、41歳の時に過労で失明しています。盲目の中で口述筆記を通して「失楽園」を書いたミルトンを紹介する事こそ、自分に与えられた天命だと小森先生は思われたのです。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-09 21:16:18 (73 ヒット)

1.サムソンの誕生

・ペリシテ人は、紀元前15-13世紀に、エーゲ海よりパレスチナ海岸に侵入した。それ以降、彼らの名によってこの地域は「パレスチナ」と呼ばれるようになった。またガザ、アシュドデ、アシュケロン、ガテ、エクロンに五大都市を築き、士師時代後期からイスラエル最大の強敵となった。そのペリシテ人からイスラエルを救い出すために、士師サムソンが起こされた。ペリシテ人との戦いはサムソンから始まり、サムエル、サウル、ダビデの時代(巨人ゴリアテもペリシテ人)まで続き、ローマ時代にはペリシテ人は滅んでいる。このペリシテ人と、現在のパレスチナ人(アラブ人)は民族的な関りはない。ただペリシテ人たちのかつての居住地(ガザとその近郊)に現在のパレスチナ人が住んでいる。
・サムソンは最後の士師である。この物語も士師記の主題(罪の犯し−神の懲らしめ−救済)の中で語られる。主はサムソン(=太陽の子)を母の胎内にいる時から選ばれた。
―士師記13:1-5「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて言った『・・・あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう』」。
・ナジル人は神から特別の召命を受け、聖別(ナーザル)された者。強い酒を飲まないこと、髪をそらないことが求められた。洗礼者ヨハネもナジル人と呼ばれている。
―民数記6:2-8「特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち・・・ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない・・・ナジル人である期間中、その人は主にささげられた聖なる者である」。
・サムソンは聖別された者として、人々の期待の中で生まれ、成長した。主は彼と共におられた。
―士師記13:24-25「女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネダンにいた時のことであった」。
・福音書の記述から、洗礼者ヨハネがナジル人として生活を送っていたことを窺い知ることができる。また、「ナザレの」イエスは、ナジル人のことではないかという説もある。ルカ2章の記述は士師記13章と相似する。
−ルカ2:39-40「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」

2.ふさわしくないサムソンを用いられる主

・テイムナはかつてダン部族に割り当てられた土地であったが、サムソンの時代にはペリシテ人の町となっていた。サムソンは、その町で、ペリシテ人女性を愛し、結婚しようとする。両親は異民族女性との婚姻に反対するが、これも主の計画であったと士師記は描く。こうしてサムソンは仇敵ペリシテと関係を持つ。
―士師記14:3-4「父母は言った『お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは』・・・父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」。
・婚礼に向かう道すがら、サムソンは獅子に出会うが、主の霊は彼と共にあり、彼は撃退する。やがて獅子の死骸に蜜蜂が巣を作り、蜂蜜ができた。死骸に触れるなとの戒めにもかかわらず、彼は死骸から蜂蜜を集める。
―士師記14:5-9「一頭の若い獅子がほえながら向かって来た。そのとき主の霊が激しく彼に降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた・・・しばらくして・・・獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜があった。彼は手で蜜をかき集め、歩きながら食べた」。
・婚礼の席で彼は飲酒し、なぞをかける。そのなぞを解くためにペリシテ人たちは彼の妻を脅し、妻は同族のためにサムソンを裏切る。この事件を契機にサムソンは30人のペリシテ人を殺す。
―士師記14:19「その時、主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った」。
・乱暴者サムソンがペリシテ人を殺した。神の民イスラエルは無割礼のペリシテの支配下にいてはいけなかった。ペリシテを恐れて何もしない民を奮起させるために主はサムソンを用いられた。ギデオンにせよ、エフタにせよ、不完全な人である。主は不完全な人を用いて御旨を行われる。ヘブル書は彼らを信仰の人として描く。
―ヘブル11:32-34「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。
・主の御心はすぐにはわからないが、後になるとわかることが多い。ヨセフは兄弟たちの裏切りでエジプトに売られて苦労したが、やがて一族を救うために自分があらかじめエジプトに導かれたことを悟る。
―創世記45:4-8「ヨセフは兄弟たちに言った『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです』」。

3.サムソン物語に見る召命

・サムソンは士師にふさわしくない乱暴者であるにもかかわらず、士師記は最大の記述をサムソンについて行う(13−16章)。彼は当時イスラエルを占領し、支配するペリシテ人に、恐れず立ち向かった救国の英雄として描かれる。サムソン出生の記事は後の預言者サムエル出生の記事と多くの共通点を持つ。共に母親が不妊の女であったのに懐妊する。神の力がそこに働いていることを示す表現である。
−サムエル記上1:19-20「エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。」
・サムソンもサムエルも、母の胎にいる時から祝福され、聖別されている。サムソンはイスラエルをペリシテ人から解放するために召され、サムエルはペリシテを征服する新しい王(ダビデ)を任用するために召される。
−サムエル記上1:27-28「私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です。」
・聖別されるとは、「主が常に共におられる」ことを意味する。危機の時に、イザヤもまた「共におられる方」を待望した。それがインマヌエル預言である。
−イザヤ7:14-15「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」
・マタイはこの預言がキリスト誕生時に成就したと理解した。キリストもまたサムソン、サムエル、ダビデと同じように召されたとの信仰理解である。
−マタイ1:22-23「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」


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