すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-15 20:53:31 (23 ヒット)

1.神の応答(38章前半)

・ヨブの苦難についてのヨブと友人たちの議論は終わった。しかし問題は未解決である。苦難の意味は見出されなかった。長い沈黙の後に神が語られる。その神の回答は予想外のものであった。
−ヨブ記38:1-3「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ」。
・ヨブの問いは「自分は無実であるのに何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものであった。それに対して神は答えられる「お前がこの世界の中心にいるのか。お前の問題はこの創造世界を根底から崩すような問題なのか。お前は被造物の一人に過ぎないではないか」。4節以下、創造世界について「お前は何を知っているのか」がヨブに問われる。
−ヨブ記38:4-11「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか・・・海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。私は密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、私はそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け『ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた」。
・「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われる時、人は答えることができない。大地や天体がどのようにして創造されたか知らないからだ。創造の神秘を前に人は自分の限界を知る。海の波に対して「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じられるのに、人はその限界を超えて海辺に住み、その結果津波で死者が出ると「神はおられるのか」と叫ぶ。「此処より下に家を建てるな」とは自然の枠内で生きよとの知恵であった。
・次に一日の天体の動きがどのようにして為されるかを、ヨブよ、お前は知っているのかと問われる。ヨブは当然に知らないから黙るしかない。今日の私たちは夜明けが地球の自転により生じることを知るが、それでも太陽が昇るときの神秘に打たれる。ヘブライ人は神が光の源である太陽を創造された事を知る故に、彼らの1日は「夕から始まる」。恵みとしての朝(光)を彼らは迎える。
−ヨブ記38:12-15「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。大地は粘土に型を押していくように姿を変え、すべては装われて現れる。しかし、悪者どもにはその光も拒まれ、振り上げた腕は折られる」。

2.ヨブが知ったこと(38章後半)

・次に神は海の深淵とその底にあるとされた陰府の存在についてヨブは尋ねられるが、答えることは出来ない。
−ヨブ記38:16-18「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ」。
・現代人はこの自然世界の神秘を知ると思い上がる。3.11で明らかになったことは、人間は自らが創りだした原子力エネルギーの廃棄物処理の方法さえ知らなかったということだ。神はヨブに「人間は被造物に過ぎないのに創造主になろうとするのか」と問いかける。
−ヨブ記38:19-21「光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。そのときお前は既に生まれていて、人生の日数も多いと言うのなら、これらのことを知っているはずだ」。
・神はヨブの苦難の問題には立ち入らない。ヨブの中心課題である苦難を問題にしない所に、ヨブの中心課題への最良の答えがあるのではないだろうか。ヨブは神を求めながら結局は自分の義を求めていた。人は自己を中心に物事を見るが、神の視点から見れば物事の意味はまるで異なる事に気づかない。自己からの解放、自己の問題が世界の中心ではない。それをヨブ記は私たちに教えるのではないだろうか。
−ヨブ記38:22-29「お前は雪の倉に入ったことがあるか。霰の倉を見たことがあるか。災いの時のために、戦いや争いの日のために、私はこれらを蓄えているのだ。光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。誰が豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、乾ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか。雨に父親があるだろうか。誰が露の滴を産ませるのか。誰の腹から霰は出てくるのか。天から降る霜は誰が産むのか」。
・「知らないことを知らない」と認め、「自己の苦難よりも大事な問題がある」ことを知った時に、苦難は解決されるのではないだろうか。自己のことばかりを考える故に人に思い悩みが生じるのではないだろうか。
・神の答えはヨブの問いに直接答えたものではなかった。しかし神は創造された世界を肯定され、ヨブもまたその肯定の中にある。ヨブも生きることを許されている。そのことを知れば、全ての悩みもなくなるのではないか。
-エゼキエル18:31「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。

3. 被造物を生かす摂理についてお前は何を知るか(39章前半)

・ヨブ記は38章から神の言葉が始まり、38章後半から39章にかけて神の言葉の第二弾が始まる。ここでは動物の世界に見られる自然世界の不思議さが語られ、人間本位にしか世界を見ることの出来ないヨブに悔い改めが迫られる。最初に展開されるのは、獅子や烏がどのように生かされているかの不思議さである。
−ヨブ記38:39-41「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れがにうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」。
・獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁る。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶか。叫ばないだろう。それが自然の摂理なのだ。しかし「お前、ヨブは自分の名誉が傷つけられたと叫んでいる。お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」と神はヨブに迫る。
−ヨブ記39:1-4「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか・・・雌鹿はうずくまって産み、子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち出ていくともう帰ってこない」。
・お前は野ろばを生かす私の働きを知っているか、お前は野牛の生態について何を知っているか。彼らは僅かな食料を求めてお前たちの家畜にはなることはなく、私によって野に生かされている。そのことを知っているか。
−ヨブ記39:5-10「誰が野生のろばに自由を与え、野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え、ねぐらとして不毛の地を与えたのは私だ・・・野牛が喜んでお前の僕となり、お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ、お前に従わせて谷間の畑を掘り起こさせることができるか」。

4.駝鳥や馬や鷲を生かすものは誰か(39章後半)

・13節から駝鳥の生態が語られる。駝鳥は卵を生んでもそれを放置し、自然のままに委ねる。それでも彼らは絶滅しない。何故だと思うか、私が生かしているからだと主なる神は言われる。
−ヨブ記39:13-18「駝鳥は勢いよく羽ばたくが、コウノトリのような羽毛を持っているだろうか。駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている・・・神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。だが、誇って駆けるときには馬と乗り手を笑うほどだ」。
・お前たちは野生の馬を飼い慣らし、戦争のために用いるが、彼らに力と勇気を与えたのは誰か。彼らはお前たちのために創造されたのか。お前たちは「人間こそ創造の中心であり、他の被造物は全て自分たちのために創られた」と思っているが、本当にそうか。「お前が世界の中心なのか、しかしお前は何も知らないではないか」。
−ヨブ記39:19-24「お前は馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるか。馬をいなごのように跳ねさせることができるか。そのいななきには恐るべき威力があり、谷間で砂をけって喜び勇み、武器に怖じることなく進む。恐れを笑い、ひるむことなく、剣に背を向けて逃げることもない。その上に箙が音をたて、槍と投げ槍がきらめくとき、身を震わせ、興奮して地をかき、角笛の音に、じっとしてはいられない」。
・最後に鷹と鷲が語られる。鷹は時期が来れば移動し、鷲は高い空を飛び、その雛に餌を与える。それはお前がしているのか。鷹や鷲さえも生かしているのは私ではないのか。
−ヨブ記39:26-30「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのはお前が分別を与えたからなのか。鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか。鷲は岩場に住み、牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。その上から餌を探して、はるかかなたまで目を光らせている。その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる」。
・被造物を生かされる神に感謝し、信頼して生きる。イエスもそのような生き方を求められた。
−マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。
・自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や、正しさにこだわるのは、あまりにも人間中心の世界観であり、神の思いは人間を超える。こう言われた時、ヨブは引き下がるしかない。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。

*ヨブ記39章参考資料「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」を読む
・「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本があります。著者は幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)で、ヨブ記を例にとりながら、「神とはなにか、信仰とは何か」を問うた書です。人は不幸なことがあると、その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかと考えます。「罰が当たった、天罰だ」と。あるいは「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思う人もいます。しかし著者は、この世に起こる不正義、悪、不条理な出来事は、単なる自然、物理法則によるものであり,神に起因するものではないと断言します。
・ヨブ記では、神自身が「正しいと認めているヨブ」が何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされます。3人の友人がヨブに対して繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のなさることに間違いはない」という教理の押し付けです。しかし、ヨブは納得せず、逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責めます。友人たちは最後には「ヨブが神に対して罪を犯した」と言って責め、ヨブは神に対して説明を求め、最後に神は答えられます。その中に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たち、「善にして全能の神のすることに間違いはない」という主張をし続けた人たちへの断罪です(42:7)。
・著者の信じる神は、正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる方です。著者は「神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだ」と考えます。神はこの世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主ではないからです。神は混沌に秩序を与えるために世界を創造されました。その神の創造は今も行われています。つまり、混沌がまだ残されています。その混沌を私たちは「不条理」と呼びます。著者は語ります「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。

5. 神は人間だけのために存在するのではない(40章前半)

・神はヨブに対して創造世界の神秘を示し、「お前が天地を造ったのか、お前があらゆる生き物を生かしているのか、お前の苦難はこの創造世界の中心なのか」と問われた。そう問われた時、ヨブは神の前に平伏せざるを得ない。ヨブの問題は解決されなかったが、解消した。苦難の意味がわからずとも良いことを知った。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
・しかし、ヨブの悔い改めはまだ十分ではない。ヨブが求めたのは神の義ではなく、自己の義であった。ヨブは「自分は正しく神は間違っている」と主張した。そこにこそ、「自らを神にしようとする」ヨブの罪がある。
−ヨブ記40:6-10「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り栄えと輝きで身を装うがよい」。
・人間は「もし神が義であるなら、悪はどこから来るのか」とうそぶく。しかし、このような神義論は人間の罪を棚上げにしている。何故悪があるのか、聖書は「悪は人間の罪から来る」と示唆する。
−イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・ヨブ記が示す方向性も同じだ。「何故悪があるのか、それは神が悪人をも生かそうとされているからだ」とヨブ記は語る。神は悪人でさえ、悔い改めて戻ることを待ち望んでおられる。それ故、悪に対する猶予があると。
−ヨブ記40:11-14「怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」。

6.ベヘモットとレビヤタンを見よ(40章後半)

・40章後半からベヘモットとレビヤタンの記事が登場する。古代神話に描かれる混沌の原始時代の陸と海の怪物で、長い間実在の存在と思われ、中世まではサタン(龍)の別名とされていた。
−ラテン語エズラ記6:47-52「五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました・・・それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました」。
・旧約神話の源流はメソポタミヤの創造神話の中にある。そこでは怪物たちが征服されて混沌が秩序に変わる、それが創造だとされていた。旧約の人々はそのような怪物もまた神の支配下にあると理解した。
−ヨブ記40:15-24「見よ、ベヘモットを。お前を造った私はこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。山々は彼に食べ物を与える。野のすべての獣は彼に戯れる・・・川が押し流そうとしても、彼は動じない。ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。まともに捕えたり、罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか」。
・具体的な叙述としてはナイルに住む河馬が考えられている。後半のレビヤタンは鰐が想定されているようだ。そこにあるのは決して人間の自由にならない存在があるが、それもまた神の創造物であるという主張である。ジョン・ホッブスはその著で国家をリヴァイアサン(レビヤタン)的存在として論じた。
−リヴァイアサン(Leviathan)「トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行された。題名は旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(リヴァイアサン)に対して全部譲渡(という社会契約を)するべきである」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。ホッブズは人権が寄り集まって国家をつくるのだと考えた。すなわち国家機構は、厖大な人間が集まってつくりあげられた巨大な“人工人間装置”のようなものではないか、それは幻獣リヴァイアサンのようなものではないかと考えたのである。
・神は人間のために存在しているのではなく、人間もまた神の被造物の一つに過ぎない。それを知ることこそ、人間の智恵ではないかとヨブ記は私たちに問いかける。私たちの苦難が何故あるのか、私たちは知らない。ただイエスはその私たちのために十字架を負って下さった。それを知れば苦難もまたイエスに従う道の中にある。
−競灰螢鵐4:8-10「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。

7. 創造神話の怪物レビヤタンの示すもの(41章前半)

・ヨブ記では40章前半に創造神話の陸の怪物ベヘモットが、40章後半から41章に海の怪物レビヤタンが登場する。両者はメソポタミヤ神話をイスラエルが神の創造神話の中に取り入れたものである。レビヤタンはここではナイルに住む鰐の姿で示される。普通の鰐であれば鉤で捕らえることが出来ようが、この怪物はそうはいくまいと語られる。
−ヨブ記40:25-26「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ、顎を貫いて轡をかけることができるか」。
・ヨブ記では人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが示される。
−ヨブ記41:10-17「彼がくしゃみをすれば、両眼は曙のまばたきのように光を放ち始める。口からは火炎が噴き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る。首には猛威が宿り、顔には威嚇がみなぎっている。筋肉は幾重にも重なり合い、しっかり彼を包んでびくともしない。心臓は石のように硬く、石臼のように硬い。彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」。
・私たちはこのようなヨブ記の記述を神話として嘲笑するが、神の創造の業は神話でしか表象できないものではないか。ベヘモットとレビヤタンの物語を通して、ヨブには理解できない創造の神秘が語られ、その神秘の中では「自分は正しい、神は間違っている、私は神を告発する」というヨブの訴えがいかに愚かであるかが示される。
−ヨブ記41:1-3「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。いるなら、私の前に立て。あえて私の前に立つ者があれば、その者には褒美を与えよう。天の下にあるすべてのものは私のものだ」。

8.人間の限界を知る(41章後半)

・生命誕生の歴史と人間の歴史を対比した時、人間は如何に小さな存在であるかがわかる。地球が生まれたのは46億年前、人類が登場したのは20万年前、その壮大な歴史の中で私たちは70年か80年の命を生きる。
−「地球が生まれたのはいまから46億年前のことと考えられています。まだ熱かった地球が徐々に冷えて海が出来、生命が生まれたのは地球誕生から6億年位経った40億年前です・・・原始の生命が生まれたところは深い海の底で、海水の温度も高いところでした。何故浅い海に生命が生まれなかったのでしょうか。その大きな理由の一つと考えられるのが生命に有害な宇宙線です。現在、生命を守る地球の多重バリアーには、地球磁場、大気、オゾン層がありますが、地球磁場がまだ形成されていなかった頃には浅い海で生命が生まれたとしても降り注ぐ宇宙線によって壊されてしまったのでしょう。生命が浅い海に移動してくることができたのは地球に磁場が形成され、有害な宇宙線の進入を防ぐことが出来るようになった27億年前です。そして、生物が陸上に進出してきたのは紫外線を防ぐオゾン層が形成された5億年前のことです」(生命の誕生と放射線(原子力教育を考える会HPから)。
・ヨブ記のレビヤタンはやがて巨大な竜(サタン)としてヨハネ黙示録に描かれる。
−ヨハネ黙示録12:9「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」。
・ヨハネ黙示録ではこのサタンが捕らえられ、封じ込められることによって、神の国(千年王国)が登場すると考えられた。ヨハネはサタン(ローマ帝国)の支配も神によって制御されることを神話的表象で描いた。
−ヨハネ黙示録20:2-3「この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである」。
・しかしこの神話的表象を文字通りに信じた時、そこに様々な問題が生じる。アメリカ宗教史を研究する森孝一は、アメリカ人は千年王国を文字通りに信じ、それを持って自分たちの戦争を正当化してきたと述べる。
-森孝一・千年王国とアメリカの使命「千年王国論には前千年王国論(キリストが再臨し,この世を裁いた後、千年王国を実現する)と後千年王国論(神の民の努力により千年王国が実現し,その後にキリストが再臨する)があり、アメリカに入植したピューリタンたちは前千年王国論に従い,キリストの再臨に備えるために純粋な教会と正しい国家の建設を目指した。その理想がジョン・ウィスロップの説教「丘の上の町」に示される選民思想である。しかし、ジュナサン・エドワーズが中心となってなされた第一次大覚醒運動(1730−1760年)より後千年王国論が主流となり、それがアメリカの独立運動をもたらし,その後のアメリカの使命感(キリスト陣営の旗手)となり、外交政策の基本ともなった。この二元論的な思考が植民地時代には対立するニュー・フランスの国教カトリックを「反キリスト」とし、やがては植民地を束縛する英国本国を終末時における「反キリスト」とみなす独立戦争が始まる。その後、この後千年王国思想が「世俗的千年王国論」となり、冷戦期においてはキリスト陣営が自由主義陣営であり、反キリスト陣営が共産主義陣営になり、ソ連を「悪の枢軸」と呼んで対立し、反共産主義の戦いとしてのベトナム戦争を招来する。冷戦後は対立軸がイランとなり、イランが反キリストになっていき,その結果アフガン・イラク戦争が起きていく」(同志社大学一神教学際研究センター2007年シンポジウムから)。
・「聖書はキリスト教信仰の基本であるが、それは2000年前の言葉と思想で書かれており、それを現代の言葉で読み直す(非神話化する)」ことが必要である。しかし、現代世界の唯一の超大国であるアメリカにおいて「聖書の言葉は神の言葉であり,文字通りに理解すべきだ」と信じる人々が多数を占め、「聖書の教え(ヨハネ黙示録の千年王国説)に従って外交が行われる事実は不気味である。私たちはヨブ記を笑えない世界に住んでいるのだ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-08 18:06:52 (31 ヒット)

1.エリフの登場

・ヨブと三人の友人たちの議論は31章で終わり、38章から神の言葉が始まる。しかし、現在のヨブ記では32〜37章にエリフの弁論が挿入される。エリフは31章前には記述がなく、また38章後にも登場しないことから,多くの注解者はこの32〜37章は後代の編集者(おそらくは正統主義神学に立つ人々)が,あまりにも急進的なヨブの神学(応報論の否定)に対して、全体を緩和するために挿入したものと見ている。最初にエリフは三人の友人たちが言葉を失った故に,彼らを支援するために議論に加わると述べる。
−ヨブ記32:11-17「私はあなたたちの言葉を待ち、その考えに耳を傾け、言葉を尽くして論じるのを聞き、その論拠を理解しようとした。だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ、彼の言葉に反論しうる者がない・・・彼らは気を挫かれて、答えようとせず、言うべき言葉を失っている。私は待ったが、彼らは語らず、行き詰まり、もう答えようとしない。それなら私が自分の言い分を述べさせてもらおう。私の意見を言わせてもらおう」。
・エリフの具体的弁論は33:6から始まるが,彼は明らかに三人の友人たちと同じ応報論の立場に立つ。彼にとって「自分は正しい,神は自分を敵とされている」というヨブの主張は瀆神的であり、我慢がならないものだった。
−ヨブ記33:8-12「あなたが話すのは私の耳に入り、声も言葉も私は聞いた。『私は潔白で、罪を犯していない。私は清く、とがめられる理由はない。それでも神は私に対する不満を見いだし、私を敵視される。私に足枷をはめ、行く道を見張っておられる』。ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます」。
・「神は人よりも大なる方であり、被造物であるあなたが何故創造主である神と争うのか。そこにあなたの根本的な間違いがあるのではないか」とエリフはヨブを追求する。
−ヨブ記33:13-18「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる。人が行いを改め、誇りを抑え、こうして、その魂が滅亡を免れ、命が死の川を渡らずに済むようにされる」。

2.苦難を神の教育とみるエリフの議論

・エリフの言葉は,エリフが「苦難は神が教育のために人に与えられる」と理解していることを示す。エリフはヨブに与えられた業病(らい病)もそのようなものだと理解している。
−ヨブ記33:19-25「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。肉は消耗して見えなくなり、見えなかった骨は姿を現し、魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく。千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、 彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう」。
・応報論に立つエリフは悔い改めて神に立ち返れば,神は救ってくださると信じ,ヨブにもそう伝える。
−ヨブ記33:26-30「彼は神に祈って受け入れられ、歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ、再び神はこの人を正しいと認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。それは私のなすべきことではなかった。しかし神は私の魂を滅亡から救い出された。私は命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」。
・「苦難により、人の心が低くされ、心が砕かれて、人は神に立ち返る」という考え方は新約にもある(ヘブル12:4-12)。それは真理の一端を示すのであろう。しかし、現実には「癒されない病があり、回復されない不条理」がある。それを私たちはどのように理解したら良いのだろうか。心理学者の加来周一は書く「答えのない不条理があるのではないか。その時、人はその不条理を答えのないままに受容していくことが求められるのではないだろうか」。

3.エリフのヨブ批判

・ヨブ記32〜37章のエリフの弁論は正統神学に立つ後代の人々が,あまりにも急進的なヨブの神学(神への疑義、応報論の否定)に対して、反論のために挿入したものと見なされている。34章からエリフの第二回目弁論が展開されるが,そこでは神の行為に疑義を挟むヨブの行為を瀆神的だと非難する。
−ヨブ記34:5-9「ヨブはこう言っている『私は正しい。だが神は、この主張を退けられる。私は正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに矢を射かけられて傷ついた』。ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む。『神に喜ばれようとしても何の益もない』と彼は言っている」。
・エリフにとって、「神に過ち」などないし、「神は人間の行為に応じて報われる」のは当然のことであるし、ましてや「神が罪を犯す」など考えられない。彼は「生ける神」を求めて苦しむヨブを顧慮することなく、自己の信じる教理(彼自身の神観、人間化された神)を滔々と述べる。
−ヨブ記34:10-15「分別ある者は、私の言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない。誰が神に全地をゆだね、全世界を負わせたというのか。もし神が御自分にのみ、御心を留め、その霊と息吹を御自分に集められるなら、生きとし生けるものは直ちに息絶え、人間も塵に返るだろう」。
・「神には絶対に間違いがない」と断定すれば、不条理に追い込まれた人間は、その結果をただ受け入れることしか出来ない。神批判は許されないのだろうか。1755年リスボンで大地震と津波があり(M8.5〜9)、死者が6万人に達したとき, ヴォルテールは批判して言った「慈悲深い神が監督する我々の最善の可能世界は崩壊した」(カンディード)。ヴォルテールの批判は当時の神理解の間違いの批判であり、このような批判を通して,人間の神理解は進んでいく。その意味で3.11の大震災以降、ヨブ記が読まれ,「神はおられるのか」という議論が起こっていることは良いことだ。

4.教理的言説の怖さ

・16節からエリフはヨブに問いかける「あなたは正義の神を罪あるものと呼ぶのか。王者に向かってならず者と言うのか。そういうあなたは何者なのだ」と。
−ヨブ記34:16-19「理解しようとして、これを聞け。私の語る声に耳を傾けよ。正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか。王者に向かって『ならず者』と言い、貴い方に向かって『逆らう者』と言うのか。身分の高い者をひいきすることも、貴族を貧者より尊重することもないお方、御手によってすべての人は造られた」。
・エリフはたたみかける「人間は有限な存在であるのに,無限な方を批判することが出来ようか」。エリフはヨブの苦しみを全く理解しようとはせず、ただ自分の教理的確信を述べる。
−ヨブ記34:20-30「これらの人も瞬く間に、しかも真夜中に、死んでいく。権力ある者は身を震わせて消え去り、力ある者は人の手によらず、退けられる。神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。悪を行う者が身を隠そうとしても、暗黒もなければ、死の闇もない・・・数知れない権力者を打ち倒し、彼らに代えて他の人々を立てられる。彼らの行いを知っておられるので、夜の間にそれを覆し、彼らを砕き、神に逆らう者として見せしめに、彼らを打たれる・・・神が黙っておられるのに罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに目を注ぐ者があろうか・・・神は、神を無視する者が王となり、民を罠にかけることがないようにされる」。

5.エリフの三度目のヨブ批判

・34章でエリフは「絶対なる神」に対して異議申し立てをするヨブを激しく批判した。神絶対主義に立つエリフにとって,神を批判するヨブは許せない存在だった。
−ヨブ記34:9-12「神に喜ばれようとしても何の益もないと彼は言っている。さて、分別ある者は、私の言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」。
・エリフはヨブの間違いを糾して言う「天を仰ぎ見るだけで,神と人間の間の限りない断絶を知ることが出来る。有限な人間が無限な神に何の影響を及ぼしうるのか,何も無い。人間の罪が神を損なうことも、また人間の正しい行為が神を益することも無いのだ」と。エリフは、神は超越者であるという彼の神義論を展開している。
−ヨブ記35:2-8「神は私を正しいとしてくださるはずだとあなたは言っているが、あなたのこの考えは正当だろうか・・・天を仰ぎ、よく見よ。頭上高く行く雲を眺めよ。あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか。繰り返し背いたとしても、神にとってそれが何であろう。あなたが正しくあっても、それで神に何かを与えることになり、神があなたの手から何かを受け取ることになるだろうか。あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に、あなたが正しくてもそれは人の子にかかわるだけなのだ」。
・仮に神がエリフの言うように天に鎮座される超越神であれば,その方は私たちと何の関係もない。エリフは神を抽象論的に考えることによって、神を人間と無縁の存在にする。そのような思想は旧約聖書の他の箇所にもある。しかしイエスが教えてくださった神はそのような方では無い。イエスの神は私たちの人生に深く関わられる方だ。
−マタイ6:31-33「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

6.生きることの意味

・エリフはヨブの「神は私の訴えを聞いてくださらない」という「神への疑問」を否定して言う。「あなたが叫んでも神が聞いてくださらないと文句を言う。それはあなたが神を真摯に求めないから聞かれないだけなのだ」と。それは「祈りが足らないから病気が治らないのだ」という偽宗教家の言葉と同じだ。
−ヨブ記35:9-13「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める。しかし、だれも言わない『どこにいますのか、私の造り主なる神・・・は』と。だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。神は偽りを聞かれず、全能者はそれを顧みられない」。
・エリフは重ねて神の沈黙を否定する。「あなたの訴えは神の元に届いている。ただ時期が来ないので神は回答を保留されている。あなたは待つべきなのに無意味に騒ぎ立てる」とヨブを攻撃する。
−ヨブ記35:14-16「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。今はまだ、怒りの時ではなく、神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので、ヨブは空しく口数を増し、愚かにも言葉を重ねている」。
・ヨブは苦難の意味を求めて神に問うが、神からの回答はなかった。ヨブ記は人間の知恵の限界を示す。「有限な人間には苦難の意味など理解出来ない。彼が出来るのは主を畏れることだけだ」とヨブ記は示している。
−ヨブ記28:12-23「知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命ある者の地には見いだされない・・・では知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。すべて命ある者の目にそれは隠されている・・・その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」。

7.エリフの四度目のヨブ批判

・ヨブ記には32章から突然エリフが登場する。エリフは32〜37章で彼の持論(神の正しさ、人間の卑小さ、その中における苦難の意味)を語る。36〜37章はそのエリフの最終弁論だ。エリフは持論を繰り返す「神の摂理は人間の理解を超える。ただ神はいつも人を見ておられ、人それぞれの業に応じて報われる」と。
−ヨブ記36:5-10「まことに神は力強く、たゆむことなく、力強く、知恵に満ちておられる。神に逆らう者を生かしてはおかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる。神に従う人から目を離すことなく、王者と共に座につかせ、とこしえに、彼らを高められる。捕われの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば、その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される」。
・エリフの考え方は旧約に共通する。正統主義神学の神は「正しい者に祝福を、悪しき者に処罰を与えられる」である。次の言葉はまさに正統主義神学の言葉である。
−ヨブ記36:11-14「もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。神を無視する心を持つ者は、鎖につながれていても怒りに燃え、助けを求めようとしない。彼らの魂は若いうちに死を迎え、命は神殿男娼のように短い」。
・しかし現実はそうではない。そこにヨブの苦しみがある。人は苦難に意味を認める限り、その苦難を耐えていける。しかし、苦難の意味がわからなくなった時、その苦難は人を圧倒するようになる。エリフはそれが理解できない。
−ヨブ記9:22-24「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」。

8.苦難の意味

・エリフは、苦難は「神が人を教育するためにある」という。苦難にそういう一面があることはその通りだろう。彼が言うように「神は苦難を通して人の耳を開かれる」のは事実だ。
−ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。
・しかし同時に不条理としか言いようがない苦難があることも事実だ。私たちは苦難を抽象化してはいけないのではないか。その時にはヨブのように神を告発しても良いのではないか。
−ヨブ記31:35-37「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。 私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」。
・エリフは言う「苦難にあった時には、あなたの中に原因があるのだから、悔い改めて神を求めよ」と。
−ヨブ記36:17-21「あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう。だから注意せよ、富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからといって、道を誤らないように。苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのはまさにこのためなのだ」。
・エリフのように苦難を抽象化した時、それは神議論ではなく、人議論になってしまう。
−カウンセリングの立場から見たヨブ記「最近のヨブ記研究の中に、カウンセリングの立場からの見方がある。カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・ドグマや固定化したアプローチの仕方は逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは、キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである。彼ら3人は・・・どこまでも応報主義の立場に立ち、その原則から一歩も出ようとしない。エリファズの態度は逆にヨブを傷つけ、怒らせた。それは肉体の苦しみに加えて、精神的な攻撃であるように感じられたのである・・・ビルダデはすべてを簡略化するタイプで、カウンセリングの基本姿勢として不適当である。さらにツォファルは,自分の感情をむき出しにするというカウンセラーとしては最も不適当なタイプを示している。3人の友人たちの弁論は,結果から見れば,沈黙のうちに共に居た方が、はるかにまさっていたことを示している」。

9.正統主義神学からの批判

・エリフは神の絶対を認めず、「神は不公平だ」、「私に対して正しくない」と不平をいうヨブを嗜めるために発言する。彼の論拠は明らかで、「神は偉大であり、人は神の働きの全体を見ることは出来ない。だから神に不服申し立てをするなどとんでもない」というものだ。
−ヨブ記37:23-24「全能者を見いだすことは私たちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない」。
・彼はその論拠として、神の創造された天地の働きがいかに優れたものであるかを説明しようとする。最初に彼は、神は地上に雨を降らして人間を養い、同時に落雷を通して悪人を懲らしめられる」と語る。
−ヨブ記36:27-33「神は水滴を御もとに集め、霧のような雨を降らす。雲は雨となって滴り、多くの人の上に降り注ぐ。どのように雨雲が広がり、神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを悟りうる者があろうか。神はその上に光を放ち、海の根を覆われる。それによって諸国の民を治め、豊かに食べ物を与えられる。神は御手に稲妻の光をまとい、的を定め、それに指令し、御自分の思いを表される。悪に対する激しい怒りを」。
・次にエリフは、神は雷を通して自己の存在を知らされると言う。古代人は雷雲の中に神の御座があると考えた。
−ヨブ記37:1-5「それゆえ、私の心は破れんばかりに激しく打つ。聞け、神の御声の轟を、その口から出る響きを。閃光は天の四方に放たれ、稲妻は地の果てに及ぶ。雷鳴がそれを追い、厳かな声が響きわたる。御声は聞こえるが、稲妻の跡はない。神は驚くべき御声をとどろかせ、私たちの知りえない大きな業を成し遂げられる」。
・そしてヨブに問いかける「この驚くべき御業を為される方に対してあなたは逆らおうとしているのだ。人間であるあなたが神に逆らうことなど出来ない。それを知れと」。
−ヨブ記37:14-18「ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ。あなたは知っているか、どのように神が指図して密雲の中から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか、完全な知識を持つ方が、垂れこめる雨雲によって驚くべき御業を果たされることを。南風が吹いて大地が黙すときには、あなたの衣すら熱くなるというのに、鋳て造った鏡のような堅い大空を、あなたは、神と共に固めることができるとでもいうのか」。

10.体験に裏打ちされた言葉の重み

・エリフは有無を言わせない口調でヨブに迫る。まるで神の代理人のようだ。しかし、それはヨブにとっては何の慰めにもならない。ところが38章以下で神が語りはじめた時、ヨブは神の前にひれ伏す。
−ヨブ記38:1-6「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か、知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」。
・神が語られたことはエリフの語りとほぼ同じだ。しかしエリフの語りはヨブに何の悔い改めも生じさせず、神の語りはヨブを変えた。エリフは正しいことを言っている。しかし言葉は正しいから伝わるのではない。人が自分が体験したこと、直面したことを語る時にはその言葉は伝わるが、知らないことを知っているように語ってもその言葉は伝わらない。ヨブの言葉がそれを示す。
−ヨブ記42:5-6「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・苦難も同じだ。ヨブは苦難を経験した故に語れたが、エリフはそれを知らない故に、正しいことを語っても、その言葉は説得性がない。弁護士の岡村勲氏は山一證券の顧問弁護士だったが、山一破綻で損をした投資家に逆恨みで妻を殺された。彼は犯罪被害者になって初めて、自分がこれまで知らなかったことを知ったという。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-01 16:48:19 (37 ヒット)

1.友の無情に抗議するヨブ

・ビルダデの攻撃的な演説を聞いたヨブは、耐えかねるような口調で非情なる友人たちの論難を批判する。彼は言う「私が仮に過ちを犯したとしても、友たる者はそれを批判するのではなく、慰めるべきではないか」。
−ヨブ記19:1-4「ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。私を虐げて恥ずかしくないのか。私が過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちは私個人にとどまるのみだ」。
・もし友人たちがヨブの苦難を見て、それはヨブ自身が苦難に値する罪を犯したと思うならばそれは誤解だ。「私の現在の苦難は神から来る。それなのに、あなたたちは私の過ちを誇張して私を責め立てる」。
-ヨブ記19:5-6「ところが、あなたたちは、私の受けている辱めを誇張して、論難しようとする。それならば、知れ。神が私に非道なふるまいをし、私の周囲に砦を巡らしていることを」。
・ヨブは神がいかに彼を苦しめているかを詳述する。今の彼には何の助けもなく、叫んでも誰も来てくれいない。
-ヨブ記19:7-8「だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神は私の道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた」。
・神はヨブの財産を奪い、子供たちを奪い、忌まわしい病気に追いやられた。その結果、ヨブはすべてを失った。
-ヨブ記19:9-12「私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められて私は消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった。神は私に向かって怒りを燃やし、私を敵とされる。その軍勢は結集し、襲おうとして道を開き、私の天幕を囲んで陣を敷いた」。
・人々はヨブから身を引き、使用人さえも彼を敬遠し、妻でさえヨブの息を嫌い、子供たちもヨブを避ける。今やヨブには誰も頼る者はいなくなった。
-ヨブ記19:13-20「神は兄弟を私から遠ざけ、知人を引き離した。親族も私を見捨て、友だちも私を忘れた。私の家に身を寄せている男や女すら、私をよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、私が彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子も私を拒み、私が立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった。骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」。

2.贖い主を求めるヨブ

・それは神がヨブを打ったゆえである。神に責められ、家族にも捨てられた今の私に、頼るべきはあなたがた友しかいないのに、あなた方は私の言い分を聞こうとせず、責める。どうか言葉を聞いてほしいとヨブは懇願する。
-ヨブ記19:21-22「憐れんでくれ、私を憐れんでくれ、神の手が私に触れたのだ。あなたたちは私の友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、私を追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」。
・しかし友人たちの態度は変わらない。そのため、ヨブは自分の言葉を墓石に記し、死後誰かがそれを読んでくれることを願う。
-ヨブ記19:23-24「どうか、私の言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」。
・そのヨブが突然、贖い主について語り始める。ヘブル語=ゴーエール、「買い戻す者」の意味だ。彼の死後に彼の知人や親せきが彼の名誉回復をしてくれることをヨブは望んだのであろう。
-ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
・このヨブの言葉は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきた。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中、で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんでくださるという希望」を、人々はこの言葉に見た。それはイエスの十字架の叫びとも重なる言葉である。
-マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」。
・人は死ねば「塵に帰る」ような、虚しい存在である。その虚しい存在は今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許す。「東北の津波で死んだ人の命も無駄ではない。幼くして死んだ子の命も生かされる。これが福音に基づく希望である。

3.贖い主とはだれか(織田昭聖書公開ノートから、1993/01/05)

・ヨブの使った「私を贖う者」の元々の意味から想像する限りでは、この「贖う者」というのは、自分にとって一番血の濃い近親者で、「身請け人」になってくれる人のことです。たとえば、自分が人質になったり、虜になったりした場合に、また、落ちぶれて奴隷に売られようとする時に、身代金を払って請け出してくれる人のことを、ヘブライ語では「ゴーエール」と言いました(レビ 25:25−27)。この意味から言うと、ここに言う「私を贖う者」というのは、「最後まで私の肩を持ってくれる私の身請け人」、「だれが私を見限っても 決して私を捨てないで私の恥も悲しみも、すべてを引き受けてくれる人」という思想が、この表現に込められていると言えます。
・ヨブは果してその「身請け人」=「贖う者」をどこに見ていたのでしょうか。ヨブがこの「生きておられる」という言葉を使った時、自分を贖うその方は単なる人間ではない、という意味を果して込めたのか。そのお方の神性について、本人がどの程度分かっておったのかは、不明です。「神の子であるイエス・キリスト、復活者であり命の源泉であるお方」の栄光を、果してこの人は見たのかどうか。それとも、殆ど意識しないままに、彼の一縷の希望を「神なる復活者」にかけたのか。それは分かりません。しかし確かにその言葉は、この人の口からもれました。神は彼に語らせたのでず。その意味では、「アブラハムは私の日を見て、喜んだのである」(ヨハ 8:56)と言われたイエスなら、「ヨブは私の復活を見て、喜んだのである」とおっしゃるに違いありせん。
・その方は「ついには塵の上に立たれるであろう」と、ヨブはそう告白しました。口語訳では、「後の日に彼は必ず地の上に立たれる」、新改訳は「ちりの上に立たれることを」です。「アファール」はもともと、「土のちり」を指す言葉です。ヨブが言いたいのは、「自分がこんな、だれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土(アファール)の上まで来て冤を雪いでくださる方が、生きておられる。私がその時 もう土の下にいても、その土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さぬ!』と、その方は言ってくださる。」そんな確信を表したものです。
・26 節の文意は、やや難解です。原文は英語に直訳すれば、“and from my flesh”です。「私のこの肉から切り離されて」という風に理解すれば、「私が、皮だけじゃなく肉まで滅ぼされて、骸骨になって地下で腐ってからでも……」という意味に取れます。昔のラビたちの注釈を見ますと、この「私の肉から」の意味は、「私は再び健康な肉を回復されて、その肉から」、つまり、「今のこのままの惨めな姿ではなく、もう一度、神様から立派な体を与えていただいて、立って神を仰ぎ見るのだ」と説明しています。英語でも、“without my flesh”という訳のほかに、“in my flesh I shall see God”という訳もあります。
・ともあれ、ヨブは言うのです。「私は決して、こんな惨めったらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に、私は最後まで信頼する。」なんと、これをヨブは、イエス・キリストを見ないまま告白したのです!ヨブのこの詩の中にある幻は、やがて千数百年後に、イエス・キリストによって実現されます。実は、旧約聖書の中には、このヨブの言葉のほかにも、復活の希望の影が、そこここに映っているのです。例えば、預言者エリヤやエリシャが、死者に触れて、これを神の力で生かしたという記事が、列王記に(上 17:17f,下 4:18.同 13:20f.)見られます。預言者エゼキエルが谷間で見た無数の白骨が、神の息で甦る幻(37:1f.)もそうですし、詩篇の中では 73 篇や 16 篇にも、同じ復活の希望が歌われます。
・自分の中に、死の始まりを見ることがあります。健康の喪失や、体力気力の衰えの中にも、人は死の確実な足音を聞きます。しかし、それより更に確実で、ショッキングな死の徴は、むしろ、わが内から生じる霊的崩壊、パウロが“死の体”と呼んだものが発する死臭です。「崩れて行く。腐って行く。サタンが手を触れている。」そのとき、三人の自称“友人”たちの「お為ごかし」の忠告が、エコーをかけたように増幅されて聞こえてきます。「愚かな者よ、神はお前のような弱い、情けないものを相手にされるか!」
ヨブは、その「パルシーア復活者」を知っていました。私は知っている。私を贖う方は“生きておられる方”だ。そのお方は、最終的にこの“私”の上に臨まれる。このお粗末な“私”の成れの果である塵の上に、その方は立って、「これは、わが愛する者。だれも指を触れさせない!」そう言ってくださる。この私が、その方を仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。私はその方を、腹の底から焦がれ、わがはらわたは絶え入る。ヨブの凄いところは、それを、イエス・キリストをまだ見ないで断言したことです。聖なる霊が、私たちのためにそれを言い残させたのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-24 21:52:38 (47 ヒット)

1.ヨブの物語(ヨブ記1章前半)

・ヨブ記のテーマは「苦難」である。世の中には悪人と思える人が栄え、善人とされる人が苦難の中に生涯を終えることがある。突然の災害や事故で亡くなる人も多い。そのような時、人は叫ぶ「神はいるのか、いるのであれば何故このようなことを為されるのか」。これまで多くの人が不条理の中で苦しみ、ヨブ記を読んできた。「苦難は罪の結果与えられるのか、それとも人を鍛錬するためにあるのか、あるいは意味を見出せない不条理なのか」。
・主人公ヨブは家族に恵まれ、富や地位にも恵まれ、また信仰的にも非の打ち所がない、敬虔な人であった。
−ヨブ記1:1-5「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた『息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした」。
・天上では主なる神と天使たちが会議を開いており、そこにサタンが来た。主はサタンに「ヨブほどの正しい者はいない」と誇られるが、サタンは「人は物質的な利益が与えられるから信仰するのであり、恵みを取り去れば途端に神を呪うようになる。ヨブもその例外ではない」と挑発する。神はサタンがヨブを試みることを許される。
−ヨブ記1:6-12「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた『お前はどこから来た』。『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』とサタンは答えた。主はサタンに言われた『お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』。サタンは答えた『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』。主はサタンに言われた『それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな』。サタンは主のもとから出て行った」。
・古代の人々は神の周りには天使がいて様々の役割を果たし、その中でサタンは告発者としての役割を持つと考えた。そのサタンは「人間の宗教も道徳も所詮は利己心の変形に過ぎず、人は利益なしには信仰しない」と考えていた。世の実例を見る限りその通りだと思える。闇の子(サタン)は光の子(信仰者)より賢いのである(R.ニーバー)。

2.苦難の意味(ヨブ記1章後半)

・ヨブに苦難が与えられる。最初に彼の牛とろばが奪い取られ、次には羊が、さらにはらくだも奪われてしまう。
−ヨブ記1:13-16「ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た『御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私一人だけ逃げのびて参りました』。彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った『御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私一人だけ逃げのびて参りました』。彼が話し終らないうちに、また一人来て言った『御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私一人だけ逃げのびて参りました』」。
・財産を失っただけではなく、今度も子供たちもすべて奪い取られてしまう。ヨブは茫然とする。
−ヨブ記1:18-19「彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った『御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私一人だけ逃げのびて参りました』」。
・今回の東北津波でも多くの人がヨブと同じ体験をした。人々は言った「神も仏もいないのか」。それに対してヨブは言う「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。しかしヨブの言葉が単なる強がりであったことはやがて明らかになる。ヨブはまだ最悪を経験していない。ヨブの本質、人間の罪が明らかになるために、さらなる苦難が用意される。
−ヨブ記1:20-21「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。

3.さらなる苦難(ヨブ記2章前半)

・苦難に会う時、日本人は言う「神も仏もいないのか」。神の存在が当然の前提であるユダヤ人はそう言わない。数々の苦難を与えられてもヨブはつぶやかなかった。彼は言う「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。
−ヨブ記1:20-21「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った『私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」。
・しかしヨブはまだ最悪を経験していない。サタンは言う「人は自分の命のためには全財産を差し出す。彼は財産を失い、子どもを失ったかもしれない。しかし彼自身は何の害も受けていない」。ヨブに新たな苦難が用意される。
−ヨブ記2:1-6「主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た・・・ 主はサタンに言われた『お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ』。サタンは答えた『皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』。主はサタンに言われた『それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな』」。
・「皮には皮を」は原文では「皮の奥に皮が」、人は自分の命を救うためであれば平気で他人の命を差し出す。アダムはイブが与えられた時、彼女を「肉の肉、骨の骨」と喜ぶが、イブが過ちを犯し、その咎が自分に向けられた時、見捨てて言う「あなたが妻を与えなかったら私は罪を犯さなかった」と。私が悪いのではない、私たちは常に弁解する。
−創世記3:11-12「神は言われた『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか』。 アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』」。
・ヨブに与えられた苦しみは「らい病」であった。その病気は肉が崩れ、腐臭を放ち、感染するので、忌み嫌われ、また天刑病=罪の報いと信じられていた。知恵者、義人と尊敬されていたヨブが、周りの人から卑しみと軽蔑の目で見られるようになる。ヨブは家を離れ、塵の上に座って嘆く。
−ヨブ記2:7-8「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」。

4.ヨブが崩れ始める(ヨブ記2章後半)

・彼の妻は「神を呪って死になさい」と冷たく突き放す。らい病者は神に呪われた者、妻さえもそのような目で彼を見る。しかしヨブはまだ崩れない。彼は言う「幸いが神から来るのであれば災も受けるべきではないか」。
−ヨブ記2:9-10「彼の妻は『どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう』と言ったが、ヨブは答えた『お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』。このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」。
・その時、ヨブの三人の友がヨブの災いを聞いて、彼を慰めるために遠方より来る。三人は変わり果てたヨブの姿を見て、言葉を失ってしまった。
−ヨブ記2:11-12「ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」。
・これまで平静を保っていたヨブが三人の無言の慰めに接して終に折れる。彼は自分の生まれた日を呪い始める。今まで隠されていた彼の怒り、彼の神に対する不満が爆発し始める。「ここでのヨブは誕生日を呪っているのではない。その背後の者、神を呪い始めている」と関根正雄は言う。
−ヨブ記3:1-4「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」。
・その契機になったのは三人の友の来訪である。慰めようとする友人たちの言葉に応答しながら、彼の感情は高ぶっていく。人は病気そのものよりも、その病気を通して見える気持ち(「罪を犯したからこのような罰を受けたのだ」という無言の問責)に傷つく。これまでのヨブは表面を取り繕っていた。しかし、無言の問責を受けて気持ちが崩れた。人を傷つけるのは人の視線と言葉ではないだろうか。

5.ヨブ記1-2章参考資料 C.G.ユング「ヨブへの答え」

・旧約聖書の「ヨブ記」は、たえず人々の関心を引きつけてきた。行ないの正しいヨブが、なぜ子供を殺され、財産を失い、不治の病いにかからねばならなかったのか。しかも、サタンの誘いに神がのってヨブを試した結果として。ユングの感受性は何よりもまず「ヨブ記」の異様な雰囲気に引き寄せられる。そこでは聖書の中で他に類を見ないことが起こっている。人が神に異を唱え、反抗しているのである。神との確執の中でヨブが見たものは、神の野蛮で恐ろしい悪の側面であった。ヨブは神自身でさえ気づいていない神の暗黒面を意識化したのである。
・ここでユングは独創的な見解を打ち出す。神は人間ヨブが彼を追い越したことをひそかに認め、人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない、というのだ。ここにイエスの誕生につながる問題がある。旧約と新約の世界にまたがる神と人間のドラマを、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して、ユングは雄大に描いている。「ユングの数ある著作の中でも最高傑作」と訳者が呼ぶのも至当であろう。
・ユングの「ヨブへの答え」は、聖書の心理学的な読み解きである。神と人の葛藤のドラマとも言える。ヨブは神を畏れ敬う勤勉なまじめな人物だった。この人物にサタンが目をつける。「ヨブは敬虔な男だと言われていますが本当にそうでしょうか、ひとつ試してみてください」。この誘いに神は乗ってしまう。それ以来ヨブは数々の不幸に見舞われる。妻と子を失い、財産を失い、不治の病に掛かって灰の上をのたうち回る。この時になってヨブは、初めて旧約の神に異議申し立てを行う。あなたはなぜ、真面目に生きてきた私に不義を行うのですか。神はそのとき自分の被造物を見せて自分の力の絶大さを誇る。ヨブは口に手を当てて沈黙するしかなかった。というのが「ヨブ記」である。
・嫉妬深く怒り易い旧約の神は、心理学的には、無意識の暴発した形と捉えなおすことができる。それまで誰も神の暴挙に対して旧約で異議申し立てをした人物はいなかった。神という無意識の暴発に対して、ヨブという小さな人間が、意識の立場から異議申し立てを行った。ヨブの問いかけに対して、神の反省と応答が始まった。最初、神の反応は知恵文学という形で聖書に現れた。神は自分の剛直な頑なさを反省して、知恵という女性性で人間に答え始めた。次に聖書において、預言者たちの預言のなかでの神の子、人の子の登場が、神側からの反応として見られるようになる。
・けれども「神は情け知らずで無慈悲ではないか」というヨブの問いかけへの決定的な答えがもたらされる。それは、神が自ら人間となってこの世に生れ出て、人間の苦しみ悲しみを自ら経験して天に帰る、そのことで怒れる神の愛の神への完全な変化が行われるというものだ。つまり、神は不義で無慈悲ではないかというヨブの問いかけへの最終的な答えが、イエス・キリストの誕生と生涯と受難であるとユングはいう。イエスとして苦しみを経験してようやく神は人間の苦しみ、悲しみを実感しえたのである。このようにユングは聖書を神という無意識が反省的意識を獲得する過程ととらえて、怒れる神から優しい神の転換点をヨブ記に見たのである。卓抜な聖書の読み方で、神が成長するという視点が斬新である。心理学的には大きな足跡をこの書でユングは残した。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-17 21:01:00 (38 ヒット)

1.主の戦いからギデオンの戦いへ

・ミディアン軍を破ったギデオンは、ヨルダン川を越えて、追跡していく。ギデオンはガド族の町スコトの人々に支援を求めたが、人々は拒否する。
―士師記8:4-6「ギデオンはヨルダン川に着き、彼の率いる三百人と共に川を渡った。疲れきっていたが、彼らはなお追撃した。彼はスコトの人々に言った『私に従ってきた民にパンを恵んでいただきたい。彼らは疲れきっている。私はミディアンの王ゼバとツァルムナを追っているところだ』。しかし、スコトの指導者たちは『私たちがあなたの軍隊にパンを与えなければならないと言うからには、ゼバとツァルムナの手首を既に捕らえているのか』と言った」。
・スコトの町は長い間ミディアン人の支配下にあった。彼らはギデオンの貧弱な兵を見て、勝利を危ぶんだ。ギデオンは協力を拒んだスコトを呪って先を急ぐ。ペヌエルの町も同じように協力を断り、ギデオンは報復を誓う。
―士師記8:8-9「彼はそこからペヌエルに上って、同じことを要求したが、ペヌエルの人々もスコトの人々と同様の答えをした。そこで彼は、ペヌエルの人々にもこう言った『私が無事に帰って来たなら、この塔を倒す』」。
・ミディアン軍はヨルダン川東岸の奥深くまで逃げていたが、ギデオン軍が攻め、ついには王も捕らえられた。
―士師記8:10-12「ゼバとツァルムナは、約一万五千の軍勢を率いてカルコルにいた。すべて東方の諸民族の全軍勢の敗残兵であった。剣を携えた兵士十二万が、既に戦死していた。ギデオンは、ノバとヨグボハの東の天幕に住む人々の道を上って、敵の陣営を攻撃した。陣営は安心しきっていた。ゼバとツァルムナは逃げたが、彼はその後を追った。彼はこの二人のミディアンの王ゼバとツァルムナを捕らえ、その全陣営を混乱に陥れた」。
・敵を制圧したギデオンは、スコトとベヌエルの人々を殺した。これは主が命じられた戦いではなかった。6-7章の主語は「主」であったが、8章の主語は「ギデオン」である。戦いの性格が変わり始めている。
―士師記8:16-17「ギデオンは町の長老たちを捕らえ、荒れ野の茨ととげをもってスコトの人々に思い知らせた。またペヌエルの塔を倒し、町の人々を殺した」。

2.個人崇拝に陥った晩年のギデオン

・人々はギデオンに王になって自分たちを治めてほしいと要請するが、ギデオンはこれを断る。
―士師記8:22-23「イスラエルの人はギデオンに言った『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください』。ギデオンは彼らに答えた。『私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる』」。
・イスラエルを治められるのは主だ。主は王を求める人々に「あなた方は私を拒否している」言われている。
―汽汽爛┘8:7「主はサムエルに言われた『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ』」。
・ギデオンは本当に主の支配を求めていたのか。戦利品の金を求めるギデオンの態度はそれを疑わせる。
―士師記8:24-26「ギデオンは更に、彼らに言った『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪を私に渡して欲しい』。敵はイシュマエル人であったから金の耳輪をつけていた。人々は『喜んで差し上げます』と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れた。彼の求めに応じて集まった金の耳輪の目方は、金千七百シェケルで、そのほかに・・・飾り物があった」。
・集まってきた金は総量20キロにも達した。ギデオンはそれを用いて、大祭司の衣服であるエフォドを作った。王にならなかったが、ギデオンは個人崇拝を求めた。ここからギデオン一族の堕落が始まった。
―士師記8:27「ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった」。
・ギデオンは王になることを辞退したが、実際には「王のような生活」をむさぼった。晩年のおごりが息子アビメレク(訳すると「わが父は王」)の暴挙(兄弟を殺して王になっていく、9章参照)を生んでいく。
―士師記8:29-31「ヨアシュの子エルバアルは、自分の家に帰って住んだ。ギデオンには多くの妻がいたので、その腰から出た息子は七十人を数えた。シケムにいた側女も一人の息子を産み彼はその子をアビメレクと名付けた」。
・人は成功すれば驕り、やがては自分が正しいと思うことをし始める。そこに世の乱れが生じてくる。士師記が教えるのは、主の言葉で戦った人もやがては堕落する事だ。信仰は主の名を呼び続けない限り、堕落していく。
―士師記21:25「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。

3.ギデオンの子アビメレクの罪

・イスラエルをミディアンから救ったギデオンは、王になってほしいという民の要請を断る。その行為は表面上は謙遜であるが、事実上彼は王の生活を行い、生まれた子にアビメレク(父は王)と名づける。
―士師記8:29-31「ヨアシュの子エルバアルは自分の家に帰って住んだ。ギデオンには多くの妻がいたので、その腰から出た息子は七十人を数えた。シケムにいた側女も一人の息子を産み、彼はその子をアビメレクと名付けた」。
・そのギデオンの高慢が罪を生む。ギデオンが死ぬと子のアビメレクは母方のシケムに行き、「王として立つので支援して欲しい」と要請し、シケムの一族はそれを受け入れる。
―士師記9:1-3「エルバアルの子アビメレクはシケムに来て、母方のおじたちに会い、彼らと母の家族が属する一族全員とにこう言った『シケムの全ての首長にこう言い聞かせてください。あなたたちにとって、エルバアルの息子七十人全部に治められるのと、一人の息子に治められるのと、どちらが得か。但し私が、あなたたちの骨であり肉だということを心に留めよ』。母方のおじたちは、彼に代わってこれらの言葉をことごとくシケムのすべての首長に告げた。彼らは『これは我々の身内だ』と思い、その心はアビメレクに傾いた」。
・ギデオンは王になることは神の主権を侵すことだと拒否した。息子のアビメレクは王になるために兄弟を殺す。しかし、罪の根源は父ギデオンにある。
―士師記9:4-5「彼らがバアル・ベリトの神殿から銀七十をとってアビメレクに渡すと、彼はそれで命知らずのならず者を数名雇い入れ、自分に従わせた。彼はオフラにある父の家に来て、自分の兄弟であるエルバアルの子七十人を一つの石の上で殺した。末の子ヨタムだけは身を隠して生き延びた」。
・彼を支援したのはカナン人であるシケム族、資金は偶像神の神殿から出た。彼はその資金で親衛隊を雇い、兄弟を殺して王位につく。彼の生き方は「自分で正しいと思うことをする」、彼はレメクの末裔である。
―創世記4:23-24「レメクは妻に言った『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍』」。
・王とは神の委託を受けて民を統治するものであり、彼は最初から王の資格を欠いていた。神の召命を受けずに自分の力でなった王位は、神により剥奪される。
―士師記9:23-24「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった。こうしてエルバアルの七十人の息子に対する不法がそのままにされず、七十人を殺した兄弟アビメレクと、それに手を貸したシケムの首長たちの上に、血の報復が果たされることになる」。

4.アビメレクの最後

・アビメレクは反抗するシケム族を攻め滅ぼす。シケムで、ミグダル・シケムで、多くの民が死ぬ。
―士師記9:45-49「アビメレクは、その日一日中、その町と戦い、これを制圧し、町にいた民を殺し、町を破壊し、塩をまいた。・・・ミグダル・シケムの人々、男女合わせて約千人が皆、こうして死んだ」。
・別のシケム族の町テベツを攻めた時、女の投げた碾き臼が彼の頭を直撃し、彼は死んだ。
―士師記9:52-53「アビメレクはその塔のところまで来て、これを攻撃した。塔の入り口に近づき、火を放とうとしたとき、一人の女がアビメレクの頭を目がけて、挽き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕いた」。
・この物語は、歴史は誰が支配しておられるのか、人間か神かを問いかける。歴史の主体が人であればそこは弱肉強食の力の世界になる。歴史の主体が神であれば、そこにおいては委託と正しさが求められる。
―申命記8:17-18「あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。
・支配者が悪を行い始めた時、私たちはどうするか。士師記は委託されない者の支配は必ず終わることを告げる。
―ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われると書いてあります』。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・人は自らまいたものを刈り取る。そこに神の正義がある。それに委ねよ。
―ガラテヤ6:7「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。


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