すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-17 17:21:59 (8 ヒット)

2019年2月24日聖書教育の学び(2012年1月22日説教、ルカ10:38-42、必要なことはただ一つ)

1.マルタとマリア

・今週の聖書箇所「マルタとマリア」の物語は、先週の「善きサマリア人の例え」同様、ルカ福音書だけが伝える物語です。客をもてなすために忙しく働くマルタが、ただ座ってイエスの話を聞いているマリアを「叱って下さい」とイエスに呼びかけ、それに対してイエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタをたしなめられる場面です。今日の聖書箇所は私たちに何を求めているのでしょうか、考えてみます。
・物語はイエスが旅の途中にマルタの家にお入りになることから始まります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(10:38)。マルタ、マリアの姉妹はエルサレム近郊のベタニア村の住人であることがヨハネ福音書から知られています(11:1)。マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちと親しくされていたようです。ヨハネ福音書によればイエスは活動期間中、祭りの度ごとにエルサレムに上っておられますから、何度かベタニアのマルタの家に立ち寄っておられ、その中の一回で起こったことを、ルカはここに置いたと考えられます。
・彼女にはマリアという姉妹がいました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10:39)とルカは記します。マリアはマルタの姉妹とあるだけで、姉か妹かは分かりません。しかし、ヨハネ11章に描かれている様子から、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。マリアはイエスの足もとに座って、イエスの言葉に耳を傾けていました。姉のマルタは、一行のもてなしのためせわしく立ち働いていましたが、イエスのそばに近寄って言いました「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40)。マルタは長女で、おそらく既に両親が亡くなっていた家を取り仕切っていたのでしょう。彼女は一行をもてなすために台所で忙しく立ち働らいています。そのマルタが、イエスの足もとに座って話を聴いているマリアを見て、こう言ったのは当然の感情として理解できます。マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに手伝おうともしない」とマリアを批判したのでしょう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れません。「男は台所仕事をする必要はない、しかし女であれば手伝うべきだ」とマルタは考えたのでしょう。
・それに対してイエスは答えられました「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:41-42)。イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられるところに、マルタに対する思いやりが感じられます。イエスはマルタの働きを評価しながら、同時に彼女に大事なことを教えようとされます。イエスの答えの中心は「多くのこと」と「ただ一つ」の対照です。この世界での生活が要求する「多くのこと」と、神が求められる「ただ一つ」のことの対照です。私たちは世で生きていく限り、生活するための多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあります。しかし、私たちが神から恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけなのです。イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタを優しく諭されます。
・イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているわけではありません。問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない姿勢だと言えます。当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性は神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタは当時の女性として当然の役割を果たしていたのに、マリアのように座ってラビの話を聞くことは女性としては普通ではないことになります。イエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。このイエスの自由さが男女の役割分担に縛られ、人との比較の中でしか自分や妹を見ることのできなかったマルタにとって、解放されるための「福音」だったのではないでしょうか。

2.必要なことはただひとつ

・福音書の二重構造に私たちは注目する必要があります。ルカはこのマルタの記事を通して、当時の教会のあり方を批判していると思われます。マルタは「イエスを家に迎え入れた」、マルタの家はイエスを迎え入れたことによって、救いが来ているのです。今ルカを通してイエスの言葉を聴いている人たちは、福音の使者を迎え入れることによって復活者イエスを迎え入れ、キリストの救いを体験し、「家の集会」に集まっている人たちです。この家の人たちにイエスは言葉を語られます。「家の集会」は、「主の食卓」と「御言葉を聴く」営みから成っています。当時の「主の晩餐式」は単にパンとぶどう酒をいただくだけでなく、実際の食事をしました。ところが、集会の一部の人は、「食卓」の準備に忙殺され御言葉を聞くことが出来なかった。食事の支度をするのは多くは女性です。女性がもてなしのために御言葉を聞くことができない、それは教会の在り方としておかしいとルカはここで警告しています。無くてならぬものはただ一つ、神の言葉を聴くことですから、誰からもその機会を取り上げてはなりません。女性を含むすべての人が十分に御言葉を聴く機会が与えられた上で、飲食のことが準備され、交わりが楽しまれなくてはなりません。私たちの教会でも食事の支度はほとんど女性が行い、男性はそれを当然のように受け入れていますが、本当はどこかおかしいのです。
・イエスの言葉は、現代の私たちに語りかける「主」の言葉です。主は、多忙な生活の中で、「多くのことに思い悩み、心を乱している」私たちに語りかけておられます。主は言われます「本当に必要なことはただ一つだけである」。マリアがイエスの足もとに座って、イエスが語られる言葉にじっと耳を傾けたように、私たちも、すべての営みに優先してただ一つの「無くてならぬもの」、すなわち神の言葉に耳を傾け、言葉に生きることを学ばなければなりません。どのように忙しくても、やるべきことがどれほど多くても、それを理由に御言葉を聴く機会を取り上げてはなりません。すべての人が、イエスを通して語られる神の言葉を聴いて、その言葉に生かされるようになることが、この多忙な現代社会に生きる人たちに必要なことなのです。

3.幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人たちだ

・今日の招詞にルカ11:28を選びました。次のような言葉です「しかし、イエスは言われた『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」。イエスが病人をいやされるのを見たり、神の国の奥義を語られるのを聞いたりしたガリラヤの民衆は、イエスの存在に圧倒されて賞賛を惜しまなかったことでしょう。その中から一人の女性が感動のあまり、賛嘆の声を上げました「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11:27)。胎と乳房は子を宿し、産み、育てる、女性だけの器官です。偉大な人物を産み、育て、世に送り出すことは、女性の誇りです。イエスのような人物を産み、育て、世に送り出した母親に対して、女性としての幸せを賛嘆する声が、女性の中から湧き上がります。しかし、そのような女性の幸いに対する賛嘆の叫びに対して、イエスは別の幸いを指し示されます。それが今日の招詞の言葉です。
・すべての女性に胎と乳房はあります。しかし、それがあるからといって、すべての女性が幸いであるとは限りません。イエスはどの女性でも幸いであるうる道を指し示されます。「神の言葉を聞き、それを守る人」です。それはどのような境遇の女性にもできます。子がない女性、子の反抗に苦しむ母親、不幸な結婚に苦しむ女性、結婚していない女性、その境遇や状況にかかわらず、「神の言葉を聞き、それを守る」ことはだれにでもできます。そのことがイエスは幸せだと言われたのです。
・私たちはなぜ、日曜日、せっかくの休日に教会に集まるのでしょうか。神の言葉を聞く為です。そして教会では神の言葉が語られます「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。それにもかかわらず、社会の中では男女間に差別があります。教会も伝統的に牧師は男性で、彼は御言葉の学びに専念し、教会の雑事は女性である牧師夫人が行うことが暗黙の了解になって来ました。私たちの教会の現実もそうです。でも実はそれはおかしいのです。また日本には女性牧師は少ないという現実があります。女性が御言葉を語ることに拒否感を持つ人々が多いからです。私たちもまた、主の足元に座って御言葉を聞くマリアを排除しているのです。
・その排除が極端になれば、「女性教職は認めない」という南部バプテスト連盟のようになります。南部バプテスト連盟では2000年発表された新しい信仰告白で、「女性教職の任職禁止」を打ち出しました。根拠となった聖書箇所は第一テモテ2:11-15です「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」。このような言葉が聖書の中にあることに私たちはどう考えるべきでしょうか。テモテ書はパウロの弟子が書いたと言われていますが、イエスの時代から二世代、三世代と下るに従い、教会が保守化し、その中で書かれた言葉です。私たちは聖書が神の言葉であることを信じます。同時に聖書は人間によって書かれたものであり、それゆえに時代の制約を受けることを認識して読むべきです。その解釈において、イエスの言葉、イエスの教えのフィルターの中で御言葉を聞く必要があります。その時、マルタに「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたイエスの言葉が浮かび上がってきます。イエスは男女の伝統的分業意識から自由でした。だから私たちも自由である必要があります。パウロは「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。そこではもはや・・・男も女もありません」と言いました。だから私たちも伝統的役割分担から解放されて、男女の新しい在り方を模索する必要があることを、「マルタとマリア」の物語は教えているのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-10 17:29:15 (31 ヒット)

2019年2月17日聖書教育の学び(2018年1月1日説教、ルカ10:25-37、あなたが隣人になりなさい)

1.同胞を見捨てる祭司やレビ人

・今日はルカ10章の「良きサマリア人の譬え」について、共に考えて見ます。譬えはイエスと律法の専門家の問答から始まります。律法の専門家が「イエスを試そうとして」質問したとルカは語り始めます「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」(10:25)。律法の専門家は聖書とその解釈に精通しています。彼は「永遠の命」を受けるためには何をすべきかを当然知っています。知っているのにあえて聞く、イエスを試すためです。イエスは慎重に答えられます「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。律法の専門家は答えます「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」。「主を愛しなさい」という言葉は申命記6:5にあり、「隣人を愛しなさい」という言葉はレビ記19:18にあります。彼は答えを知っているのです。ですからイエスは言われます「あなたは答えを知っている、あなたに欠けているのはその実行だ、正しい答えを知っているのであれば実行したらどうだ」と。
・イエスの反論にたじたじとなった律法の専門家は、「自分を正当化する」ために聞き直します「私の隣人とはだれですか」。この答えも彼は知っているはずです。隣人への愛を教えるレビ記は、隣人とは同胞のユダヤ人であることを前提にしています(レビ記19:17)。隣人を愛しなさいとは同胞たるユダヤ人を愛せよと言うのが律法の規定です。専門家は「自分はユダヤ教の教師として同胞のために尽くしている」と誇りたかったのです。そのうぬぼれた彼に、イエスは思いもしない例えを語られます。それが「良きサマリア人の例え」です。サマリア人はユダヤ人ではありません。隣人を愛するとは同胞を愛することなのか、イエスは問われています。
・イエスは語られます「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:30-31)。ある人とは当然ユダヤ人でしょう。ユダヤ人がエリコに下る道すがら追いはぎに襲われ、身包みはがれた上に半殺しにされて放置された。そこに祭司が通りかかった。祭司であれば神に仕える聖職者、自分を助けてくれると期待したのに、祭司はその人を見ると道の向こう側を通って行った。何故祭司は倒れている同胞を助けなかったのでしょうか。基本は係わり合いになるのを恐れたのでしょう。もう一つは律法違反を恐れたためと思われます。律法は祭司が遺体に触れて汚れることを禁じています(レビ記21:1「遺体に触れて身を汚してはならない」、民数記19:11「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」)。この男は死んでいるかもしれない、死んでいる男に触れたら律法を破ることになる、そのようなことはしたくないという思いが祭司の胸中にあったかもしれません。つまり、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくるのです。
・次にレビ人が来ました。レビ人もまたエルサレム神殿に仕える下級祭司です。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていたと伝えられています。レビ人も倒れている同胞を見ると、よけて通り過ぎました。例えの登場人物として最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのでしょう。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っている。しかし、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。それを神は喜ばれるだろうかと。

2.同胞でないのにユダヤ人を助けるサマリア人

・例えの三番目の登場人物がサマリア人です。イエスは異邦人であるサマリア人が、ユダヤ人である祭司とレビ人が見捨てた旅人を見て、「憐れに思い」、手を差し伸べたと言われます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(10:33-35)。サマリア人は何故助けの手を差し伸べたのか。「憐れに思った」からです。憐れに思う=ギリシャ語スプラングニゾマイという言葉はスプランクノン(内臓)から来ています。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、内臓が痛むほど、心が揺り動かされたためだとイエスは言われました。人に自分の境界線を越えて行為をもたらすもの、それが愛だとイエスは言われています。
・サマリア人は元々イスラエル民族の一部でしたが、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた後、移民してきた異邦人と混血し、ユダヤ人からは「汚れた民族」として排斥されてきました。そのサマリア人が隣人になった。イエスは律法の専門家に尋ねられます「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は「誰が隣人ですか」と聞いてきました。彼にとって隣人とは同胞のユダヤ人です。しかし、今イエスは「隣人とは民族を超えるのではないか」と聞き直されます。律法の専門家はやむなく答えます「(隣人になったのは)その人を助けた人です」。彼はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼は隣人になることが出来なかった、彼は自分の正しさだけを考え、「他者のために心を揺り動かされ」なかったためです。

3.この例えは私たちに何を語るのか

・私たちはこの物語から何を聞くのでしょうか。隣人愛の教訓を聞くのか。そうではありません。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしない」と言うことです。愛とは「誰が隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うのが愛です。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いです。
・今日の招詞にマルコ10:21を選びました。次のような言葉です「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい』」。イエスの所へ、ある裕福な青年が来て尋ねます「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この青年にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」。イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。「彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善い事をすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。そこに彼の問題がある」と。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。金持ちの青年は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。イエスはその彼に驚くべきことを言われます。それが招詞の言葉です。「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていた。彼は自分の救いのことだけを考えていた。だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。
・自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか、何も持たないから「受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」、どのようにして神には出来るのか、神が万能だからか、そうではないでしょう。神の子が、「人間の弱さを自らの身に引き受けて」死なれたからです。十字架の上で砕かれたのは私たちの自我だったのです。自我を砕かれる、幼子のようにさせられていく時に、私たちは救われるのです。教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に、「心を揺り動かされて(スプラングニゾマイ)行う」業です。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考えるべき問題でしょう。ただ「隣人になることを通して関係性が生まれる」ことは事実です。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないでしょう。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)、与えることによって、関係性が広がって行きます。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫るのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-04 08:40:48 (21 ヒット)

2019年2月10日聖書教育の学び(2016年7月6日祈祷会、ルカ10:1−25、七十二人の派遣)

1.七十二人を派遣する

・イエスは七十二人の弟子を各地に派遣されたとルカは記す。十二人の派遣はルカ9:1-6、マルコ6:7-12、マタイ10:5-42も記すが、七十二人の派遣はルカのみである。
−ルカ10:1−3「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫が多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。』」
・イエスは「財布も袋も履物も持って行くな」と命じられる。財布は旅費、袋は下着などを入れる物、徒歩の長い旅に履物の予備は欠かせない。いずれも旅に欠かせないものだった。それをあえて「何も持つな、挨拶もするな」と指示される。
−ルカ10:4「『財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶するな。』」
・イエスは「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と命じられる。現代ユダヤ人の挨拶もシャロ−ム・アレ−へム(平和あれ)、返事はアレ−へム・シャロ−ムである。
−ルカ10:5−6「『どこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻って来る。』」
・「泊まった家で出されたものを飲食しなさい」と命じられる。与えられたものを食べなさいと命じられる。
−ルカ10:7−9「『その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのが当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町へ入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。』」
・「拒否する町があれば、衆目の集まる町の広場で堂々と足の埃を払い落し、町を立ち去れ」と命じられる。−ルカ10:10−12「『しかし、町へ入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。「足についたこの町の埃さえも払い落して、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ」と。言っておくが、かの日には、その町よりソドムの方が軽い罰で済む。』」
・七十二人、あるいは七十人(そのように読む写本もある)は聖なる数である。「十二人の派遣」の場合には「イエスが派遣された」が、「七十二人の派遣」の場合は「主は遣わされた」とルカは区別し、ここでは復活者イエスを指す「主」(ホ・キュリオス)を用いる。七十二人の派遣は生前のイエスによる派遣ではなく、復活後のイエスによる派遣命令と理解するべきであろう。イエス復活後の福音告知活動において、霊感を受けた預言者が、「アーメン、私はあなたたちに言う」という定式で、主イエスの言葉を語り、それが主イエスの言葉として共同体に伝承され、福音書に残されたものと思われる。復活されたイエスにより派遣されてパレスチナやシリアで福音を告知した最初期の巡回伝道者が、周囲から激しい反対と迫害を受けた状況を反映している記事と思われる。

2.悔い改めない町を叱る

・イエスは福音と救いを拒んだ町々の名前をあげて厳しく叱られた。それらの町々はガリラヤ湖北岸の三つの町コラジン、ベトサイダ、カフアルナウムで、イエスの弟子たちの福音伝道を拒んだゆえに、古に滅ぼされたティルスやシドンより罪が重いとされる。
−ルカ10:13−15「『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうに粗布をまとい、灰の中に座り悔い改めたに違いない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。』」
・イエスが派遣した伝道者を受け入れる者は、イエスを受け入れる者であり、イエスを受け入れる者は、神の救いを受け入れる。イエスが派遣した伝道者を拒む者はイエスを拒み、神まで拒むことになる。
−ルカ10:16「『あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。私を拒む者は、私を遣わされた方を拒むのである。』」
・イエスがガリラヤで「神の国」の福音を告知された時、民衆は熱狂的にイエスを迎えた(特にカファルナウムの人々はそうであった)。イエスご自身がこのような町全体を断罪するような言葉を投げつけられたとは想像しにくい。おそらく、復活者イエスが遣わされた使者を拒む町に対する、終末的な断罪を宣言する言葉として理解すべきであろう。イエス処刑後、ガリラヤの町々ではイエスの教えは異端視され、弟子たちの宣教は拒否された。「あなたがたを拒む者は、私を拒む」等の表現は、イエスが派遣された使者の使信を信じなかった町への断罪であることを示す。

3.七十二人、帰って来る

・派遣した七十二人の伝道者は帰着し、彼等は伝道の成功を喜び勇んで報告した。イエスは伝道隊の成功の喜びと派遣する際の心配を、天上から転落する悪魔や、蛇やさそりなど忌むべき存在を用いて象徴的に語った上で、成功に浮かれないよう彼等を戒めた。
−ルカ10:17−20「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します。』イエスは言われた。『私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』」
・マルコ福音書補遺は復活されたイエスの言葉を伝えている。その内容はルカ10章のイエスの言葉と同じである。復活のイエスから聖霊を受けた弟子たちは悪霊に勝つ力を与えられた。
−マルコ16:14-18「その後、十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』」

4.喜びにあふれる

・21節以降のイエスの言葉は、イエスの派遣命令を受けて伝道活動を行う弟子たちへのイエスの祝福であろう。
−ルカ10:21−22「そのとき、イエスは聖霊にあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ。これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子がどういう者であるか知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』
・今、弟子たちは、復活されたイエスに出会い、その栄光を拝し、そのイエスから遣わされて、復活者イエスがなされる力ある業を体験している。彼らは預言者たちによって約束され、王たちによって予表されていた終末の時代を体験している。「それはなんと幸いなことか」、と復活者イエスは言われる。
−ルカ10:23-24「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-27 19:14:08 (39 ヒット)

2019年2月3日聖書教育の学び(2016年5月25日祈祷会、ルカによる福音書7:1-23、イエスが行われた癒しのわざ)

1.百人隊長の僕を癒す

・ルカ7章には二つの癒しの物語が記されている。一つはローマ軍百人隊長の僕の癒しである。百人隊長の部下の癒しは、イエスの宣教の業が民族の壁を越え、異邦人にまで及んでいた典型的な例である。
−ルカ7:1−5「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カフアルナウムへ入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」
・百人隊長はイエスに面識がなく、長老を通してイエスの徳に触れていた。彼はユダヤ人が異教徒の家へ入るのをためらう習慣を尊重するほど、礼義正しい人であった。
−ルカ7:6−8「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は使いをやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、私の僕をいやしてください。私も権威の下に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします。』」
・百人隊長の謙虚な信仰をイエスが称賛した時、隊長の部下の病は癒されていた。
−ルカ7:9−10「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」
・現実の世界には、どのように祈っても病が癒されず、願いがかなわない時もある。内村鑑三の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、彼は必死に祈るが、ルツは死に、内村の信仰は根底より揺るぐ。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれる
−内村鑑三・ヤイロの娘より「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)』と言いたもう・・・わが娘は癒さるるも、癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神は我らの信なきを憐れみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りに応えたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻ガリラヤの道三十六)。

2.やもめの息子を生き返らせる

・二番目のしるしはやもめの息子のよみがえりだ。イエスは一人息子の死を悲しむやもめを憐れまれた。−ルカ7:11−13「それから間もなく、イエスはカインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
・イエスはやもめの息子を死から蘇らせた。死人の蘇りを、目の当たりにした人々は、イエスの力に驚嘆した。
−ルカ7:14―17「そして、棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』と言われた。すると死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話しは、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
・やもめの息子の蘇生は、一人息子を失ったやもめの姿が、イエスの目に憐れに映ったからだった。イエスが死人を蘇らせた奇跡は、ヤイロの娘の蘇り(マルコ5:21−43)と、ラザロの蘇り(ヨハネ11:1−44)と、このやもめの息子の三例だけである。しかし、現実の世界では、私たちがこのような奇跡を望んでもかなわない。その時にどうすべきなのか。願いがかなわず、愛する者を天に送った一人の女性の素晴らしい詩“天に一人を増しぬ”がある。
-セラ・ストック作、植村正久訳“天に一人を増しぬ”「家には一人を減じたり、楽しき団欒は破れたり、愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき。さはれ天に一人を増しぬ。清められ、救はれ、全うせられし者一人を・・・家には一人を減じたり、門を入るにも死別の哀れにたえず、内に入れば空しき席を見るも涙なり。さはれ、はるか彼方に、我らの行くを待ちつつ、天に一人を増しぬ・・・地には一人を減じたり、その苦痛、悲哀、労働を分つべき一人を減じたり。旅人の日毎の十字架を担うべき一人を減じたり。さはれ、贖われし霊の冠をいただくべき者一人を天の家に増しぬ・・・主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与えたまえ」

3.洗礼者ヨハネとイエス

・バプテスマのヨハネはヘロデにより幽閉されていたが、獄中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣した。
−ルカ7:18−20「ヨハネの弟子がこれらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは二人の弟子を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』二人はイエスのもとへ来て言った。『私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」とお尋ねするようにとのことです。』」
・ヨハネは、イエスが神の子として、最後の裁きを行うことを期待していた。しかし、現実のイエスは下層の民の間で地味な宣教活動を続けているに過ぎない。期待外れにしか見えないイエスに、ヨハネは疑問を感じた。ヨハネには真のイエスが理解できず、目に見えるイエスの姿につまずいた。だから、イエスは「私につまずかない人は幸いである」と答えたのである。
−ルカ7:21−23「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになられた。『行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。』」
・ヨハネはイエスにつまずいた。裁きの時に罪人は滅ぼされるべきなのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。「来るべき神の国は、裁きではなく、救いである」ことをヨハネは理解できなかった。後の人々もキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらないからだ。生活はよくならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪はまん延している。本当にこの人はメシアなのか。このつまずきは私たちにもある。信じて洗礼を受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている。この人は本当にメシア=キリストなのだろうか。
・ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という研究で、イエスが来て何が変わったのかを、社会学的に分析して語った。
−ゲルト・タイセン、イエス運動の社会学から「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」
・キリストにある愚者は、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちだ。この人たちによって福音が担われ、私たちにも伝承された。私たちも、人生のいろいろの場面で、弟子たちと同じ体験を通して、イエスに出会った。もう、元の生活には戻れない。今度は私たちが、苦しんでいる人、悩んでいる人を招く番だ。今度は私たちが「キリストにある愚者」になる番だ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-23 08:52:41 (44 ヒット)

2019年1月27日聖書教育の学び(2003年2月9日説教、ルカ5:27−39、罪人の招き)

1.宴会と断食

・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従ってきなさい」と招かれた(ルカ5:27)。マタイ福音書によれば、このレビは福音書を書いた「マタイ」とされている(マタイ9:9)。レビは取税人であった。取税人はローマのために税を徴収し、しばしば過酷に取り立てた。そのため当時のユダヤ社会では、ローマの手先あるいは不正をするものとして嫌われ、また宗教的には汚れた者として社会から排除されていた。そのレビをイエスが弟子として招かれた。レビは招きにすぐに従った。今まで彼は、取税人であるために、社会からのけ者にされていた。その彼に預言者として評判の高いラビが声をかけてくれた、そして弟子として招いてくれた。レビは感激した。その感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために盛大な宴会を開いた。
・席上にはレビの同僚である取税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もいた。罪人とは律法を厳格に守らない者たちを指し、パリサイ派にとってこのような人々と交わることは身が汚れることであった。ましてや同じ食事の席につくことは考えられなかった。だから彼等はつぶやいた「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」(ルカ5:30)。「ラビ・イエス、あなたは律法の教師でありながら何故、律法を無視するのか、律法は取税人や罪人との交際を禁じているではないか」と彼等はイエスに問い質した。
・また彼らは言った「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」(ルカ5:33)。律法には断食という規定はないが、イエスの時代には週2回月曜日と木曜日に断食するのが慣習になっており、断食しない者は律法を守らない者と批判されるようになっていた。レビがイエスを招いた日はその断食日に当たっていたのだろう。「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とパリサイ人はイエスに迫った。
・それに対してイエスは答えられた「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」(ルカ5:34−35)。イエスは断食を否定されていない。しかし「今は婚礼の時ではないか、断食をするのは悲しみの時であり、今はその時ではない」と言われている。このすれ違いは「神の国」に対する理解の違いから来る。パリサイ人にとって神の国(天国)に入る人は律法を守っている人々であった。だから彼等は必死になって律法を守ろうとした。イエスにとって神の国に入る人は、イエスの招きに応える人であった。取税人としてこれまで疎外されてきたレビが、悔改めてイエスの招きに応じた。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われている。
・このすれ違いは2000年前だけではなく今日でもある。ある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考える。酒の害、煙草の害を考えると、神の宮とされた自分の体を損なうようなお酒や煙草は止めるべきだという意味で彼等は正しい。しかし自分が禁酒禁煙の人は他のクリスチャンがお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えられない。何時の間にか酒と煙草が信仰の要、律法になってしまう。そして言う「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とイエスに詰め寄ったパリサイ人と同じだ。
・ここに律法の持つ危険性がある。律法の中心の一つは「安息日を守る」ことだ。この安息日規定は出エジプトの出来事から来ている。エジプトの地において、ユダヤ人は奴隷として休みなく働かされていた。そのユダヤ人が解放されて自由になり、安息日が恵みの日として与えられた。今日の招詞は出エジプト記20:8−10で、安息日を定めた十戒の一節である。「安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべての業をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんの業をもしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」
・注意して欲しいのは後半の10節である。安息の時、休息の時をあなただけでなく息子や娘や奴隷や家畜にも与えよと書いてある。安息日は仕事を休む日、喜びと楽しみの日、恵みの日だった。しかし、人間はこの恵みを掟とする事により呪いに変えてしまう。律法が与えられてしばらくすると、安息日は「命は賭けても守るべき」掟とされ、守らない者は死刑とされた(出エジプト記31:14)。イエスが否定されたのは律法そのものではない。恵みとして与えられた律法をいつのまにか「守らないと裁かれる」と変えてしまう人間の罪であった。断食にしてもそうだ。悲しみの時に断食をするのは良いことだ。しかし断食をしないと律法を破ったと言い、律法を破れば滅びると言い始めた時、断食は悪しきものになる。

2.新しい教えと旧い教え

・イエスはこのようなパリサイ人に教えるために二つの例えを話された。一つ目は「新しい布と旧い着物」の例えである。新しい布とは織ったばかりの、まだ水に通していないため縮んでいない布である。その新しい布を旧い着物に継ぐと、洗った時に新しい布は大きく縮んで旧い布を引っ張り、裂け目を大きくしてしまう。新しい着物から布をとって旧い着物に継ぐのが愚かなことをあなたたちは知っているのに、何故、何時までも旧い慣習の中で不自由な生活を送っているのかとイエスは言われている。
・二番目の例えは「新しいぶどう酒と旧い皮袋」の例えだ。パレスチナでは、ぶどう酒は山羊や羊の皮をはいで作った皮袋に入れて保存される。新しい皮袋は柔軟性があり伸縮性もあるが、旧くなると弾力性が無くなってくる。他方、新しいぶどう酒は発酵力が強く物理的に膨張しようとするから、弾力性をなくした旧い皮袋に入れると破裂してしまい、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまう。だから新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきであることはみんなが知っていた。新しい内容には新しい形式が相応しい。「パリサイ人たちよ、モーセが教えたのは神を愛することは人を愛するであるということではないか。律法とは罪人を排斥することではなく、受け入れることではないのか。取税人や罪人もまた神の子であり、彼らが悔改めて神の元に帰ってくることは喜ばしいことではないのか。今、レビが神の元に帰ってきたことはお祝いするのに価するのではないか。共に罪人の悔改めを喜び、祝宴の時を持とうではないか」とイエスはパリサイ人に呼びかけられた。
・パリサイ人はこのイエスの呼びかけに応じなかった。パリサイ人は取税人や罪人と交わるイエスを許せなかった。この不寛容がイエスを十字架にかけた。その十字架を仰ぐ私たちも今、パリサイ人と同じ過ちを犯しているかもしれない。ある教会で次のような出来事があった。その教会は宣教師によって立てられた保守的なバプテスト教会で「浸礼でないバプテスマは一切認めない」としていた。ある時、その教会に滴礼を受けた他教派の人が転会を求めた。教会では「滴礼はバプテスマとして認められないから、再バプテスマを受けて欲しい」と言ったところ、転会希望者は抗議した「確かにイエスも弟子たちもヨルダン川に全身を浸してバプテスマを受けた。浸礼がバプテスマの正しい形であると思う。しかし同時に他の教派では滴礼をバプテスマの形と認め、あなたたちも他教派の人々を信仰者として認めているではないか。また、私にとって、滴礼であれバプテスマを受けたということは、新しい人生が始まった大切な出来事だ。今、再バプテスマを受けることは前に受けたバプテスマを否定することになり、納得できない」。この教会はあくまでも再バプテスマを求め、転会希望者は教会を去って行った。これは是非の判断が難しい事例だと思う。全身を水に浸す浸礼を行うという教派の伝統を大事にすることは大切だ。同時に教派の伝統を重んじるあまり、同意しない人を排除しているのも事実だ。ルカ5章を基準に考えた場合、その教会は、断食をしない者は異端者だと決め付けたパリサイ人に近いのではないかと思う。

3.律法と福音

・律法と福音はどう違うのだろうか。律法は人がどう生きるべきかの指針を示す。それ自体は正しい。しかし、それはやがて掟となり、掟である以上、破った者は裁かれる。従って人々は裁かれまいとして掟を守ることに汲々とし、守らない者は否定する。律法の行き着くところは他者の排除だ。他方、福音は赦しであり、赦されたから感謝して行為する。従って行為そのものが目的化しないため、行為しないものを裁かずに受け入れることが出来る。福音の行き着くところは他者の受け入れだ。そして教会は律法ではなく福音を宣べ伝える、従って教会の本質は自分と異なる他者の排除ではなく受け入れだ。もし教会の中に審きがあれば、即ち「あなたは要らない」という言葉があれば、そこは教会ではなくなる。
・イエスはあらゆる偏見を超えて、取税人や罪人たちに声をかけられ、彼らを受け入れられた。そこから新しい食卓の交わり、教会が起こってきた。初代教会はユダヤ教正統派の目から見れば罪人の集団だった。イエスと弟子たちはパリサイ人たちに「見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と罵られている(ルカ7:34)。イエスによって建てられた最初の教会が罪人の集団であるとすれば、今日の教会も罪人の集団であるべきだ。もし、私たちの教会が清くないと思われる人を排除し、教派の伝統を重んじない人を非難するとしたら、私たちも新しいぶどう酒を旧い皮袋に入れているのかも知れない。教会は自分が赦された罪人であることを知るから、他者をも裁かずに招くところだ。ルカ5章はそれを私たちに示している。


(1) 2 3 4 ... 61 »