すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-07-22 08:51:54 (54 ヒット)

2019年7月28日聖書教育の学び(2016年5月12日祈祷会、創世記40章、夢を解くヨセフ)

1.監獄でのヨセフ

・ヨセフは冤罪で投獄されたが、主が共におられたので、看守長の信任を得、囚人の世話を全て任された。
―創世記39:21-22「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることは全てヨセフが取りしきるようになった」。
・そのヨセフのいる獄に、エジプト王の役人が王の怒りに触れて投獄されてきた。
―創世記40:1-4a「これらのことの後で、エジプト王の給仕役と料理役が主君であるエジプト王に過ちを犯した。ファラオは怒って、この二人の宮廷の役人、給仕役の長と料理役の長を、侍従長の家にある牢獄、つまりヨセフがつながれている監獄に引き渡した。侍従長は彼らをヨセフに預け、身辺の世話をさせた」。
・二人はともに不思議な夢を見るが、解く人がいなかったのでふさぎ込んでいた。
―創世記40:4b-6「牢獄の中で幾日かが過ぎたが、監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた」。
・現代においては、夢は無意識下に抑圧されていた過去の再体験であるとか(フロイト派)、無意識下における世界のリアリティー(ユング派)とか言われるが、古代において夢は「神の未来への啓示」とされ、夢の解釈は大事な仕事だった。ヨセフは二人に夢の内容を話すように語る「解き明かしは神がなされる」と。
−創世記40:7-8「ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた『今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか』。『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうか私に話してみて下さい』と言った」。

2.夢を解くヨセフ

・給仕役は自分の見た夢をヨセフに話した。
−創世記40:9-11「給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した『私が夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていた私は、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオに捧げました』」。
・ヨセフはその夢は「あなたが三日後に許されて復職する」ことを示すと夢解きをする。
−創世記40:12-13「ヨセフは言った。『その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させて下さいます。あなたは以前、給仕役であった時のように、ファラオに杯を捧げる役目をするようになります』」。
・そしてヨセフは給仕役に、解放されたら自分のことを思い出し、牢から出してほしいと頼む。
−創世記40:14-15「ついては、あなたがそのように幸せになられた時には、どうか私のことを思い出して下さい。私のためにファラオに私の身の上を話し、この家から出られるように取り計らって下さい。私はヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです』」。
・料理役の夢は3日後に木にかけて処刑されるという夢であった。
―創世記40:16-19「料理役の長は、ヨセフが巧みに解き明かすのを見て言った『私も夢を見ていると、編んだ籠が三個私の頭の上にありました。いちばん上の籠には、料理役がファラオのために調えたいろいろな料理が入っていましたが、鳥が私の頭の上の籠からそれを食べているのです』。ヨセフは答えた『その解き明かしはこうです。三個の籠は三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして、鳥があなたの肉をついばみます』」。
・二人は夢の通りになり、給仕役は釈放されたが、ヨセフのことを忘れ、ヨセフはそのまま牢獄に残された。
―創世記40:20-23「三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯を捧げる役目をするようになったが、料理役の長は、ヨセフが解き明かした通り、木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった」。
・給仕役がヨセフのことを思い出したのは、それから2年後、王が夢に悩まされた時だった。
―創世記41:1-13「二年の後、ファラオは夢を見た・・・朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。その時、例の給仕役の長がファラオに申し出た『私は、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられた時、同じ夜に、私たちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、私たちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かした通りになりました』」。

3.未来は誰の手にあるのか

・現代人は「未来は自分たちの手の中にあり、努力と選択によって形成される」と考えているが、聖書は私たちには未来の選択権はなく、それは神にあると語る。なぜなら私たちは寿命さえも支配できない存在だからである。
−マタイ6:27−34「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか・・・だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』」。
・ヨセフは夢を解いたが、夢は神が与えられる啓示であり、その解き明かしは神がされると理解している。聖書では、未来は神のみがご存知であり、必要な時に夢や幻を通して人に啓示されるとする。
―ダニエル2:26-28「王は・・・ダニエルに尋ねた『私の見た夢を言い当て、それを解釈してくれると言うのか』。
ダニエルは王に答えた『王様がお求めになっている秘密の説明は、知者、祈祷師、占い師、星占い師にはできません。だが、秘密を明かす天の神がおられ、この神が将来何事が起こるのかをネブカドネツァル王に知らせて下さったのです。王様の夢、お眠りになっていて頭に浮かんだ幻を申し上げましょう』」。
・ヨセフは給仕役を助けたのに、給仕役はそれを忘れて、ヨセフは更に2年間を獄で過ごす。しかし、その忍耐が彼の人格を磨き、視野を広げた。私たちもまた、「時が満ちる」まで待たなければいけない。
―ヨハネ黙示録6:9-11「小羊が第五の封印を開いた時、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか』。すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた』」。
・しかし人は何とかして未来を知りたいと願う。エホバの証人は、「キリストの再臨とその後に起きるハルマゲドン(黙示録16:16、終末における神の裁き)への備え」を説き、「ハルマゲドンが切迫している」と繰り返し預言して、信者を増やしてきた。最初のハルマゲドン予測は1914年であったが、年代計算が期待外れに終わるたびに(1920年、1925年、1975年など)、新たな年代預言や解釈が更新されている。そして脱会を目論む者には「ハルマゲドンが来た時に滅ぼされる」と警告し、教団から離れることを困難にしてきた。終末がいつ来るかは神の領域であり、私たちには知らされていない。わからないことを、「わかる」と語る罪がそこにあるように思える。
-第二ペテロ3:8-10「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-07-14 22:08:33 (51 ヒット)

2019年7月21日聖書教育の学び(2016年5月5日祈祷会、創世記39章、ヨセフとポティファルの妻)

1.エジプトに売られたヨセフ

・ヨセフはエジプトで王の侍従長ポティファルに奴隷として売られた。「主が共におられたので、ヨセフはポティファルの信頼を得た」と創世記は語る。
-創世記39:1-4「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」。
・ヨセフはその能力と忠実さによって主人の信頼を得て、家令として任じられた。エジプトに来て10年、彼は顔も美しく体つきも優れていた青年になっていた。主人の妻がその彼を見て、彼に言い寄る。しかしヨセフは拒絶する。彼にとって、主人ポティファルは、奴隷の境遇から執事にしてくれた恩人だった。その恩人を裏切れない。
-創世記39:5-9「主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『私の床に入りなさい』。しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。『ご存じのように、御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手に委ねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう』」。
・主人の妻はそれでも毎日ヨセフに言い寄り、あるとき強引にヨセフに関係を迫った。ヨセフは彼女の手に着物を残して逃げる。主人の妻にとっては戯れでも、ヨセフにとっては命にかかわる出来事だった。
-創世記39:10-12「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『私の床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」。
・拒絶された妻は腹いせにヨセフを告発した。
-創世記39:13-18「着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った『見てごらん。ヘブライ人などを私たちの所に連れて来たから、私たちはいたずらをされる。彼が私の所に来て、私と寝ようとしたから、大声で叫びました。私が大声をあげて叫んだのを聞いて、私の傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました』。彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。そして、主人に同じことを語った『あなたが私たちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷は私の所に来て、いたずらをしようとしたのです。私が大声をあげて叫んだものですから、着物を私の傍らに残したまま、外へ逃げて行きました』」。
・この事件を通してヨセフは古来の知恵の言葉を思い起こしたであろう。「人妻は貴い命を要求する」、姦淫は人の関係を破壊する。
-箴言6:23-26「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。それはあなたを悪い女から、異邦の女の滑らかな舌から守ってくれる。彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する」。

2.神が共におられた

・怒った主人はヨセフを投獄した。その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎であり、ヨセフが王の側近と知り合い、やがてエジプト王に仕える契機となる。しかしその時のヨセフにはその先は見えない。
-創世記39:19-20「『あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」。
・監獄の中でも主はヨセフと共におられたため、看守長もヨセフを信頼して全てを任せるようになる。
-創世記39:21-23「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手に委ねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」。
・創世記39章には「主が共におられた」という言葉が5回も出て来る(2,3,5,21,23節)。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてくる。
-詩篇105:16-24「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた。彼は大臣たちを思いのままに戒め、長老たちに知恵を授けた。イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。主は御自分の民を大いに増やし、敵よりも強くされた」。

3.神の経綸に従う

・ヨセフは主人の妻から言いがかりをつけられた時も、無実を訴えずに主人の妻の罪を自ら負う。神の摂理を信じる者は未来を神に委ねて生きることが出来る。
-箴言16:9「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」。
・ヨセフの獄中生活は2年間にも及んだ(41:1)。無実の罪での2年間は長い。彼の気持ちの中では希望と失望が交互していたであろう。私たちは「何かを期待する」信仰であり、願いが聞かれなければ信仰を捨てる。注解者V.リュティは「願いが聞かれない時こそ主が共におられる証拠だ」と語る。V.リュティは語る「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではない。むしろ、神が我々と共におられることの証拠だ」。
-創世記45:4-8「ヨセフは兄弟たちに言った『・・・私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です』」。
・与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめる。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開ける。イスラエルの民は、エルサレムが占領され、信仰の中心だった神殿も破壊され、自分たちも遠いバビロンに連れ去られた時、神の導きが分からなかった。捕囚は七十年にも及んだため、「主よ、何故、私たちをこのように苦しめるのですか」と嘆いて、死んで行った人も多かった。しかし、この70年の試練を経て、イスラエル人は神の民として自立していく。旧約聖書が編集され、ユダヤ教が宗教として成立したのも、この捕囚の時代である。イスラエル人を捕囚したバビロン人は滅び、バビロンを滅ぼしたペルシャ人も滅び、そのペルシャを制圧したローマ人も滅んだ。しかし、ユダヤの民は今日でも民族として残り、その時代に編集された旧約聖書は、今日なお読み続けられて、人々に生きる力を与える。
-詩編119:71-72「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法は私にとって、幾千の金銀にまさる恵みです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-07-01 14:15:13 (39 ヒット)

2019年7月7日聖書教育の学び(2016年4月21日祈祷会、創世記37章、エジプトに売られるヨセフ)

1.ヤコブの偏愛、ヨセフの高慢、兄弟たちの嫉妬が悲劇の引き金となる

・創世記は37章からヨセフ物語が始まる。冒頭で、「ヤコブはラケルの子であるヨセフを偏愛し、他の兄弟と区別した。そのため、兄弟たちはヨセフを憎んだ」と記される。ヨセフに与えられた着物は晴れ着であり、ヤコブはヨセフを「年少者であるにもかかわらず、その相続者とした」ことを暗示する。
-創世記37:1-4「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳の時、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」。
・偏愛されて高慢になったヨセフは「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄弟たちの怒りをかった。族長物語においては神が直接語りかけられるが、ヨセフ物語では夢が大きな役割を担う。フロイトによれば、「夢はその人の願望である」。ヨセフの中に自分が一族の相続人であるとの高慢な見下しがあったのだろう。
-創世記37:5-8「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』。兄たちはヨセフに言った『何、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか』。兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」。
・古代人は、夢を重要視した。彼らにとって夢は神の声に等しく、神の聖意を伝えるものとして崇めた。洋の東西を問わず夢解きの専門家が存在して、重要な役割を担っていた。ヨセフの夢も後に現実のものとなっていく。
―創世記42:6「ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した」。
・ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り、兄弟ばかりか、ヤコブさえも不愉快になる。兄弟たちはさらにヨセフを憎んだ。
−創世記37:9-11「ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した『私はまた夢を見ました。太陽と月と十一の星が私にひれ伏しているのです』。今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。私もお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか』。兄たちはヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた」。
・ここに家族の不和をもたらす三つの要素がある。親の特定の子への偏愛、偏愛された子の高慢、不公平を強いられた兄弟たちの嫉妬である。この三つが重なり合い、物語を悲劇へと導く。しかしその悲劇が神の偉大な救済計画の導入となる。しかし、渦中にいる人間には神の計画は見えない。
−詩編105:16-24「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた・・・イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。主は御自分の民を大いに増やし、敵よりも強くされた」。

2.エジプトに奴隷として売られるヨセフ

・父の使いで、ヨセフは兄たちが羊を飼うシケムの地まで来た時、兄たちは日ごろから忌々しく思っているヨセフを殺してしまおうと相談する。王者の服装をした弟を兄たちは憎んでいた。
-創世記37:12-20「兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていた時、イスラエルはヨセフに言った『兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが・・・兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか』。父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した・・・兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう』」。
・それは単にヨセフを殺すだけでなく神の意思を試みる行為でもあった。最年長のルベンは反対した。
-創世記37:21-22「ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った『命まで取るのはよそう』。ルベンは続けて言った『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない』。ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである」。
・兄弟たちはヨセフを捕らえて着物をはぎとり、穴の中に投げ込んだ。
−創世記37:23-24「ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった」。
・もう一人の兄ユダもヨセフを殺すことに反対し、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになった。
-創世記37:25-27「彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた・・・ユダは兄弟たちに言った『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』。兄弟たちは、これを聞き入れた」。
・28−30節には資料の混乱がある。イシュマエル人の隊商がいつの間にかミディアン人の隊商になっている。
-創世記37:28「ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、兄弟たちのところへ帰り、『あの子がいない。私は、この私は、どうしたらいいのか』と言った」。
・兄たちは雄山羊の血を着物に浸し、ヨセフは獣に食われて死んだと父に報告した。父イサクを欺いて兄エソウの長子権を騙し取ったヤコブが今、子たちに最愛の子が死んだと騙された。著者はそこに神の裁きを見ている。
-創世記37:31-34「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた。父は、それを調べて言った『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ』。ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ」。

3.この物語が意味するもの

・この物語の主役はヨセフではなく、イスラエル民族である。ヤコブの偏愛が兄たちのヨセフに対する憎しみを呼び、ヨセフをエジプトの奴隷に売るが、その行為が民族を救うための出来事であったことがやがて明らかになる。イスラエル民族がエジプトに下り、部族から国民として養い育てられるに至ることが物語の主題である。
-創世記45:4-8「ヨセフは兄弟たちに言った『・・・私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です』」。
・近代西洋では啓蒙思想の台頭により、夢の解釈などは迷信として排斥されるようになり、歴史の表舞台から姿を消した。その夢がふたたび注目され、人間の心の隠れた側面を表しているものとみなされ、科学的に研究されだしたのは20世紀のジグムント・フロイトに始まる(1900年「夢判断」)。これは夢に関する最初の学問的・体系的な研究である。彼はオーストリヤ生れのユダヤ人であったが、後にナチス・ドイツに追われてイギリスに亡命している。彼は「夢判断」の中で、オーストリヤからイギリスへの移住をヨセフの旅(カナンからエジプトへ)と比較している(ロベール「フロイトのユダヤ人意識」)。マタイもイエスの降誕物語において「夢」を神からの告示として用いている。
−マタイ1:19-24「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである・・・』。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)」。
・トーマス・マンは「ヨセフとその兄弟」という長編小説を書いた。創世記・ヨセフ物語を大長編に仕立てた作品で、「ヤコブ物語」(1933年)、「若いヨセフ」(1934年)、「エジプトのヨセフ」(1936年)、「養う人ヨセフ」(1943年)の4部からなる。ナチス政権下のドイツからの亡命をはさみ、18年にわたって書き継がれた。ヨセフとその父ヤコブの関係を軸に、フロイト心理学を援用しながら人類の和解とヒューマニズムの主題を扱っており、背景にはナチスの思想、特にローゼンベルクの「二十世紀の神話」に抗する意図があったと言われている。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-23 19:32:16 (71 ヒット)

1.喜べない状況でも喜びなさい

・フィリピ教会は物心両面で常にパウロを支えてくれた教会であり、パウロは感謝していた。しかし、そのような教会の中にも争いがあった。パウロは敢えて二人の婦人の名前を出して、和解を勧める。
−フィリピ4:2「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。
・二人は共に熱心にパウロを支えてくれた。それにもかかわらず、互いにいがみ合っていた。パウロは教会の長老に、和解の労をとるように求める。教会が一致しないと、本来の福音伝道の業に取り組めないからだ。
−フィリピ4:3 「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい。二人は、命の書に名を記されているクレメンス他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。
・何故いがみ合いが教会の中で生じるのか。キリストは私たちの和解の為に死んで下さった。キリストの死によって私たちは神と和解した。神と和解した者は人とも和解する。人と和解できないとしたら、神との和解がないのだ。
−エフェソ2:14-16「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではない。挫折も失意も仲たがいもある。しかし、その中で喜んで行く。パウロは獄中にあっても喜んでいる。主が共におられるなら、どのような時も喜べるではないか。
−フィリピ4:4-5「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。
・思い煩いがある時は、その出来事を神の前に出して祈りなさい。神は祈りを聞いて下さる。
−フィリピ4:6-7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。

2.足るを知る

・パウロはフィリピ教会からの贈り物に感謝の意を示す。それはお金が欲しいからではなく、お金に込められたフィリピの教会員たちの気持ちがうれしいからだ。
−フィリピ4:15-17「フィリピの人たち、あなたがたも知っている通り、私が福音の宣教の初めにマケドニア州を出た時、もののやり取りで私の働きに参加した教会はあなたがたの他に一つもありませんでした。また、テサロニケにいた時にも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろあなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」。
・献金は神の恵みだ。それは受ける方にとって恵みであるだけでなく、差し出す方にも恵みだ。自分のことしか考えられない人間が、他者の為に持ち物を差し出すものにさせられた。その事をパウロは喜ぶ。
−フィリピ4:18-19「私はあらゆるものを受けており豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さる生贄です。神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」。
・神は常に必要なものを必要なだけ与えて下さる。教会の予算についても私たちは思い煩わない。必要なものは与えてくださるし、願っても与えられなければ、今は不要だとの御心として受取っていく。
−フィリピ4:11-13「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」。
・人は貧しい時は他者を妬み、豊かになれば他者をさげすむ。だから神は常に必要なものだけを与えて下さる。
−箴言30:7-9「むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。
・神が必要なものは与えて下さるから思い煩わない。自分の救いから他者の救いに思いが移っていく。
−フィリピ4:9「私から学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。

3.フィリピ4章の黙想

・フィリピの教会に不和があった。教会も人の集まりだから、そこには意見の違いや対立が生じる。信仰の先輩たちは教える「教会に不満を持つ人、意見の違う少数者の人が教会を去ろうとする時、あなたがたはその人たちを無理に引き止めたり、出て行った人たちに戻るように呼びかけない方が良い。それはいたずらに混乱を招くだけだから」。意見の異なる人々が教会を出るならそれに任せよというのは経験に基づく知恵であろう。しかし、パウロは語る「あなたがたはそうしてはいけない。気の合う人、意見を同じくする人とだけ礼拝を共にするのは教会ではない」と。
・パウロは今エペソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いている。フィリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を持たせてエパフロディトを派遣したが、彼は重い病気になってフィリピに帰ることになった。そのエパフロディトに託して、ピリピの人々に感謝を表したのがフィリピ人への手紙だ。フィリピ書は礼状なのだが、パウロはその礼状の中で、あえて教会の中に争いに触れる。
−フィリピ4:2-3節「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。
・この手紙は個人的な手紙ではなく、教会に宛てて書かれた公式の手紙であり、教会の礼拝の場で読まれることを期待して書かれた。その手紙の中で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いている。パウロは何故この問題を個人的な問題として、教会の外で解決するようにしないのか。教会の指導者に個人的な手紙を書き、問題の解決を依頼することも出来たのに、何故あえて教会全体の場に持ち出すのか。パウロは「都合の悪い事実があってもそれを覆い隠すな。不和があれば、それを公の場に出して、主の名によって解決しなさい」と求めている。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)、教会の主がキリストであれば、そこに集う人々は和解できるはずだ、もしそれが出来なければ教会ではないと言っている。
・ルカ17章の「らい病を患う十人の癒し」は一致の難しさを伝える。共に病苦を患う間は民族の差異は乗り越えられたのに、健常になり、社会が関わってくると、その差異が分裂をもたらす。
−2019.03.24説教草稿(十人の癒しと一人の救い)から「イエスが村に入られると、らい病を患っている十人の人が出迎えた。らい病(ヘブル語ツァーラト)者は、「自分はらい病なので近寄らないでくれ」と叫ぶことを義務付けられていました。だから彼らは遠くからイエスに癒しを呼びかけています。らい病者の集団にはユダヤ人もサマリア人もいました。それは当時のユダヤ教社会ではありえないことでした。らい病という困難な苦しみが民族差別の壁を破らせ、彼らを一つにしていたのでしょう。その彼らにイエスは出会われました。イエスは彼らを憐れみ、言われました「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。
−「十人はイエスの言葉を受けて祭司の所に向かいます。これは必死の信仰です。癒されるかどうかもわからないのに祭司の所に向かい始めているのです。その彼らの信仰が彼らの病を癒しました。道の途中で「彼らは清くされた」とルカは記します。病気を癒された十人のうち、サマリア人だけがイエスのもとに帰って来ました。サマリア人は、自分の体の清めを証明してもらう前にやるべきことがあると思ったのです。「神のみがらい病を癒しうる。だから行くべきは祭司の処ではなく、癒しを執り成してくださったイエスの処だ」と思った。だからイエスの許に戻ってきた。イエスは彼を見て言われます「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」。彼ら十人の群れは同じらい病であった時は、生活の絆が固く保たれていました。しかし一度病が癒されると、ユダヤ人はユダヤ人、サマリア人はサマリア人に分離してしまった」。
・この現実の中で、私たちは教会の一致を考える。教会は共通の困難、共通の目標がある時のみ、一致できる。だから目標の共有がぜひとも必要だ。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)、一致を求める。篠崎キリスト教会の2019年度教会標語は、「違いを受容し、喜び合う教会」だ。「違いを受容し」、一致する。そのような教会を目指したい。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-18 20:11:39 (54 ヒット)

2019年6月23日聖書教育の学び(2019年3月13日祈祷会、フィリピ3章、キリストに生きる)

1.自分の義を捨てよ

・フィリピ書1〜2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙だ。2章の終わり、3章の始めでパウロは書く「私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、ピリピ書を貫くパウロの使信だ。その穏やかな感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になる。
−フィリピ3:2「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」。
・パウロはフィリピ教会を巡回訪問するユダヤ主義者を、「犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と激しい言葉で批判する。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。旧約聖書に定められたように、割礼を受け、律法を守らないといけない」と指導して、伝道者を各地の教会に派遣し、フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。「割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから彼らはよこしまな働き手なのだ」、とパウロは巡回伝道者を批判する。
−フィリピ3:3「彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」。
・パウロもかつては律法による救い求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もあった。
−フィリピ3:5-6「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。
・しかし、キリストに出会って、誇りをみな捨てた。律法が人を救う力を持たない事を知ったからだ。
−フィリピ3:7-8「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」。
・パウロはキリストに出会って、「ユダヤ教の教師」から「キリスト教の伝道者」になった。そのことによって彼は教師という職を失い、ユダヤ教側から「裏切り者」として、命を狙われるようになる。パウロはすべてを失くしたが、キリストを得た。キリストに出会って命を見出した。命を見出した人はこれまで大事だと思っていたものさえ捨てる。キリストに出会った人は、自分の内には何の正しさも無く、ただキリストが死んで下さったから救われた事を知るゆえに、自分の誇りも捨てる。
−フィリピ3:8-9「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。
・律法による義を求める人は自分だけの救いを求めている。それは自己の義を捨てて十字架にかかって下さったキリストとは違う生き方だ。キリストに倣うのであれば、その苦しみをも喜ぶ。
−フィリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

2.完成を目指して

・私たちは既にキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていく。
−フィリピ3:12-14「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
・「私に倣え、私が弱さの中でキリストを目指して走っている姿を見よ」とパウロは語る。
−フィリピ3:17「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」。
・律法による義を求める者は、キリストの十字架を排除している。彼らはもはやキリスト者ではない。
−フィリピ3:18-19「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。
・私たちの本籍は天にある。地上で救いを完成する必要はない。キリストが来て下さるのを待てばよい。
−ピリピ3:20-21「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。

3.フィリピ3章の黙想

・パウロは語る「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに「永遠の命を求める」のか、「現世での救いを求める」のか、信仰の分かれ目がある。多くの人は現世での救いを求める。
・島田裕巳は「日本の10大新宗教」の中で語る。
−「現代の新宗教である創価学会はおよそ1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいる。他方、日本で150年の宣教の歴史を持つキリスト教人口は100万人しかいない。人々は何故、何故新宗教と呼ばれるこれらの教えに惹かれるのか。大教団に成長した新宗教のほとんどは『日蓮系・法華系』の教団だ。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世の救いを強調する法華信仰に惹かれる。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている」。
・これは「律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれる」とするユダヤ主義者の考え方と共通している。しかし、パウロはこのような考え方を、「そうではない」と否定する。パウロは言う「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」。フィリピはローマの植民都市だった。ローマから遠く離れていたが、市民はローマ市民権を与えられ、ローマに属する者とされていた。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天から派遣されている天の市民なのだとパウロは語る。
・天の市民であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということだ。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。
−フィリピ4:4-6「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではなく、挫折も失意も仲違いもある。しかし、その中で喜んで行く。人生は短く、その終わりは見えている。だから、「不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴える。マザーテレサも語る「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ。だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」と。
−マザーテレサ・あなたの最良のものを「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい・・・最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。


« 1 (2) 3 4 5 ... 69 »