すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-04 21:17:06 (74 ヒット)

2018年11月11日聖書教育の学び(2009年10月1日祈祷会、イザヤ61章、悲しみが喜びに)

1.失望し落胆する民への預言者の言葉

・紀元前538年、ペルシャ王キュロスはエルサレム神殿再建を発令し、捕囚民はエルサレムに戻った。彼らは「主がシオンをエデンの園にして下さる」との預言に励まされて戻ったが(イザヤ51:3)、現実のエルサレムは荒廃しており、旱魃や不作により、帰還民は食うのが精一杯の生活に追い込まれ、神殿再建工事も挫折した。その中で、第二イザヤの流れを汲む第三イザヤが、落胆し、希望をなくしている民に回復の預言を語る。それがイザヤ61章だ。
-イザヤ61:1「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。
・「主は私に油を注ぎ」、「主なる神の霊が私をとらえた」、預言者は苦しみもだえる帰還民に、福音を語るように召されたとの自覚を持つ。貧しい人=抑圧されている人、捕らわれ人=負債を返せないために獄につながれている人、その人々に自分は解放の福音を語るのだと預言者は言う。
-イザヤ61:2-3「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」。
・主の恵みの年=50年ごとに奴隷が解放されるヨベルの年(レビ記25:8-10)、主の裁きの日=異邦人の裁きはユダヤ人の解放になる(ヨエル2:1)。経済的困窮にある人々のために豊かさが、神殿建設を妨害する人々に裁きが与えられると預言者は言う。その結果、廃墟となったエルサレムは再び神の都と呼ばれるであろうと。
-イザヤ61:4「彼らはとこしえの廃虚を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする」。
・かつてイスラエルは異邦人に国土を蹂躙される苦しみを受けたが、その異邦人たちがあなたたちの羊を飼い、畑を耕すようになるだろうと預言される。
-イザヤ61:5「他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする」。

2.悲しみが喜びに

・それはイスラエルが本来の立場に、すなわち「主の祭司」として立たされるからだと預言者は言う。その時、二倍の恥を受けたあなた方は二倍の栄光を受けると。
-イザヤ61:6-7「あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする。あなたたちは二倍の恥を受け、嘲りが彼らの分だと言われたから、その地で二倍のものを継ぎ、永遠の喜びを受ける」。
・「かつて異邦人から強奪されたあなた方が、私と永久の契約を結び、祝福された民族になる」と預言者は言う。
-イザヤ61:8-9「主なる私は正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」。
・祭司の役割は燔祭を捧げて民のために祈り、どう生きるべきかの律法を教えることである。それは聖なる職務であり、その職務にふさわしくなるために、あなた方はこの試練を受けたのだと預言者は言う。
-レビ記20:26「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。
・10節から預言者の祝祷が始まる。かつて泣いた者たちが喜ぶ者に変えられて行く。福音を聞いた者は喜びに満たされる。
-イザヤ61:10-11「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」。
・帰還民の置かれた状況は決して喜ばしいものではない。「光を望んだのに闇、輝きを望んだのに暗黒」(59:9)の状況であった。その中で喜んでいけとイザヤは言い、イエスも言われる。信仰者は闇の中でも希望を語ることが出来る。
-ルカ4:16-21「イエスは・・・安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった 『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-28 20:56:52 (59 ヒット)

2018年11月4日聖書教育の学び(2009年8月27日祈祷会、イザヤ56:1-8、第三イザヤの始まり〜帰国後の苦難の中で)

1.第三イザヤの置かれた状況〜希望が崩れて

・第二イザヤの預言は55章で終わり、56章から第三イザヤの預言が始まる。第二イザヤに励まされてエルサレムに帰還した人々は神殿再建に取り掛かるが、飢饉やサマリア人の妨害で工事は中断された。経済生活は改善せず、人々は「パラダイスはどこにあるのか」と不満を募らせる。その中で第三イザヤ(第二イザヤの弟子たち)が活動を始める。
-イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・中断された神殿工事は、ハガイ、ゼカリア等に励まされて再開され、前515年神殿は完成する(第二神殿)。帰国後20年が経っていた。しかし神殿が完成しても経済状態は改善せず、共同体内部で争いが起き、民族主義者は異邦人排斥を訴える。このような混乱の中で、第三イザヤは第二イザヤの教えた「正義と公平」を取り戻せと人々に訴える。
-イザヤ56:1-2「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は」。
・ここでは安息日を守ることが律法の中心にある。神殿を喪失した捕囚の民は、「安息日を守り、割礼を受ける」ことに、民族のアイデンテティーを求めた。その結果、割礼を受けていない異邦人や宦官たちは共同体から排除されていく。第二イザヤの「主は全ての民を救済される」との教えを受けた弟子たちは、民族を超えた救済に人々を導く。
-イザヤ56:3「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民と私を区別される、と。宦官も、言うな、見よ、私は枯れ木にすぎない、と」。
・50年間の不在の間に、エルサレムには多くの異邦人が住み、またペルシャ宮廷に仕える宦官たちも改宗してきた。しかし本来のユダヤ律法は民族主義的な傾向を持ち、宦官や異邦人を排斥していた。
-申命記23:2-4「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」。

2.絶望の中で再び希望を

・第三イザヤは「主なる神はユダヤ人だけの神ではなく、全世界の神である」として、継承された律法の書き換えを要求する。「聖なるテキストの撤回」、ここでは驚くべき言葉が語られている。
-イザヤ56:4-7「なぜなら、主はこう言われる。宦官が、私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
・その条件は安息日を守り、契約に従うことだ。今日で言えば、主日礼拝を守り、献金を捧げることだ。そのことを知らされたエチオピア人の宦官は、ピリポの勧めに従い、バプテスマを受けた。
-使徒言行録8:34-37「宦官はフィリポに言った『どうぞ教えてください。預言者(イザヤ)は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか』。フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。フィリポが『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。
・救いは肉のユダヤ人だけでなく、全ての民族に解放されている。ここに民族の枠を超えた救済論がある。
-イザヤ56:8「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる、既に集められた者に更に加えて集めよう」。
・しかしやがてエズラ・ネヘミヤの改革が為され、イスラエルは異邦人を共同体から追放する民族主義の道を歩み始める(エズラ記10:10-11)。イスラエルが民族主義から解放されるためにはイエスの出現まで待つ必要があった。
-ガラテヤ3:26-29「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-24 09:21:03 (104 ヒット)

1.罪の悔い改め

・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩である。人々はダビデ王の犯した罪とその悔い改めの祈りとして、この詩を見て、それにふさわしい表題を付けて唱和した。
−詩篇51:1-2「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」。
・ダビデの犯した罪はサムエル記下11−12章に詳しい。ダビデ王が部下ウリヤの妻バテシバに恋情を抱き、ウリヤを殺してバテシバを自分のものにした時、預言者ナタンが王を諌め、王は悔い改めた事件だ。
−サムエル記下12:13「ダビデはナタンに言った『私は主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる』」。
・詩人は自己の罪を告白し、その赦しを神に乞う。彼は神に背き、罪を犯した。その結果平安は彼から去った。罪は赦されなければ消えない。だから彼は神の慈しみと憐れみによって、罪を洗い清めて下さるように祈る。
−詩篇51:3-4「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。
・罪とは具体的には、人に犯した罪である。ダビデもウリヤをだまし、その妻を横取りし、最後にはウリヤを謀殺する。しかし、その罪は突き詰めると神に逆らう行為である。だから詩人は「神に背いた」、「神の前に罪を犯した」と告白する。そしてその罪が生まれおちた時からあった、原罪であることを告白する。
−詩篇51:5-8「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます」。
・ダビデもまたナタンに告発されて初めて罪の現実に目を開かれた。その罪は自分の力では洗い流せない。だから神に罪を洗い流して下さるように祈る。ヒソプ、香り草であり、らい病や犠牲を清めるときに用いられた。
−詩篇51:9-11「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」。

2.赦しと新生

・罪の清めとは単に処罰が赦されることではない。古き自己が葬られ、新たな自己に生かされることである。それはパウロの言う「新生」である。罪を清められた者は、新生の希望を望み、新たな自己に生きる希望を歌う。
−詩篇51:12-14「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」。
・新生したものは、神の恵みを証しし、人に伝え、讃美する。罪を清められた魂は他者へと開かれていく。
−詩篇51:15-17「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」。
・罪の許しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによってではない。私たちが捧げるべきいけにえは「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる。
−詩篇51:18-19「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けたが、二次的な表題であり、内容的には捕囚期以後の詩である(51:20−21参照)。人々は何故ダビデを敬うのか、それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、王であるにも関わらず、その罪を認め、神の前に悔い改めたからだ。高橋三郎は「エロヒーム歌集」の中で解説する。
−高橋三郎「イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出した」。
・人々がこれをダビデの悔い改めの祈りとして親しんできた歴史は重い。米国のビル・クリントン大統領が不倫疑惑を責められ、告白して悔い改めた時も、この詩篇51編を引用している。クリントンは、ダビデの罪の告白に自分と重ね合わせていた。
−1998年9月11日ホワイトハウス朝食祈祷会でのクリントンの言葉「But I believe that to be forgiven, more than sorrow is required - at least two more things. First, genuine repentance - a determination to change and to repair breaches of my own making. I have repented. Second, what my bible calls a ''broken spirit''(詩篇51:19); an understanding that I must have God's help to be the person that I want to be; a willingness to give the very forgiveness I seek; a renunciation of the pride and the anger which cloud judgment, lead people to excuse and compare and to blame and complain」.
・マタイはイエス・キリストの系図の中にバテシバの名前を入れる「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と。単純に「ダビデはソロモンの父」と書けばよいのに、何故「ウリヤの妻によって」と記すのか。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためである。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためである。
マタイ1:1-16「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。・・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-15 10:16:37 (75 ヒット)

1. 神の都をたたえる歌

・本詩は「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と歌い、多くの讃美歌の題材にもなってきた。主題は万軍の主に対する信頼であり、8節、12節の繰り返しがその主題を示している。
-詩篇46:8(46:12)「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」
・最初に詩人は、天地を支配される主をほめたたえる。主ご自身が「私たちの砦、避けどころ」であるがゆえに、大地や山々が揺れ動き、海が荒れ狂おうとも、私たちは恐れないと詩人は歌う。「山々が揺らぎ」、「海の水が騒ぎ」、「山々が震える」、いずれも創造以前の原始の混沌を意味する言葉だ。主はその混沌を秩序に変えて、天地を創造された。
-詩篇46:2-4「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。
・天地を支配される方は、また歴史をも支配される方である。国々がどのように武力を誇ろうとも、主の前においては何の意味もなく、主の御声で地の力は溶けさる。主は住まいである聖所、神の都シオンを守って下さる。
-詩篇46:5-7「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」。
・現実のイスラエルは東のメソポタミヤ、西のエジプトの二大帝国の狭間の中で、常に独立が脅かされ、繰り返し占領され、支配されてきた。その中で詩人は「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」との信仰を表明する。
-詩篇46:9-10「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。
・詩人は「私たちはこの主に依り頼んで国の平和を守る」と宣言する。
-詩篇46:11「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる」
・「私たちは主に依り頼んで国の平和を守る」、日本国憲法と同じ精神がここに流れている。
−憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。

2.神の都とは何か

・この詩の背景にあるのは、「神の都シオンは永遠である」というシオン神学がある。イザヤは「聖なる万軍の主の御座であるエルサレムは滅びない」と宣言し、国際情勢の変動に動揺する為政者に対して「恐れるな、平静であれ」と説き、「大国にも軍備にも頼るな」と戒めた。アッシリアが攻めて来た時、イザヤの預言通り、武力に勝る敵軍が撤退した。
−イザヤ37:36-37「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」。
・それに対してエレミヤは罪を犯した民を主は罰せられ、シオンでさえも捨てられると説いた。エレミヤの言葉を「聖なる都」に対する冒涜とした祭司たちは裁判でエレミヤの死刑を求め、シオンの不可侵性を守ろうとした。
−エレミヤ26:9「なぜ、あなたは主の名によって預言し、この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなると言ったのか・・・祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った『この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました』」。
・しかしエルサレムは破壊され、エルサレム神殿は焼き払われた。シオンは不可侵ではなかった。
−列王記下25:8-10「第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した」。
・エルサレムが聖なる存在ではなく、神が聖なる方だと知った人々は、「争いを終わらせる主」を待望するようになる。
−ミカ4:1-3「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と・・・主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名だ。20世紀の前半は戦争の世紀だった。二次大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てると言う決意で土台石にこの言葉を刻み込んだ。しかし、戦争は終わらなかったし、今でも続いている。それにも関わらず、私たちはこの御言葉を読む。この言葉は亡国と言う苦難の上に建てられた人類の遺産だ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-07 17:29:49 (78 ヒット)

1.神の偉大と人間の卑小

・詩篇8編は創造主を讃える詩篇だ。祈り手は夜空に果てしなく広がる星を見て、この無限の天空を創造された主に驚嘆し、神の偉大さを幼児も認めて賛美すると言う。
−詩篇8:2-3a「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」。
・神の偉大さの前には人が創造する王宮も砦も何の意味も無い。しかし人はそれらを支えとし、誇りとして、主に逆らう。私たちが生涯を捧げて造った事業も建造物も無限の存在の前にはあってなきものだ。
−詩篇8:3b「あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます」。
・無限の宇宙を創造された神の前に立った時、人は圧倒され、「自分は何者なのか」と問わざるを得ない。
−詩篇8:4-5「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。
・人間と訳された「エノシュ」は人の弱さを示す言葉だ。人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎない。
−創世記2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。
・しかし同時に、神は人間を万物の長として造られた。祈り手は創世記1章の人の創造を思い起こしている。
−創世記1:26-28「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。

2.それにもかかわらず人をいとしまれる神

・この詩篇はバビロン捕囚後に作られている。創世記1章は祭司資料であり、捕囚期に編集された。その創世記を念頭に置いた詩篇だ。イスラエルは国を滅ぼされ、王宮も神殿も失い、丸裸の存在になった。敗戦の民として、彼らは自己の卑小さを思い知らされる。それでも神は、自己の姿に似せて人を創造されたことを彼らは思う。自分たちは卑小ではあるが、同時に永遠の存在とつながり続けている。その思いが創世記を生み、詩篇8編を生んだ。
−詩篇8:6-7「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。
・人が創造した王宮も神殿も城壁も一瞬に消失してしまった。全てを無くした今、彼らは主の言葉を思い起こす。滅亡の前、イザヤは「あなたの語る言葉を誰も聞かないが、国が滅びた時に聞くようになる。残された者のために語れ」と命じられた。人が神の偉大さを知る時は人が砕かれた時、全てを無くした時、挫折こそ人を人とする。
−イザヤ6:9-11「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』。私は言った『主よ、いつまででしょうか』。主は答えられた『町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで』」。
・人は塵だから塵に帰る。主を知る者は、「自分がいかに卑小か」を知る故に、驕り高ぶらない。
−詩篇90:3-6「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。
・その人に、主は万物の支配を委託される。主を知る者は、「主が愛してくださる」ことを知る故に絶望しない。
−イザヤ43:1-4「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする」。
・神を見失った人は、人間存在をこの二重の視点(卑小でかつ偉大な存在としての人間)で見る事が出来ない。だからある時は驕り高ぶり傲慢になるが、次には自己に絶望し卑小になる。祈り手は神を知る喜びを歌う。
−詩篇8:10「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」。


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