すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-19 16:13:47 (59 ヒット)

2019年5月26日聖書教育の学び(2018年12月26日祈祷会、ガラテヤ5章、キリスト者の自由)

1.キリスト者の自由

・ガラテヤの人々は割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の伝道者の勧めで、割礼を受けようとしている。パウロは彼らに言う「割礼を受ければ、あなたはキリストと無縁の者になるのだ」
−ガラテヤ 5:1-2「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです・・・もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。
・律法による救いとは、律法を全て守ることなのだ。そのようなことは人には出来ない。「この小さき者にしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われて、誰が自分は無罪だと主張できよう。
−マタイ25:41-45「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ・・・この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。
・私たちは律法を守りきることは出来ない。だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないのだ。
−ガラテヤ5:3-5「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。私たちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。
・ユダヤ主義キリスト者たちは律法を捨てて、十字架の恵みのみにすがることが出来なかった。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めた。律法は見える。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義だ。彼らはキリスト者ではない、むしろキリストの福音の妨害者なのだとパウロは言う。
−ガラテヤ5:7-12「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。・・・あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます・・・ あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。
・律法そのものは悪ではない。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行く。安息日は「休みなさい」という恵みであり、良いことだ。しかし「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行く。割礼もそうだ。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福である。しかし「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行く。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのだ。

2.キリストの霊を受けて生きる生活

・あなたがたはキリストから自由をいただいた。その自由はあなたがたの肉の欲を、霊の愛に変える。肉の欲は相手を自分に仕えさせようとし、愛は自分を相手に仕えさせるように導く。
−ガラテヤ5:13「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
・キリスト者の自由は律法を否定しない。信仰によって働く愛こそが律法をまっとうさせるのだ。
−ガラテヤ5:14「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
・霊に従って歩みなさい。霊は肉の欲を愛の願いに変えるのだ。
−ガラテヤ5:16-18「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
・肉の業は不品行をもたらす。律法によっては、私たちは肉欲から自由になれないのだ。
−ガラテヤ5:19-21「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。
・霊の業は徳をもたらす。私たちはキリストと共に、肉の欲望を十字架につけたのだ。
−ガラテヤ5:22-24「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
・原理主義者は反キリスト者となる。パウロもそうだし、キリスト教原理主義者も同じだ。原理主義者は違うものを攻撃することによって、自分の正しさを確保する。しかし、愛は人を責めない、愛は相手の罪さえも覆うものだ。私たちが求められているのは愛だ。
−第一ペテロ4:8「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。

3.ガラテヤ5章の黙想

・主の祈りは美しい祈りだ。私たちは祈る「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ある説教者によれば、裏・主の祈りがあるという。
−裏・主の祈りから「側にいて下さる私の神よ。私の名を覚えて下さい。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生、糧を与えて下さい。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めて下さい。私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃して下さい。国と力と栄えとは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン」(平野克己、主の祈りから)。
・ルカ18章でイエスが提示されたファリサイ人の祈りはその典型だ。
−ルカ18:10 -12「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。
・これが人の本音に近い祈りであろう。しかし、イエスが肯定されたのは、ファリサイ派の人ではなく、罪びととされた徴税人の祈りだった。
−ルカ18:13-14「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・人は結局、自力では自我から脱出できない存在であり、エゴから解放されるには、エゴを十字架につけるしかない。それはキリストと共に死ぬ、キリストの十字架を背負って生きることだ。
−ローマ6:6-8「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-12 22:04:26 (53 ヒット)

2019年5月19日聖書教育の学び(2018年12月19日祈祷会、ガラテヤ4章、律法の奴隷に逆戻りするな)

1.自由になったのに奴隷に逆戻りしてはいけない

・パウロは、信仰者はキリストにより神の子とされたのだから、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ相続人なのだと語る。しかし、相続人も未成年の間は、後見人や管理人の監督下に置かれ、財産を自由に出来ない。信仰者もキリストが来られるまでは、律法や慣習という管理人の元に生活せざるを得なかった。
−ガラテヤ4:1-3「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。
・しかし、キリストが来られて私たちは自由になった。律法の奴隷から、神の子とせられた。
−ガラテヤ4:4-7「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした・・・あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。
・あなた方は神から知られているし、神から受容されている。それなのに、魂の救いを、この世の秩序や断食等の行為に求めようとしているのか、それは自然界の輓呂悗虜禿戮領貘阿紡召覆蕕覆い犯爐聾譴襦N法に戻るとは、かつてあなたがたを支配した諸霊(スイトケア)の奴隷に戻ることだ。
−ガラテヤ4:8-9「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」。
・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味だ。的から外れる、神なしで生きる時、人間は人間しか見えない。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出し、この世は弱肉強食の世界となる。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケア)が働いていると見る。諸霊(ストイケア)は今日の私たちをも支配している。
−ガラテヤ4:10-11「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

2.あなたがたをもう一度生むと語るパウロ

・12節からパウロの語調が変わり、これまでの論難調から、個人的な語りかけになって行く。
−ガラテヤ4:12「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした」。
・パウロは異邦のガラテヤ人に福音を伝えるためにユダヤ人であることを捨てた。彼らに割礼を受けることも強制せず、食物規定を守ることさえ求めなかった。その私をあなた方は暖かく迎え入れてくれたとパウロは回想する。
−ガラテヤ4:13-14「知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。
・パウロはガラテヤに行った時、病気に悩まされていた。その病気は眼病であったようだ。
−ガラテヤ4:15「あなたがたが味わっていた幸福は、一体どこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」。
・パウロはガラテヤの人々が悪いのではなく、彼らをたぶらかせた者たち、エルサレム教会の伝道者たちが悪いと批判する。
−ガラテヤ4:16-17「私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」。
・そしてパウロはガラテヤの人々に「私の子どもたち、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる」と呼びかける。
−ガラテヤ4:19-20「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」。

3.二人の息子のたとえ

・パウロはガラテヤの人々が奴隷ではなく、神の子であることを説明するために、イシマエルとイサクの対比を持ち出す。アブラハムには二人の妻があり、女奴隷ハガルからはイシマエルが、正妻サラからはイサクが生まれた。アブラハムの相続人になったのは奴隷の子イシマエルではなく、約束の子イサクだった。
−ガラテヤ4:22-23「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」。
・あなたがたはイサクのように約束によって生まれた子だ。それなのに何故、肉によって生まれたイシマエルのようになろうとするのか。イシマエルはアブラハムの家から追われたではないか。
−ガラテヤ4:28-30「あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります」。
・あなたがたは約束の子であり、キリストが自由にして下さった。二度と奴隷の身に戻ってはいけない。
−ガラテヤ4:31-5:1「兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストは 私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

4.ガラテヤ4章の黙想

・神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界となる。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケア)が働いていると見る。その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持つ。現代の私たちは地球を何度も破壊する量の核兵器を所有している。広島、長崎を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを誰もが知ったのに、世界はそれを廃絶することが出来ない。核兵器は敵に対する抑止力として必要だとうそぶく人々は悪魔的力の奴隷になっているのではないか。
・原子力発電も同じで、私たちは福島原発事故を契機に原子力発電の怖さを知り、また放射性廃棄物を処理する能力が人間にはないことを知った。それにも関わらず、原発の再稼働が当然のように進められている。現代の私たちも悪的諸霊=ストイケアから自由になっていない。神無き世界では、人間は、罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ず、戦争を繰り返し、核兵器を保持し、原発を止めることさえ出来ないのだ。
・人間がこの罪の縄目から自由になるために、神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任されたとパウロは理解する。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見る。沖縄県民の意向を無視して辺野古の基地建設を図る政府の人々も、この悪霊のとりこになっている。しかし、神はイエスを死から起こすことを通して、罪を放置することを許されなかった。だから私たちはキリストの十字架死を通して救われる。それなのにあなた方は「救われるためにはキリストだけでは不十分だ」と言い始めているとパウロは批判した。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対した。割礼を受けよと勧めるエルサレム教会の伝道者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)とさえ叫ぶ。割礼が何故そんなに問題になるのか、それは「割礼を受ける」ことによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからだ。割礼を受けた者は、「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていく。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出す。そこには「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じない。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることだ。この無条件の救いが感謝となって人間の変革をもたらす。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-05 17:27:33 (84 ヒット)

2019年5月12日聖書教育の学び(2018年12月12日祈祷会、ガラテヤ書3章、律法の回復として福音)

1.律法と福音の意味

・ガラテヤ諸教会はパウロの伝道によって設立されたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「割礼を受けなければ本当の救いはない」と説いて、教会に混乱が生じていた。ガラテヤの人々は、割礼を受けようとしていた。パウロは「キリストの十字架を仰いで信仰に入ったのに、何故今割礼を受けようとするのか、霊で始めたものを肉で完成しようとしているのか」と批判する。
−ガラテヤ3:1-3「物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」。
・中心になる言葉は「割礼」だ。割礼とは男性性器の包皮を切り取る行為で、砂漠の不衛生の中で体を清潔に保つために、与えられた戒めとされる。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「選びのしるしとして割礼を受けなさい」と言われた(創世記17:9-11)。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになる。その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされ、救いの条件になってきた。パウロは「それはおかしい」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れたが、一部の人々は依然として割礼の必要性を主張していた。「割礼を受けなければ救われない、そうであればこれまでの信仰は無駄であったのか。そんなことがあるわけはないではないか」とパウロは反論する。
−ガラテヤ3:4-5「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」。
・主はアブラハムの信仰を義とされたが、それは割礼を受ける前であった(創世記15:6-7)。アブラハムは「義とされた」しるしとして割礼を受けたのであり、「割礼を受けたから義とされた」のではない。
−ガラテヤ3:6-7「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」。
・信仰があって行いが生じるのであり、その逆ではない。律法は恵みに対する感謝として与えられたものである。出エジプト記を見よ。主が解放してくださった故に、主の言葉に従えと命じられている。
−出エジプト記 20:2-3「 私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」。

2.律法は人を救わない

・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていく。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。その時、アブラハムは割礼を受けていない。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのか」とパウロは問いかける。
−ガラテヤ3:7-9「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」。
・律法は人を救わない。人は律法を守ることが出来ない。「殺すな」と言われても、私たちは怒りに駆られて人を呪い、呪いの先には殺人がある。人間は戦争をやめることができない、それは「殺すな」という命令を守ることの出来ないことを意味する。「姦淫するな」と言われても私たちは姦淫を犯し続けている。
−ガラテヤ3:10-12「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」。
・人は律法を守ることは出来ない、律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれた。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われている。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、律法の呪いから起こされ、神は律法の無効を宣言されたとパウロは語る。
−ガラテヤ3:13-14「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」。

3.律法から福音へ

・人は信じて義とされる。それでは律法は何のために与えられたのか。律法は人々に対する祝福として与えられた。奴隷として働かされたエジプトでは休息の日はなかった。疲れた身体を休めるように安息日が出エジプトの民に与えられた。祝福である安息日がやがて、安息日を守らない者は罰すると言う規定に変わっていく。イエスは祝福を呪いに変えてしまった律法学者の罪を指摘する(ルカ14:1-6)。
−ルカ14:1-6「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』。彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らは、これに対して答えることができなかった」。
・パウロがガラテヤ書で力説するのも、意味の変えられた律法の虚しさである。
−ガラテヤ3:23-25「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」。
・「神の子とされたしるしとして割礼を受けよ」という祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられてしまう。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれた。人が再び神の子とさせていただく道がキリストによって与えられた。それが福音だ。
−ガラテヤ3:26-27「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
・キリストを着た私たちにとって、自分がユダヤ人であるかギリシア人であるか、男であるか女であるかはもう問題にはならない。神の前に、私たちは子として、一つになったからだ。
−ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

4.ガラテヤ3章の黙想

・パウロは、「律法全体は「隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされる」(5:14)と語る。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中の「肉の欲」が、「霊の愛」に変えられていく。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲だ。飲酒を断念した人は隣人に言う「自分も飲まないのだからあなたも飲むな」。これが肉の欲だ。
・他方、愛は自分が相手に仕えていく。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者のあり方だ。福音さえも律法化する。礼拝は恵みの時、神に出会う時であり、私たちは礼拝を大事にする。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を守らない人は救われない」と言い出しかねない。その時、福音が律法化する。礼拝に来ない人を呪うのではなく、「礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく」、それが福音に生かされた者のあり方だ。
・どうすればそのような生き方が出来るのか。福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時だ。パウロはガラテヤ書の終わりに言う「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(1コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ない。私たちには、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられている。キリストの十字架に接して、私たちはその自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていく。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-04-28 21:53:51 (72 ヒット)

2019年5月5日聖書教育の学び(2018年12月5日祈祷会、ガラテヤ2章、律法かキリストか)

1.アンティオキア教会での出来事

・パウロはバルナバによりアンティオキア教会に招かれ、宣教の働きを始めた。アンティオキアにはユダヤ人もギリシア人もいたが、お互いの差異に関らず信徒の交わりが行われ、人々は始めて「キリスト者」と呼ばれた。ユダヤ教から独立したキリスト教会の成立である。
−使徒11:25-26「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。
・しかし、ユダヤ教の支配下にあったエルサレム教会の指導者たちは、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張を続け、教会に混乱が起きた。バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行った。紀元49年頃に開催されたエルサレム使徒会議である。
−使徒15:1-2「ある人々がユダヤから下って来て『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。
・これがガラテヤ2章にある問題の背景だ。異邦人が救われるためには、「ユダヤ人と同じように割礼を受けることが必要なのか」という議論である。ガラテヤ教会の人々も、割礼を求めるエルサレム教会からの圧力で混乱していた。そのガラテヤの人々にパウロは使徒会議で起こった出来事を報告している。
−ガラテヤ2:1-2「十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。私は、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、主だった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」。
・パウロが「異邦人に宣べ伝えている福音」とは、「人が救われるのは割礼によってではなく、キリストの十字架の恵みによる」という教えだった。会議では誰もパウロに反論できなかった。
−ガラテヤ2:3-5「しかし、私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、私たちを奴隷にしようとして、私たちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、私たちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」。
・会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められ、ペテロにはユダヤ人への宣教の業が、パウロには異邦人への宣教の業が委ねられることになった。
−ガラテヤ2:6-9「主だった人たちからも強制されませんでした。この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、私にはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。実際、その主だった人たちは、私にどんな義務も負わせませんでした。彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、私には割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました・・・また、彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」。

2.律法から自由でない人々との戦い

・会議で割礼を強制しないことが決まったものの、ユダヤ人信徒の割礼に対するこだわりは消えなかった。習慣や伝統の怖さである。ペテロやバルナバでさえも律法主義者に押されてその態度を後退させている。
−ガラテヤ2:11-13「さて、ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。何故なら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」。
・パウロは彼らの変節を鋭く批判する。パウロはエルサレム教会の代表者であるペテロにも遠慮しない。
−ガラテヤ2:14「しかし、私は、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか』」。
・当時、主の晩餐式は共同の食事の中で営まれていた。共に食卓につかないことは、共に礼拝をしないことを意味し、見過ごしに出来ない問題だった。「割礼により救われるのならキリストは何のために十字架で死なれたのか」とパウロは問う。
−ガラテヤ2:15-16「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。
・律法によっては誰も救われない。だからキリストの十字架を仰ぐ。それなのにまた律法に戻ろうとするのはなぜかとパウロは説く。
−ガラテヤ2:17-18「もし私たちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違犯者であると証明することになります」。
・自分ほど律法による救いを求めて苦闘した者はいない。しかし、律法は人を救わない。私は復活のキリストに出会ってそれを知った。だから私は律法に死に、キリストに生きるようになった。
−ガラテヤ2:19-20「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
・そしてパウロは彼の信仰の核心を語る「律法によって人が義とされるのであれば、キリストは何のために死なれたのか。律法は人を救いには導かないのだ」。
−ガラテヤ2:21「私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。

3.ガラテヤ2章の黙想(北森嘉蔵・聖書の読み方から)

・「神の痛みの神学」を著した神学者・北森嘉蔵は、ガラテヤ2:19-20について、それは宗教学者・西田幾多郎の特愛の言葉であったと語る。
−北森「聖書の読み方」p153から「西田はこれを宗教の極致として受け取った。『生きているのはもはや私ではない』という言葉は宗教を宗教たらしめるものだ。それは親鸞の『他力本願』、禅の『心身脱落』に通じる「神秘主義的」と言われている宗教性である。この人間主体と宗教的実存の合一こそ宗教の本質であると西田は語る」。
・西田は「すべての宗教に救いがある」と信じている。これに対して内村鑑三は、「この言葉はキリストの十字架の死を語るものであり、仏教的な心身合一ではない。ここにあるのは福音であり、救いはキリストの十字架なしにはあり得ない(仏教によっては、人は救われない)」と説く。
−北森・聖書の読み方p154〜158から「内村はこの個所の『私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を捧げられた神の御子を信じることによって、生きているのである』という部分を重点的に理解する。人間は神への反逆を持っているゆえに神と直接的に合一することが出来ない。それ故、救い主の自己放棄という犠牲が払われた。あくまでも仲保者キリストとの合一であり、キリストが十字架で死なれたことにより、人間は律法(自分の正しさ)に死に、神に生きるのである。だから私たちも十字架に死ぬのである」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-04-21 21:01:37 (135 ヒット)

2019年4月28日聖書教育の学び(2018年11月28日祈祷会、ガラテヤ書1章、福音から離れ始めたガラテヤの諸教会へ)

1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ

・パウロは小アジアのアンティオキアやルステラ、イコニウム等の諸都市を何度か訪れて伝道し、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれた。彼はその後エペソに移るが、そのパウロの所に、「ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届いた。パウロは、ガラテヤの人々がこんなにも簡単に福音から離れて行ったことに驚き、失望して、手紙を書く。
−ガラテヤ1:1-7「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ・・・キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」。
・エルサレムからの宣教師たちはユダヤ教の支配下にあり、「割礼を受けなければ救われない」と主張し、人々に割礼を受けさせようとしていた。パウロは「割礼なしに救われないなら、キリストは何のために死なれたのか」と人々に迫る。
−ガラテヤ2:21「私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。
・イエスの直弟子である十二使徒を中心に形成されたエルサレム教会は、パウロを母教会から派遣した正式の教師ではなく、その信仰は正統から逸脱した異端だと攻撃した。そのため、パウロは手紙の冒頭で、自分の使徒性は人によらず、キリストと神からの直接の召しによるものであるあることを強調する。
−ガラテヤ1:1-2「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ・・・から、ガラテヤ地方の諸教会へ」。
・パウロは語る「私は復活の主に出会い、直接召された。そのキリストは私たちの罪の赦しのために死んで下さった。福音とはキリストに示された十字架と復活以外にはないのだ」と。
−ガラテヤ1:4「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださったのです」。
・異なる福音などない。キリストを信じるか、サタンを信じるかのどちらかだとパウロは迫る。パウロは母教会のエルサレムからの宣教師たちを「サタン」と呼ぶ激しさで攻撃する。
−ガラテヤ1:8-9「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」。

2.神から直接受けた福音を私は伝えた

・反対者たちは、パウロの教えはエルサレム教会の教えと異なると批判した。エルサレム教会の主力はヘブライ主義者(ヘブライ語を話す地元ユダヤ人)であり、律法を重視する。だから彼らはユダヤ教当局からの迫害は受けていない。他方、パウロの属するヘレニズム主義者(海外居住のユダヤ人)はユダヤ教から異端として迫害された。パウロは復活のキリストとの直接の出会いによって回心した。だから彼は反論する「自分は人から教えられたのではなく、直接キリストから啓示された福音を伝えている」。
−ガラテヤ1:11-12「あなたがたにはっきり言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。
・パウロはかつて熱心な律法主義者であったが、キリストとの出会いにより変えられた。パウロは語る「今あなたがたは福音から律法に後戻りしようとしているが、律法はキリストの福音と対立する」と。
−ガラテヤ1:13-14「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。
・キリストに出会って全てが変えられた。福音の迫害者であったパウロが福音の宣教者として召され、アラビアの荒野でその確信を持たされ、直ちにダマスコでの宣教に赴いている。
−ガラテヤ1:15-17「私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、私は、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、私より先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。
・3年後にパウロはエルサレムに行き、使徒たちと会い、その後アンティオキア教会で伝道を行った。その期間は14年にも及ぶが、詳細を聖書は述べない。恐らくは特記すべき業績を上げなかったのだろう。パウロのような劇的な召命を受けた伝道者でも、長い間の訓練と忍耐の時を必要とした。
−ガラテヤ1:21-23「その後、私はシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、私のことで神をほめたたえておりました」。

3.ガラテヤ書は何故書かれたのか

・パウロはバルナバによりアンティオキア教会に招かれ、宣教の働きを始めた。アンティオキアにはユダヤ人もギリシア人もいたが、民族の差異に関らず、信徒の交わりが行われ、ここで始めて教会の信徒たちが、「キリスト者」と呼ばれた。キリスト教の誕生である。他方、エルサレム教会はユダヤ教キリスト派に留まっていた。
−使徒11:25-26「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。
・エルサレム教会の主流派は、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張し、教会に混乱が起き始めた。バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行った。
−使徒15:1-2「ある人々がユダヤから下って来て『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。
・これがガラテヤ書にある問題の背景だ。キリスト教がユダヤ教から脱皮するための混乱だった。
−ガラテヤ2:11-13「ケファがアンティオキアに来た時・・・ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」。
・割礼とは何か。最初に割礼を受けるように求められたのはアブラハムだった。選ばれて神の民となったのだから、「恵みのしるしとして一族すべてが割礼を受けなさい」と命じられた(創世記17:9)。祝福のしるしとしての割礼がそのうちに、「割礼を受けない者は救われない」、「割礼を受けない者は呪われる」と変わっていく。エルサレム教会から派遣された伝道者たちも、ユダヤ人(アブラハムの子孫)として割礼を受けていた。だから他者にも割礼を強要するようになり、いつの間にか、割礼を受けることが救いの要件になっていった。恵みとしての律法が、人を縛り、不自由にさせるものに変化していく。
・私たちの中にも、「洗礼を受けなければ救われない」との考え方がある。洗礼は救われた感謝として受けるが、いつの間にか「洗礼を受けたのだから私は天国に行ける、あの人は洗礼を受けていないから救われない」と言い始める。洗礼という感謝の行為が、救いの条件になってしまい、受けない人を排除する行為になり、時には、それが教会を二分する争いになる。
・パウロは語る「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」。人を救うのは神であり、人の行為ではない。キリストが死んでくださったように私たちも罪に死ぬ、そのことを通して神の恵みが見えてくる。その恵みを通して、「この悪の世のしがらみから救われ」、新しい人生に導かれるのである。


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