すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-21 21:13:36 (58 ヒット)

1.キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロには忘れることの出来ない問題がありました。それは同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていることでした。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか、私の同胞は滅びに至るのか、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。ただ議論は9章から始まっていますので、折に触れて9-10章も見てみます。
・さて、ユダヤ人は神の民として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。ユダヤ人を通して、神は人類を救おうとされ、その約束はユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。クリスマスはそのことを祝う時です。しかし、ユダヤ人たちはこのキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは神に捨てられたままで、永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。彼は言います「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)。神を知らない者は、自分の不幸や欠陥を悲しみます。しかし、神を知った者は、他人の不幸や欠陥に無関心ではいられないのです。
・このパウロの悲しみを私たちも持ちます。日本に福音が伝えられて100年以上も経ちますが、まだほとんどの日本人はキリストを受入れようともしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では妻がクリスチャンになっても、夫は聖書の教えに無関心である場合が多くあります。教会に行き始めた子供たちも、大きくなって教会を離れることが多いのが現実です。また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることもあります。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)と私たちは信じますが、それでは、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは私たちも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは今、当時の世界の中心地ローマに行こうとして、その準備のためにローマ教会に手紙を書いています。異邦人に福音を伝えているパウロはユダヤ人であり、同じ働きをしているペテロもまたユダヤ人です。しかしユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、むしろ福音に敵対し、これを迫害しています。しかし、パウロは神の経綸を信じ、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心を福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされているのではないか」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人の方に向けました。使徒行伝13:46はパウロの言葉を伝えます「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」。もしユダヤ人がイエスを受け入れてこの福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。しかし神の民イスラエルの反逆によって、キリスト教は民族を超え、今ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の背信が神の経綸の中で決定的な役割を果たしたのです。それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の下に帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。私たちもまた、たとえ家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神のご計画の中にあるのであり、いつの日家族もまた受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

2.先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それはユダヤ人に妬みを起させることだとパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の生活の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさにそのような出来事が起こるとパウロは言います。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を根と接木という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という幹に野生のオリーブが接木されたようなものであり、接木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、異邦人は、神はユダヤ人を捨てられ、自分たちを選ばれたのだと誇りました。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマの国教となってくると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになったのです。中世のヨーロッパでは至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義が現代にも継承され、やがてナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺を生んでいきます。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことを示しています。アウシュヴィッツ強制収容所の忌まわしい出来事は、ある日突然起こったものではなく、2000年の歴史の中で起こったのです。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。パウロは語ります「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです・・・福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(11:25-29)。「神の賜物と招きとは取り消されない」、神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を「一時的に」閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。

3.私たちはローマ11章をどう読むのか

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。パウロは指摘します「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:2-3)。人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になりがちです。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、そのように行わない人を裁くようになります。しかし、それは自分の義であって、神の義ではありません。私たちが自分の力で救われようと努める時、私たちは傲慢になって、救いからもれるのです。ユダヤ人も福音を聞いたのに、これを拒絶しました。自分の正しさに固執したからです。
・先に言いましたように、パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。私たちは信仰を与えられ、礼拝することを許されていますが、家族の中で信仰を持っているのは自分一人の方もいます。自分は救われるかも知れないが、家族はどうなるのか。存命中であればいつかはキリストに出会う望みを持つこともできますが、キリストを知らないまま死んでしまった家族はどうなるのか。彼らは、地獄に堕ちてしまうのか。教会から離れていった人たちは捨てられるのだろうか。しかしパウロは言います「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(11:24)。
・神の知恵は人間の思いを超えます。誰が救われたとか、救われていないとかいうことは、神の領分であり、私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよいのです。パウロは賛美しました「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう.いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」(11:33-35)。アウシュヴィッツは人間の罪により起こされましたが、神はその悲惨な出来事を通して世界中の関心をユダヤ人に集中させ、イスラエルの地に彼らが国を建てることを許されました。2000年間国を無くして放浪していた民族が、国を再建したことは歴史上ありえない出来事です。その出来事を神は起こされた、そうであればキリストを信じないで死んでいった家族も、今でも福音を拒む友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-14 20:50:37 (65 ヒット)

1.現在の苦しみ

・ローマ書を読み続けて来ました。今日が8回目、いよいよローマ書の中核となる箇所です。先週学びましたように、キリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法=神の戒めを守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。彼は叫びます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。その彼がキリストとの出会いを通して救われていきます。パウロは告白します「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神との和解が為された、神の子としていただいたとパウロは感謝します。
・「神の子とされる」とは、永遠の命が約束されたということです。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きています。そしてこの地上はイエスを十字架で磔にした場所、罪が支配している場所です。イエスは世を去る前に弟子たちに言われました「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:18-19)。「私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」、キリスト者になることは世からの苦しみを受けることだとイエスは言われました。だからパウロも言います「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(8:17)。
・当時の社会において、キリストを信じることは、「迫害と苦しみ」を意味していました。キリストを信じるユダヤ人はユダヤ社会から異端として排斥され、キリストを信じる異邦人は皇帝礼拝を拒否する者としてローマ帝国からの迫害を受けていました。パウロはその現実を見据えます「この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ」と。しかし「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」(8:18)。聞く私たちはパウロの言葉にたじろぎます。誰も苦難など受けたくない、私たちが求めるのは現在の幸福です。世の宗教は現世利益を説く故に、多くの人々が集まります。幸福の科学や世界救世教等の人気を集めています。しかし、このような宗教は病の癒しは説いても、死からの救済は説きません。最大の苦難である死と向き合おうとしない信仰は永続しないでしょう。
・他方、聖書は「死の問題」を正面から取り上げます。パウロがローマ8章で取り上げているのも死の問題です。「被造物は虚無に服している」(8:20)、私たちは死に至る存在であり、死ですべてが無くなると思うから、人生は無意味、無価値、虚無にならざるを得ません。何故死があるのか、罪の故です。パウロは言います「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので・・・す」(8:19-20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、自然そのものも人間の罪によって虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。人間の欲望が森林を乱開発し、鉱物や石油を大地から掘り出し、その結果大地は汚染されていきます。預言者エレミヤは大地の荒廃の中に人間の罪を見ます「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。現代ではアマゾンの熱帯林が乱開発によって死滅しつつあります。地球上の酸素の30%を供給し、「地球の肺」と言われる熱帯雨林の消滅はすべての生命にとって生存の危機をもたらします。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代において大事な言葉です。

2.苦しみを超えて

・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来る。それは生みの苦しみ、救済への過程にあるとパウロは言います「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれ・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。人間の罪によって損なわれた自然はまた人間の悔い改めにより回復します。ペシャワール会の中村哲さんはパキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールのハンセン病患者治療のために派遣されました。しかし、いくら治療しても患者は減らず、逆に増えて行く現実の中で、今必要なことは医療よりも、病気の原因である飢餓と不衛生な水の摂取を減らすことだと知りました。彼はまず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次に水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とし、以来25年実行してきました。彼は10年間をかけてインダス川支流から水路を引き、かつて「死の谷」と呼ばれた砂漠が、今では緑の地に変っています。何が彼にそうさせたのか「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(ピリピ1:29)という信仰です。贖われて神の子となった者たちが自然回復のために働いているのです。福音の力が世界を変えうるのです。
・パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただいている、つまり霊魂の救いという内面的な救済はすでに為されています。しかし相変わらず体は肉を持つゆえに罪の虜になっており、それゆえに死ぬべき運命にあります。救いは始まったがまだ完成していない、いつの日かこの体が贖われて、死んでも死なない存在になる。その日を待ち望んでいるとパウロは言います。
・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には共に祈って下さるとパウロは言います「霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」( 8:26-27)。
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は困苦と艱難に満ち、障害と誘惑に囲まれています。苦しみそのものは決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、私たちは困苦や艱難を喜ぶことが出来る者とされています。前に紹介しました三浦綾子さんは、「癌さえも喜ぶことが出来る」ようになったと書いています「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。病も死も神がお与えになる、それは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなります。この信仰をいただいたものは他に何も要らないのではないでしょうか。

3.将来の栄光

・今日の招詞に詩編73:24-26を選びました。次のような言葉です「あなたは御計らいに従って私を導き、後には栄光のうちに私を取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」。詩編73篇は「悪人が栄え、善人が虐げられる現実」の中で、信仰者はどう生きるべきかを歌った詩編です。詩人は「神に逆らう悪人は栄えるのに神を敬う自分は苦労ばかりだ」と嘆きます。なぜ邪悪な者たちが栄え、罪なき者に災いが下るのか、詩人は聖所に行って祈り、そのことの意味を神に問います。その結果示されたのは、邪悪な者たちの行く末です。詩人は歌います「私は神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを」(73:17-18)。
・人は比較の世界で生きています。自分の人生が困難に満ち、他者の人生が安泰であれば、私たちは平静でいられません。人が地上の出来ごとのみに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪人は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に彼の心は平和です。彼の歌う「私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」という信仰こそ、パウロの言う永遠の命への希望「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と同じものです。
・「神は社会の不条理を糺され、泣いている人、虐げられている人を救済される」というのが私たちの信仰です。例え虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられている、救いは死を超えて存在する、この「目に見えないものを望んでいく」のです。パウロはコリント教会の手紙の中で言います「私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4:16-18)。彼は自分に与えられた苦難、病気を「一時の軽い艱難」と呼びます。「永遠の救い」という素晴らしさに比べれば、病気も失業も迫害も、さらには肉体の死さえも、「一時の軽い艱難」になるのです。
・今日の礼拝で新生讃美歌623番「時は満ちて」を歌います。「時は満ちてすべて美しくされ、示される道従い行きて、御言葉のまま歩む」。「時が満ちて」、この歌こそ、パウロがローマ8章で語る心をとらえています「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。「救いの完成を待ち望みつつ現在を生きる」、このような人生に私たちは招かれています。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-08 08:35:45 (71 ヒット)

1.罪に死ぬ

・今日は篠崎キリスト教会の教会創立記念日礼拝です。私たちの教会は1969年11月6日に新小岩教会の伝道所としての最初の礼拝を篠崎文化館で行い、それから41年間、私たちはこの教会で毎主日の礼拝を守ってきました。何のためでしょうか。救われた恵みに感謝し、同時にその恵みをこの地の人々に伝えるためです。主日礼拝はこのように、恵みへの応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持ちます。今日はこの中の最初のもの、「救われた恵みに応答する」とはどういうことかについて、ローマ書6章を通して考えて行きます。
・パウロは前の5章で「救いとは罪が赦されて、神と和解し、神の平安の中に生きることだ」と述べました「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(5:1-2)。世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、安心を得ようとします。しかし、他の人が認めてくれないとその平和は崩れます。そのような人に左右される平和ではなく、本当の平和、「神との平和」を求めよ」とパウロは言います。その平和は、自分が神の前に罪人であることを認め、悔い改めた時、恵みとして与えられます。パウロは言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました・・・敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5:8-10)。この神との平和が、隣人との平和をもたらします。
・しかし、私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪があります。この原罪が神と私たちの間を阻害し、また隣人と私たちの間をも阻害しています。罪とは「関係の断絶」なのです。そして聖書の罪には、単数形の罪と複数形の罪があります。単数形の罪、英語で言うsinが原罪です。その原罪が具体的な行動として現れ、律法を破る、あるいは法律を犯す時、複数形の罪crimeになります。世の人々はこのcrimeを罪と誤解しますが、本当の罪はその根源にあるsinであり、このsinから解放されなければ本当の平安はありません。そしてこのsinからの解放はキリストとの出会いを通して与えられます。それを象徴するものがバプテスマ(洗礼)です。パウロは言います「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)。
・バプテスマの語源はバプテゾー(浸す)です。水の中に沈む時キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となります。パウロは言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤ6:14)。この世に対して死んだ者が以前と同じ生活を続けられるだろうか、出来るはずが無いではないかとパウロは言います。それが6章6-7の言葉です「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」。それにも関らず、私たちの日常生活は前と変わりません。世の人々は言います「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは罪sinから救われますが、肉の体を持つ限り、罪crimeを犯し続けていきます。罪はまだまだ私たちを支配しています。どうすればよいのでしょうか。ここで問題になるのは、罪が赦された後、私たちは同じ状態のままでいてはいけないということです。罪の赦しは聖化、あるいは清めを伴わなければいけないのです。

2.聖化とは何か

・聖化を考えるために具体例を用いてみます。ヨハネ8章にあります姦淫の女の例です。エルサレムにおられたイエスのもとに、律法学者とファリサイ派の人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、真ん中に立たせて言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)。律法は姦通に対して死刑を定めています。ラビたちの伝統では、姦通は石打ち刑でした。その人々にイエスは身を起して言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(同8:7)。イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」(同8:9)とヨハネは記します。イエスが彼らに求めたのは、自らを振り返り、自らも女と同じ罪人であることを、知ることでした。良心に誓って、自らを「罪なし」と言えるなら「石を投げよ」と言うイエスの言葉は、彼らの心を揺り動かし、良心を目覚めさせたのです。                 
・イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。ここに罪の赦しと聖化が鮮やかに語られています。「私もあなたを罪に定めない」、ここに赦しがあります。しかし同時にイエスは言われました「これからは、もう罪を犯してはならない」、この聖化こそ今日の主題なのです。
・私たちも罪を赦されました。しかし、体は元のままです。だから肉の欲はなお私たちを襲います。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にあります。だから、肉の欲と戦いなさいとパウロは述べます「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:12-13)。ルターは言いました「聖者も肉の中に悪しき欲望をもっている。けれども彼らはこれに従わない」。聖者だから食欲や性欲がなくなるわけではありません。あるいは妬みや物欲もあるでしょう。聖者も人間であり、彼らの中にも悪しき欲望は働いています。けれども、「彼らは悪の支配に自分の命を賭けない」、そこに聖者の聖者たるゆえんがあります。私たちもそうです。かつては罪の中にあったが、今は聖別され、新しい生が与えられた。そうであればキリストにふさわしい者として生きなさいとパウロはローマ6章で教えるのです。

3.キリストにふさわしい者として生きる

・しかしパウロは「自分に鞭打って聖なる生活をしなさい」とは言いません。聖化=清くなるとは禁欲することではありません。戒めを守る生活をすることが「清い生活」ではありません。何故ならば「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(6:14)。もう私たちの聖化は始まっている、私たちはもう「〜せよ、〜してはいけない」という律法の下にいるのではなく、恵みの下にある。私たちが為すべきことはこの恵みを受け続けて行くことです。その時、神が私たちを少しずつ清い存在へと変えて下さる。そのことを信じて行くのです。
・今日の招詞としてローマ6:15を選びました。次のような言葉です「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。イエスが姦淫の女に言われた「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉と同じ響きがここにあります。私たちは罪を赦された者として、それにふさわしく変えられていく。これが新しく生まれる=新生、あるいは清められて行く=聖化ということです。
・新生とは何か、今まで自分中心で生きていた人生が神中心の、具体的には「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。昭和45(1970)年3月、羽田発福岡行きの日航機がハイジャックされた「よど号」事件で、人質となった乗客のなかに聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがいました。日野原さんは「私を変えた聖書の言葉」と題する本の中で次のように書いています「彼ら(赤軍)が『次に読み上げる読み物のリストの中から読みたいものがあれば手を挙げてほしい』と言われ、私は勇気を出して縛られた両手を高く挙げ『カラマーゾフの兄弟を貸してほしい』と言ったら、膝の上に文庫本4冊がおかれた」。早速第1冊目を開くと、その扉に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。そしてもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)の聖句を見出し、「そうだ、この聖句がこの小説の主題なのだと思い、時々窓の外の青空を見上げながら、ゆっくりゆっくりとこの小説を読み出した」と記しています。日野原さんは釈放後のあいさつ文で「許された第2の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません」と記しています。日野原さんは「一粒の麦になる」決意を通して「罪に死にキリストに生きる」人生を始めたのです。
・「この一粒の麦になる」という決意こそ大事なものではないでしょうか。麦は自らが死ぬことによって、地の中で壊され形を無くして行きます。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。自分の姿を残す、蒔かれずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていきました。私たちもその命をいただいた一人です。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていきます。
・「自分の形を失くして仕えて行く」、教会の言葉で言えば「相互牧会」です。お互いがお互いを配慮し合う生き方、そういう者でありたいとして今年度の祈りの課題に加えられました。宮沢賢治が「雨にもまけず」で歌ったような生き方です「ヒガシニビョウキノコドモアレバ、イッテカンビョウシテヤリ、ニシニツカレタハハアレバ、イッテソノイネノタバヲオヒ、ミナミニシニソウナヒトアレバ、イッテコハガラナクテモイイトイヒ、キタニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイウ」、私たちがこの歩みをして行く時、その小さな一歩一歩の歩みが祝福されていき、生活が少しずつ変えられ、それが隣人への証しとなっていきます。先に、「主日礼拝は私たちの感謝の応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持つ」と言いましたが、実際は一つです。「感謝の応答」は必然的に「隣人への証し」となっていくのです。そいう教会を共に形成したいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-01 21:02:26 (82 ヒット)

1.神との平和

・義とされた者は神との和解が成立し、神による平安が生まれるとパウロは説く。
−ローマ5:1-2「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。
・世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、平安を得ようとする。しかし、他の人が認めてくれないと、その平安は崩れる。人の平安ではなく、神の平安を求めよ。神の前に誇るべき何物のないことを認める時、自分が罪人で弱い者であることを承認する時、神の平安が恵みとして与えられる。
−競灰12:9-10「主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
・弱い時にこそ強い事を知れば、苦難を喜ぶことが出来る。苦難が弱い自分を強くするために与えられた神の恵みである事を知るからだ。苦難はその意味を見出した時に、祝福になる。
−ローマ5:3-5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。」
・この平安を私たちは値なしにいただいた。だから恵みに感謝する。
-ローマ5:6-8「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
・それはキリストが十字架で血を流して勝ち取ってくださった。
−ローマ5:9-11「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
・この神との和解、平和が、隣人との平和をもたらす。隣人との平和がない時、私たちは神との和解をいただいていない。
−汽茱魯4:20「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。

2.原罪

・私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪がある。それは「アダムが罪を犯したように、全ての人も罪を犯したからだ」とパウロは言う。原罪はカトリックが教えるように、遺伝によってアダムから伝えられたものではない。しかし人の中に厳然として罪の支配があることは明らかだ。
−ローマ5:12「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。
・アダムはエデンの園の中央に植えられた「善悪の知識の木」の実を食べた。「食べるなと命じられた」神の戒めに背いた。神の被造物が神から離れようとすれば、死ぬ。人間の中にある神から離れようとする心、それが原罪だ。
−創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』」
・アダムはヘブライ語で「人」を指す。アダムという人類の始祖が罪を犯したというよりも、アダムに代表される人間が「罪を犯し続ける存在」であることを示すために、創世記は物語化された。以降、人間の罪の問題を「アダムの堕罪の結果」とする原罪論が広く承認され、パウロもこの流れの中にいる。ラテン語聖書はこの原罪論を取るが、しかし聖書には「原罪」という言葉はない。ラテン語訳聖書は明らかに誤訳であり、この語訳をもとに、「アダムによる性行為を通じて、全人類に罪がもたらされた」という「生殖-遺伝説」(アウグスティヌス)が定着することとなってしまった。
-ラテン語聖書・ローマ5:12「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。彼(アダム)において、すべての人が罪を犯したからです。」
・罪は律法が与えられるモーセ時代以前から存在したが、罪の認識が生まれたのは、律法以降であり、パウロは「人間が神に背いていることを明らかにするために律法が与えられた」と理解する。
-ローマ5:13「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。」
-ローマ3:20「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

3.一人の従順がこの罪からの解放をもたらした

・アダムの罪によってこの世界に死がもたらされた。しかしキリストの死に至るまでの従順が、アダムの罪をはるかに超える恵みをもたらしたとパウロは語る。
-ローマ5:15「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
・その恵みは「多くの罪過があっても、神の前に義とされる」恵みである。有罪の人間が、キリストの恵みによって無罪とされたとパウロは語る。
-ローマ5:16「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」
・一人の人の不従順によって死が支配したように、一人の人の正しい行為によって、多くのものに命の恵みがもたらされた。
-ローマ5:17-19「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
・人がアダムであった時=人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を生んだ。しかしキリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人はキリストの贖いの業によって、罪の世界から恵みの世界に移される。それを受け入れることが信仰なのである。

4.パウロのアダム・キリスト論をどのように考えるか

・パウロは創世記のアダムに人間の原型を見て、彼の神への背きこそが「罪と死」をもたらしたと考えた。2千年前に生きたパウロにとって、アダムはまさに人類の始祖であった。しかし現代の私たちはアダムを人類の始祖とは考えない。人類は地球上に生命が発生してから何億年という長い時間をかけて進化し、人となったと理解する。その意味で創世記のアダム物語は神話である。
・しかしその神話の中に深遠な真理が示されていると理解する。「人とはどのような存在か」、「人はなぜ罪を犯し続けるのか」、を探求し、物語るものが創世記なのである。その書かれた目的は世界を科学的に説明するためではなく、神がいかにして人を救済するのかを物語る書なのである。その意味で、パウロが展開した「アダムこそが、来たるべきキリストの予型である」との論述は納得できる。
-第一コリント15:21-22「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-04-23 19:05:14 (78 ヒット)

1. ローマ書の示す罪のあり様

・今私たちは、「ローマの信徒への手紙」を毎週読んでいます。今日が三回目ですが、説教を準備しながら、この手紙は「難しい」と感じています。手紙は単にパウロがローマの教会の問題を指摘して悔い改めるように勧めているだけのものではなく、パウロが自分の信じていることを論理的に解説する教理書でもあるからです。説教準備のために何冊もの注解書を読みましたが、納得できる注解書はほとんどありませんでした。その中でこれはと思えたものが、北森嘉蔵「ローマ書講話」(教文館)でした。北森先生は「神の痛みの神学」等を書かれた著名な神学者ですが、他方、伝道のためにカルチャーセンター等で一般の方向けのお話もされています。「ローマ書講話」は先生が朝日カルチャーセンターで行った聖書講話をテープ起こししたもので、わかりやすくローマ書が解説されています。今日は北森先生の助けを借りて、ご一緒にローマ3章を読んでいきたいと思います。
・パウロはいつの日か、世界の中心であるローマに行って伝道したいと願っていました。しかし、ローマ教会には問題がありました。教会内のユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に対立があったのです。ユダヤ人信徒は異邦人が律法を守らないと言って責め、異邦人信徒はユダヤ人を堅苦しいことばかり言うが、やっていることは自分たちと同じではないかと見下していました。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根本原因に人間の罪を見ました。そのため最初の挨拶の言葉を終えるや、パウロは「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節までの箇所です。この個所は大事な個所ですので、今日は最初に、この罪の問題をもう一度振り返ってみたいと思います。
・北森先生は1−2章の記述の中で、「パラディドナイ」という言葉に注目されます。「任された、渡された」という意味の言葉で、1:24「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられた」、1:26「神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」、1:28「神は彼らを無価値な思いに渡された(任された)」とあります。人の罪に対して、神は怒りを持って臨まれ、その怒りとして「人を為すがままに任せられた、放置された」とパウロは言うのです。人は歴史以来、争い合い、殺し合ってきました。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。何故か、神が人を「無価値な思いに渡された」(1:28)からです。人は生命を継承するために男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や強姦や同性愛を繰り返してきました。何故でしょうか、それは神が人を「恥ずべき情欲に任せられた」(1:26)からです。神の怒りとして、この世は罪と不正に満ちている、あなた方もその中にあるのだとパウロは指摘しているのです。
・しかし、神の怒りは何故、「人を為すがままに任せる」という形で現れるのでしょうか。それは神が人を愛しているからです。人に自分の罪をわかってほしい、悔い改めてほしいと神は願っておられる。そして人間が自分の罪を自覚するのは、「落ちる所まで落ちる」、何も頼りに出来るものがなくなった時です。「落ちる所まで落ちるために、神は人が為すがままに任せ」られる。その結果、社会は欲望と欲望がぶつかり合う弱肉強食の世界になり、弱い者は排除され、圧迫されていく。その時、彼は神を求める。他に頼るものがないからです。北森先生の文章を読みながら思い起こしたのは、ルカ15章にあります「放蕩息子の例え」です。放蕩息子が自分の罪を認めたのは、お金を使い果たし、だれも助けてくれず、空腹の中で豚のえさでさえも食べたいと思った時でした。落ちるところまで落ちて初めて分かる自分の罪、それを知らせるために神は私たちを放置されるのです。

2. ローマ書の指摘を放蕩息子の例えから見る

・ここで「放蕩息子の例え」を振り返ってみましょう。物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求します。父は息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を分け与えます。弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立ちました。彼はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たしてしまいます。その時、ひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困るようになり、豚を飼う者となります。豚はユダヤ人にとっては汚れたもの、その世話をする弟息子は落ちるところまで落ちたことを意味します。
・彼は終には、「豚のえさであるいなご豆でさえ食べたい」と思うほど飢えに苦しみます。人は落ちるところまで落ちた時、初めて悔い改めます。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返りました「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを発ち、父のところに行こう」(ルカ15:17−18)。ここに「人を為すがままに任せる」ことを通して、人を救おうとされる神の配慮が例話化されています。
・放蕩息子は誰も頼るものがなくなって初めて、自分が「父の子」であることを思い起こしました。彼は自分の罪を認め、息子と呼ばれる資格は無いと考え、どのような裁きを受けようとも父の家に帰ることを決意します。父親は息子を「為すがままに任せて」いましたが、実は息子の身を案じ、息子が帰って来るのを待っていました。ある日、その息子が帰ってくるのが見えます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同15:20)。息子は父親を見ると、謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はそれをさえぎって使用人に命じます「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。最上の着物を着せる、子として迎えることです。手に指輪をはめる、指輪には印象がついていますので、彼を再び相続人として迎え入れたことを意味します。足に履物を履かせる、奴隷は履物を履きません。父親はこの息子の帰還を無条件で迎え、祝宴の支度をするように命じます。何故ならば「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同15:24)。
・自分の罪を認め、悔い改めて帰って来た息子を、父親は無条件で迎え入れました。それが赦し、パウロの言う福音です。パウロはローマ書の中で言います「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)。人は自分の努力によっては救われません。放蕩息子もどうしようもない所まで追い込まれました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(3:21)。放蕩息子は父親の所に帰ることによって、無条件に彼を赦す神と出会ったのです。そしてパウロは人を赦しに導くために、神はキリストをお立てになったと言います「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:22)。この赦しを通して、人は罪から解放されていきます。パウロは続けます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23-24)。

3.神の引渡しとしての受難

・すべての罪は赦されます。しかも無償で赦されます。赦されるほうは無償ですが、赦す神は代価を払われます。それがキリストの贖い、十字架です。今日の招詞としてローマ8:32を選びました。次のような言葉です「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」。この御子を「死に渡された」、「渡す」という言葉は先に見ました「パラディドナイ」という言葉です。神は御子を「死に引き渡された」、何故ならば「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(へブル9:22)からです。犠牲なしには赦しはありえない、だから神は御子を私たちのために「放り投げて下さった」、それが御子の十字架なのだとパウロは言います。
・「私のために神はその一人子を捨てられた」事実を知ることを通して、私たちは自分たちの罪を知るようになります。ちょうど、放蕩息子が父の愛を通じて自分の罪を知ったように、です。人は「神が私を救うために、御子を死に引き渡された」事実を知った時、痛みを覚えて、自分の罪を悔い改め、御子の前に跪きます。それこそパウロがロ−マ書3章で述べていることなのです。そしてパウロはこの手紙の中核となる言葉を語ります「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3:28)。これこそが「信仰義認の真理」、私たちプロテスタント教会の信仰の基盤となっている教えです。
・パウロは律法を厳格に守るパリサイ派に属するユダヤ人でした。彼は自らを「同年輩の多くの者たちに比べ,はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心」であったと語ります(ガラテヤ1:14)。その律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、律法を軽視するキリスト教徒は許しがたい存在でした。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに出会ったという事実だけです。
・そのパウロはキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかをローマ7章に書いています。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。律法によって、自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を通してパウロが見出したものは自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。放蕩息子のように、です。その声に応えて復活のキリストが彼に現れました。パウロは限界状況に直面して、自己の有限性を知り、神に出会ったのです。その救済体験が「私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えます」(3:28)という確信になっているのです。
・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしています。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送り、毎日を労働と祈りで過ごしていました。しかし、どんなに修行しても、ルターに平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱くようになります。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神でした。しかし、そのルターに、突然、光が与えられます。ローマ書の学びを通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができました。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがりましたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会ったのです。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が宗教改革を導いていきました。
・人間がどのように努力しても、救われることも義とされることも出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた。それがキリストの十字架です。この真理は理性で理解できるものではありません。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(汽灰螢鵐1:18)、神の子が地上に来た、御子の十字架死を通して救いが来た、この世の知恵では愚かな言葉です。しかし「救われる者には神の力」、私たち自身がキリストと出会った時に初めてわかる真理なのです。


« 1 (2) 3 4 5 ... 46 »