すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-02 17:55:26 (107 ヒット)

1.12部族の団結を崩すエフライムの行動

・エフタがアンモン人との戦いに勝利した時、最大部族であったエフライム族は自分たちに相談なしに戦ったとして、大軍を率いて脅しに来た。エフタの所属するギレアドのような少数部族が国の指導者になることに、大部族のエフライムは不満を持った。
−士師記12:1-3「エフライム人が勢ぞろいして、ツァフォンに赴き、エフタに言った『アンモン人との戦いに出向いた時、なぜあなたは、私たちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる』。エフタは彼らに言った『私と私の民がアンモン人と激しく争っていた時、あなたたちに助けを求めたが、敵の手から私を救ってくれなかった。あなたたちが救ってくれることはないと思い、私は命がけでアンモン人に向かって行った・・・どうして今日になって私に向かって攻め上り、戦おうとするのか』」。
・エフタは少数部族ギレアドの出身だ。エフライムは「おまえたちは私たちから離脱してヨルダン川東岸に住んだ逃亡者だ。それが我々を差し置いて戦果を誇っている」と批判した。エフタは怒り、エフライムと戦った。
−士師記12:4-5「エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが『あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ』と言ったからである」。
・エフライムはギデオンがミディアン人に勝利した時も干渉している。彼らは、自分たちは戦わないのに、最大部族として、戦いの報酬だけを得ようとしている。
−士師記8:1「エフライムの人々はギデオンに『あなたはミディアンとの戦いに行く時、私たちを呼ばなかったが、それはどういうことか』と言って、激しく彼を責めた」。
・一致して戦うべき時に、自分たちは戦わず、その成果に文句だけをつける人が必ずいる。エフライムは嗣業地割当の時も、ヨシュアに文句を言っている。このような行為が集団の一致を乱していく。
−ヨシュア記17:15-17「ヨシュアは答えた『あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するが良い』。ヨセフの子らが『山地だけでは足りません。しかし平地に住むカナン人は・・・皆、鉄の戦車を持っています』と言うと、ヨシュアは・・・答えた『山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう』」。

2.イスラエルの罪の歴史としての士師記

・士師時代末期には、イスラエルは内部抗争に明け暮れる。13−16章のサムソンを最後に、17章以下にはもう士師は現れず、ダン族の土地の割込みに伴う争い(嗣業の地を追われて新しい領土を他部族から剽窃する)や、ベニヤミン族の全イスラエルとの戦いが記される。主はイスラエルを内戦状態に放置された。
−士師記20:28「当時、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていた。イスラエルの人々は言った『兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか』。主は言われた『攻め上れ。明日、私は彼らをあなたの手に渡す』」。
・士師記記者は、罪を「彼らは自分の目に正しいとすることを行った」と記述する。主の霊がイスラエルからとともにいないことを象徴する言葉だ。
−士師記21:25「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。
・約束の地への到達は救いの成就のはずであった。それなのに何故争いが起きるのか。
−申命記8:7-10「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。・・・あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。
・旧約の歴史が教えることは、救いは地上では完成しないということだ。約束の地への到達は救いではなかった。私たちの人生においても地上では救いは完結しない。地上の人生は仮住まいに過ぎず、過ぎ去る。
−ヘブル11:13-16「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。・・・彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。・・・神は、彼らのために都を準備されていたからです」。

3. エフタ物語を再考する

・エフタは「勝利の暁には家の者を生贄として捧げます」と誓願してアンモン人との戦いに臨み、勝った。エフタは誓願の規定に従い、自分の娘を生贄として捧げることになってしまった。内村鑑三は「士師エフタの話〜少女の犠牲」について注釈する。
−内村鑑三全集第19巻から「残酷と言えば残酷です。昔はアブラハムがその子イサクを燔祭として神に捧げようとしたその刹那に、神は一頭の羊を下して、これをイサクの身代わりにしたとの事です(創世記第22章)。神は何故に同じ手段で、ここにエフタの娘を救われなかったのでしょうか。人身御供は、聖書が堅く禁じる事です。エフタがもしここにこの事をしたとすれば、それは神の律法に背いたのです」。
・「誓願そのものが、既に間違いであったのです。その成就は、敢えて怪しむに足りません。私共は、エフタの迷信を憐れみましょう。彼の浅慮を責めましょう。しかしながら、彼の誠実を尊び、彼の志を愛せざるを得ません。しかし、燔祭の事実はどうであったとしても、犠牲の事実は、これをおおうことはできません。エフタはここに、凱旋の帰途において、彼の一人の娘を失ったのです。この事によって、彼の高ぶった心は低くされ、誇ろうとした心はへりくだされたことでしょう」。
・「エフタはこの時、真の栄誉なるものが、この世に無いことを悟ったことでしょう。この世において曇りのない歓喜、欠ける所のない成功、涙のない名誉なるものは無いのです。エフタは流浪の身から一躍して一国の首領と成った時に、償いたいと思っても償えない損害に遭遇したのです。彼はこの後六年間、イスラエルとギレアデを裁いたとあります(12章7節)。しかし、六年の栄華は、彼にとって決して悲哀のない栄華ではなかったのです。彼は終生、凱旋当日の悲劇を忘れなかったに相違ありません。アンモン人の王を睨んだ勇者の目は、たびたび悲しい犠牲の事を思い出して、熱い涙に浸されたに相違ありません。彼はたびたびギレアデの首領にならずに、トブの地で彼の一人の娘と共に隠れて、幸福な日を終生送りたかったと願ったでしょう」。
・「しかし、幸福は人生最大の獲物ではありません。義務は幸福に優ってさらに貴いのです。義務のゆえに私共は、たびたび幸福を捨てざるを得ません。そして義務のために私共が蒙る損失は、決して損失ではないのです。エフタは彼の幸福を犠牲にして、彼の国を救いました。そしてエフタの娘は彼女の生命を犠牲にして、彼女の父の心をきよめました。犠牲に犠牲、人生は犠牲です。犠牲なしには、人生は無意味です。幸福は人生の目的ではありません。犠牲こそ人生の華です。もしイスラエルを救うためにはエフタの苦痛が必要であり、そしてエフタ自身を救うためには彼の娘の死が必要であったということであれば(そして私は必要であったと信じます)、神の聖名は讃美すべきです。エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死にませんでした。神はそのようにして人と国とを救われるのです」(内村鑑三「士師エフタの話〜少女の犠牲」、明治45年6月10日)。
・東京大学・高橋哲哉氏は「戦前の靖国体制は戦争犠牲者を神として祀ることによって戦争を遂行した。戦後の経済成長も安全保障も「犠牲」の上に成り立っている。福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。もはや誰も「知らなかった」とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは本当に正当化できるのか」と問いかける(『犠牲のシステム 福島・沖縄』から)。
・高橋哲哉氏は著書の中で、内村鑑三に言及する。「祖国のための死をたたえることは、日本だけではなく、欧米の近代国民国家もそれをナショナリズムの核とし、戦争を繰り返してきた。キリスト教の犠牲の論理としては、内村鑑三が日露戦争中の1904年に出した「非戦主義者の戦死」や、旧約聖書エフタの物語の中で「犠牲に犠牲、人生は犠牲であります。犠牲なくして人生は無意味であります」と書いている」ことを批判した。キリスト教の犠牲の論理の中核は「贖罪信仰」であり、キリストの犠牲により救われるとの教えが内村やその他のキリスト者の犠牲礼賛を生んだと高橋氏は考えている。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-26 18:48:11 (182 ヒット)

1.アンモン人との戦いのために立てられたエフタ

・イスラエルは主の前に罪を犯し、主はイスラエルをアンモン人の支配下に放置される。
−士師記10:6-7「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された」。
・アンモン人はヨルダン川東岸のギレアドを侵略し、川を越えて西岸の地域をも侵し始めた。
−士師記10:8-9「敵は、その年から十八年間、イスラエルの人々、ヨルダンの向こう側ギレアドにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめした。アンモン人はヨルダンを渡って、ユダ、ベニヤミン、エフライムの家にも攻撃を仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた」。
・イスラエルは救いを求めるが、主は拒否される「お前たちの神に救いを求めよ」。しかし、イスラエルの悔い改めの真実であることを見られ、彼らを救うためにエフタを選ばれる。
−士師記10:15-18「イスラエルの人々は主に言った『私たちは罪を犯しました。私たちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日私たちを救い出してください』・・・アンモンの人々は集結してギレアドに陣を敷き、イスラエルの人々も集まってミツパに陣を敷いた。ギレアドの指導者たちは互いに言い合った。『アンモンの人々に戦いを仕掛けるのは誰だろうか。その人が、ギレアド全住民の頭となろう』」。
・与えられた指導者は仲間と徒党を組んで隊商を襲う夜盗集団の頭だった。しかし、その勇敢さは聞こえていたので、人々は彼に指揮官になるよう頼む。
−士師記11:4-6「アンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきた。アンモンの人々が戦争を仕掛けてきた時、ギレアドの長老たちはエフタをトブの地から連れ戻そうと、やって来た。彼らはエフタに言った。『帰って来てください。私たちの指揮官になっていただければ、私たちもアンモンの人々と戦えます。』」
・エフタはギレアド出身だったが、遊女の子であったので、故郷を追われてトブの地にいた。
−士師記11:1-3「ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。ギレアドの妻も男の子を産んだ。その妻の産んだ子供たちは成長すると、エフタに『あなたは、よその女の産んだ子だから、私たちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない』と言って、彼を追い出した。エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に、身を落ち着けた」。
・その故郷を追われたエフタに、追い出した故郷の人々が頭を下げてきた。神はそのエフタに不名誉の烙印を押したイスラエルの民を救うための使命を与えられた。
−士師記11:7-8「エフタはギレアドの長老たちに言った。『あなたたちは私をのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜ私のところに来るのですか。』ギレアドの長老たちは、エフタに言った。『だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。私たちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるなら、あなたに私たちギレアド全住民の、頭になっていただきます。』」

2.エフタの取引とその結果

・エフタは故郷の人々の懇願を受け入れ、アンモン人との戦いに臨んだ。
−士師記11:29「主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた」。
・しかしエフタは自信を持てない。そのため彼は「勝利の暁には家の者を生贄として捧げます」と誓願する。
−士師記11:30-31「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰る時、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします」。
・戦いはエフタの勝利になった。エフタが家に帰ってみると、彼を最初に迎えたのは、彼の娘であった。エフタは娘を生贄として捧げることになってしまった。彼はおそらく召使を捧げる心積もりであったのだろう。しかし、現れたのは娘であった。
−士師記11:34-35「エフタがミツパにある自分の家に帰った時、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った『ああ、私の娘よ。お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめる者になるとは。私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない』」。
・娘は悲しむが誓願の言葉を破ることは出来ない。彼女は「生贄」として捧げられ、死んで行った。
−士師記11:36-39「彼女は言った『あなたは主の御前で口を開かれました。私を、その口でおっしゃったとおりにしてください・・・二か月の間、私を自由にしてください。私は友達と共に出かけて山々をさまよい、私が処女のままであることを泣き悲しみたいのです』。二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓い通りに娘を捧げた」。

3.この物語をどう読むか

・アブラハムが息子イサクを捧げようとした時、主は備えの羊を送ってそれを止めさせられた(創世記22:10-15)。しかし、今回は何もされない。エフタは取引をしたからだ。主が求められるのは生贄でなく従順だったのに、エフタは生贄を約束した。
−ミカ6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。
・エフタが娘の助命を求めたら、主はおそらく許されたであろう。エフタは求めなかった。彼の不信仰が娘を殺した。
−ルカ11:11-13「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
・「もし助けてくれるなら・・・します」という祈りは不信仰なのだ。神は私たちに無条件で恵みを下さることを信じきれない祈りなのだ。
−イザヤ55:1「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。
・この物語は不幸な話である。基本は「神を信じ切れない人間の弱さ」にあるのであろう。
−福井誠「聖書一日一章」から「しばしば人は、状況が切迫していればいるほどに、『もし、あなたが助けてくださるなら…私は〜をします。』と神に取引を持ちかけてしまうことがある。だが、十字架の恵みにある私たちは、しっかり理解しなくてはいけない。神は取引なしに私たちを祝福してくださるお方であることを。神は恵み豊かであり、神の前にあっては、取引も誓いも不要である。恵み豊かな神に忠実であろう。」


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-19 19:09:53 (140 ヒット)

1.アブラハムの死とイサク、イシマエル

・アブラハムはサラの死後、再び妻をめとり、5人の子を生み、長寿を全うして死んだ。アブラハムはその全財産をイサクに残した。イサクこそ約束された後継者であった。
−創世記25:5-6「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」。
・アブラハムはイサクとイシマエルの二人の子により、サラと同じ墓に葬られた。彼の死を契機に、対立していた兄弟の和解が為されたと創世記は伝える。
―創世記25:7-10「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」。
・族長としての継承者はイサクであったが、神はイシマエルも祝福し、イシマエルも多くの民の祖となった。彼もまた神の恵みの中にあった。
―創世記25:12-17「サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。」
・古代の人々にとって長寿を全うし、子供たちに見送られて、先祖の列に加えられることが、「安らかな死」であった。現代の私たちは、病院での延命治療、孤独死、心のこもらない葬儀、死んだ後の墓の荒廃(無縁墓)に直面している。教会は共同体の成員に、「安らかな死と死後の慰めの継続」を与えることを一つの使命とする。
−ローマ14:7-9「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。

2.ヤコブとエソウの誕生

・イサクの妻リベカは20年の間、身ごもらなかった。アブラハムは神の約束を自分で果たそうとした(側女を入れることによって子を持つ)が、イサクは主に祈って約束を待った。イサクは祈りの人である。
―創世記25:21「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった」。
・リベカが身ごもったのは双子であった。二人は母親の胎内にいる時からお互いに押し合っていた。
―創世記25:22-23「ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、『これでは、私はどうなるのでしょう』と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた『二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる』」。
・弟ヤコブは兄エソウのかかと(アケブ)を持って生まれた。彼はヤコブ(押しのける者)と呼ばれた。
−創世記25:24-26「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった」。
・創世記はアブラハム物語(10−24章)の後、短いイサク物語(26章)を挟んで、ヤコブ物語(27−36章)を語り始める。ヤコブ物語の主題は「争い」である。ヤコブは長子権をめぐって兄エソウと争い、財産を巡って叔父ラバンと争い、ヤコブの二人の妻ラケルとレアは子供たちを巡って争い、ヤコブの12人の子供たちはそれぞれに争い、ヤコブは最後には神と争う。ヤコブは後に自分の生涯を「苦しみ多かった人生だった」と告白する。争いの生涯はたとえ勝利者になっても、そこに平安はなかった。
−創世記47:9「ヤコブはファラオに答えた『私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません』」。

3.争いの始まり

・ヤコブは成長して羊飼いになり、エソウは狩猟者になった。父イサクは長男エソウを偏愛し、母リベカは次男ヤコブを偏愛する。将来の争いの種がすでに芽生えていた。
−創世記25:27-28「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した」。
・ヤコブはエソウの長子権を、策略をもって奪い取る。
−創世記25:29-34「ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った『お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。私は疲れきっている』。彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った『まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください』。『ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい』とエサウが答えると、ヤコブは言った『では、今すぐ誓ってください』。エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」。
・長子権とは一族の長になる資格だ。その大事な長子権を食べ物のために売ったエソウを、へブル書は愚か者と述べている。
―ヘブル12:16-17「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです」。
・パウロは弟ヤコブが長子権を獲得したことの中に、神の選びが働いていると理解した。
−ローマ9:11-18「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです・・・このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです』」。
・ヤコブは決して誠実な人間ではない。その結果彼の人生は苦しみに満ちたものになる。しかし彼は約束を強く求め、与えられ、やがてイスラエル民族の祖となる。約束の継承者である教会も完全なものではなく、欠けの多いものである。しかし、その教会を用いて神は救済の業を為される。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-12 15:45:22 (168 ヒット)

1.イサクの花嫁探し

・アブラハムは年老い、死が近づいて来た。彼は死を前に息子イサクに嫁を取らせ、一族の未来を確かなものにしたいと願い、同じ信仰の者を嫁に求めた。カナンの民はハム族であり、アブラハムは同じ民族(セム族)の嫁をめとるために、メソポタミヤに行くことを信頼している僕に命令した。
―創世記24:1-4「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った『手を私の腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたは私の息子の嫁を私が今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように』」。
・律法は異邦人との結婚を禁止する。神を知らない民との婚姻は、信仰の継承を難しくする恐れがあった。アブラハムが息子に当地の娘との結婚を望まなかったのも、信仰的配慮のためであった。
―申命記7:3-4「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである」。
・アブラハムの命を受け、メソポタミヤに向かったのは、家令のエゼキエルであったと思われる(15:2)。彼は嫁を迎えるための条件を主人に確認する。
―創世記24:5-9「僕は尋ねた『もしかすると、その娘が私に従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか』。アブラハムは答えた『決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、私に誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることが出来るようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は私に対するこの誓いを解かれる』・・・ そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った」。

2.リベカの選び

・こうして召使はアブラハムの故郷、メソポタミヤに嫁を迎えるために旅立った。召使は嫁の選びを神に委ねた。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください」、その結果、アブラハムの親族ナホルの一族であるリベカに出会った。
―創世記24:10-14「僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った『主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって私は、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう』」。
・召使はリベカが神の定めて下さったイサクの嫁にふさわしいかを試す。
―創世記24:15-21「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた『水がめの水を少し飲ませてください』。すると彼女は『どうぞ、お飲みください』と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」。
・リベカこそイサクの嫁にふさわしいと見た召使は、彼女に贈り物として金の鼻輪と腕輪を与え、家に案内するように頼む。
−創世記24:22-25「らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ベカの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら『あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家には私どもが泊めていただける場所があるでしょうか』と尋ねた。すると彼女は『私は、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答え、更に続けて『私どもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます』と言った」。
・リベカの知らせで彼女の兄ラバンが来て、召使を家に案内し、召使は「リベカを主人の息子の嫁に迎えたい」と話し、リベカ同意の上に彼女の嫁入りが決まった。
−創世記24:58-61「リベカを呼んで『お前はこの人と一緒に行きますか』と尋ねた。『はい、参ります』と彼女は答えた。彼らは妹であるリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、リベカを祝福して言った『私たちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように』。リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、らくだに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った」。
・こうしてリベカはイサクの許に嫁ぎ、やがてヤコブとエソウを生む。神の約束はリベカを通して、ヤコブに継承されていく(旧約において神は「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と言われるようになる)。
−創世記24:62「イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り『野原を歩いて、私たちを迎えに来るあの人は誰ですか』と僕に尋ねた。『あの方が私の主人です』と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。

3.この物語から何を学ぶか

・アブラハムも召使もリベカも結婚を神の定めに従う出来事としてとらえている。人生が神の定めの許にあるとする生き方を私たちはここで学ぶべきであろう。神に従う生き方とはどのような生き方か。「夜と霧」を著し、アウシュビッツでの体験を記録に残したヴィクトール・フランクルは神の摂理について語る
-ヴィクトール・フランクルの言葉から「ウィーンにドイツ軍が入ってきてユダヤ人のシナゴーグ(礼拝堂)を片端からつぶしていった。ユダヤ人狩りだ。その時期に、たまたまアメリカに留学する話がまとまった。これ幸いに平和の国アメリカでしっかり勉強したいと思ったが、いざ出発の日が近づいてくると、どうにも気持ちがおさまらない。その時あるシナゴーグが爆破され、父親が爆破されたシナゴーグの破片を持ってきた。その破片は、十戒が納められている棺の、一から十までのナンバーの「五」という数字の石のかけらだった。十戒の五、「汝の父と母に従え」だ。その「五」という数字を見た時に、私は留学を断念して、どんなことがあっても父と母に従って収容所に行こう、という決心をした」。
・「その収容所で妻も子も両親も失くし、私だけが生き残った。父と母に従ったことによって、神の祝福が与えられたか。父も母も家族も皆、死んでしまった。しかし、すべてを失ったけれども、あの時、御言葉に従って、父と母に従い収容所に行く決断をしたことは決して間違っていなかったと思う。そのことを今、十戒の民の一人として誇りに思う」。
・結婚によって子が生まれ、子が約束を継承して行く。私たちにおいても、子の結婚の相手に信仰者を求める、ないしは信仰の誓いを求めることは信仰の継承という意味で、大事な事柄であろう。イエスも「結婚は神が定めたもの」と言われた。キリスト者は結婚をどのように考えるべきなのだろうか。
-マタイ19:3-6「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った。イエスはお答えになった『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
・現代人は三組に一組が離婚する。2012年度人口動態調査によれば、年間の結婚数は668千組、離婚数は235千組、離婚率は35.1%である。結婚が信仰の事柄であるとすれば、キリスト者は離婚についてどう考えるべきなのだろうか。カトリック教会はイエスの教えを倫理として受取り、離婚を禁止する。他方、プロテスタントは離婚を容認する。イギリスの詩人ジョン・ミルトンは熱心なピュ-リタンであり、彼は「結婚とは夫婦が神によって霊的にも身体的にも一心同体となる結びつきだ」だと理解し、そのような結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに離婚が認められるべきだと考えた。結婚も離婚もまた神の摂理の下にある。基本的にはカトリック的な生きかたに惹かれる。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-08-06 21:41:29 (120 ヒット)

1.サラの死

・サラは127歳で死んだ。サラの死をアブラハムは嘆いた。
−創世記23:1-2「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。
・アブラハムは、サラのためにカナンの地に墓地を購入しようとする。
―創世記23:4「私は、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」。
・アブラハムは自分を寄留者と表現する。信仰者はこの世では寄留者、旅人である。
―ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。

2.墓地の購入

・寄留者が地上で持つ唯一のもの、それが家族と自分のための墓地である。アブラハムはそれを所有したいと申し出たが、土地の民は譲渡ではなく貸与を申し出て、婉曲にそれを断った。彼らは異国人に土地を所有させたくないと考えている。
―創世記23:5-6「ヘトの人々はアブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あなたは、私どもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、私どもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。私どもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません』」。
・しかし、アブラハムはあくまでも譲ってほしいと交渉する。
―創世記23:7-9「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし、頼んだ『もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、私の願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください』」。
・所有者のエフロンはアブラハムに「差し上げる」という。贈与とは古代特有の売買の婉曲表現である。「差し上げると言ったのに、あくまでも買いたいと言うから、やむを得ず売却した」という形式をとるための交渉手続きであった。
―創世記23:10-15「エフロンはその時、ヘトの人々の間に座っていた。ヘトの人エフロンは、町の門の広場に集まって来たすべてのヘトの人々が聞いているところで、アブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。私の一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください』。アブラハムは国の民の前で挨拶をし、国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ『私の願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます』。エフロンはアブラハムに答えた『どうか、御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたと私の間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください』」。
・相手の言い値は銀400シュケル、法外な値段であった。エレミヤが故郷アナトトの畑を買った時の価格は銀17シュケルであった(エレミヤ32:9)のに比べ、相場の数十倍の金額である。銀1シュケルが11.4gであるので、400シュケルは銀4500gにもなる。しかし、アブラハムは価格交渉をせず、そのまま受け入れる。こうしてアブラハムは妻のための墓地を購入した。
−創世記23:16-18「アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった」。

3.墓地購入の意味

・これが約束の地でアブラハムに与えられた最初の土地であった。アブラハムは地上では寄留民であることを表明したが、この地上に死者のための墓地を購入した。アブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬された。
―創世記25:7-10「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」。
・アブラハムは満足して死んだと思われる。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るための一片の土地があれば良い。トルストイは「人にはどれほどの土地がいるのか」という民話を書いた。少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、その遺骸を葬るための身体の大きさの墓穴にすぎなかったという作品である。
−詩編49:11-13「人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。
・旧約の人々は復活を知らない。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨である。自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題であった。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、やがてアブラハムのひ孫になるヨセフも、臨終に際して「自分の遺骨を約束の地に葬る」ように命じて死ぬ。
−創世記50:24-25「ヨセフは兄弟たちに言った。『私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます』。それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、私の骨をここから携えて上ってください』」。
−出エジプト記13:19「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、私の骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」。


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