すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2008-12-31 16:55:54 (1416 ヒット)

篠崎キリスト教会では、年末年始はそれぞれの家庭でお過ごしいただくため、何の予定も入れません。12月31日(水曜日)の新約聖書の学び、1月1日(木曜日)の旧約聖書の学びもお休みです。1月は4日の主日礼拝から、新年の活動を始めます。

良いお年をお迎え下さい。

牧師 川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2008-12-24 09:29:33 (1561 ヒット)

飯嶋和一著『出星前夜』(小学館)を図書館から借りて読みました。江戸初期の島原の乱が舞台になっています。過酷な年貢取立てと異常気象に依る不作から、飢餓に面した島原の農民たちが、支配者の松倉藩に対処を求めますが、逆に謀反として弾圧され、自由を求めて立ち上がり、島原の乱が起こりました。主人公は二人います。共にキリシタンですが、その一人、庄屋・甚右衛門は藩政改革を求めて報いられず、自暴自棄の形で武器を取ります。もう一人の寿安も当初は武器を取りますが、やがて戦のむなしさを悟り、医者となって、傷ついた人の救済に走り回ります。甚右衛門は死によって人間の尊厳を守ろうとし、寿安は命を繋ぐことで人間の生を守ろうとします。

甚右衛門はキリシタンとして、「思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない」と言いますが、やがては堪忍の緒が切れ、武力に訴えます。他方、寿安は島原の乱で仲間の村人が全員死んだ後、復讐を決意して幕府上使を暗殺しようとしますが、治療を求めてきた人の声に我に帰り、刀を捨てて病人の元に急ぎます。

パウロは悲しみには、人に悔い改めを迫る「御心に適った悲しみ」と、死に至る「世の悲しみ」があると言います。コリント人への手紙の中で彼は言います「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(競灰螢鵐7:10)。私たちの人生の中で悲しみは、次から次へと襲ってきます。それを神が与えて下さったと受け止める時、新しい道が開かれ、それを不幸なことだと嘆く時、悲しみは私たちを押しつぶしてしまいます。悲しみから逃げて、それを他者や社会のせいにした時、その悲しみは人を殺人者にもするのです。二つの悲しみがあるのではなく、私たちが悲しみをどのように受け止めるかによって、悲しみの内容が変わってくるのです。今回、「出星前夜」を読みながらそのことを痛感しました。


投稿者 : admin 投稿日時: 2008-12-14 14:03:49 (1582 ヒット)

篠崎キリスト教会では今年のクリスマスを次の日程でお祝いします。

2008年12月20日(土)19時半
クリスマスイブ礼拝  キャンドルサービスをおこないます。

2008年12月21日(日)11時
クリスマス主日礼拝 礼拝後愛餐の時を持ちます。

2008年12月23日(火)10時
子どもクリスマス 讃美をしてゲームをします。


投稿者 : admin 投稿日時: 2008-10-18 09:21:05 (1327 ヒット)

毎月、第三土曜日午後4時から、葛西集会が開かれています(南葛西1-2-18、喫茶ロビン)。この集会では、短い奨励が話された後で、コーヒーを飲みながら、その内容についての話し合いの時を持っています。

テーマはその時々で変わり、今月は安息日です。安息日=主の日=礼拝の日であり、クリスチャンは礼拝を守りたいと思いますが、いろいろな用事で守れない時もあります。例えば

・子供の運動会があるときは礼拝を休んでいいのか
・夫が病気で寝込んでいる時はどうするのか
・会社に日曜出勤しなければいけない時はどうするのか

決まった答えはありません。それぞれが信仰に基づいて決定する問題です。しかし、聖書はどう教えるかを知っている必要はあります。そのためには「安息日」とは何かを考える機会として、このテーマを奨励に選びました。

これからも毎月開きますので、よろしければご参加下さい。

篠崎キリスト教会 川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2008-10-08 09:05:03 (1314 ヒット)

篠崎キリスト教会では、水曜日祈祷会で学んできたルカ福音書の学びを今日終わります。ルカ最後の学びは24章後半でしたが、改めて復活について、どう理解すべきか、考え込みました。以下は現時点での私の理解です。

復活を多くの聖書学者たちは、「十字架の神話的象徴」、あるいは「弟子たちの宗教体験」と考えます。聖書学者ブルトマンは「イエスの十字架の上での刑死は史実だが、復活はその史実としてのイエスの十字架の意味を、当時の神話的象徴で表現したものである」といい、作家の遠藤周作は「復活は歴史的事実であるというよりも、弟子たちの宗教体験と考えるべきだ」といいます。

復活は聖書の中心的使信であり、多くの歴史的事柄を含んでいます。「隠れていた弟子たちが復活のイエスに出会って、「主はよみがえられた」と宣教を始めたのは、歴史的事実」です。また「初代教会が、ユダヤ教安息日の土曜日ではなく、イエス復活日の日曜日に聖日礼拝を始めたことは歴史的事実」です。更には「教会の迫害者であったパウロが、復活のイエスに出会って伝道者に変えられたことも歴史的事実」です。

他方、復活は歴史的な検証が出来ない面があるのも事実です。「十二弟子が復活のキリストに出会ったことは学問的に検証できる事柄」でないことは事実でしょう。「パウロの復活のイエスとの出会いは他の人には見えない出来事」でした。復活のイエスに出会ったのは弟子たちだけであり、信仰なしには出会いがなかった。逆に言うと、歴史的な事柄と言いにくいことを意味します。ブルトマンや遠藤の理解もそこにあります。

両者を総合する時、復活とは人格的なイエスとの出会いであり、それを生物学的なイエスとの出会いと考える故に混乱が生じているのではないかと思えます。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスは生物学的命、ゾーエーは人格的な命です。復活はゾーエー(人格的な命)との出会いであり、ビオス(生物学的命)との出会いと考えてはいけないのではないかと思いました。

いずれにせよ、復活をどのように理解するかは、私たちの信仰の根幹に関わってきます。もし私たちが復活を受入れることが出来れば、私たちは他者と共存する生き方、「人を生かす人生」、「人を生む人生」を歩むことが出来ます。この世で勝つ必要はなくなる、何故なら死で人生は終わらないからです。

水曜祈祷会ではルカ福音書の学びを終え、次週から「マルコ福音書の学び」に入ります。このマルコが終われば、新約聖書の1章づつの学びは完了します。

篠崎キリスト教会 牧師 川口通治


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