すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2009-04-04 17:19:23 (1780 ヒット)

篠崎キリスト教会では今年のイースターを次の日程でお祝いします。よろしければご参加下さい。

2009年4月10日(金)19時半
受難日礼拝  キャンドルサービスをおこないます。

2009年4月11日(土)10時
子どもイースター  エッグハンテイングをします。

2009年4月12日(日)11時
イースター主日礼拝  礼拝の中で姉妹のバプテスマ式を行い、礼拝後愛餐の時を持ちます。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-03-25 00:00:39 (1466 ヒット)

佐藤賢一「王妃の離婚」を読みました。小説の題材になっているのは、1498年に提起された、フランス王ルイ12世の王妃ジャンヌに対して離婚を求める訴えを起こした事件で、小説は王妃側の弁護人になった男性を主人公にして展開します。

中世において離婚は禁止されていました。それでも離婚をするためにはローマ教皇庁の特別の許可が必要で、教皇庁の開く裁判所において、「婚姻無効」が認められた時に始めて、離婚が認められました。フランス王が訴訟まで起こしてまで離婚をしようとしたのは、当時の世界では、嫡出男子(正式に結婚した夫婦間の子)のみが王位継承権を持ち、庶子は認められなかったからです。つまり子を産まない王妃と結婚している限り、ルイ12世は王位を自分の子に継がせることが出来ないという事情がありました。そのため、ルイ12世は、王妃ジャンヌとの結婚は強制されたものであり、自分は王妃との性的交わりは持っていないから、この結婚は無効であると訴えでたのです。

これは結婚を、「聖なるもの」とする聖書の伝統の中で生きていた中世ならではの出来事です。聖書では、結婚は神のつくられた制度であり、神が人間社会の基礎となるべきものとして制定されたものであるとします(「人が,ひとりでいるのは良くない.わたしは彼のために,彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世2:18)、 「男はその父母を離れ,妻と結び合い,ふたりは一体となる」(創世2:24))。結婚は神の摂理の中にあるから、人がそれを離してはいけないとされたのです。

しかし、実際の社会生活の中では、離婚が一切認められないといろいろな問題が出ます。そのために、聖書も一定の場合は離婚を認めています。それが旧約聖書・申命記24章の規定です「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。

旧約聖書を生活の基盤として生きていたユダヤ社会では、この規定の意味をめぐって解釈論争が起こりました。ヒレル学派は「“妻に何か恥ずべきことを見いだし”という離婚理由について、食物を焦がすことまで含められる」と広く解釈し、他方シャンマイ学派は「妻の不品行だけに限るべきだ」と厳格に解釈していました。マルコ福音書10章の有名な離婚論争はこの申命記の解釈をめぐって為されています。イエスは次のように述べて、聖書の言葉に形だけ従えば良いとする人間の勝手を戒められています
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」

「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」、イエスの言葉は中世カトリック世界では絶対の基準となり、教会は「信徒の婚姻関係は神の前で結ぶものであり、それを解くこと、すなわち離婚はできない」と教えてきました。しかし、それでは困る場合が出てくるので、離婚=表面上は婚姻の無効を一定の条件の下で認めるようになります。

どのような場合に結婚は無効とされるのかをめぐって、教会法が定められ、その法規の解釈をめぐって様々の意見が出て、この小説の背景を規定します。これは笑い事ではなく、実際にイギリスのヘンリー8世の離婚を巡っては、それを容認しないカトリック教会とイギリス王が争い、その結果、イギリスがカトリックから離脱すると言う宗教改革まで起きているのです。自分の子に王位を継がせたいと言うヘンリー8世のわがままが世界史を変えていくような出来事を引き起こしました。

小説を読みながら思いましたことは、ユダヤ教の離婚論議と、カトリック教会の離婚論議がそっくりだと言うことです。つまり、人間は神の言葉を自分の都合の良いように解釈し、神の御心を生きることを願ってはいないということです。少なくとも信仰が宗教(制度)になり、その宗教が社会の多数派になるところでは、そのような堕落が必然的に起きます。その点、日本では、幸か不幸か、キリスト教徒は少数派ですので、堕落が起きにくい。

私たちは少数派としての役割を生きたいと考えています。地の塩としての生き方です。そのためには、何が神の御心であり、何が違うのかを見極める知恵が必要です。その知恵は聖書の中にあります。ですから私たちの教会では、「聖書に聞く」ことを教会形成の基本にしています。水曜日の新約聖書の学び、木曜日の旧約聖書の学び、そして主日の説教を通して、ひたすら御言葉に聞くことに徹したいと願っています。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-02-19 20:39:10 (1528 ヒット)

毎週木曜日の祈祷会では、イザヤ書を少しずつ学んでいます。旧約、特にイザヤ書は難しい書だと思います。すべてが預言者イザヤの言葉ではなく、編集されていますから、背景の歴史がわからないと解釈がまるで異なってきます。今日、読んだのはイザヤ30章ですが、その背景にはアッシリア戦争があります。

前705年、ユダはアッシリア王サルゴン二世の死を契機に、エジプトの支援を得てアッシリアに反乱を起こします。それに対してアッシリアはパレスチナに大軍を率いて侵攻し、ユダ王ヒゼキヤはエジプトの軍事介入を求めます。しかしイザヤは主に頼らずにエジプトの軍事力に頼る愚かさを力説します。彼は語ります。

イザヤ30:1-3「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが、私によるのではない。盟約の杯を交わすが、私の霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。彼らは私の託宣を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオの砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる。しかし、ファラオの砦はお前たちの恥となり、エジプトの陰に身を寄せることは辱めとなる」。

イザヤの預言は歴史に対する深い洞察から来ます。他国の武力に頼った結果、ユダやイスラエルは苦難を嘗めてきました。しかし民はイザヤの言葉を聞かず、「裁きではなく慰めを語れ」と求めます。人は耳に痛い言葉は聞きたくないのです。しかしイザヤは語り続けます。語るべき時には語らねばなりません。それが預言者なのです。

現代も同じです。語るべき時に語った一つの見本が、エルサレム賞受賞時の村上春樹さんの言葉です。彼は授賞式にエルサレムに行き、その受賞スピーチで、イスラエルのガザ攻撃を批判する発言をしました。まるでイザヤのようです。

以下、発言要旨を掲載します。
*村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ(2009年2月15日)〜壁と卵

 そう、僕はイスラエルにやってきました。・・・本日、僕は「真実」を話すつもりです。・・・今回のエルサレム賞受賞について打診された時、僕は「その賞を受け取るべきではない」と、多くの警告を受けました。なぜならガザは紛争の最中にあったからです。「いまイスラエルに行くことは適切なのだろうか?」、「僕はどちらか片方に肩入れするのだろうか?」「その賞を受け取ることは、圧倒的な軍事力を行使する政策を是認したことにならないか」と自問しました。
 
僕はそれらを考慮し、その上で、ここに来ることに決めました。・・・小説家は自分の目で見たこと、自分の手で触ったことしか信じることができません。ですから僕は、何も語らないでいるよりも、自分で見て、ここで語ることを選びました。そしていま、僕はここに来て語っています。僕は立ちすくんでいるよりも、ここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙よりも語ることを選びとりました。そのうえで、僕はひとつの、とても個人的なメッセージを届けるためにここに来ています。これは僕が「フィクション」をつづるさいにいつも心がけていることであり、紙切れに書きつけて壁に貼る、というわけではないけど、僕の心の「壁」には刻み込まれていることです。

それは、もしその「壁」が――その壁にぶつけられる「卵」が壊れてしまうほど――固く、高いものであるならば、どんなに「壁」が正しくとも、どれほど「卵」が間違えていたとしても、僕は卵のそばに立つでしょう。なぜか? 僕たちひとりひとりが、その「卵」だから、かけがえのない魂を内包した、壊れやすい「卵」だからです。僕たちはいま、それぞれが「壁」に向かい合っています。その高い壁は、「システム」です。 僕が小説を書くさい、たったひとつの目的しか持っていません。それは個々人のかけがえのない神性を引き出すことです。その個性を満足させるために、そして僕たちが「システム」に巻き込まれることを防ぐために。だからこそ僕は、人々に微笑みと涙を与えるべく、人生と愛の物語を書きつづります。 

 僕たちはみな、人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。「壁」はあまりに高く、暗く、冷たすぎて、それに立ち向かう僕たちに、望みはありません。(だからこそ)「壁」と戦うために、僕たちの魂は、暖かさと強さを持つべくお互いに手を取り合わなくてはなりません。僕たちは僕たちの作った「システム」に操られてはいけません――そのように僕たちを形作ってはいけません。それはまさに、僕たちが作った「システム」なのですから。 

文責:川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-01-23 11:05:21 (1311 ヒット)

教会では毎週水曜日に新約聖書の学びをしていますが、今週の箇所はマルコ7章後半でした。イエスがツロを去り、シドンを経て、デカポリスの地に来られ、そこに人々が聾唖の人を連れてきて、癒してくださるように願ったところです。マルコは書きます「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(マルコ7:32-35)。

共観福音書には115の癒しの記事があるそうです。イエスの活動の中心が癒しだったことは事実でしょう。しかし後の教会はイエスの癒しを軽視します。「エファタ」と呪文を唱えれば聾が治る、そのような魔術的な出来事を受入れることは難しいからです。私たちが「癒し」を奇跡という側面から見る時、それは理性的には受入れがたいもの、多くの人々は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒17:32)として、教会から離れていく出来事になります。

しかし癒しの社会的側面に注目した時、それは大切なメッセージを持ちます。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々であり、その人々に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されます(マルコ1:40-45)。また一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、当時の禁忌に逆らって「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました(マルコ3:1-6)。このことが示しますことは、イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有されということです。

マタイはそれを次のように表現します「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)。悲しみや苦しみの絶えないこの社会の中で、痛みの共有としての癒しを行っていくことこそ、今の教会に求められているのでは無いでしょうか。

*日本バプテスト連盟宣教研究所の松見享子さんの書かれた「今、牧会の課題として『死にゆく方々へのケア』を考える 〜聖書の中の『スピリチュアルペイン』」がこの問題を深く分析していますので、ご参照下さい。http://senken-bap.com/modules/letter/index.php?page=article&storyid=29

篠崎キリスト教会 川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-01-21 20:47:35 (1261 ヒット)

教会では今、木曜日・聖書の学び会でイザヤ書を読んでいます。今週はイザヤ27章ですが、イザヤ24-27章はイザヤ黙示録と呼ばれ、イザヤの後継者たちの黙示です。イザヤ27:2-6にある「主のぶどう畑の歌」は、イザヤ5:1-7にある「実を結ばないブドウ畑」を主が回復してくださると夢見る歌で、明らかにイザヤ5:1-7の再解釈です。

イザヤの預言はアッシリアによる支配、バビロン捕囚の困難を乗り越えて継承されてきました。イスラエルは今またシリアの支配下に置かれている(と思われますが)、その中で人々は継承されてきたイザヤ書を再解釈し、自分たちへのメッセージを聞こうとしています。それがイザヤ24-27章で、最後にイザヤ書に編集されて、聖書の一部となります。ここに主の御手の働きがあるように思います。

同じ作業を行ったのが矢内原忠雄です。1931年満州を占領した日本は、1937年7月には盧溝橋事件を起こして、中国本土への侵略を始めました。この事件を受けて矢内原は「国家の理想」を書き、雑誌に発表します(1937年、昭和12年)。そのために彼は東大教授の職を追われましたが、この論文もアッシリアを描きながら日本を批判する黙示録の一つです。
*矢内原忠雄・国家の理想から「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」。

私たちも同じ作業を聖書の釈義で行っています。2000年前に書かれた福音書や手紙を読みながら、現代の出来事の意味を尋ねています。「釈義から説教へ」、イザヤ黙示録の著者が行った作業を私たちも行っています。毎週教会で為される説教も、御言葉の再解釈を通して、現代の私たちに必要な使信を届ける黙示の働きではないかと思います。

篠崎キリスト教会 川口通治


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