すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-06-19 16:48:13 (1852 ヒット)

今、木曜日の祈祷会でエレミヤ書を読んでいますが、今週の箇所はエレミヤ29章でした。このエレミヤ29章には個人的な思い出があります。以下は前に説教でお話した一部をここに再録させていたただきます。

ある時、聖書の言葉がその人間を捕え、一生を変えてしまう出来事になることが起きる。私にとってエレミヤ29章はそのような言葉である。エレミヤ29章は、バビロンで捕囚になっている人々へ書かれたエレミヤの手紙だ。イスラエルは前597年にバビロニアに国を占領され、主だった人々は捕囚として首都バビロンに連行された。王や貴族、祭司、軍人、技術者等1万人に上る人が捕囚になったと列王記下24章は伝えている。捕囚から4年たった前594年頃にこの手紙は書かれたと言われている。当時、捕囚をめぐっていろいろの動きが出ていた。故国エレサレムにおいては、バビロニアの支配から逃れるためにエジプトに頼って国を救おうという動きが活発化していた。他方、捕囚地バビロンでは、早期に帰還できるのではないかという楽観論と、前途に希望はないという悲観論の双方が対立していた。

その人々に対しエレミヤは手紙を書いた「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(29:5-6)。捕囚はあなた方の罪のために主が与えた鞭である。それは2年や3年で終らず、70年続く。だからその地に家を建て、園に果樹を植えて自立できるようにせよ。また、帰還はあなた方の子や孫の時代になるから、妻をめとり、子を生み、その子たちにも子を生ませ、民を増やして帰還に備えよと。

状況を考えればこの手紙は驚くべき内容を伝えている。捕囚が70年続くということは、手紙の受信人たちは生きて故郷に帰る事はないと言うことだ。人々はそれを呪いと受け取るだろう。捕囚地の人々は、ある者は速やかな祖国帰還を熱狂的に確信し、エルサレムに残った人々と反バビロニアの画策をしていた。他の者は前途を諦め、何の気力もなくなり、絶望的になっていた。その人々にエレミヤは勧める。自分たちの置かれた状況を冷静に見つめよ。あなたたちはすぐには帰れないから、その地で日常生活を営め。絶望や熱狂に陥って、日常与えられた仕事を着実に果たしえないようでは、正しく神を信じているとは言えないではないか。しかしまた捕囚は永遠に続くものではなく、試練の時が終れば祖国に帰ることを主は許される。故にその地で子を設け、子供たちにあなた方の信仰を伝えよ。

私がこの言葉を自分への言葉と受取ったのは、1998年11月のことである。私は大学を卒業して東京に本社を持つ生命保険会社に入社し、大半を東京本社で過ごしてきた。1998年3月、私は福岡支社駐在財務課長への転勤を言い渡された。その当時は本社の財務部で仕事をしており、部下も20人いた。本社の課長から支社駐在への転任は異例であり、明らかな左遷であった。知らされた時は目の前が真っ暗になったことを覚えている。また、子供たちの学校の関係で家族は動けないため、単身で福岡に転任した。赴任後、支社の仕事には身が入らず、東京本社への早期帰還だけを考えていた。教会は福岡教会に行き始めたがなじめず、籍は前の教会に置いたままであった。神学校は東京バプテスト神学校で2年を終えていたが、九州バプテスト神学校に転校した。勉強に熱が入らなかった。福岡は仮の地、やがて東京に帰る時までの短期滞在の地と考えていた。

その時、教会学校の学びを通して、エレミヤ29章に出会った。この言葉を読んだ時、これは今の自分に語られた主の言葉だと思った。東京に帰ることのみ考えて、現在の仕事や学びに上の空だった私に対して、「その地に根を下ろせ、訓練し育てるためにあなたを福岡に送った」と主は言われた。この言葉に接して福岡での生活が変わった。仕事は九州管内企業への財務営業であったが、取引のない地場企業への接触を活発に始めた。教会も福岡教会に転籍し、成人科の教師として毎週の学びのためのテキストを作り始め、大勢の人が出席し始めた。神学校の学びも本格化し、東京では持てなかったような先生たちとの個人的交わりも持てるようになった。福岡に行って最初の1年間は地獄だった。エレミヤ29章に出会った残りの1年間は充実した時であった。そして2年の時が過ぎ、神学校を卒業するという時に、会社がリストラ策として希望退職者を募り始めた。その時まで家族の生活や子供の学資を考えれば牧師になることは考えられなかった。しかし、退職金によって、子供の学資と当面の生活費の目処がつき、会社を辞め、牧師になった。災いとしか思えなかった福岡への転任と会社の業績悪化が牧師になる道を開き、エレミヤ29章がその道を導いた。

エレミヤの手紙は当時の捕囚民には慰めにならなかった。捕囚民はエレミヤの勧めを無視し、祖国に残った人たちと手を組んで、バビロニアに反乱を起こし、その結果、前587年にはエレサレムの町は再度占領され、イスラエルは滅ぼされた。捕囚民が帰還を許されたのはバビロニアが滅ぼされた前538年、最初の捕囚から60年後のことだ。国を滅ぼされ、帰還の道を断たれた民は、神は何故イスラエルを滅ぼされたのかを求めて父祖からの伝承を集め、編集していった。創世記や出エジプト記等のモーセ五書が最終的に編集されたのは、この捕囚期であると言われている。イスラエルの民は捕囚により、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする民族共同体から、神の言葉、聖書を中心にする信仰共同体に変えられて行った。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-05-12 09:42:37 (1963 ヒット)

2010年4月4日(日) にNHKで放映された「アフリカンドリーム “悲劇の国”が奇跡を起こす」を見た。ルワンダでは、民族間の対立で80万人が殺されるという大虐殺が起きたが、それから16年、今、その国は驚異的な復興をとげ「アフリカの奇跡」と呼ばれるようになった。原動力は「ディアスポラ(離散者)」といわれる人たちだ。半世紀前の独立前後から迫害を逃れて世界各地に散らばったルワンダ人はおよそ200万人にのぼるが、今「祖国を復興させたい」とルワンダに巨額の投資を行うとともに、次々と帰還を始めている。
            
ルワンダは、第一次世界大戦後ベルギーの委任統治下に置かれ、ルワンダ人は「ツチ族」と「フツ族」に分けられ、少数派のツチ族がエリート教育を受けられるなど優遇されたことがきっかけで、次第に民族紛争へと発展していった。そして世界中を震撼させた「ルワンダの大虐殺」が起こる。

ところがその事件を契機に、迫害を逃れて世界中に散らばったルワンダ人(主にツチ族、ディアスポラ=離散者と呼ばれている)が、次々と帰還を始めている。彼らの間にはまだ大虐殺の記憶、民族間の対立が生々しく残っている。首都キガリがツチ族のディアスポラによって着々と復興していくのに対し、フツ族で避難民だった者たちが戻った地方は土地も仕事もなく、不満が溢れている。そのような地方では今でもツチ族が殺されることがあるらしい。

フツ族に家族を殺されたツチ族のディアスポラの一人が、フツ族の住む地方でコーヒー豆を作るビジネスを提案するが、フツ族になかなか理解してもらえない。土地を取られるとか騙そうとしているとか、言われる。それでも彼は、殺された母親が言った「同じルワンダ人なのだから、いつかは理解し合える」という言葉を信じて説得を続ける。利益を半分ずつにすると書かれた契約書を見せて、やっと商談は成立した。ツチ族のディアスポラは国外で勉強してきたエリートであり、国外で仕事を持ち、暮らしていくことは可能なのに、彼らは祖国に戻り、時間をかけてフツ族との間の溝を埋めようと努力している。

その彼らを見て、イスラエルの国家滅亡、指導者たちのバビロンへの捕囚、その彼らの帰還によるイスラエル再興の出来事を思い出した。紀元前597年、イスラエルの首都エルサレムはバビロンに制圧され、エホヤキン王とその家族、貴族、軍人、祭司等の指導者たちは捕囚としてバビロンに連れ行かれ、バビロン軍はエヒヤキンの叔父ゼデキヤを王に任命して帰国する(第一次バビロン捕囚)。

そのゼデキヤ王治世下のある日、エレミヤは神殿の前に二つのいちじくのかごが置かれている幻を見る。一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。主は幻の意味をエレミヤに示される。良いいちじくとは先にバビロンの地に囚われていった人々であり、彼らはその地で悔い改め、変えられ、このユダの地に戻ってくるであろうと。
−エレミヤ24:4-7「そのとき、主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、私はこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そして私は、私が主であることを知る心を彼らに与える。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは真心をもって私のもとへ帰って来る』」。

他方、悪いいちじくとは、この地に残されたゼデキヤ以下の指導者たちであった。彼らは当面の危機が去ると、楽観的になり慢心し、反バビロンの画策を始める。彼らはまだ悔い改めようとはしなかった。常識的には、バビロンに囚われていった人々は神の裁きを受け、本国に残された者たちこそ神に選ばれた者と考えるだろう。しかし、自分たちが神に選ばれたと思う時、人は慢心し、神の御心を思おうとしない。選ばれる人々は、神の裁きの前に打たれ、砕かれ、そのどん底から神の救いを求める者だ。神は求める者には答えられ、彼らは悔い改め、救われる。捕囚で散らされた人々こそ国を再建するとの預言をエレミヤは与えられる。
−エレミヤ29:12-14「そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう、と主は言われる。私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」。

この捕囚民のエルサレム帰還、国の再興の出来事が今、ルワンダで起きている。神は生きておられる、そして今ルワンダに神の御手が働いていると思った。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-03-19 23:50:42 (1276 ヒット)

3月17日の祈祷会で詩篇39編を読みました。39編は死の床にある病者の祈りです。詩人は歌います「教えてください、主よ、私の行く末を、私の生涯はどれ程のものか」。「あとどれくらい生きられるのでしょうか」と詩人は問います。人は死ぬとわかっていても、その死を受け入れることは難しいのです。

ZARDの坂井泉水さんが2007年2月に慶応病院で事故死しました。彼女は子宮けい癌の末期で肺に転移し、抗癌剤治療中だったと報道されています。その彼女が「いつかは」という曲を書いています。この時点で死を意識していたかどうかは分かりませんが、詩の中で「あとどれくらい生きられるのか」と歌っています。彼女の死を考えながら、今この曲を聴くとせつななくなります。次のような詩です。「静かな夕暮れに 残された日々 夢を見させて どんなに時間を 縛ってもほどける あとどれくらい 生きられるのか いつかは情熱も 記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」。

死を前にすれば、だれもが人生の空しさを思わざるを得ません。それは信仰者も同じです。日本基督教団西方町教会の牧師をしていた鈴木正久氏も死が避けられないことを知り、病床日記に書きます「こんなことが起こりました。つまり今まで考えていた「あす」がなくなってしまったわけです。「あす」がないと「きょう」というものがなくなります。そして急になにやらその晩は二時間ほどですけれども暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何かまっ黒いものがこうのしかかってくるようなというのか、そういう気持ちでした」。非常に正直な告白です。

しかし、彼はピリピ書を通してパウロの死を超えた希望に触れ、勇気づけられます。「ピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。

死を超えた明日、その希望を持つことができたのならば、仮に私たちがどのような死に方をしても、私たちの人生は意味あるものになるような気がします。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-03-14 16:50:10 (2894 ヒット)

3月14日の礼拝において、最近読みました「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所」を皆さんに紹介しました。第二次世界大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は、インド侵入のためビルマへの陸上補給路を必要とし、連合軍捕虜と現地人労務者を使って、死の鉄道といわれた泰緬鉄道を建設します。18ヵ月の突貫工事で400キロの鉄道が敷設されるまでに、1万6千人の捕虜と6万人の労務者の生命が犠牲となりました。クワイ河流域に設けられた収容所の連合軍捕虜の死亡率は30%近くに上りました。著者アーネスト・ゴードンは書いています「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」(122P)、まさに「死の谷」の収容所生活を著者は送ったのです。

著者は20代のイギリス人将校でしたが、収容所生活の中で、マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられます。死体置き場の横に設置された病舎の、粗末な竹のベッドに横たわり、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始めます。そこで彼が見出したのは「生きて働いておられる神」でした。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた・・・私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」(176P)。そして彼自身も仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、竹やぶの中で聖書を共に読み、広場で主日礼拝を始めます。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、その死を看取ります。やがて無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が毎晩開かれようになり、収容所に賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼はその時、思います「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。

彼は1945年の日本敗戦によって3年半いた収容所から解放され、故国イギリスに戻って神学校に入り、牧師になります。彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。神はキリストを通してそれを背負っておられる・・・ご自分の子どもである私たち人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。たとえそれが私たちすべての者を破滅させるかに思える苦痛であっても、その苦痛を、いや死そのものすら、分け持って下さっている。神は私たちの死の家の中に入ってこられる。私たちをそこから外へと導きだすために」(383P)。

しかしクワイ河流域にある全ての収容所でゴードンの経験したような命のよみがえりが起こったわけではありません。同じイギリス人の描いた「クワイ河捕虜収容所」(レオ・ローリングス著)の副題は「地獄を見たイギリス兵の記録」です。他方、ゴードンは「神の国とはここの収容所のことではないか」と記述しています。ゴードンとローリングスを分けたものは何でしょうか。「悔い改め」です。他者を無条件で赦し、迎え入れる時、死の谷の収容所で起きたような、奇跡が起こります。それに対して、自分たちは不当に差別されている、日本軍は自分たちを適切に待遇しなかったと恨む時、そこは地獄になっていきます。天国と地獄を分けるのは、私たちいかんではないかと思います


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-01-15 13:53:15 (2242 ヒット)

2010年1月10日の礼拝招詞でイザヤ42:1-3を読みました「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。イエスの受洗時に天から響いた声です。イエスは、自らが罪人のために身代わりとして死ぬことによって罪の赦しを人々にもたらしました。このようなイエスに私たちは出会い、新しい者となりました。その新しい者として生き方はイエスに従う生き方は、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」、そして「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」生きる生きかたです。

その生きかたを示すものとして、マザー・テレサの言葉を当日の礼拝でご紹介しました「人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。それでも彼らを愛しなさい。もし、良いことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでも良い行いをしなさい。もし、あなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。あなたがした良い行いは、明日には忘れられます。それでも良い行いをしなさい。誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。それでも誠実で親しみやすくありなさい。あなたが歳月を費やして建てた物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも建てなさい。ほんとうに助けが必要な人々を助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。持っている一番良いものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。それでも一番良いものを分け与えなさい」。

「良いことをしても必ずしも報われない、むしろ良いことをして非難さることが多い」、その例として、ケビン・カーターの出来事をその週の祈祷会で皆さんと考えました。ケビン・カーターは南アフリカ出身のカメラマンで、1993年3月、内戦と飢餓に苦しむアフリカ・スーダン南部のアヨド村を取材していた時、「飢えでしゃがみこみ、両手で目を覆う少女の背後にいまにも襲おうとする1羽のハゲワシ」を見ました。彼は言います「国連の食糧配給センタ−から500メ−トル離れたところで一人の少女に出会った。うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいて行った。 その瞬間、フォト・ジャ−ナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス−ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ−ンだと感じた」。この写真は『ニューヨーク・タイムズ』(1993・3・26)に掲載され、1994度のピュリッツァー賞を受賞しました。

しかし、この写真が『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されて以来、彼には非難の声が殺到します。「なぜ、カメラマンは少女を助けなかったのか」と。受賞から1ヶ月たった94年7月27日、ヨハネスブルグ郊外で彼は追い詰められて自殺します。彼はスーダンの悲劇を伝えるために、この写真を撮りました。後に彼は語っています「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャ−ナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、あんたんたる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」。

裁くのは神だけであるのに、いつの間にか人が神のようになって他者を裁きます。その裁きは「声高であって、傷ついた葦を折り、暗くなってゆく灯心を消す」ような裁きです。イエスの裁きは決してそのようなものではないことを、今一度想起したいと思います。


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