すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-11-19 08:56:04 (1175 ヒット)

(2010年11月15日放送のFEBC「この地で牧師として生きる」を聞かれてのお便り)

08年からFEBCを聴いています。しかし牧師さんのエピソードはほとんど聞いていません。自分とは異人種であり、共感するところはないであろうと考えるからです。若い時からの友人には牧師になっている方も数人おります。前置きが長くなりました。その普段聞かない牧師さんの話を聞いて少し驚きました。私は、84年からシドニーに渡り、地元政府やら鉱山開発関係の日系法人に勤務しておりました。東京火災海上、明治生命や朝日生命(社宅が拙宅近くにありましたDavidson)の方にもお会いした記憶があります。

あの当時、貴兄もおられたのですね。お年も私に近いのですね。豪州人の方の教会はまだ小人数で継続しているようですが、その教会に一回だけ行ったような記憶があります。保険会社の方ですとお会いしたかも知れませんね。私は、高校時代内村鑑三の著作にひかれ、大学時代に洗礼を受け熱心な活動をしていた時もありました(夢のようです)。しかし、豪州に行ってからは、聖書はたまに読んでも、妻側のカトリック教会にたまに出席しておりました。

99年に鉱山開発JV事業の心労のためか、健康を崩し、会社も現地で退職し、療養と無職で苦しみ、2000年から米企業の単身日本駐在やら何やらここまで生き延びて来ています。友人の企業の上場を手伝ったりしていましたが、08年豪州に帰りました。しかし、友人達もすっかりいなくなり、かつ仕事もなく、最後の砦として聖書や教会に行っておったりしましたが、結局仕事なしでブラブラも出来ず、かつ聖書学校に通う柄でもないので、友人の紹介で、上海郊外の小工場の社長兼工場長をしています。

FEBCは08年からオーバーに言うと心の支えになって来ており、キリストと私をつなぐブドウの蔓のような存在です。若い頃から キリスト教の知的で哲学的な側面に惹かれていて聖霊やその恩寵、神秘性を排除して来たのだろうと思います。シドニーでは経験できなかった事ですが、上海にはキリスト者もボツボツおられ、最近教会というか集会にも出席しております。

あぁ、内村鑑三や無教会、ドストエフスキーや最後の米国行直前にお会いした榎本牧師や家族問題、生活不安などを聴いていましたら、まるで古い友人にあったような気がして思わずメールしてしまいました。明日はいつのもように5時起きで工場へ1時間かけて通勤です。とても寒くてベッドで書いており、誤字脱字等々いっぱいあると思いますがお許し下さい。

主のみ名を讃えつつ


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-28 09:25:28 (1181 ヒット)

2009年11月から毎週木曜日の祈祷会でエレミヤ書の学びを始め、1年後の2010年10月末にエレミヤ44章まで読み進んできた。44章はエレミヤ最後の預言で、実質的な終わりの章である。ユダ王国は滅び、生き残った人々はバビロン軍を恐れてエジプトに逃避した。そのエジプトの地でエレミヤは最後の預言をする。それは国の滅亡の原因を「神への反逆」のためとし、「エジプトへの逃亡は神からの逃亡だ」と宣告するものであった。しかし人々は自分たちの罪を認めず、エレミヤの言葉を聞かないと言った「自分たちの妻が異教の神々に香をたいているのを知っている男たち、そこに多く集まって居合わせていた女たち、更にはエジプトの上エジプトに住む人々がこぞってエレミヤに反論して言った『あなたが主の名を借りて我々に語った言葉に聞き従う者はない』」(エレミヤ44:15-16)。

これがエレミヤの生涯をかけた働きの総決算であった。エレミヤの言葉は最初から最後まで聞かれず、エレミヤは落胆の内にその生涯を閉じる。何故エレミヤの言葉は聞かれなかったのか、人々が最後まで「自分たちの罪を認め、悔い改めることを拒んだ」故である。自分の罪を認めることが出来ない。ここに人間の業(原罪)があるような気がする。その原罪に切り込んだ説教が、代々木上原教会村上伸牧師の説教だ。以下紹介したい。

「今、朝日新聞の夕刊に、在日韓国人作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんが「八月の果て」という小説を連載中だ。日本の植民地統治下における朝鮮の人々の生活を描いたもので、特に13、4歳で慰安婦にさせられた少女の話が痛ましい印象を残す。この子は、一見親切そうな日本人の小父さんに「日本の工場でいい働き口がある」と誘われ、家族にも黙って家を出る。途中、二等車に乗ったり、今まで食べたこともない豪華な食事をご馳走になったりして次第に夢を膨らませるが、目的地は思いもかけず「慰安所」であった。そこでは大勢の朝鮮の女性たちが性的奴隷として働かされていた。この少女も、ナミコという日本名を与えられて働かされる。列を作って順番を待っている兵士たちの相手をしなくてはならない。言うに言えない恐怖と恥と痛み! これを、柳さんは実に生々しい筆致で描き切った。読み続けるのが辛い程だった。我々の国は、そして「天皇の軍隊」は、何とひどいことをしたのだろう。 
この問題に限らず、「南京大虐殺事件」などに誰かが言及すると、我が国では必ず拒否的な反応が現れる。「明白な証拠がない」とか、「そういうことも少しはあったかもしれないが、数はそんなに多くはなかった」とか、「戦争中はどこの国もやったことだ」とか、「植民地支配の中でたまたま行われた小さな悪をあげつらうのは一面的で自虐的だ」とか、「鉄道を敷いたり工場を建てたり、日本は朝鮮や台湾を植民地にすることによって良いことも沢山やって上げた」とか、そして、どこかの知事さんのように、「そもそも、植民地にして貰いたいと願ったのは朝鮮の人たちだった」とか。こういう考えの人は、学者にも少なくない。
 だが、これらはすべて「言い逃れ」である。むろん、これは日本人だけに特有の性質ではない。人種・性別・年齢を問わず、すべての人に共通の、いわば「原罪」である・・・他者に責任を転嫁して自らを正当化しようとしても、神の前でそんな言い逃れは通用しない。「主なる神の顔を避ける」ことは不可能なのである。
 先週、私は戦後ドイツの教会が発表した「シュトウットガルト罪責宣言」についてやや詳しく述べた・・・この宣言は、当時ドイツ教会との和解を求めてシュトウットガルトを訪問していた「世界教会協議会」(WCC)代表団の前で読み上げられたもので、その時点では一般に公表されなかった。ところが、一週間後にキール(北ドイツの港町)の一地方新聞がこれをスクープしたのである。すると、国民の間から批判の大合唱が起こった。「悪いのは何もドイツだけではない」というのである。「確かにドイツは戦争を始めた。それにも理由がないわけではないが、残虐行為と言うなら、45年2月のドレスデン空襲はどうだ」と彼らは言った。当時、無数の避難民が流入していたこの無防備都市を米英の空軍が徹底的に爆撃して、広島に匹敵する位の死者を出したことは周知の事実だった。人々はさらに言いつのった。「ソ連軍がベルリンに殺到したとき、兵士たちは略奪・暴行の限りを尽くした。この非人道的犯罪はどうなるのだ」と・・・。 
パウロは「ローマの信徒への手紙」2章で、他人を裁くユダヤ人を問題にしているが、その冒頭でこう言う。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」(2:1)。この「人を裁く者」という言葉の意味は単純ではないであろう。私の解釈では、自分も罪を犯していることを知りながら、神の裁きの矛先を自分から逸らして他者に向けようとする者のことではないだろうか。それによって「主なる神の顔を避ける」(創世記 3:8)ため、つまり、「神の裁きを逃れる」(2:3)ためである。これが言い逃れである。だから、パウロは続けて言う。「自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」。否、逃れることはできない。弁解の余地はないのである。言い逃れは、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くこと」(2:4)を否定することに他ならない。このことを我々は肝に銘じなければならない(村上 伸「弁解の余地はない」、2003年11月2日代々木上原教会での説教より)


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-06-19 16:48:13 (1829 ヒット)

今、木曜日の祈祷会でエレミヤ書を読んでいますが、今週の箇所はエレミヤ29章でした。このエレミヤ29章には個人的な思い出があります。以下は前に説教でお話した一部をここに再録させていたただきます。

ある時、聖書の言葉がその人間を捕え、一生を変えてしまう出来事になることが起きる。私にとってエレミヤ29章はそのような言葉である。エレミヤ29章は、バビロンで捕囚になっている人々へ書かれたエレミヤの手紙だ。イスラエルは前597年にバビロニアに国を占領され、主だった人々は捕囚として首都バビロンに連行された。王や貴族、祭司、軍人、技術者等1万人に上る人が捕囚になったと列王記下24章は伝えている。捕囚から4年たった前594年頃にこの手紙は書かれたと言われている。当時、捕囚をめぐっていろいろの動きが出ていた。故国エレサレムにおいては、バビロニアの支配から逃れるためにエジプトに頼って国を救おうという動きが活発化していた。他方、捕囚地バビロンでは、早期に帰還できるのではないかという楽観論と、前途に希望はないという悲観論の双方が対立していた。

その人々に対しエレミヤは手紙を書いた「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(29:5-6)。捕囚はあなた方の罪のために主が与えた鞭である。それは2年や3年で終らず、70年続く。だからその地に家を建て、園に果樹を植えて自立できるようにせよ。また、帰還はあなた方の子や孫の時代になるから、妻をめとり、子を生み、その子たちにも子を生ませ、民を増やして帰還に備えよと。

状況を考えればこの手紙は驚くべき内容を伝えている。捕囚が70年続くということは、手紙の受信人たちは生きて故郷に帰る事はないと言うことだ。人々はそれを呪いと受け取るだろう。捕囚地の人々は、ある者は速やかな祖国帰還を熱狂的に確信し、エルサレムに残った人々と反バビロニアの画策をしていた。他の者は前途を諦め、何の気力もなくなり、絶望的になっていた。その人々にエレミヤは勧める。自分たちの置かれた状況を冷静に見つめよ。あなたたちはすぐには帰れないから、その地で日常生活を営め。絶望や熱狂に陥って、日常与えられた仕事を着実に果たしえないようでは、正しく神を信じているとは言えないではないか。しかしまた捕囚は永遠に続くものではなく、試練の時が終れば祖国に帰ることを主は許される。故にその地で子を設け、子供たちにあなた方の信仰を伝えよ。

私がこの言葉を自分への言葉と受取ったのは、1998年11月のことである。私は大学を卒業して東京に本社を持つ生命保険会社に入社し、大半を東京本社で過ごしてきた。1998年3月、私は福岡支社駐在財務課長への転勤を言い渡された。その当時は本社の財務部で仕事をしており、部下も20人いた。本社の課長から支社駐在への転任は異例であり、明らかな左遷であった。知らされた時は目の前が真っ暗になったことを覚えている。また、子供たちの学校の関係で家族は動けないため、単身で福岡に転任した。赴任後、支社の仕事には身が入らず、東京本社への早期帰還だけを考えていた。教会は福岡教会に行き始めたがなじめず、籍は前の教会に置いたままであった。神学校は東京バプテスト神学校で2年を終えていたが、九州バプテスト神学校に転校した。勉強に熱が入らなかった。福岡は仮の地、やがて東京に帰る時までの短期滞在の地と考えていた。

その時、教会学校の学びを通して、エレミヤ29章に出会った。この言葉を読んだ時、これは今の自分に語られた主の言葉だと思った。東京に帰ることのみ考えて、現在の仕事や学びに上の空だった私に対して、「その地に根を下ろせ、訓練し育てるためにあなたを福岡に送った」と主は言われた。この言葉に接して福岡での生活が変わった。仕事は九州管内企業への財務営業であったが、取引のない地場企業への接触を活発に始めた。教会も福岡教会に転籍し、成人科の教師として毎週の学びのためのテキストを作り始め、大勢の人が出席し始めた。神学校の学びも本格化し、東京では持てなかったような先生たちとの個人的交わりも持てるようになった。福岡に行って最初の1年間は地獄だった。エレミヤ29章に出会った残りの1年間は充実した時であった。そして2年の時が過ぎ、神学校を卒業するという時に、会社がリストラ策として希望退職者を募り始めた。その時まで家族の生活や子供の学資を考えれば牧師になることは考えられなかった。しかし、退職金によって、子供の学資と当面の生活費の目処がつき、会社を辞め、牧師になった。災いとしか思えなかった福岡への転任と会社の業績悪化が牧師になる道を開き、エレミヤ29章がその道を導いた。

エレミヤの手紙は当時の捕囚民には慰めにならなかった。捕囚民はエレミヤの勧めを無視し、祖国に残った人たちと手を組んで、バビロニアに反乱を起こし、その結果、前587年にはエレサレムの町は再度占領され、イスラエルは滅ぼされた。捕囚民が帰還を許されたのはバビロニアが滅ぼされた前538年、最初の捕囚から60年後のことだ。国を滅ぼされ、帰還の道を断たれた民は、神は何故イスラエルを滅ぼされたのかを求めて父祖からの伝承を集め、編集していった。創世記や出エジプト記等のモーセ五書が最終的に編集されたのは、この捕囚期であると言われている。イスラエルの民は捕囚により、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする民族共同体から、神の言葉、聖書を中心にする信仰共同体に変えられて行った。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-05-12 09:42:37 (1939 ヒット)

2010年4月4日(日) にNHKで放映された「アフリカンドリーム “悲劇の国”が奇跡を起こす」を見た。ルワンダでは、民族間の対立で80万人が殺されるという大虐殺が起きたが、それから16年、今、その国は驚異的な復興をとげ「アフリカの奇跡」と呼ばれるようになった。原動力は「ディアスポラ(離散者)」といわれる人たちだ。半世紀前の独立前後から迫害を逃れて世界各地に散らばったルワンダ人はおよそ200万人にのぼるが、今「祖国を復興させたい」とルワンダに巨額の投資を行うとともに、次々と帰還を始めている。
            
ルワンダは、第一次世界大戦後ベルギーの委任統治下に置かれ、ルワンダ人は「ツチ族」と「フツ族」に分けられ、少数派のツチ族がエリート教育を受けられるなど優遇されたことがきっかけで、次第に民族紛争へと発展していった。そして世界中を震撼させた「ルワンダの大虐殺」が起こる。

ところがその事件を契機に、迫害を逃れて世界中に散らばったルワンダ人(主にツチ族、ディアスポラ=離散者と呼ばれている)が、次々と帰還を始めている。彼らの間にはまだ大虐殺の記憶、民族間の対立が生々しく残っている。首都キガリがツチ族のディアスポラによって着々と復興していくのに対し、フツ族で避難民だった者たちが戻った地方は土地も仕事もなく、不満が溢れている。そのような地方では今でもツチ族が殺されることがあるらしい。

フツ族に家族を殺されたツチ族のディアスポラの一人が、フツ族の住む地方でコーヒー豆を作るビジネスを提案するが、フツ族になかなか理解してもらえない。土地を取られるとか騙そうとしているとか、言われる。それでも彼は、殺された母親が言った「同じルワンダ人なのだから、いつかは理解し合える」という言葉を信じて説得を続ける。利益を半分ずつにすると書かれた契約書を見せて、やっと商談は成立した。ツチ族のディアスポラは国外で勉強してきたエリートであり、国外で仕事を持ち、暮らしていくことは可能なのに、彼らは祖国に戻り、時間をかけてフツ族との間の溝を埋めようと努力している。

その彼らを見て、イスラエルの国家滅亡、指導者たちのバビロンへの捕囚、その彼らの帰還によるイスラエル再興の出来事を思い出した。紀元前597年、イスラエルの首都エルサレムはバビロンに制圧され、エホヤキン王とその家族、貴族、軍人、祭司等の指導者たちは捕囚としてバビロンに連れ行かれ、バビロン軍はエヒヤキンの叔父ゼデキヤを王に任命して帰国する(第一次バビロン捕囚)。

そのゼデキヤ王治世下のある日、エレミヤは神殿の前に二つのいちじくのかごが置かれている幻を見る。一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。主は幻の意味をエレミヤに示される。良いいちじくとは先にバビロンの地に囚われていった人々であり、彼らはその地で悔い改め、変えられ、このユダの地に戻ってくるであろうと。
−エレミヤ24:4-7「そのとき、主の言葉が私に臨んだ『イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、私はこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そして私は、私が主であることを知る心を彼らに与える。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは真心をもって私のもとへ帰って来る』」。

他方、悪いいちじくとは、この地に残されたゼデキヤ以下の指導者たちであった。彼らは当面の危機が去ると、楽観的になり慢心し、反バビロンの画策を始める。彼らはまだ悔い改めようとはしなかった。常識的には、バビロンに囚われていった人々は神の裁きを受け、本国に残された者たちこそ神に選ばれた者と考えるだろう。しかし、自分たちが神に選ばれたと思う時、人は慢心し、神の御心を思おうとしない。選ばれる人々は、神の裁きの前に打たれ、砕かれ、そのどん底から神の救いを求める者だ。神は求める者には答えられ、彼らは悔い改め、救われる。捕囚で散らされた人々こそ国を再建するとの預言をエレミヤは与えられる。
−エレミヤ29:12-14「そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう、と主は言われる。私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」。

この捕囚民のエルサレム帰還、国の再興の出来事が今、ルワンダで起きている。神は生きておられる、そして今ルワンダに神の御手が働いていると思った。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-03-19 23:50:42 (1249 ヒット)

3月17日の祈祷会で詩篇39編を読みました。39編は死の床にある病者の祈りです。詩人は歌います「教えてください、主よ、私の行く末を、私の生涯はどれ程のものか」。「あとどれくらい生きられるのでしょうか」と詩人は問います。人は死ぬとわかっていても、その死を受け入れることは難しいのです。

ZARDの坂井泉水さんが2007年2月に慶応病院で事故死しました。彼女は子宮けい癌の末期で肺に転移し、抗癌剤治療中だったと報道されています。その彼女が「いつかは」という曲を書いています。この時点で死を意識していたかどうかは分かりませんが、詩の中で「あとどれくらい生きられるのか」と歌っています。彼女の死を考えながら、今この曲を聴くとせつななくなります。次のような詩です。「静かな夕暮れに 残された日々 夢を見させて どんなに時間を 縛ってもほどける あとどれくらい 生きられるのか いつかは情熱も 記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」。

死を前にすれば、だれもが人生の空しさを思わざるを得ません。それは信仰者も同じです。日本基督教団西方町教会の牧師をしていた鈴木正久氏も死が避けられないことを知り、病床日記に書きます「こんなことが起こりました。つまり今まで考えていた「あす」がなくなってしまったわけです。「あす」がないと「きょう」というものがなくなります。そして急になにやらその晩は二時間ほどですけれども暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何かまっ黒いものがこうのしかかってくるようなというのか、そういう気持ちでした」。非常に正直な告白です。

しかし、彼はピリピ書を通してパウロの死を超えた希望に触れ、勇気づけられます。「ピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。

死を超えた明日、その希望を持つことができたのならば、仮に私たちがどのような死に方をしても、私たちの人生は意味あるものになるような気がします。


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