すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2011-04-20 08:40:33 (2450 ヒット)

 イザヤ24:17-20は人間の罪の故に、天の水門は開かれ(大洪水が来る)、地の基は震え動く(大地震が起こる)との預言が記されている。大地震と大洪水、まるでこの度の東日本大震災を預言したような箇所だ。
-イザヤ24:17-20「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み、穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない」。

 イザヤ24−27章はイザヤ黙示録と呼ばれる。時代背景はわからない。おそらくは紀元前2〜3世紀の預言者がイザヤ書を再解釈し、ここに編入したのではないかと思われる。イザヤ24−27章の預言者もこの終末待望の中にある。24章は神の世界審判の預言だ。神は新しい世界を創造されるために、旧い世界を破壊される。「主は地を裸にして荒廃させ」、創造以前の混沌への復帰が預言される。
−イザヤ24:1-3「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめて住民を散らされる。民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて同じ運命になる。地は全く裸にされ、強奪に遭う。主がこの言葉を語られた」。

 私たちはこのような終末預言をどのように聞くのであろうか。パウル・ティリッヒは、第二次世界大戦直後、イザヤ24:18「地の基ふるい動く」という説教を行った。二度の世界大戦を経験し、広島やアウシュヴィッツの悲惨を見た者は、もはや人間の善意に期待する楽観的な説教をすることは出来ない。
−「これらの言葉を真剣に取り上げないで過ごした数十年、否、数世紀さえもがあった。しかし、そうした時代は過ぎ去ったのである。今やわれわれは、こうした言葉を真剣に考えなければならない。なぜなら、彼らの言葉は、人間の大多数が今日経験し、またおそらく余り遠くない将来において全人類が嫌というほど経験することであろうこと、すなわち、『地の基がふるい動く』ということを目の当たりに見るように描いているからである。預言者の幻は、今や歴史的現実とさえなろうとしている。『地は全く砕け』という言葉は、もはや単なる詩的形容ではなく、厳しい現実である。これこそ、今や、われわれが足を踏み入れた時代の宗教的意義である」。
 
 日本列島は地震と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命であり、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を知っている。だから私たちは時間と共にそこから立ち直る事は可能である。しかし、今回の震災の最も大きな問題点は、原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にある点だ。「天災は裁きではない、しかし人災は罪の結果起こる」、ティリッヒは語る。
−「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と降伏のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。

 その結果起こったことは「地の基を震え動かすような」破壊であった。それは人間の想像を絶するものであった。イザヤが述べたような出来事が起こった。
-イザヤ24:5-6「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされわずかの者だけが残された」。

 ここで私たちは預言者たちが何故「地の基震え動く」と預言することができたかを知らねばならない。預言者たちは破壊の先に救いを見た。例え地の基は震え動くとも、そこに「動かざる存在を見た」のだ。裁きは滅びではなく救いなのだ。「人を救うために主は裁かれる」、そこに私たちは希望を見る。
−イザヤ51:6「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、蚋のように死に果てても、私の救いはとこしえに続き、私の恵みの業が絶えることはない」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-04-20 08:24:18 (1416 ヒット)

受難日礼拝
4月22日(金)19時〜20時 説教:水口仁平協力牧師

イースター礼拝
4月24日(日)11時〜12時 説教:川口通治主任牧師

いずれも西尾家会堂 東京都江戸川区南篠崎町1-20-9で行われます。


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-04-07 08:47:58 (5599 ヒット)

関東大震災の時に、宣教師J.V.マーティンによって、「とおきくにや」が作られ、やがて讃美歌となっていきました。今回の東日本大震災を思うとき、私たちへの励ましの言葉になるような気がします。以下は聖歌の友社 「聖歌撰の解説」よりの引用です。

J.V.マーティンは自作の手書きの原稿をわたしながら次のように語った「東京大震災の9月1日(1923年)の夜、多くの罹災者が芝白金の明治学院の運動場で夜をむかえました。九死に一生を得た人々に蚊やとろうそくが支給されました。その夜、たまたま東京にいた私は明治学院に見舞いに来たところ、蚊やの中で点火されたろうそくの火が丁度、暗の中の十字架に見えたのです。私はさっそくペンをとりこの詩を書きあげ、その後大阪に帰ってこの曲をつけました」。その後中田羽後の訳でロードヒーバーが横浜のYMCAで歌ったのが世界の初演であった。作者マーティンは大阪市立高等商業学校(今の市立大学)の英語講師で大阪に在住していた。

遠き国や海の果て いずこにすむ民も見よ
なぐさめもてかわらざる 主の十字架は輝けり
なぐさめもてながために
なぐさめもてわがために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ

水はあふれ火は燃えて 死は手ひろげ待つ間にも
なぐさめもて変わらざる 主の十字架は輝けリ
なぐさめもてながために
なぐさめもてわがために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ

仰ぎ見ればなど恐れん 憂いあらず罪も消ゆ
なぐさめもてかわらざる 主の十字架は輝けリ
なぐさめもてながために
なぐさめもてわがために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ


投稿者 : admin 投稿日時: 2011-01-02 08:47:03 (1237 ヒット)

篠崎キリスト教会では教会堂・牧師館建て替えに伴い、2011年1月19日から同9月30日まで、一時的に教会堂と牧師館を下記に移転しますので、ご連絡申し上げます。なお郵便物等は仮牧師館住所にお願いします。また、電話番号・Fax番号等は従来と同一です。

仮教会堂 東京都江戸川区南篠崎町1-20-9西尾様方
仮牧師館 東京都江戸川区南篠崎町2-18-5
 
日本バプテスト篠崎キリスト教会
東京都江戸川区南篠崎町1-28-15(〒133-0065)
牧師 川口通治 筺Fax:03-3678-5243
E-メール mk24@mue.biglobe.ne.jp


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-12-02 09:18:40 (1538 ヒット)

教会の毎週木曜日の祈祷会で今、旧約聖書・哀歌を読んでいる。哀歌は古くはエレミヤ哀歌と呼ばれた。ギリシャ語聖書冒頭に「イスラエルが捕らわれとなって引き立てられ、エルサレムの荒廃の後、エレミヤは座して泣きながら、エルサレムのために歌った」とあるからだ。おそらくは他の人の作であろうが、著者はエルサレムの滅亡を目撃し、その中に神の鞭を見る。冒頭の言葉は「エーカー」、「ああ、何故に」である。かつては高貴の町と呼ばれたエルサレムが今は廃墟となり、夫を失い、子を奪われた、やもめのように嘆いている。バビロニアによるエルサレム破壊はすさまじく徹底的であった。指導者たちは鎖で縛られて異教の地に捕囚となり、エルサレムに残った人々には、駐留兵士や周辺諸国の民の略奪と暴行が繰り返し襲った。男は殺され、女は凌辱され、飢餓に苦しむ人々は死んだわが子の肉を煮炊きして食べた。そのような地獄絵の中で人々は苦難の意味を求めて行った。これは紀元前587年に起こった出来事であるが、同じ出来事が歴史の中で繰り返されている。2006年8月読売新聞九州版に掲載された「戦後・引き揚げ者らの記録」は現代の哀歌だ。引用したい。

 二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より) 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意」。満州や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり、そのため体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」。全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。
 
ビラを配ったのは京城帝大医学部の医師たちのグループ。このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
 
医師らから提案を受けた厚生省博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。
 
特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市)。引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。「生身をこそげ取るわけだから、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆に受けた。白い肌に赤い髪、長い指。ソ連の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
 
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)らの仕事だった。手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません」。


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