すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2009-10-31 23:16:29 (2008 ヒット)

2009年10月27日朝日新聞夕刊に、坪野吉孝・東北大学教授の「失業率と自殺率」というコラム記事がありました。日本では、失業率が増加すると自殺率も増加しますが、海外でも同じ傾向があります。失業してこれからどうしてよいかわからない、自分はこの社会では不要な人間だ、その絶望が人を自殺に追いやります。イギリスのランセット誌に掲載された論文では、EU26カ国の動向分析をしていますが、EU全体の平均を見ると、失業率が増えると自殺率も増加し、またアルコール乱用死も増加していました。

しかし、フィンランドとスウェーデンは違いました。フィンランドでは、1990年から1993年にかけて失業率が増加(3.2%から16.6%に急増)したのに、自殺率はむしろ減少しました。スウェーデンも、1991年から1992年にかけて失業率が増加(2.1%から5.7%)した時に、自殺率は減少しました。坪野先生は最後に言われます「失業しても自殺につながるような大きな不安なしに暮らせる社会が実際にある。この事実は、失業と自殺が連動する社会に暮らす私たちにとって、大きな希望と教訓を与える者ではないだろうか」。

北欧は高福祉・高負担であり、私たちの社会とはなじめないと思う人もいますが、聖書的に見ると「分かち合い」を制度化したものが高福祉・高負担のシステムではないかと思います。ある新聞のコラムに次のような記事がありました「経済のグローバル化が進む世界で、高福祉・高負担の北欧式は生き詰まるのではないかと言われた。だが実際には、産業構造や労働市場を巧みに調整しながら経済成長を続けている。日本人は北欧について”高負担の国々が、どうやって経済成長できるのか”という点に関心を抱くが、彼らは経済成長よりも、尊厳をもって生きられる社会をどうやって築くかを重く考えている。スェーデンでは、社会サービスを“オムソーリー”(悲しみを分かち合う)と呼ぶ。他者に優しくし、必要とされる存在になることが生きることだと考える。その概念によって社会が支えられている。高い税金に不満が少ないのも、分かち合いの発想から来ている。いつかは自分も子供を持ち、高齢者、或いは失業者になる。充実した介護や育児サービス、教育や職業訓練があれば安心できる」(2008年5月朝日新聞コラムから)。

隣人愛、分かち合いが社会化されるとき、そこに神の国が生まれていくのです。福音が教会内で語られ、教会内でしか働かない時、それは福音の死蔵化です。福音を聞くだけではなく行っていく時に、神の祝福がそこに与えられると感じます。

川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-10-03 23:07:53 (2281 ヒット)

私は篠崎キリスト教会の牧師ですが、同時に東京バプテスト神学校の事務長も兼ねています。神学校では毎年夏季集中講座を開いており、今年は青山学院大学経済学部・東方敬信先生をお招きして「キリスト教と経済」のテーマで学びました。その中で、東方先生が「献身にはすべてを捨てて仕える修道院的献身と、持ちながら仕えるザアカイ的な献身がある」と言われました。面白い言葉ですが、ザアカイ的な献身とは何でしょうか。

「ザーカイの物語」はルカ福音書19章にあります。ザアカイはローマ帝国の徴税請負人で金持ちでしたが、異邦人のために働く者として、また不正を行う者として社会から疎外されていました。これまでザアカイに声をかけたラビ(律法の教師)はいませんでした。汚れた職業に従事していると考えたからです。この徴税人ザアカイにイエスは声をかけられます「ザアカイ、今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。偏見から自由なイエスの心の開きがザアカイを変えていきます。ザアカイは立ち上がって言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。イエスはザアカイの献身を喜ばれます「今日、救いがこの家を訪れた」。

別の徴税人の召命物語がマルコにあります。レビの召命です。イエスはアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われました。レビは立ち上がってイエスに従います。イエスは、レビには「従いなさい」といわれながら、ザアカイには「従う」ことを要求されませんでした。またザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意するのです。イエスはその決意を受け入れます。

神の国共同体には、いろいろな献身者が必要です。みんなが「すべてを捨てて従った」時、教会は崩壊します。財政的に支える人がいなくなるからです。初代教会はすべてのものを共有する原始共産社会を形成しましたが、しばらくするとこの共同体はきしみ始めます。使徒行伝6章によれば、教会の中に「日々の配給」の件で争いが起こります。自分たちのもらい分は少なく、これでは生活できないという人々が出てきたのです。生産を伴わない消費だけの共同体は永続できないのです。

ザアカイ的献身の代表者は使徒パウロです。彼は天幕職人として経済的に自立しながら伝道していきました。彼は言います「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません」。おそらく、教役者を経済的に支えるだけの余裕のない教会が多かったから、パウロは自活伝道者として生きたのでしょう。

日本の多くの教会は、牧師に世間並みの給与を支払うだけの経済力に欠けています。その時、自分の稼ぎで教会を支える、そのようなたくましい牧師も必要とされているのです。クリスチャンが絶対的に少数派の日本の教会では、「職業を持って仕える」、あるいは「働きながら伝道する」形の、ザアカイ的な牧師がより必要とされているような気がします。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-09-28 08:46:10 (3209 ヒット)

・心の糧・きっとよくなる!いい言葉 2009.9.28 Vol.474 作家 中井俊已 http://www.t-nakai.comからヴィクトール・フランクル「それでも人生にイエスという」についての配信がありました。次のような内容です。

▼ユダヤ人強制収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に、ヴィクトール・フランクルはこう語りかけました。「あなたを必要とする何か」がどこかにあり、「あなたを必要としている誰か」がどこかにいるはずです。そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見されるのを待っているのです。(フランクル 著『夜と霧』)より)
▼フランクルは、1905年にウィーンで生まれた精神科医でした。ユダヤ人だったので、第二次大戦中、ナチスによって、強制収容所に送られます。妻子も両親も殺されてしまいます。フランクは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされたとき、心の中でこうつぶやきました。「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできないのだ」。
▼フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に優しい言葉をかけ、生きる希望をもち続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。「どんな状況でも人生にイエスという意味があります。どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです。」(フランクル 著『それでも人生にイエスと言う』)
【出典】ヴィクトール・エミール・フランクル 著『夜と霧』http://tinyurl.com/ybsqvvx『それでも人生にイエスという』http://tinyurl.com/yd5y7en

このフランクルの言葉を読んで、ドイツの詩人ヨッヘン・クレッパーを思いだしました。彼は妻がユダヤ人だった故にナチス政権下でいわれのない迫害を受け、妻が強制収容所に入れられることに抗議して、自死した人です。彼はその日記を「み翼の陰に」と題して克明につづり、死後刊行されました。その日記の一節を紹介します。
*ヨッヘン・クレッパー・死の二日前の日記(1942・12.9)
「妻ハンニと子どもとを強制追放の中でももっとも残忍で身の毛もよだつそれへ(絶滅収容所)行かせることが、私には耐えられないのは神もご存知だ。ルターがしたように「わが体も、財産も、名誉も、わが妻子も取らばとりね」(讃美歌538番神はわが力)と神に誓うことが私に出来ないのは神もご存知だ。「わが体も、財産も、名誉」も出来る。しかし・・・」。
注)讃美歌538番「神はわがやぐら」、原曲ドイツ語の「わが妻子も取らばとりね」であるが、この言葉が日本語「わがたからも取らばとりね」に訳が変えられているために状況がわからなくなっている。
**ヨッヘン・クレッパー・死の当日の日記(1942・12.11)
「午後、保安情報部での交渉、終に私たちは死ぬ。ああこのことも神の御許でのことだ。私たちは今晩一緒に死につく。私たちの頭上にはこの最後の数時間、私たちのために闘っておられる祝福するキリスト像が立っている。この眼差しの下で、私たちの生は終わるのだ」。
***ヨッヘン・クレッパー・「夕べの歌」
「あなたは強き御腕をさしのべたまいました。わざわいも私を苦しめることはありません。私の眠りがなお脅かされることがあるとしても、私は見守りのうちに安らかに生きるのです。あなたは私のまぶたに手をさしのべたもう。私は一切の憂いなく眠ります。この夜、私を導きたもう方は、明日もまた導いて下さるのですから」。
(2009年9月23日祈祷会詩篇17編の学びから、原典は宮田光雄「聖書の信仰」第7巻・信仰と芸術)


投稿者 : ゲスト 投稿日時: 2009-08-31 09:27:23 (1542 ヒット)

チャペル・コンサートを終えて 投稿 by : Kiyomi

8月29日に行われた『チャペル・コンサート』ではたくさん来場者の方に囲まれてとても素敵なひと時を過ごせました。

お越し頂きました、皆様本当に、有難うございました。

会場は、あらかじめ用意しておいた補助席を出しておりましたが、満員になりスタート前から、期待感一杯の温度でした。

The REAL DEAL時代から聞いていた方などは、『教会でライブをやる?!』という好奇心で
教会関係者の方などは『教会で、バンドによるコンサート?!』という感覚で思ってらっしゃったと思います。

“Tradjaig”と名を改めて、最初のライブがこの『チャペル・コンサート』なんです。

たくさんのチャレンジの中、私達、演奏者メンバーは大変勉強になりました。

クラシック曲〜ポピュラ〜オリジナル曲というプログラム構成の中、教会会場の主任牧師によるメッセージがとても印象的でした。http://shinozaki-baptist.jp/modules/wordpress/index.php?p=418
あらためて、『音楽』の影響がいかにあるか・・・・『人の心に刻まれる名曲』というのはどれほど、素晴らしいメッセージ性が隠されているのか・・・・新鮮なキモチで、聞く事ができました。

そして、今回は特別な事があったんです。

The REAL DEAL時代からよく言われていたオリジナル曲の意味
英詩のため、日本語訳を知りたいとたくさんの方に求められてきました。

過去にも翻訳してくださった方がいたのですが作者(リーダー)が表現したい方向が異なっていたため今まで、翻訳されたものは『公開』しておりませんでした。

今回、素晴らしい翻訳者の方が天使のように現れてくださり、すべての曲目を訳してくださり当日のプログラムに日本語訳の資料を挟んで渡しました。

いままで、英詞でさらっと聴きながしていたファンの方などコンサート終了後
『こういう歌だったのか!!』と興奮して、声をかけてくださいました。

私自身もとても興奮していたので、気持ちはすごい分かります。

練習仕込み〜コンサート当日までのプロセスがあまりにも素晴らしく、ホントウに感動でした。

そして、当日は音響的にたくさんの反省点を抱えましたが、今回、演奏をした『明日に架ける橋』(邦題)本当のタイトルは『Bridge over troubled water』ここから学んだ『荒れている海に橋を架ける』

どんな気分や感情があったとしても先が見えない荒海であったとしても『信仰』という橋を架ける意味があるのだと
期待をもって、次回につなげて行きたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-08-27 09:03:09 (2473 ヒット)

毎週木曜日の旧約聖書の学びは、今週から、第三イザヤに入ります。イザヤ書は3部に別れ、アッシリアと対峙したイザヤの預言(1〜39章)、国を滅ぼされたバビロン捕囚民に帰国を呼びかける無名の預言者(第二イザヤと仮称されます)の言葉が40〜55章、帰国後の国の再建を指導する第三イザヤ(第二イザヤの弟子たち)の言葉が56〜66章です。

第二イザヤに励まされてエルサレムに帰還した人々は神殿再建に取り掛かりますが、飢饉やサマリア人の妨害で工事は中断され、経済生活は改善せず、人々は「第二イザヤの預言したエデンの園はどこにあるのか」と不満を募らせます。中断された神殿工事は、やがて再開され、前515年神殿は完成します。しかし神殿が完成しても経済状態は改善せず、共同体内部で争いが起き、民族主義者は異邦人排斥を訴えるようになります。このような混乱の中で、第三イザヤは第二イザヤの教えた「正義と公平」を取り戻せと人々に訴えます。

-イザヤ56:1-2「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は」。

ここでは安息日を守ることが律法の中心にあります。神殿を喪失した捕囚の民は、「安息日を守り、割礼を受ける」ことに、民族のアイデンテティーを求めました。その結果、割礼を受けていない異邦人や宦官たちは共同体から排除されていきますが、第二イザヤの弟子たちは、民族を超えた救済に人々を導きます。50年間の不在の間に、エルサレムには多くの異邦人が住み、またペルシャ宮廷に仕える宦官たちも改宗してきたという背景があるのでしょう。

しかし本来のユダヤ律法は民族主義的な傾向を持ち、宦官や異邦人を排斥していました。申命記は記します

「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」(申命記23:2-4)。

第三イザヤは「主なる神はユダヤ人だけの神ではなく、全世界の神である」として、継承された律法の書き換えを要求します。「聖書の書き換え」という驚くべき事態が進行します。

-イザヤ56:4-7「なぜなら、主はこう言われる。宦官が、私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。

その条件は安息日を守り、契約に従うこと。今日で言えば、主日礼拝を守り、献金を捧げることです。「救いは肉のユダヤ人だけでなく、全ての民族に解放されている」、ここに民族の枠を超えた救済論、イエスキリストの福音のさきがけがあります。

-ガラテヤ3:26-29「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。


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