すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-27 09:47:06 (1325 ヒット)

水曜日の祈祷会では、これまで新約聖書を読んできましたが、先週のマルコ福音書読了で新約全巻の学びが終わりましたので、今後は詩篇を読んでいきます。

詩篇はもちろん旧約聖書に属しますが、イザヤ書と並んで新約聖書に最も多く引用されている書です。一例を上げれば、イエスの公生涯は詩篇で始まり(詩篇2:7)、詩篇の言葉で終わっています(詩篇22:2)。シナゴークで教育を受けた人々(イエスや弟子たち)にとって詩篇はもっとも身近な御言葉であり、常に口をついて出てきたのでしょう。

今回は、旧約聖書の一部としてではなく、新約をもう一度読み直すという視点で詩篇を読んでいきたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-20 09:11:45 (2499 ヒット)

同志社大学大学院教授で経済学者の浜矩子さんが、2009年5月13日朝日新聞朝刊に「バッドペニー(悪貨)は繰り返し手元に戻る」として、民主党小沢一郎氏の代表辞任・新しい代表選挙についてコメントを寄せた。内容は概ね次のようだ「バッドペニーは繰り返し手元に戻る・・・小沢一郎というバッドペニーもその執拗なカムバックぶりに一種の見事さがあった・・・彼がここまで世にはばかり続けてこられたことについては、彼が果たすべき一定の歴史的、社会的役割があったのではないか・・・聖書に出てくる古代の圧制者キュロス(ペルシャ王)はバビロニアに捕囚されていたユダヤ人たちを解放し、伝道者パウロは元々はキリスト教の迫害者だった・・・圧制者が民族解放の役割を果たし、迫害者が転じて信仰の熱き担い手になる。ことほどさように、天は意外な人物を意外な場面で起用する・・・小沢一郎にヒーロー役は明らかに不似合いだ。新しい流れを呼び起こすイメージはない。むしろ悪しき旧弊に色濃く染まった人物だ・・・だがそのような人物に対してであっても、必要とあらば天命が下る。そこが歴史の面白いところだ」。

浜矩子さんがクリスチャンかどうか知らない。しかし聖書を深く学び、聖書の出来事から、現代の政治を見て分析した。その結果、これまでにない洞察が可能になった。キュロスは捕囚地の預言者第二イザヤが「主の僕」「主が油注がれた人」とさえ賞賛した人物だ(イザヤ44:28-45:1)。今、教会の木曜祈祷会でイザヤ書を読んでいるので、浜さんのこの意見を興味深く呼んだ。同時にこの記事を読みながら、同じくイザヤ書を用いて日本の針路を憂えた矢内原忠雄を思い出した。矢内原は1937年「国家の理想」という論文を中央公論に発表した。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」と矢内原は書いた。

矢内原は古代の覇権国家アッシリアの例を引いて、「日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている」として、1937年7月に盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようとした日本を批判したのである。戦時中に軍部批判をすることは大きな勇気が必要だったと思う。予想通り、雑誌は発禁処分を受け、矢内原の論文は全文削除となり、これが契機になり、矢内原は東大教授の職を追われた。

矢内原論文にあるアッシリアは旧約イザヤ書や列王記に出てくるが、紀元前8世紀に世界帝国となり、パレスチナ諸国を次々に征服した。イザヤは預言の中で、それは神が不信のイスラエルを打つ「鞭」として用いられたからだと言った。ところがアッシリアは神の委託を超えて、自分が主人であるように振舞い始め、「私の前には敵はいない、私こそ神である」と驕り始めた。ここに至って主はアッシリアを撃つことを決意されたとイザヤは預言した。紀元前701年、エルサレムを包囲したアッシリア軍内に疫病が発生し、数十万人の兵が死に、アッシリアは軍を引き揚げ、世界帝国アッシリアはこのごろから勢力を弱め、やがて滅んだ。

聖書から世界を見ると、見えなかったものが見えてくる。聖書は「歴史を支配されておられるのは神であり、人間はそこに役割を果たすだけだ」という。聖書を通して、私たちはこの世の出来事や愛国心を相対化し、自己の利益だけでなく公の利益を考えることが出来るようになることを改めて思った。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-14 08:59:40 (1225 ヒット)

2009年春、東京国立博物館で興福寺・阿修羅展が開催され、人気を集めている。阿修羅像は天平6年(734)、光明皇后が母橘三千代の1周忌供養の菩提を弔うために造像して以来、戦乱や大火など幾つもの災難を乗り越えてきた。1300年の時を超えて守り伝えられた日本の文化、そして何よりも阿修羅像の三つの悲しみに満ちた顔が多くの人を魅了している。

先日、NHKテレビで阿修羅展特集を行っていたが、その中で阿修羅像は光明皇后がモデルとなっているのではないかとの話があった。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争う。ある人は阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する顔であり、左側は甥である広嗣の乱や四兄弟の天然痘による死などの重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面(真顔)は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿ではないかとの見方が紹介されていた。

人は罪を犯さざるを得ないが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかないのだろうか。イザヤ書は偶像崇拝の愚かさを繰り返し説く。第二イザヤ自身が捕囚地バビロンで、敗戦と捕囚の悲しみの中で、偶像に頼る同族を見てきたからだ。第二イザヤは記す「木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。・・・木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか」(イザヤ44:13-15)。しかし「彼は自分の魂を救うことができず、『私の右の手にあるのは偽りではないか』」(イザヤ44:20)と言う。いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ない。罪を赦す方は、人間でも偶像でもなく、神しかおられないからだ。

川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-04 10:33:04 (3312 ヒット)

この世には理由のつかない不条理があります。幸せな結婚をしても障害のある子が生まれて結婚が壊れることがあります。一生懸命に生きても報われずに惨めに死んでいく生涯もあります。原爆で死んで行った多くの人たちは運が悪かったとしかいえないでしょう。何故、世に“不条理”があるのか、神がおられるなら神はこの不条理をどのように考えておられるのか。私たちにとって重要な課題の一つです。

それを考える素材が、曽野綾子の小説「哀歌」の中にあるような気がします。哀歌はアフリカの国ルワンダに赴任した一人の修道女の物語です。主人公・鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任します。彼女は、教会や学校を併設する修道院で、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をします。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の少数民族ツチ族に対する集団虐殺が始まります。フツ族の民兵は軍を後ろ盾にツチ族への暴行、虐殺、略奪を開始し、避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くします。その混乱のなかで修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、そのことが原因で妊娠します。「善なる思いが悪の行為として彼女に降りかかった」のです。彼女は身も心も疲弊しきって日本に帰国しますが、修道会は妊娠した修道女に冷淡であり、春菜はどうしてよいかわかりません。

主人公春菜は、この不条理に、最初は自分の論理で物事を処理しようと考えます。「あれは悪夢だった。悪夢を悪夢として処理する方法も日本の社会は備えている」。暴行を受けて妊娠した子を中絶することは誰も非難しませんし、中絶さえすれば、「何事も無かった」ように生きていくことが出来ます。他方、子を中絶しない場合、生まれる子は「皮膚の色が黒い子」となり、そのような混血児を抱えて日本社会で生きていくことは大変なことです。

しかし相談した神父の言葉、「神は御自分で為されたことには必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」という信仰が、春菜の気持ちを変えて生きます。神は私にこの子を与えて下さった、それが納得できない形で与えられたにせよ、おなかの子には何の責任もない、この子を守って暮らそう、そのことによって不利益を受けるのであれば受けていこうと決意します。

神父の言葉を契機に、考えの中心点が自己から他者(この場合はおなかの子)に変えられていきます。彼女の決断はこの世の基準では愚かな決断になるでしょう。しかし信仰の決断としては別の評価が成立します。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。彼女はおなかの子を、自分に与えられた羊として生きていくことを決意したのです。そのことによって不利益を受ける=現在の自分に死ぬことは、無意味なことではありません。イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる」(ヨハネ10:17)。現在に死ぬことは将来に生きるためなのです。

イエスは十字架を通して、すなわち現在を死ぬことを通して、復活されました。弱い私たちも現在与えられた十字架を担って死ぬことにより、新しい命に生きる者と変えられるのです。復活を信じることによって、私たちに新しい力が与えられるのです。そして「十字架なしに復活はない」、ここに不条理(十字架)が与えられている意味があるのではと思いました。

「2009年5月3日説教黙想ノート」から 川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-04-04 17:19:23 (1702 ヒット)

篠崎キリスト教会では今年のイースターを次の日程でお祝いします。よろしければご参加下さい。

2009年4月10日(金)19時半
受難日礼拝  キャンドルサービスをおこないます。

2009年4月11日(土)10時
子どもイースター  エッグハンテイングをします。

2009年4月12日(日)11時
イースター主日礼拝  礼拝の中で姉妹のバプテスマ式を行い、礼拝後愛餐の時を持ちます。


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