すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2009-08-22 08:52:03 (1611 ヒット)

音楽に表された聖書の言葉(8/29チャペルコンサート説教原稿から)

9.11テロ現場の犠牲者を追悼する集会の中で歌われ、さらには教会の礼拝の中で歌われた歌がある。ポール・サイモンが作った「明日に架ける橋」だ。

「明日に架ける橋」はこういう歌詞だ
「あなたが疲れてどうしようも無くなった時、涙があふれて止まらない時、私がその涙をぬぐおう。私はあなたの側にいる。つらい時、友があなたを見捨てて誰もいなくなった時、私は自分の身を投げて、この荒海の上に橋を架けよう」。

それはヨハネが新約聖書・黙示録の中で歌った、来るべき神の国の有様だ。
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。そして「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。

何故なら、キリストが全ての人の贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちの方に橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、怒りと悲しみが分断してしまったこの海に橋を架ける。「明日に架ける橋」は現代の讃美歌なのだ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-08-16 08:35:21 (8449 ヒット)

「あなたに届けたい聖書の言葉・聖人の名言」(2009.8.16 Vol.032 作家 中井俊已)からの転載です。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。

人はどんなときに幸福を感じるのでしょうか。
多くの場合、何か望んでいたものを受けたとき、与えられたときかもしれません。
 
思いがけずに素敵なプレゼントをもらったとき、人から感謝されたとき、親切にされたときなど、やはり嬉しいものです。
 
ところが、「受けるよりも与える方が幸いである」と聖書は言います。人に何かをしてあげたらとても喜ばれて、自分も嬉しくなった経験がおありでしょう。人は互いに与え合うことによって幸福になれます。

でも、自分には与えるものなど何もないとおっしゃる方もいるでしょう。
何もなければ、あなたの愛と親切を与えればよいのです。
それは、あなた自身を分け与えることかもしれません。

たとえば、忙しいと感じているときでも、自分の時間を少しだけでも家族のために使い家族を喜ばせること。自分の好みを少しばかり押さえ、家族が喜ぶ何か小さいことをしてあげること。自分の話ばかりせずに、話を聴いてほしがっている人の声に耳をかたむけること、など。
 
このようにわたしたちが自分自身を与えることによって、わたしたちのまわりに幸福は生まれます。

マザー・テレサのことばです。
「親切で、慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人がだれでも、まえよりももっと気持ちよく、明るくなって帰るようになさい。神さまのご親切の生きたしるしとなりなさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに、温かく声をかけることばに表われるように」


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-08-12 20:11:17 (1238 ヒット)

8月12日(水)、13日(木)の祈祷会は夏休みになります。祈祷会は8月19日(水)から再開します。

篠崎キリスト教会 牧師 川口通治


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-27 09:47:06 (1291 ヒット)

水曜日の祈祷会では、これまで新約聖書を読んできましたが、先週のマルコ福音書読了で新約全巻の学びが終わりましたので、今後は詩篇を読んでいきます。

詩篇はもちろん旧約聖書に属しますが、イザヤ書と並んで新約聖書に最も多く引用されている書です。一例を上げれば、イエスの公生涯は詩篇で始まり(詩篇2:7)、詩篇の言葉で終わっています(詩篇22:2)。シナゴークで教育を受けた人々(イエスや弟子たち)にとって詩篇はもっとも身近な御言葉であり、常に口をついて出てきたのでしょう。

今回は、旧約聖書の一部としてではなく、新約をもう一度読み直すという視点で詩篇を読んでいきたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2009-05-20 09:11:45 (2447 ヒット)

同志社大学大学院教授で経済学者の浜矩子さんが、2009年5月13日朝日新聞朝刊に「バッドペニー(悪貨)は繰り返し手元に戻る」として、民主党小沢一郎氏の代表辞任・新しい代表選挙についてコメントを寄せた。内容は概ね次のようだ「バッドペニーは繰り返し手元に戻る・・・小沢一郎というバッドペニーもその執拗なカムバックぶりに一種の見事さがあった・・・彼がここまで世にはばかり続けてこられたことについては、彼が果たすべき一定の歴史的、社会的役割があったのではないか・・・聖書に出てくる古代の圧制者キュロス(ペルシャ王)はバビロニアに捕囚されていたユダヤ人たちを解放し、伝道者パウロは元々はキリスト教の迫害者だった・・・圧制者が民族解放の役割を果たし、迫害者が転じて信仰の熱き担い手になる。ことほどさように、天は意外な人物を意外な場面で起用する・・・小沢一郎にヒーロー役は明らかに不似合いだ。新しい流れを呼び起こすイメージはない。むしろ悪しき旧弊に色濃く染まった人物だ・・・だがそのような人物に対してであっても、必要とあらば天命が下る。そこが歴史の面白いところだ」。

浜矩子さんがクリスチャンかどうか知らない。しかし聖書を深く学び、聖書の出来事から、現代の政治を見て分析した。その結果、これまでにない洞察が可能になった。キュロスは捕囚地の預言者第二イザヤが「主の僕」「主が油注がれた人」とさえ賞賛した人物だ(イザヤ44:28-45:1)。今、教会の木曜祈祷会でイザヤ書を読んでいるので、浜さんのこの意見を興味深く呼んだ。同時にこの記事を読みながら、同じくイザヤ書を用いて日本の針路を憂えた矢内原忠雄を思い出した。矢内原は1937年「国家の理想」という論文を中央公論に発表した。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」と矢内原は書いた。

矢内原は古代の覇権国家アッシリアの例を引いて、「日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている」として、1937年7月に盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようとした日本を批判したのである。戦時中に軍部批判をすることは大きな勇気が必要だったと思う。予想通り、雑誌は発禁処分を受け、矢内原の論文は全文削除となり、これが契機になり、矢内原は東大教授の職を追われた。

矢内原論文にあるアッシリアは旧約イザヤ書や列王記に出てくるが、紀元前8世紀に世界帝国となり、パレスチナ諸国を次々に征服した。イザヤは預言の中で、それは神が不信のイスラエルを打つ「鞭」として用いられたからだと言った。ところがアッシリアは神の委託を超えて、自分が主人であるように振舞い始め、「私の前には敵はいない、私こそ神である」と驕り始めた。ここに至って主はアッシリアを撃つことを決意されたとイザヤは預言した。紀元前701年、エルサレムを包囲したアッシリア軍内に疫病が発生し、数十万人の兵が死に、アッシリアは軍を引き揚げ、世界帝国アッシリアはこのごろから勢力を弱め、やがて滅んだ。

聖書から世界を見ると、見えなかったものが見えてくる。聖書は「歴史を支配されておられるのは神であり、人間はそこに役割を果たすだけだ」という。聖書を通して、私たちはこの世の出来事や愛国心を相対化し、自己の利益だけでなく公の利益を考えることが出来るようになることを改めて思った。


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