すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-24 17:41:13 (134 ヒット)

1.信仰の決断をしたアブラハム

・私たちは創世記を学んでいます。これまで創世記1−11章を学んできましたが、この原初史が記すのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。今日は、創世記12章を通して、アブラハムへの召命が、私たちの人生とどのような関わりを持つのかを学んでいきます。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(創世記11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていたのです。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)。「私があなたを養ってその子孫を増やす。約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われたのです。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は神に一言も問い返すことなく、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルはその約束の地に到達せず、ユダ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、さらにはイスラム教においても、「信仰の父」と呼ばれるのです。
・アブラハムは信仰の決断をしました。ヘブル書はアブラハムの信仰をたたえます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」(ヘブル 11:8-10)。

2.信仰が揺らいだアブラハム

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました。創世記は記します「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。創世記は記します「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。
・今日私たちが聖書教育を通して示されているのは、創世記12:1-7ですが、もう少し先まで読んでいきます。何故なら創世記12章は7節では完結していないからです。さて、約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。創世記は記します「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや神に頼れないと思い始めているのです。
・神の庇護を信じられない者は他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。事実、妻サラはアブラハムの異母姉妹です(創世記20:12、古代において異母兄弟姉妹間の結婚は珍しくなかった)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。信仰の父と言われる人が、妻を売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じで す。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻をエジプト王の側室に売って、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。
・しかし、主はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知り、彼に問いかけます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。この言葉はヘブル語では「マー・ゾート・アッシータ」と表現されます。創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われました(4:10)。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われたのです。信仰の人、アブラハムは恥じて下を向いたことでしょう。しかし主はそのようなアブラハムを見捨てず、彼との約束を守られます。創世記は記します「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」(12:20)。アブラハムは与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。

3.罪人を用いられる神

・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。新共同訳は「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と訳しますが、口語訳では「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。アブラハムはエジプトからカナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。アブラハムは主を信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきた。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。聖書で信仰者と呼ばれる人は、決して品行方正の人ではありません。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、主はそのような罪人を用いて御業を行われるのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約を通じた福音です。
・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼びます。その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。創世記12章は7節までではなく、20節まで読まないと、本当のメッセージは生まれないのです。
・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-17 19:23:45 (148 ヒット)

1.弱さの中に恵みが

・第二コリント書を読み続けています。さて、この手紙を読み進みながら、明らかになったのは、パウロがコリント教会の離反に苦しみ、何とかしてコリントの人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙が書かれているという事実です。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから本当のキリスト者ではない」、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。
・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(1コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではないのです。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自己の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。
・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、この手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、伝道旅行を始める前、彼がアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを長々と語ることをしません。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは幻以上に彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。
・パウロは深刻な問題を抱えていたようです。ある人は「癲癇ではないか」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。あるいはパウロの活動を妨害するエルサレム教会がとげだったのかしれません。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。ですから彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。彼は語ります「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストのために、キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。

2.聴かれない祈り

・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷のいちじるしき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか。・・・簡単であってすげなかった。『我が恩恵汝に足れり』(第二コリント12章9節)というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。
・内村自身も、「聴かれない祈り」を経験しています。彼の娘ルツは16歳で天に召されています。内村は娘の病気が治るように繰り返し祈りましたが、祈り虚しく、ルツは死にます。内村の信仰が揺らぎます。何故祈りが聴かれなかったか。しかし内村はついに語り始めます「神は私の願いを斥けられて、私と私の愛する者を恵まれたことが分かった。死んだ私の娘は復活した。彼女の生存は、前よりもさらに確実なものとなった。天国の門は私のために開かれた。彼女の形体(かたち)が見えなくなって、私は彼女の霊を私の霊に懐くようになった。今や彼女は永久に私の娘である。誰も彼女を私から奪い取ることは出来ない」。そして語ります「私に聴かれない祈祷があるのは、神が特に私を愛して下さる最も確かな証拠である。幸いな者とは、神に悉くその祈祷を聴かれた者ではない。その最も願うことを聴かれない者である」。

3.キリストのために苦しむ

・今日の招詞にピリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために良かれと思い、手紙を書き、訪問し、指導しました。しかしコリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる慰めをいただきます。
・教会には誤解や争いが絶えません。これが「神の教会か」と思うこともしばしばあります。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は国宝のような宝物です。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきたのです。
・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは4冊の詩集を出しましたが、その第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」(アシュラム・センター)です。第二コリント12:9から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。次のような詩です「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実にはとても納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても困る時があります。その中で神を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と誇れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。私たちはパウロのようにはなれません。しかしパウロに憧れる事はできます。
・この世は力を賞賛し、強さを求めます。しかし私たちの主ナザレのイエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強いと思っている人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされ、今生きておられます。正にパウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-10 21:12:30 (231 ヒット)

1.エルサレム教会への献金問題

・第二コリント書を読み続けています。本日読みます9章は前回8章と並んで「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立してきました。やがてそれら異邦人教会が母国のエルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、それと同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。私たちの教会も新小岩バプテスト教会を母教会として生まれましたが、今では母教会とは違う形の教会形成を行っています。そのためパウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援のための献金を進めていました。献金は結果的には成功したようですが(ローマ15:25-27)、その過程では様々な混乱が起こりました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。複数者を送るのは献金運動についての誤解を解くためでした。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。教会がお金を扱うときにはこのような慎重さが求められます。私たちの教会でも毎月始の第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、それをどのように用いたのかを、1円単位で報告しています。献金には公平性と透明性が必要だからです。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」。蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金できるということは、たくさん与えられたことだ。その恵みをお返しするのが献金ではないか」とパウロは語ります。
・パウロは後にエルサレム教会へ献金を届ける旅に出ますが、その時次のように述べています「しかし今は(ローマのあなた方の所ヘは行かず)、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:25-27)。エルサレム教会から「霊的なものにあずかったのですから、肉のもので(献金を通して)彼らを助ける」のだと。

2.恵みとしての献金

・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだと。イエスが語られたように、「神を愛するとは隣人を愛する」ことです(ルカ10:27-28)。だからパウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・パウロの願いは、献金の交わりを通して、エルサレム教会と異邦人教会の間の誤解が解け、共に神を讃美するようになることです。パウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。そしてパウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。

3.私を試してみよと言われる神

・今日の招詞としてマラキ3:10を選びました。次のような言葉です。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」。マラキは「神はあなた方が貧しいことは知っておられる。しかしその貧しさの中で収穫の十分の一を捧げてみよ、そのことを通して、あなた方が神に生かされていることが明らかにされるであろう」と語ります。ここでのマラキは物質的な見返りを約束しています。マラキは続けます「私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」(マラキ3:11-12)。献金には祝福が伴います。
・曽野綾子「心に残るパウロの言葉」の中に、「神様、ケチケチしないで」という一文があります。曽野さんの知り合いの男性、ボランティア活動に熱心で、時々まとまった額のお金も捧げていたそうですが、ある時に彼女に語ったそうです。「面白いことに余分に出すと、その分くらい信じられないほどの儲けがある。神様が埋め合わせをしてくださるのかと思う。それである時、思い切って神様に言って見たのです“出した分の埋め合わせなど、そんなケチケチしたことをしないで、もっとガバっと儲けさせて下さい”。ところが面白いもので、決してそうはならない。あくまでもその分くらい埋め合わせをして下さる」。献金を通して恵まれる出来事は実際にあります。教会会計が「恵みの会計」と言われる根拠も底にあります。不思議なことに必要な分は与えられますが、必要以上のものは与えられない。
・しかし私たちには疑念も残ります。例えば、「飢餓が発生している所で、最後の一口の食物を子どもに与えた者は自分の死期を早めるだけではないだろうか」、あるいは「災害救助のために献金をしても、私の年金額が増えるわけではない」、その現実もまた確かにあります。私たちにはバランスのとれた献金理解が必要です。マラキ書から「十分の一献金」の考え方が生まれましたが、硬直的に考える必要はないと思います。パウロは語ります「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(9:7)。日々の糧に事欠く人が十分の一献金を捧げることは家計を破綻させます。神は決してそのような献金を望まれない。他方、高額所得の人が十分の一を捧げたらそれで十分に捧げたことにはなりません。献金は投資ではなく、既に多くのものをいただいた事に関する感謝です。十分の一はあくまでも基準であって、「持てるものに応じて、心に決めた通りに」、捧げれば良いのです。
・今日貧困が世界的な現象になっています。この問題は、私たちの献金で解決できるわけではありません。そのためには社会の構造転換が必要です。同時にその中で、私たちが出来ることを行っていくことは大事です。だから私たちの教会では、毎月第三主日の席上献金をペシャワール会、海外医療協力会、ギデオン協会等に捧げることによって社会の構造転換に関わっていくのです。それは小さな行為ですが、献金を通して資産・所得の再配分行為に参加していきます。献金は神からの贈り物であり、私たちが献金できるように恵んで下さったのは神であり、献金を通して私たちは隣人を愛していくのです。「福音がどんなに高等な理論として説かれても、実際の生活に生きてこなければ福音ではない」(榎本保郎)、私たちは「献金を通して隣人を愛せという教えを具体化していく」のです。そのことを覚えたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-04 08:50:13 (148 ヒット)

1.パウロの困難

・新しい年を迎えました。2015年はどのような年になるのでしょうか。あるいはどのような年にしていただくのでしょうか。私たちは今年もパウロの福音の言葉に耳を傾けていきたいと思います。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロは私たちからの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、何故わかってくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている。だから伝道がうまくいかないのだ」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉さえも心を開かれない人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。

2.この土の器に

・今のパウロは、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私を見るのではなく、私が持ち運んでいる福音を見よ」と語ります。それが7節の言葉です「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。パウロはここで訴えています「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方はその私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ。私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ないだろう。だから私は自分が土の器であることを恥じない」と。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。現在のパウロは失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを神の祝福を受けていない失敗者のように見ていたことでしょう。まるで廃棄される土器のように見棄てていたのでしょう。しかしキリストも十字架上で廃棄されました。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。だから語ります「こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(4:12)。パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。このイエスの十字架と復活こそがパウロの命の源泉であるのです。

3.希望の福音

・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命、肉体は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、また気力も低下していきます。人は土で作られた故に、死ねば土に帰るのです(創世記2:7)。しかし、「内なる人」、キリストと共にある生命は衰えることがありません。神によって生かされている命は、年をとってもなお生命力を増すのです。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは次のように語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。そしてキリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。それを実際に体験するために、私たちは洗礼を受けるのです。そしてこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。つまり「内なる人」をいただくのです。
・OECDの「幸福度調査」(Better Life Index,2012年)によれば、日本人は経済的に豊かなのに幸福度は低いという結果が出ています(日本の幸福度は21位/36カ国)。これまでは経済的豊かさこそが国民を幸せにすると考えられていましたが、どうやら違うようです。社会学者の吉中季子氏は「幸福度と社会的孤立度とは強い相関を持つ」と考えています(名寄市立大学社会福祉研究紀要)。社会的孤立度を図る指標「自分以外の人と一緒に過ごす時間が殆ど無い」という人が日本では15.3%もいて、これはOECD諸国平均(6.7%)の二倍以上、この孤独感が日本人の幸福度を大きく低下させているようです。日本では、かつてあった地域共同体や会社共同体が崩れ、また家族共同体も崩れ始め、人と人の絆が低下しています。都道府県別調査では福井、富山、石川等比較的に地域共同体が強い地方が幸福度上位を占め、東京や大阪の大都市圏はかなり低くなります。人は一人では行きていけない、誰かのサポート無しには生きていけない、そのサポートが極端に低くなり始めているのが現在の日本です。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。そのイエスの力は教会の交わりを通して与えられます。だからパウロはコリント教会が如何に頑なでもコリントから離れないのです。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-05-28 08:58:05 (152 ヒット)

1.キリストの香り

・クリスマスを前にしたアドベント第三主日に、私たちは第二コリント書2章後半から3章前半の部分を読んでいきます。「クリスマスなのに何故コリント書か」と疑問に思われる方もおられるかもしれません。一つにはこれまでコリント書を1章ずつ読み進めてきたからですが、同時に今日の箇所には、私たちがどのようにクリスマスを迎えるべきかについての御言葉があると思えるからです。コリント書を読んでいきましょう。
・コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会の人々の信仰は動揺していました。具体的には、伝道者たちは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け、律法を守ることによってではない」という福音を否定しました。そしてパウロは「エルサレム教会からの推薦状を持たないから使徒ではない」と非難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書き、それが2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。
・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都ローマで皇帝と大群衆の前に凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には征服地から奪った宝物が運ばれていきます。次に捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、将校たちや兵士たちを従えて行進します。
・祭司たちが振りまく香は、将軍と兵士たちには喜びと勝利と生命の香りであり、他方戦争捕虜たちにとっては死の香りでした。だからパウロは書きます「(それは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。パウロは「福音の香りも同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」と語るのです。パウロは先にも語っています「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。福音はそれを聞く者に「根本的に生き方を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はその生き方を変えた。だから私たちはあなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。

2.キリストの手紙

・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、異なる福音、律法による救いを唱え、教会を混乱させていました。彼らはエルサレム教会の使徒たちからの推薦状を携え、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていない」から偽使徒だと攻撃しました。パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」と語ります。「神の言葉を語ると称して報酬を得ているだけの存在が、エルサレム教会からの推薦状を持っていても何の価値があるか」と。
・それに対してパウロは「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、それはあなたがたなのだ」と語ります。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、それまでの異教礼拝を止め、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。この二つの事柄は、私たちに次のことを示します。つまり、「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。
・オランダの神学者ヘンドリック・クレーマーは1958年ケンブリッジ大学で講演し、その内容を「信徒の神学」として刊行しました。彼は語ります「現在は教職者が教会の管理者・代弁者であり、信徒の姿は見えないが、歴史的には信徒が教会形成に重要な役割を果たしてきた。しかし、やがて指導者の教職化・祭司化が始まり、按手を受けて礼典を執行する聖職者と礼典の受領者としての信徒の分離が進行した。宗教改革においても説教と礼典執行については教職委任の方向が残り、教職者が支配的な地位を占め続けた」。「しかし」と彼は続けます「教会は世にあって、世に仕える。その世で働く者こそ信徒であり、教会が世に仕えるためには信徒が不可欠である」。彼は日本に来た時に次のように語りました「日本の伝道は牧師がする直接伝道より、信徒の生活による間接伝道が必要だ。イエスは『あなた方の光を人々の前に輝かせ』と言われた(マタイ5:16)。『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言われた。御言葉を日々実行しなさい。それが伝道である。日本の教会は建物と牧師だけの教会である。信徒は死んでいる。その結果、教会は日本社会の中から浮き上がっている」。皆さんは「キリストの香り」、「キリストの手紙」なのです。日本の伝道が振るわないのは、みなさんが伝道の前線ではなく、後方にいるからではないかと思います。皆さんが伝道の最前線に立った時、日本の教会は確実に変わっていきます。

3.土の器に宝を持って

・今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れました。コリントの人々はパウロの行動を見てそれを人間的に判断し、その後ろにおられる神を見なかったからです。同じように、牧師と信徒の間の信頼関係が崩れた時、教会は危機を迎えます。何故なら、教会で御言葉が語られ聞かれるためには、語る者と聞く者との間に信頼関係がなければいけないからです。それは人間的な信頼関係ではなく、「神がこの人を私の牧者として遣わされた」という信頼関係です。牧師そのものの人間性を見れば、その信頼関係は揺らぎます。彼もまた「土の器」に過ぎないからです。しかしその牧師を神が立たせて下さったと受け入れた時、信頼関係が成立します。説教も同じです。人間が神の言葉を語ることは出来ません。語るのは人間であり、語られる説教もまた人間の言葉です。しかし、その言葉の中に神の言葉を聞きとった時、その説教は神の言葉になります。
・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。また彼は雄弁な説教者ではなかったようです(10:10「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」)。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで、私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。
・私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。クリスマスはキリストの生誕をお祝いする時です。世の人々はクリスマスソングを歌い、プレゼントを交換し、ケーキを食べます。しかし、私たちは、そのようなクリスマスを迎えることが出来ない多くの方々のために、キリストの香りを届け、キリストの手紙を配達します。「あなたは一人ではない。慰め主が共におられる。私たちはその方から使者として今日来ました」として、訪問する時です。手元には、クリスマス礼拝を知らせる一枚のチラシがあります。それは単なるチラシに過ぎませんが、「救われる者には命から命に至らせる香り」になりうるし、「墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられた手紙」にもなりうるのです。


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