すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-14 17:05:00 (100 ヒット)

2019年1月20日聖書教育の学び(2010年2月7日説教、ルカ5:1−11、お言葉ですから従います)

1.ペテロの召命

・2月に入りました。今日与えられました聖書日課はルカ5章、イエスが弟子たちを招く記事です。弟子たちの召命ではマルコの記事が有名です。マルコは記します「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:16-18)。「二人はすぐに網を捨てて従った」、マルコの記事では、初対面のペテロとアンデレがイエスの招きに答えて、すぐに網を捨てて従ったとありますが、人は通常、初対面の人に誘われてすぐに従うことはしません。ルカはこの記述を見て、修正する必要を感じたのでしょう。そのため、ペテロたちがどのようにしてイエスの招きに応えていったのかを、別の資料に基づいて書きました。それがルカ5章の記事です。
・本文を読んでいきましょう。ルカは記します「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」(5:1-3)。ペテロと仲間たちは夜を徹して漁をしましたが、何も取れず、気落ちして網を洗っていたところでした(5:5)。そこにイエスが来られて、舟に乗せてほしいと頼まれましたので、舟を漕ぎ出します。ルカによれば、ペテロとイエスは初対面ではありません。イエスが前にペテロの姑の熱病を癒したことがありました(4:38-39)。顔見知りですからイエスはペテロに船に乗せてほしいと頼み、ペテロも引き受けたのでしょう。
・ペテロは舟上で語られるイエスの言葉を共に聞きましたが、おそらく特段の印象は受けなかったのではないかと思われます。何故なら、彼の心は漁の不作でふさがれていたからです。夜通し働いたが何の収穫もなかった、魚が売れなければ収入はない、どうしたら良いのか、そのことをペテロは悩んでいたようです。イエスはペテロの心にある悩みを察知され、説教が終わると、ペテロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます(5:4)。ペテロは漁師であり、漁の専門家でした。漁は深夜から夜明けに行うのが通常で、昼に漁をしても収穫が少ないことをペテロは経験から知っていました。しかし、前にイエスに家族の病気を治してもらったことがあり、また会堂での説教も聞いて感服していましたので、断るのも気がひけたのでしょう。ペテロは答えます「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5:5)。
・ペテロが沖に舟を漕ぎ出し、網を降ろしたところ、網が破れそうなほどの多くの魚が取れました(5:6)。ありえないことが起こったのです。ペテロはこれを見てイエスがただの人ではないことを知り、恐れて、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(5:8)と懇願します。ペテロはこれまでイエスを「先生」と呼んでいました。しかし今、ペテロは驚くべき出来事を見て、自分が神の人の前に立っていることを知り、「主よ」と呼び変えます。そのペテロにイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)と言われ、ペテロと仲間たちは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とルカは記します(5:11)。

2.人間をとる漁師へ

・夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れきって網を洗う現実がこの世にはあります。会社から解雇され、次の就職先も見つからずに気落ちする人がいます。老親の介護に疲れて生きるのがいやになった人もいます。夫に先立たれ、子供を抱えて、これからどうしたらよいのかと悩む妻もいます。自分の努力が報われない、人間の智恵や経験では乗り越えられない人生の限界があります。その限界を超えるものがイエスの呼びかけです。一晩中働いても一匹の魚さえ取れなかったペテロに、「もう一度やって見なさい」とイエスは言われます。その招きに「無駄かもしれませんがやってみましょう。お言葉ですから」とペテロは答えました。その時、虚しい現実が豊かなものになる経験を人はします。「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5:6)出来事を見ます。その圧倒的な神の力に接した時、人は神の前にひざまずきます。イエスを「先生」と呼んでいたペテロが、今イエスを「主」と呼びます。この体験、人知を超えた神の力に触れることによって私たちに信仰が与えられるのです。生きた神の現臨に触れる、その体験におののくことがなければ、頭だけの信仰はいつか崩れます。信仰は自分の身に起こった出来事への感動、応答なのです。
・罪を告白した者には祝福が与えられます。それは「恐れ」からの解放です。信仰生活を送るとは、主に委ねることが出来るので、全ての恐れから解放されることです。イエスはペテロに言われました「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)。「人間をとる漁師」と新共同訳は訳しますが、原文には「漁師」と言う言葉はありません。ゾーグレオー=捕らえる、生け捕りにするという動詞が用いられており、直訳すると「あなたは人間を生け捕りにする者になる」となります。人間を生け捕る=人々を捕らえ、生き返らせるものにする、自分一人の幸不幸に患わされる者から、他の人を解放する存在に変えられるとイエスは言われたのです。私の救いから私たちの救いへ、信仰が「私たちの救い」になった時、その信仰は力を持つようになります。
ペテロが招かれているのは、幸福への道、自分だけの幸いを求める自己から解放され、人間をとる漁師になる=私たちの幸いを求める道です。

3.召しに応える生き方

・私たちもまたペテロと同じ招き、自我の業である信仰から解放されて、神の働きに参加しなさいという招きを受けています。「お言葉ですが」と拒否した時、そこには出来事は起こりません。「お言葉ですので」と従う時、そこから新しい世界が開けていきます。信仰の父と言われるアブラハムもそうでした。今日の招詞に創世記12章1節を選びました。次のような言葉です「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。
・アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明の発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれていた、神の創造の業が忘れ去られていたのです。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラにそこを離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草がある限り、羊や山羊を生計の手段とする、遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川を離れて砂漠を超え、カナンの地に行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」と言われました。「私があなたを養い育てる、その約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われたのです。彼はその時75歳でした。人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もなく、これからも子を持つ希望もありませんでした。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は一言も問い返すことなく、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブの12人の息子が後のイスラエル12部族を形成していきます。ユダヤ人にとってアブラハムは民族の祖です。このユダヤ教からキリスト教が生まれ、キリスト教においてもアブラハムは信仰の父(ローマ4:11)と呼ばれています。また、アブラハムは側女ハガルを通してイシマエルを生みますが、このイシマエルがアラブ民族の祖になっていきます。イスラム教もまたアブラハムから生まれていったのです。世界の三大宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれもがアブラハムを父と呼んでいます。そのアブラハムの第一歩がこのハランからの旅立ちの中にあるのです。
・私たちもまた「新しい一歩を踏み出せ」と招かれています。今、多くの若い人たちが希望を喪失しているのは、やるべきことが見出せない、あるいは与えられた挫折の意味がわからないからだと思います。聖書は希望を伝えます。人生の限界に直面する人々にイエスは「もう一度やって見なさい」と言われます。そして「もう一度」行った時、人間の限界を打ち破る神の業が示されます。それを見た者、生きている神の現臨にふれた者は、新しい人生に踏み出すように招かれます。その招きを皆さんも今日、受けているのです。
・「どうせだめだ」として網を降ろすことを拒否した時、そこには奇跡は起こりません。だめでもいいから、イエスが言われるのだからとして網を降ろす時、そこに驚くべき出来事が発生します。これは多くの人が経験している出来事です。個人の信仰も教会の形成もこの驚き、この感動が基本となって形勢されています。この恩恵の体験を通じて人は信じるものとされ、教会はイエスを「主」と仰ぐものにされていくのです。信仰とは私が信じるのではなく、信じるものにさせられていく出来事なのです。ドイツの神学者ゴルヴィッアーは語りました「教会はイースター(キリストの復活)の後に起こったのではなく、ペンテコステ(弟子たちへの聖霊降臨)と共に始まったのでもない。教会はペテロがイエスの言葉に従って網を降ろし、驚くべき出来事を経験した時に起こったのだ」。彼の言葉は正に真実なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-06 18:56:39 (107 ヒット)

2019年1月13日聖書教育の学び(2002年12月8日説教、ルカ4:14-22、約束の成就)

1.イエスの宣教の始め

・イエスは宣教の業をガリラヤで始められた。イエスの言葉といやしの業は多くの人々をひきつけ、イエスの評判は高まっていった。しばらくしてイエスはガリラヤのナザレにお帰りになった。人々は郷土出身の名高い預言者が帰ってきたとして、話を聞くために会堂に集まった。イエスが会堂に入られた時、人々はイザヤの巻物を渡した。イエスは聖書を朗読された後、この預言はあなた方が耳にしたこの時に成就したと言われた。
・人々は約束の成就を待ち望んでいた。生活が苦しかったからである。ユダヤの国はローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に二重に税金を納めなければならなかった。税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄された。また、多くの人々は土地を持たない小作人として働き、貴族や祭司等の地主に収穫の半分以上を小作料として取られていた。天候不良で不作の時には大勢の餓死者が出た。豊作の時でさえ、食べるのがやっとの生活であった。病気に罹れば、治療を受けることも出来ず、死んでいった。人々は約束されたメシヤ(救い主)が来て、自分たちの生活が良くなることを待望していた。その人々にイエスは言われた。「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と。
・今日は待降節第二主日である。私たちは2000年前のユダヤに住む人に比べて、生活は豊かになった。食べるものに困っていないし、住む家もある。しかし、満たされていない。家族の不和で苦しみ、病気で苦しみ、将来の経済生活を不安に思っている。私たちも、救い主の降誕を待ち望んでいる。だからろうそくの光をともし、光である救い主が来られる時を待ち望む。その待望していた救い主が来られた。救い主は私たちに何を言われたのだろうか、ルカ4章から学びたい。

2.ナザレにて

・当時のユダヤにおいて、人々は安息日に会堂に集まり、聖書を読み、説教を聞き、祈った。最初に信仰告白が読まれ、次に聖書日課に従って先ず律法の書(旧約聖書の最初の五書)が、その後預言書が読まれ、読んだ人がそれについて短い話をするのが慣例であった。その日の預言書の個所はイザヤ61章であり、イエスは渡された巻物を朗読された。それがルカ4:18-19の所である。
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
・これは、イエスが、イザヤ書61:1-2の預言を、当時の人々の困窮に焦点を当てて語られている個所である。人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていたが、その貧しい人々に良い知らせが語られる。税金が払えない人は獄に入れられていたが、彼らは獄から解放される。病に苦しむ人はその病がいやされる。土地を持たず、小作農として苦しむ人には土地が与えられる。
・「主の恵みの年」はヨベルの年を指す。古代のイスラエルでは、50年ごとに債務が免除され、奴隷は解放される習慣があった。その時、角笛(ヨベル)が吹かれたため、この名がついた。それは、エジプトで奴隷として苦しんでいたのを主が救われ、現在の安泰があるのだから、今苦しんでいる人を助ける為にその債務を赦してあげなさいという戒めである。今、その主の恵みの年が実行され、債務の返済に苦しむ者には債務免除が告げられるとイエスは言われた。正にここで「解放」が宣言されている。苦しむ人々を解放する為に、父なる神は私(イエス)に油を注いで聖別し、ここに遣わされたとイエスは言われているのである。
・人々はその言葉に感動した。「彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆し(た)」(ルカ4:22)しかし、人々は続けて言った「この人はヨセフの子ではないか」。大工のヨセフの子、私たちと同じく貧しく、学問も権力もないヨセフの息子が何故このような約束が出来るのか、人々はイエスの言葉を信じることが出来なかった。故郷ナザレの人々は、イエスを子供の頃から良く知っている故にその言葉を信じることが出来ず、たわごとを言うものとしてイエスを追い出した。

3.ユダヤにて

・これはユダヤの他の地でもそうであった。イエスは人々に抑圧からの解放を告げられた。しかし、多くの人々にとって救済とは社会的・政治的救済であった。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいたから、人々はメシヤが現れてローマからユダヤを解放してくれることを願った。土地を奪われて生活が苦しかったから、メシヤが土地を取り戻してくれる日が来ることを願った。病で苦しんでいたから、病をいやしてくれるメシヤの到来を期待した。そして、イエスがそのようなメシヤでないことがわかると、人々はイエスを十字架につけて殺した。
・現代の人も、抑圧からの解放とは、たとえばフランス革命において人々がバスチーユの牢獄の扉を打ち破って人々を解放した時に始まったと思っている。しかし、フランス革命で起きたことは、新しく権力を握ったものが反対派を弾圧して殺したということである。歴史が教えることは、武力による革命によって変るのは支配者だけであり、抑圧からの解放はないということだ。
・社会的・政治的救済は一時的かつ相対的なものに過ぎない。貧しい者にお金が与えられても心が豊かになるわけではない。現代の私たちは、明日食べるものに困らないが、心は豊かになっていない。獄にいるものが釈放されるのは救出であるが、悔改めの心がなければまた獄に入るであろう。歴史が進んでも、犯罪は少なくなっているどころか増えているのではないか。盲人の目を開け、病者に健康を回復させるのは治癒であるが、心の目が開かれなければ真の光を見ることは出来ない。目が見えるようにされた人は感謝するだろうが、1年経てば感謝は薄れ、2年後には目が見えるだけでは幸せにはなれない。圧迫されるものを解き放つのは解放であるが、解放されたものはまた新しい抑圧の中で不満を言うだろう。債務の免除はありがたいが、本当の債務、罪の負債は十字架以外では贖うことはできない。
・社会的・政治的救済は無意味ではないが、人の心が変えられなければ、人間の霊的解放が為されなければ、何にもならない。イエスは霊の命を与えようとされたが、人々は物質的なパンを求めた。イエスは神の国を与えようとされたが、人々は地上の王国を欲した。人々の驚嘆と尊敬の中に始まったイエスの宣教が、三年を経ずして、人々の呟きと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこのためである。

4.私たちへのメッセージ

・私たちはどうであろうか。私たちはイエスに何を求めているのか。私たちは自分たちが捕らわれており、目が見えず、圧迫され、債務を負っていることを本当に知り、それからの解放を求めているだろうか。私たちは本当にナザレでイエスが宣言されたように神の国は来た、解放の時は来たと受け止めているのだろうか。もし、そうならば何故私たちから応答の行為が出ないのだろうか。
・ルカ4章のイエスの言葉を文字通り受け止めて行動した人々がいる。ジュビリー2000の運動を推し進めた人達だ。ジュビリーとはヘブル語でヨベルの年を意味する。西暦2000年、即ちイエス生誕2000年はヨベルの年、主の恵みの年だった。イギリスの聖公会を始めとするキリスト教諸団体が協議して、発展途上国の累積債務免除運動を主の恵みの年の具体化として始めた。アフリカや中南米等の最貧国と言われる国々は、先進国からの債務の返済が国家予算の半分以上を占め、教育や福祉のお金を削って債務の返済を行っている。その結果、貧しいものがさらに貧しくなるという悪循環の中にあり、これを打破するには累積債務の免除を行うしかないとして国連や先進諸国に働きかけた。99年のケルンサミットの時には1700万人の署名を集めて、債務の一部削減を合意させた。そして翌年の沖縄サミットでは貧困国のためのエイズ基金の設置が合意され、エイズ治療薬を無料で配布できるようになった。エイズは治療薬の開発により先進国では普通の病気になったが、薬を買えない国では依然ペストのような死病である。この基金の創立により、多くの命が救われるようになった。祈りが行為となったのである。
・神の言葉は無力ではない。今日の招詞にイザヤ55:10-11を選んだ。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送った事を果す。」イエスは「私がこの地上に来て神の国は始まった」と言われた。2000年後の人々がその言葉を自分たちに言われた言葉として聞き、最貧国の累積債務問題を解放の具体化として取り組んだ。その結果、不十分であれ、目に見える解放が為された。正に神の口からでる言葉は空しく天に帰らず、神の喜ばれることをなし、神が命じられることを果した。今日、私たちが問われていることは本当にイエスの降誕を待ち望んでいるのか、もしそうであるとすればそれをどのように証ししていくのかということである。
・先週、私たちは祈祷会でマタイ14章を学び、弟子たちが持っていた5つのパンが5千人を養ったという記事を学んだ。弟子たちが5つのパンを差し出さなければあの奇跡は起きなかった。神は私たちを使ってその御旨を実現される。私たちはそれを信じるのか、本当に神の国が来ますように祈っているのか。それが待降節、アドベントに私たちが受け止めるべきメッセージである。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-30 13:41:18 (153 ヒット)

2019年1月6日聖書教育の学び(2003年1月12日説教、ルカ3:15-22、イエスのバプテスマから)

1.バプテスマのヨハネの宣教

・ローマ皇帝テイベリウスの治世15年(紀元28年頃)、バプテスマのヨハネと呼ばれる預言者がヨルダン川流域の荒野に現れ、人々に悔改めのバプテスマを勧めた。当時、ユダヤの荒野にはエッセネ派の人々が住み、祈りと断食の修道生活をしていた。彼等は罪を清めるために毎日水に入ったが、ヨハネは体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを神から啓示され、人々に悔改めを促すために預言者として立たされた(ルカ3:1-3)。
・ヨハネは「終末は近づいた。悔改めて相応しい実を結ばないものは、切り倒されて火に投げ込まれるであろう」という審きを告げて人々に悔改めを迫った(3:9)。当時、人々も世の終わりは近いと感じていた。イスラエルではヘロデ大王の死後、その三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダヤ中心部はローマ直轄領とされた(紀元6年)。しかし、ローマの支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていた。人々はこの乱れた世を救うメシヤ(ヘブル語=油注がれたもの、ギリシャ語訳がキリスト)の到来を待ち望んでいた。人々はヨハネこそメシヤかも知れないと期待した(3:15)。しかし、ヨハネは自分はメシヤではない、メシヤはやがて来られる方だと述べていた(ルカ3:16)。

2.イエスのバプテスマ、公生涯の初め

・イエスはヨハネの宣教の噂を聞いて、故郷のガリラヤを出られてユダヤに来られた。そしてヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ、ヨハネの弟子となられた(マルコ1:9)。イエスがバプテスマを受けられた時、天が開き、声が聞こえたとルカは記す(ルカ3:21-22「民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者である』」)。この時、イエスは自分がメシヤとしての召命を受けていることをお感じになった。バプテスマを受けられた時、詩篇2:7「おまえは私の子だ。今日、わたしはお前を生んだ」の言葉がイエスに満ち、聖霊が下ったとお感じになったのであろう。イエスの公生涯の始まりである。
・ヨハネはバプテスマについて「私が水でバプテスマを授けるが、私の後に来られる方は、聖霊と火でバプテスマを授けられる」と言った(3:16)。イエスはその公生涯の初めに水によるバプテスマを受けられた。その生涯の最後に十字架の死による霊のバプテスマを受けられた。聖書が私たちに示すことは、私たちもまず悔改めて水のバプテスマを受けることが救いの初めであり、その後イエスが負われた十字架を私たちも負う事によって救いが完成するということだ。水のバプテスマは私たちを洗う。私たちは自分が罪人であることを認め、先ず水に入る。そして信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、聖霊に満たされて新しくされる時を迎える。これが火と聖霊によるバプテスマだ。その時、私たちは生まれ変わり、もう以前のような人生は歩めなくなる。
・水のバプテスマを受けるだけでは十分でないことは、私たちが教会でバプテスマを受けても罪を犯し続ける存在であることからも明らかだ。水のバプテスマは始まりであり、完成ではない。水のバプテスマは天国行きの切符ではないし、一生を安心して保証する万能の保険でもない。やはりイエスに従ってそれぞれが十字架を負わなければ本当の救いはない。ルカ9:23-24「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」の言葉が意味するものはそういうことだ。
・それでは教会のバプテスマの意味は何か。今日の招詞にローマ6:3-5を選んだ。パウロは言う。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しい命に生きるためである。もし私たちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。バプテスマを受けることによって、私たちはキリストの十字架を覚え、キリストを降された神の愛を思う。その時、私たちも神の祝福をいただく「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」(ルカ3:22)。この祝福、「私はあなたと共にいる(インマヌエル)」という約束こそが神からの祝福だ。この祝福をいただいた時、私たちはどのような十字架をも負うことが出来る。仮に私たちに重い病が与えられた時、私たちは神がこの病を通して導いておられることを知る。その時、病は祝福になる。仮に私たちに立ち上がることが難しいような挫折が与えられる。その時私たちはこの挫折の向こうに神の祝福があることを知る。その時、私たちはこの挫折を感謝して受け取る。水のバプテスマを通して私たちは「神共にいます」という約束をいただく。そして何時の日か、その約束が成就するという希望を持つ。水のバプテスマを受けることによって救いが始まり、その救いは私たちの人生の歩みの中で完成されていく。

3.赦し主イエス

・イエスはバプテスマを受けられた後も、ヨハネの弟子として荒野におられた。その後、ヨハネはヨルダン川東岸の領主であったヘロデ(アンテイパス)を非難したため、捕えられて死海の近くにあるマケロスの要塞に幽閉された。ルカ3:19-20の記事「領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた」はこの間の事情を伝える。イエスがヨハネを離れて独立して宣教を始められたのは、その後である。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ』」(マルコ1:14-15)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届いた。ヨハネの使信は「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものであった。ルカ3:17は預言者の言葉を伝えている「箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き捨てるであろう」。人々が収穫した穀物を箕の上に投げ上げる時、実の入っていない殻は軽いため風に吹き飛ばされ、実のある穀物だけが箕の中に戻る。そのように、良い行いをしないものは集められて火に燃やされるというのがヨハネの考える審判であり、メシヤとはその審き主であった。しかし、評判として聞こえてくるイエスの行為は罪人の審きではなく、罪人の赦しであった。ここにおいてヨハネはイエスが本当にメシヤかどうか疑問を感じ、イエスの元に使いを送った。その使いにイエスは答えられた「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞え、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」(ルカ7:22-23)。
・ヨハネは預言者であった。預言者は人々に悔改めを求め、それに相応しく生きることを求める。天に宝を積めばそこに救いがあると彼等は主張する。ルカ3:11-14の言葉がそれを示す(二枚の下着を持っている者は一枚を隣人に分けよ、不正をするな、人々からむさぼるな等々)。しかし、このような道徳的行為では人は救われない。だからイエスが来られた。人間の罪は自己を救うにはあまりにも重いのだ、だから神が地上に来られた、そして十字架で罪の身代わりとして死なれたと聖書は言う。人間の罪、原罪を示すものが、ローマ3章にあるパウロの言葉だ。「義人はいない、一人もいない。・・・彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らの唇には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。」(ローマ3:10-18)。
・私たちはこのパウロの言葉を聞くとき、自分はそんなに罪人ではないと思うかも知れない。しかし、冷静に自分を含めた人間存在を見つめた時、このパウロの言葉が誇張ではないことを知る。全ての苦しみ、悲惨は人間から来る。それは小さな実験をしてみるとすぐにわかる。今、私が言葉で皆さんを喜ばせることは至難の技だ。しかし、傷つけるのは簡単だ。皆さんが一番気にしている弱点、人に知られたくないと思うことをここで述べるだけで皆さんは傷つく。正に「(私たちの)のどは、開いた墓であり、(私たち)は、その舌で人を欺き、(私たち)の唇には、まむしの毒があり、(私たち)の口は、のろいと苦い言葉とで満ちている」なのだ。これが私たちの本性であり、私たちの罪だ。私たちがその罪を知り、罪の縄目の中で奴隷になっている私たちのためにキリストが来られたことを知るのが悔改めだ。その悔改めのしるしとして水のバプテスマを受ける。全てはそこから始まり、霊のバプテスマを受けて完成する。私たちの人生は約束の地を目指して歩む旅人の人生だ。私たちは今、約束のものを受けるために旅をしているのだ。その旅の始まりが水のバプテスマなのだ。イエスのバプテスマを記すルカ三章の記事は私たちにそう教える。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-23 16:47:28 (97 ヒット)

2018年12月30日聖書教育の学び(2005年1月2日説教、マタイ2:13-23、難民となられたイエス)

1.クリスマスの後で

・12月26日、クリスマスの翌日、スマトラ島沖で大地震が起き、10万人を超える人たちが死んだ。多くの子供たちが津波のために命を落とし、子を無くした母親の嘆きの声がテレビで放映された。私たちは思う、自然も含めてすべては神の権限のもとにある。神が許されなければ、地震も津波も起きなかったであろう。神は何故このような災害が起こることを許され、10万人を超える命が失われることを許容されたのだろう。しかも、クリスマスの喜びの時に。聖書は、イエスが誕生された時、まさにクリスマスの時に、同じような悲しい出来事が起こったと告げる。それがマタイ2章の出来事だ。
・イエスが生まれられた時、東方にしるしの星が現われ、星に導かれた三人の占星術師たちが、救い主に会うために、エルサレムに来た。彼らはエルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。救い主がユダヤ人の王としてお生まれになった、この知らせは地上の王であるヘロデに不安をもたらした。ヘロデは、自分を脅かす者が生まれたとの知らせに、猜疑心を強め、自分の王位を守るために新しく生まれた王を殺そうとする。彼は兵士に命令を出し、ベツレヘムとその一帯の2歳以下の男の子たちをすべて殺させた。子供たちを殺された母親の嘆きの声がベツレヘムにとどろいた。マタイは記す「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタイ2:18)。
・ベツレヘムで殺された幼子たちの親や家族は、何が起きたのか、何故こんなことをされねばならないのか、わからなかったであろう。彼らはメシアが生まれた事も、そのことに危惧を感じたヘロデが、可能性のあるすべての幼子を殺そうとしたことも知らなかった。何も知らないうちに、家族は、突然に、悲しみのどん底に突き落とされてしまった。彼らは思ったであろう、神は何をしておられるのか。神は何故このようなことを許されるのか。その混乱の中で、生まれたばかりのイエスは父ヨセフに連れられてエジプトに逃れられた。クリスマスとは、生まれたばかりのイエスが、ヘロデにより命を狙われて避難され、ベツレヘムに残った他の子供たちは無残にも殺されていった出来事だとマタイは述べる。
・夢でヘロデの陰謀を知らされたヨセフは直ちに、幼子とその母を連れて、エジプトに逃れた。そしてヘロデが死ぬまでそこにいたと記されている。イエスが生まれられたのは紀元前6年、ヘロデが死んだのは紀元前4年であるから、イエスは2年間エジプトに滞在されたことになる。その間にどのようなことがあったのか、聖書は何も言わない。異邦の土地での難民生活は楽ではなかったであろう。今も、この地球上には2500万人の難民がいる。彼らの暮らしが楽でないように、イエス一家のエジプトでの暮らしも苦労の連続であったであろう。
・やがて、ヘロデ王は死んだ。ヨセフは夢でヘロデの死を知らされ、ユダヤに帰ってきた。しかし、そこにまた新しい難関が待ち受けていた。ヘロデ王が死んだ後、イスラエルは三人の息子に分割され、ユダヤは長男アケラオが領主になった。この男は父以上に残忍な王であったと歴史書は記す。そのため、イエスとその家族はベツレヘムに戻ることが出来ず、アケラオの支配の及ばないガリラヤに逃れ、ナザレの町に住んだ。こうして、イエスはガリラヤのナザレで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになった。イザヤは預言している「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:1-2)。この若枝がヘブル語のナザレだ。マタイはイザヤのメシア預言が、イエスがナザレに住まれることで成就したと考えている。どのような人間の闇の中にあっても、神はイエスと共にいて、イエスを守っておられたとマタイはこの預言を通して主張している。

2.何故イエスは難民となられたのだろうか

・イエス誕生の出来事の中に闇があったとマタイは証言する。メシアの誕生を喜ばず、不安を抱いたヘロデにより、幼児虐殺が起こされた。しかし、マタイはこの恐ろしい出来事の中に、一つの意味を見出している。そのことを知る言葉がマタイ2:18だ。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。この言葉のどこに救いがあるのだろうか。
・今日の招詞にエレミヤ書31:15-17を選んだ。次のような言葉だ。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
・この預言の前半をマタイは引用して、ベツレヘムの悲しみを述べた。そして彼は後半の言葉を思い起こせと私たちに告げる。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。ラマはイスラエルの民がバビロンに連行された時、捕囚民が集合を命じられた場所だ。子供たちが捕虜として敵地に連れて行かれる、その光景を見て、イスラエルの母親たちは泣いた。その時、神は言われた「この悲しみはいつまでも続かない。この悲しみは終わる。あなたが流したその涙は報われる。あなたの息子たちは帰って来る。その希望を持って待て」。
・イエスはヘロデの陰謀から逃れられた。残されたベツレヘムの息子たちは殺された。母親たちは涙を流した。しかし、その涙は報われる。キリストの苦難はその出生と共に始まった。その苦難は十字架で完成される。エレミヤは主の言葉を続ける「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。・・・私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ31:33)。イエスは十字架にかかられる前日に弟子たちと最後の食事をとられ、言われた「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。神はイエスを十字架につけるために、生まれたばかりのイエスの命をヘロデから助けられたのだ。
・ある者は幼い時に死ぬ。別の者は天寿を全うして死ぬ。人間の目から見れば、その差は大きい。だから、私たちはベツレヘムの幼子たちが無残にも殺されることに納得しないし、津波で多くの子供たちが死んだことも理解できない。聖書は語る、何故ベツレヘムで多くの子供たちが殺されたのか。人間の心の中にある闇のためではないか。この闇をどうすれば取り除けるのか、それを求めよと。
・しかし、人は言うだろう、今回の津波は自然災害ではないか。人の罪、人の闇がどう関係するのか。今回の津波で、被害が大きいのは貧しい国々だ。スリランカでは27000人が死んだ。しかし、その隣にあるモルディブでは死者は60人しか出ていない。桁違いに少ない。毎日新聞は12月28日付夕刊で次のように伝えた「モルディブの人口の約3分の1が住む首都マレでは、日本からの公的支援で建設された防波壁が、島を津波の大惨事から守ってくれたとの見方が広がっている。海抜1メートルしかない1200の島々から成る同国は地球温暖化の進行で国全体が沈みかねないとの不安を抱え、常に海面上昇への恐怖と隣り合わせで生きてきたが、88年以降、進めてきた首都の護岸工事が壊滅的な被害を回避するのに貢献したと、島民は口々に語った」。ここまで被害が広がったのも、必要なことを為さなかった人災の面が強い。やはり、闇は人間の罪から広がるのだ。
・この闇をなくすためにイエスは生まれられ、難民となられ、十字架に死なれた。人が苦しむ、その苦しみは決して無駄ではなく、苦しみを通して救いが与えられることを示されるために、イエス自らが苦しまれた。その十字架に出会って、人の心は変えられる。十字架を見て、人は自分の罪を知り、悔い改める。その悔い改めを通して、心の中の闇が解け始める。「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と言う出来事が起こる。ヨハネは言った「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(汽茱3:16-18)。ヘロデは特別の悪人ではない。私たちの中にも小ヘロデがいる。自分の命を守るために、他の人の命を何とも思わないで見捨てる自分がいる。そのヘロデ的存在が、他者のために命を捨てようという存在に変わる出来事が起きる。それが十字架の出来事だ。
・年の初めに、人々は今年1年が無事でありますように、災いが来ませんようにと祈る。しかし、キリストに出会った者は別の祈りをする「今年もまた、苦しみや悲しみがあるでしょう。それは人の罪が造るものです。その闇を取り除くために、私たちに何が出来るか、教えて下さい。仮に、私たちに災いが来ました時には、その災いを通して、あなたが何をされようとしておられるのかを求めることが出来ますように」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-16 21:17:13 (158 ヒット)

2018年12月23日聖書教育の学び(2004年12月26日説教、マタイ2:1-12、クリスマスの後で)

1.メシアが生まれたという知らせ

・キリストの降誕を待ち望む待降節が終わり、今日から降誕節に入る。キリストが来られて何が起こったかを思う時である。マタイは、イエスの誕生の時、東方の学者たちが、数千キロを旅してベツレヘムに至り、イエスを拝み、贈り物を捧げたと記す。クリスマスの飾り付けには、必ずこの三人の博士たちが登場するし、クリスマス・ツリーの一番上には、彼らを導いた「星」が飾られる。子供たちが演じるクリスマス劇でも「星に導かれて三人の博士たちが、らくだに乗って、砂漠を越えて、キリストに会いに来る」とする。メルヘンの世界だ。
・しかし、聖書は、キリストが生まれられて、人々はメルヘンの世界に入ったのではないと記す。今日の聖書個所マタイ2:3には、キリストが生まれられた事を聞いて「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とある。ある人々は、キリストの誕生を喜ばないどころか、不安を感じた。この不安がやがて、恐ろしい出来事を引き起こす。今日は、マタイ2章をもとに、キリストの誕生を当時の人々がどのように迎えたかを学んで見たい。
・イエスが生まれられたのは紀元前6-7年ころと言われている。この時、天体に大きな異変があった事が報告されている。魚座の木星と土星が重なり合って、異様な輝きを示したと言う。今日の天文学では、その出来事は798年に一度の出来事と確認する。当時の天体観測の本が発掘されており、それによれば、土星は世界の救い主、木星はパレスチナを指す。木星と土星が重なり合う、この出来事を天体の観測を仕事とする占星術師たちは、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と解釈した。その啓示を受けて、彼らはらくだに乗り、遠いユダヤまで旅をした。ユダヤに王が生まれたのでれば、ヘロデの王宮に違いない、そう思った彼らは、エルサレムの王宮を訪ねた。しかし、エルサレムの町は静かであり、どこにもメシアの誕生を祝う気配はない。彼らは不審に思いながら、王宮を訪ねて聞いた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。
・この質問は王ヘロデを不安にさせた。何故ならば、彼は元々ユダヤ人ではなく、異邦人であり、己の武力とローマの後押しで、ユダヤのハスモン王家を倒して王になった人物であった。彼の権力基盤は磐石ではなかった。「新しいユダヤの王が生まれた」、その言葉にヘロデは、自分に取って代わる王の出現を見て、不安を感じた。王宮にいた人々も不安を感じた。ヘロデは残虐な王であり、これまでもハスモン家から迎えた自分の妻を殺し、息子たちさえも王位を狙っているという疑いから殺し、そのたびに多くの人の血が流れていた。「メシアが生まれた」、エルサレムの人々にとってそれは新しい騒乱の種が蒔かれたことであり、人々は不安を感じた。
・ヘロデは祭司長たちや律法学者たちを集め「メシアはどこに生まれるのか。聖書は何と言っているのか」と訊ねた。学者たちはミカ書を引用して、それは「ベツレヘムです」と答えた。ヘロデは占星術の学者を呼び、ベツレヘムであり、行ってその子のことを詳しく調べ、わかったら教えて欲しいと頼み、彼らをベツレヘムに送り出した。学者たちはベツレヘムに向かった。ベツレヘムは、エルサレムの南7キロのところにある小さな村で、彼らは生まれたばかりの幼子を探して歩いた。星が彼らを導き、一軒の家に前に止まった。彼らはそれを見て、ついにメシアに会えることを喜んだ。家に入り、母に抱かれた幼子を礼拝し、黄金・乳香、没薬を捧げた。彼らはその夜はベツレヘムに泊まったが、夢の中で「ヘロデのもとには帰るな」との知らせを受けたので、別の道を通って自分たちの国に帰っていった。

2.メシアの誕生をどう迎えるか

・今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選んだ。次のような言葉だ「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
・この言葉はヨハネが聞いた神の国の到来のしるしだ。今、ヨハネは、皇帝礼拝を拒否したため、島流しになり、教会の友の多くも殺されたり、投獄されたりしている。どこにも出口の無い闇の中に彼はいる。その彼に、神の国が来れば、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」との声が聞こえた。しかし、今はまだその国は来ていない。神の国はキリストが来られて始まったが、まだ完成していない。完成していないから人は闇の中で涙を流す。その闇は世の人々の貪りから来る。ヘロデは「ユダヤ人の王」が生まれたと聞いて不安を感じ、その不安を自らの手で取り除こうとする。マタイ2:16以下の記事は、ヘロデが自分の地位を脅かす可能性のある幼子を抹殺するために、ベツレヘムに兵士たちを送り、2歳以下の男の幼児を探して、すべて殺させたと記す。イエスはその前に、エジプトに逃れて無事であったが、数十名の幼児が殺され、ベツレヘムの村は、子供を殺された母親の嘆きの声で満たされた。
・私たちは、イエスが生まれられた時代はひどい時代だったと思う。ヘロデの時代は血にまみれた時代だ。しかし、歴史が私たちに教えるのは、自分の思いのために子供たちを殺したのは、ヘロデが初めてではないし、ヘロデの後も繰り返し行われたという事実だ。ナチス時代のドイツ人は、ユダヤ人の子供たちを忌まわしい者として殺した。日本人も戦時中は中国の子供たちを殺し、今アメリカ人はイラクの子供たちを殺している。日常に目を向ければ、私たちはこの日本で毎年30万人の子供たちを人工妊娠中絶という形で殺している。望まない妊娠をした時、私たちの大半は、胎内の子を中絶して問題を解決しようとする。自分の地位が奪われるかも知れないとの不安からベツレヘムの子供たちを殺したヘロデと、自分の安定した生活を守るために、胎内の子を殺している私たちとどこが違うのか。ヘロデが闇の中にいたように、私たちも闇の中にいる。闇は私たちの罪の中から流れ出ている。
・聖書が私たちに示すのは、この闇の中に光が現れた。キリストに出会うことによって、私たちは自分が闇の中にいることを知る。そして光を求めるようになる。キリストの誕生は多くの人に示された。示しを受けた東方の学者たちは、遠い道のりを旅して幼子に会い、喜びに満たされた。宮中の祭司長たちは、メシアがどこで生まれるかを知り、その場所がエルサレムの近くだと聞いても行動しなかった。自分の生活を優先したからだ。
・マタイ2章の記事は、私たちに大事なことを伝える。御言葉をいくら学んでも、信じて従うことをしない限り、光は見えない。救い主が来られても信じない限り、私たちには無縁だ。しかし、信じる時、救いの出来事が起こる。東方からの学者たちは「その星を見て喜んだ」。メシアが来られた、神の国が始まった、それは信じる者には、闇はいつか終わる事を知らせる喜びの知らせだ。しかし、信じないものには不安をもたらす出来事、闇がさらに深くなる出来事になる。闇を終わらせるのは、東方の学者たちのような信仰だ。恐るべき人間の罪の現実の只中にさえ、神の御旨が行われ、闇が光に変わっていく。この暗さの中に光があることを信じていく信仰だ。
・フイリピンにネグロス島という島がある。かつて島の大半はサトウキビのプランテーションであり、島民の多くは、農場や工場で働く労務者だった。1980年代の初め、砂糖の国際価格が暴落し、農場や工場が閉鎖され、人々は解雇され、子供たちが栄養不足で死んでいく出来事が起きた。ユニセフの「ネグロス島飢餓宣言」を受けて、日本・ネグロス委員会が組織され、救援活動を始めた。最初は食糧援助であったが、それではまた同じことが起きる。彼らは島民が自立できる「もう一つの道」を模索し始め、島の特産品であるバランゴン・バナナを日本の消費者に直接売ることを検討した。その価格の中には自立支援金を組み入れられ、そのお金を用いて農機具やトラクターを買う。いくつかの生活協同組合が趣旨に賛同し、無農薬バナナとして売り出され、現在では養殖えび等も事業化されている。彼らは事業を行う会社の名前をオールター・トレード・ジャパンとした。もう一つの道(オルタナテイブ)を行く貿易(トレード)の会社と言う意味だ。イエス・キリストに出会って変えられた占星術の学者たちが「もう一つの道を通って」(マタイ2:12)帰ったように、私たちもキリスト者としてなすべきことをしようと志した人たちの群だ。「一人の人間の命を救う者は、全世界を救う」。「この小さな者にしたことは私にしたことである」という声に促されてなす行為が、世の闇を跳ね除け、光をもたらすものであることを信じて、新しい年を迎えよう。私たちは無力ではない。既にキリストは来られたのだから。


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