すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-03-14 10:27:15 (105 ヒット)

2017年3月19日聖書教育の学び(マタイ25:1−13、終末の時を考える)

1.「十人のおとめ」のたとえ

・イスラエルでは花婿が夜に花嫁の家に迎えに行き、彼女を自分の両親の家に連れ帰って婚宴が始まる。その花婿を待つ役割として10人の乙女が指名された。
―マタイ25:1「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。
・「十人のおとめ」のたとえは天の国の到来、キリストの再臨を迎えるための信徒の心得を教えている。パウロはコリント教会への手紙の中で、教会をキリストの花嫁として表現している。
-第二コリント11:2-3「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いを私も抱いています。なぜなら、私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています」。
・当時の婚礼ではおとめたちは花嫁の家の前で灯し火を掲げて花婿を迎え、踊りを演じて歓迎する習慣があった。しかし、灯火は15分くらいで消えてしまうため、予備の油が必要となる。愚かなおとめたちはその灯油の準備を怠っていた。賢い娘たちはランプと一緒に予備の油を持っていったが、他のものはそうしなかった。
25:2-5「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。
・愚かな娘たちは花婿が来た時には油が消えそうで、出迎えの役を果たせなかった。そこで油を持っている娘たちに分けて下さいと頼むが、断られてしまう。
―マタイ25:6-9「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」。
・愚かな娘たちが油を買いに行っている間に花婿が到着して、賢い娘たちは花婿と一緒に婚宴の席に入るが、やがて戸が閉められ、遅れて来た娘たちは婚宴の席から締め出されてしまった。
-マタイ25:10-11「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った」。
・最後に決定的な言葉が語られる「目を覚ましていなさい」。
-マタイ25:12-13「しかし主人は、『はっきり言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」
・天国から締め出されるキリスト者もいる、マタイはそれを教会の人々に警告している。
-マタイ7:21-23「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。

2.当時の教会はこの物語をどう聞いたのだろうか

・このたとえは、元来はイエスの教えであろうが、初代教会の人々は不安と混乱の中にあって、主の再臨の問題として物語を聞き直している。花婿の到着が遅れたのは、キリスト再臨の遅れを表している。マタイ時代の教会は再臨待望の熱意と、それがなかなか来ない焦燥感の中にあった。再臨を待望する者にとって、信仰の火を消すことなく、灯し続けることは重要であった。おとめたちが眠りこんだ真夜中、突然、花婿の到着が告げられ、灯油の控えの用意をしていなかった愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに灯油の借用を申し込むが、断られる。「その時を外したら機会は二度と来ない」、再臨の日の予告はないから、しるしを見逃さないため目を覚ましていなければならない。愚かなおとめたちは灯油を買いに行ったばかりに、婚宴に遅れ、会場の扉は閉じられ、主人は「私はお前たちを知らない」と冷たい答えをする。
・初代教会の人々にとってイエスの復活体験は強烈であり、終末は既に始まり、「再臨は近い」との熱意を持ち続けた。彼らの信仰共同体では「主よ、来りませ(マラナタ)」の祈りが一貫して祈られていた。それは彼らが迫害を耐えるための支えでもあった。「キリストの再臨を待ち望みつつ、聖なる生活を続けなさい」とペトロの手紙は励ましている。
−第一ペトロ4:13−15「だからいつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」。
・しかし再臨(終末)はなかった。終末遅延の問題は、当時の教会にとって大きな課題であった。
-第二ペテロ3:8-9「3:8−9「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

3.私たちはどう聞くのか

・それから2千年が経った。現代の私たちは、終末がいつ来るかわからない状況にある。しかし、私たちは「神の国」とは、「いつか来る」ものではなく、「今すでに来ている」と理解する。従って終末を生きるとは、私たちには、この与えられた個々の人生をどのように生きるかということだ。そして時がたてば、私たちのそれぞれの終末、死が訪れる。「その時に備えているか」がここで問われている。その日に備えて何もしないのは愚かだ。
-ルカ17:27「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。
・私たちは主の復活と再臨の中間期にいる。つまり、私たちは天の国と地の国の双方を生きている。天を捨てて地に執着する時、その生き方は世俗主義になり、地を忘れて天に走る時、現実逃避の幻想主義に陥る。天を仰いで地を生きる生き方が求められる。そのために教会に連なる。
―マタイ5:14-15「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。
・ペテロは、天では一日は千年に匹敵する時間であると語る。一日とはいろいろなことが出来る時間だ。同時に、残された時は無限ではない。精神科医フランクルは講演の中で語る「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるから、何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。苦難と死こそが人生を意味あるものにする」(「それでも人生にイエスという」、春秋社刊、p47-49)。死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重なのだというフランクルの言葉は心に響く。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-03-05 23:40:12 (128 ヒット)

2017年3月12日聖書教育の学び(2012年9月23日説教、マルコ11:1-11、ろばに乗って入城される主)

1.イエスのエルサレム入城

・イエスはガリラヤで宣教活動をされていましたが、いよいよエルサレムに入られます。神の都と呼ばれ、ユダヤ教信仰の中心であるエルサレム神殿のある首都です。イエスは過越祭の時に、エルサレムに入城されました。紀元30年3月から4月にかけてのことと思われます。その時、エルサレムの群集は手に棕櫚の葉を持って、イエスを歓迎したと伝えられています。そのため、イエスがエルサレムに入られた日曜日を「棕櫚の主日」と呼びます。エルサレムの群集はイエスを歓呼して迎えましたが、やがてイエスに失望し、「十字架につけろ」と叫び出します。イエスは、木曜日に捕らえられ、金曜日に十字架につけられます。今日私たちは、この、イエスのエルサレム入城の意味をマルコ11章から学んでいきます。
・エルサレムを目指して、旅を続けて来られたイエス一行は、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとまで進んで来られました。近くにベタニア村が見えます。イエスは二人の弟子に、「向こうの村へ行ってろばを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にろばを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。「だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)と。
・弟子たちが村に行くと、表通りの家に子ろばがつないでありました。弟子たちは村人に断った上で、その子ろばを借り、イエスの元に連れてきました。イエスは子ろばに乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、都の人々は期待を持ってイエスを歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(10:9-10)。「ホサナ」、私たちを救ってくださいの意味です。「あなたがメシアであれば、このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫びました。その声の中を、イエスは一言も言われないで、進んで行かれます。
・イエスは「解放者としてのメシアを求める」人々の期待を知っておられました。その期待に応えるにはどのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエスがメシア=王であられるならば、その方がふさわしい。王は軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬ではなく、ろばに乗って、エルサレムに入られました。ろばは風采の上がらない動物です。愚鈍と卑しめられ、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ろばを選んで、エルサレムに入られました。

2.ろばの子に乗って入城された主

・今日の招詞にゼカリア書9:9-10を選びました。次のような言葉です。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
・マルコ11章の平行箇所マタイ21章では、イエスがエルサレム入城の時に、ろばに乗られたのは、聖書の預言の成就であったとして、ゼカリア書を引用しています。通常、イエスは歩いて旅をされました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてろばに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエスが、ゼカリア書に象徴されるような「平和の主」である事を人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って、あなたがたのところに来た」という、イエスのお気持ちが、ろばに乗るという行為に示されています。
・当時ユダを支配していたローマ総督は、ユダヤの重要な祭日には、滞在するカイザリアから、戦車や軍馬、弓を連ねて、エルサレムに入城しました。エルサレムにはローマの警備兵が常駐するアントニア要塞があり、その警備軍を増強し、治安維持を強化するためでした。ユダヤ教の祭日、特に過越祭においては、全国から多くの巡礼者が集まって人口が通常の10倍ほどに膨れ、国民的な宗教的感情が高まり、征服者であるローマに対する敵意から暴動となりかねなかったからです。ローマ軍はカイザリアから、すなわち西から、軍事力を誇示しながら、エルサレムに入りました。それに対して、イエスは、オリーブ山から、すなわち東から、数人の弟子たちを従えて、「ろばに乗って」入城されます。イエスの行進は、都の西側で起こっているもう一つの行進に対して、意識的に対抗するものでした。イエスのエルサレム入城は「軍事力や権力」の誇示ではなく、「謙遜と非暴力」の表現です。イエスは行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。しかし、あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。
・ろばは風采の上がらない動物で、戦いの役に立ちません。しかし、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って、負います。イエスも重荷を負うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。ろばに乗るメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエスを十字架につけろ」と叫びはじめ、それが金曜日の受難へと導きます。「平和の主」を拒否したエルサレムの人々は、やがてローマに対して武力闘争を行います。紀元66年に始まるユダヤ戦争です。その結果、エルサレムはローマ軍に占領され、焼かれ、神殿も崩壊します。「剣を取る者は剣で滅びる」のです(マタイ26:58)。

3.この方に従っていく

・私たちもイエスに様々な期待を寄せます。「神の子であれば私の病を治して欲しい、神の子であれば私を幸せにして欲しい」と。八木誠一という聖書学者はイエスの生涯を回顧して言います「イエスは栄光への道を選ばなかった。私たちは、神は全知全能の支配者であり、最高で完全な存在であると考える。そして私たちが神を信じるという時に、神によって生活を保障され、危険から守られ、幸福と栄光を与えられることを期待する。しかし、イエスの生涯の物語は、このようなイエス・キリスト理解を、ひいては神理解を、断固として否定する」(八木誠一「イエスと現代」)。
・イエスは言われます「私が約束するのはそのようなことではない。私が何故ろばに乗って入城したかを理解してほしい」。聖書は徹底的に、軍馬に頼る生き方を拒否します。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」(詩篇20:8‐9)。「助けを得るためにエジプトに下り、馬にたよる者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れます。「倒れるものに望みを託すな」と聖書は言います。エジプトの軍馬に頼って国の安全を守るとは、現代の私たちがアメリカ駐留軍に頼って日本の防衛を考えることと同じです。尖閣諸島に中国軍が上陸したら、私たちはどうするのでしょうか。その時、私たちは、「エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ」という言葉をどのように聞くのでしょうか。
・イエスはろばに乗って、エルサレムに入城されました。ろばは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも私たちの重荷を黙って負ってくれました。人は言うでしょう「イエスはろばに乗って入城したために、殺されたではないか。そのような人生に意味があるのか」。私たちは反論します「平和の主を拒否して、ローマに武力抵抗をしていったエルサレムは滅ぼされたではないか。軍馬に頼る生き方は破滅と滅亡の道ではないのか」。
・聖書はイエスの十字架死を敗北とは考えていません。ペテロは言います「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペテロ2:21-24)。先に紹介しました八木誠一は言います「「イエスは人生の真実を告げ、そして殺されてしまった。このことは、この世の罪と盲目の深さを、この世の「神の支配」に対する否定を示す。しかし、イエスは敗北しなかった。イエスは「復活」し、弟子たちはイエスの宣教を引き継いだ。このことは、世の否定を覆す「神の支配」の勝利を示す。「十字架と復活」とはこうして、この世の罪と虚無をあらわに照らし出し、しかも罪と虚無がこの世の最後究極の現実ではないことを証示するのである」。
・イエスがろばを調達されたベタニアとは、「悩む者の家」あるいは「貧しい者の家」と言う意味です。この村でラザロは死からよみがえり(ヨハネ11:44)、マリアがイエスにナルドの香油を奉げ(マタイ25:12)、イエスはこの村から昇天されました(ルカ24:50)。私たちはこの教会をベタニア村のような共同体にしたいと願います。ろばのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような共同体です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-02-26 23:21:28 (124 ヒット)

1.「仲間を赦さない家来」のたとえ

・イエスは徹底した赦しを説かれた。ペトロがイエスに、「私に罪を犯した者を七回まで赦すべきでしょうか」と問うた。ペトロは「それで十分である」というイエスの誉め言葉を期待していたのかも知れない。しかし、イエスはペトロの想像をはるかに越えた、「七の七十倍まで赦しなさい」と指示され、「仲間を赦さない家来」のたとえを語り始められた。
−マタイ18:21−22「その時ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・「仲間を赦さない家来」のたとえでは、王が家来に一万タラントンの返済を求めた所から話が始まる。一タラントンは千デナリオン、一デナリオンは当時の労働者一日の賃金、一タラントンはその千日分の賃金であった。一万タラントンは空前の金額であった(今日の通貨基準では数千億円)。王の家来で一万タラントンの使い込みができる立場の者は、地方総督級の税の取り立てができる立場の者だったと考えられる(当時のユダヤ領主でさえ六百タラントンの税収しかなかったと伝えられている)。それなのに王はこの負債を免除する。このたとえは途方もなく大きな無限の赦しを表している。王の家来の一万タラントンという使いこみは、彼が到底弁償できるはずがない大金だから、彼はひれ伏して赦しを乞うしかない。
−マタイ18:23−27「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するよう命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部返済します』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、彼の借金を帳消しにしてやった』」。

2.人を赦さない者は赦されない

・物語は続く。第二の場面では、一万タラントンという巨額の負債を帳消しにしてもらった家来が、立場が逆になり自分が債権者になると、わずか百デナリオンの負債も赦さなかったという話である。百デナリオンは当時の労働者が三か月ぐらい働けば稼げた金額であった。家来が王にしたように、負債者がひれ伏して、赦しを乞うても家来は赦すどころか、首を絞めて痛めつけ、あげくに牢にぶちこんでしまった。
−マタイ18:28−30「ところがこの家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して『どうか待ってくれ、返すかから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。
・負債者の仲間はこれを見て心を痛め、王に訴え出る。王は激怒し、この不埒な家来を捕え、一万タラントンを返済するまでは赦さないと彼を牢に入れた。贖いきれない大きな罪を神の憐れみで赦されたことを忘れ、兄弟の小さな罪を赦さない忘恩の行為が、どれほど非道で罪深いかを、このたとえは教えている。−マタイ18:31−35「仲間たちは事の次第を見て非情に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、その主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」。
・人を裁くな、イエスが繰り返し教えられたことである。しかし人は他者を裁き続ける。
−マタイ7:1-5「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。
・私たちに人を裁く権利などあるだろうか。何故「赦されていることを生きないのか」とパウロは語る。
―汽灰螢鵐6:6-7「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。何故むしろ不義を受けないのか。何故むしろだまされていないのか。」

3.この物語をどう聞くか

・創世記4章でカインは弟アベルを殺し、神の前に告発される。カインは自分も殺されるかもしれないという恐怖を通して、アベルの苦しみを知り、神に助けを懇願する。神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれ、彼の保護のためにしるしをつけられた。
−創世記4:15「主はカインに言われた『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」。
・カインは妻を娶り、カインの子孫からレメクが生まれる。彼は語る「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対する。この人間中心主義の流れが現代にも継続されている。
-創世記4:23-24「レメクは妻に言った『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍』」。
・他方、神はアダムとエバに新しい子を与えられる。セトであり、彼の子孫たちは主の御名を呼び始める。ここに、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」求める人々の系図が生れていく。赦されたから赦していく、神中心主義の流れだ。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきた。キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚する。
-マタイ18:21-22「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・「打たれたら打ち返す」社会の中で、「七の七十倍までの赦し」を求めていく。それはイエスの十字架を見つめた時にのみ可能になる。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちも赦しの中にある事を知る。十字架を仰ぐ時、私たちは「主の名を呼び求める者」に変えられていき、与えられる不利益や苦しみをも喜ぶ者となる。
-ピリピ1:29「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-02-19 22:34:46 (126 ヒット)

1.嵐に悩む弟子たち

・イエスはガリラヤ中を回って、教え、宣教され、人々の病をいやされた。大勢の人々がイエスの周りに集まってきた。ある時、イエスの話を聞くために、ガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まった。食べるものもない群集を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで、5千人の人を養われた。群集はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がった。ヨハネ福音書は「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と記す(ヨハネ6:14-15)。興奮状態の中で、今にも暴動が起こりそうになった。弟子たちもまたこの興奮に巻き込まれていた。そのため、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させ、ご自身は祈るために山に登られた(14:22)。
・弟子たちが舟に乗ったのは夕方であった。しかし、山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまった。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、船は嵐に翻弄されている。弟子たちは必死に舟を進めようとするが出来ない。時はいつの間にか、明け方に近くなった。イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを救うために、湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれた。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思った。水の上を歩くことは人には出来ない。その出来ない出来事が今、目の前に広がる。弟子たちがおびえるのは当然だ。しかし、「私だ、おそれることは無い」というイエスの言葉に弟子たちは我に帰る。嵐は続いている。しかし、イエスが来られたことで安心感が広がった。
・ペテロはイエスの言葉に反応する「あなたでしたら、そちらに行かせて下さい」。ペテロは途方も無いことを言い出す。人が水の上を歩くことなど出来るわけがない。しかし、ペテロは歩き始めた。彼は自分が何をしているかに気づかず、ただ、助けるために来られたイエスだけを見つめている。その時は歩けた。やがて、風の音が耳に入り、大波が目に入る。途端にペテロは怖くなった。イエスへの集中が途切れた。ペテロは水に沈み始める。ペテロは叫ぶ。「主よ、助けてください」。イエスはペテロに手を伸ばし、体を引き上げられた。二人が舟に乗り込むと風は静まった。ペテロの海上歩行は惨めな失敗に終わった。しかし、弟子たちは誰もペテロの失敗を笑わなかった。彼らは、ペテロを捕らえられたイエスの手を見た。弟子たちは告白する「あなたこそ神の子です」。弟子たちの初めての信仰告白だ。弟子たちはイエスが水の上を歩かれたから、神の子と告白したのではない。嵐を鎮められたから、そう思ったのでもない。沈みそうになった者の手を捕らえて下さったから、イエスを拝した。

2.私たちのところに来られる方

・今日の招詞に詩篇107:25-29を選んだ。次のような言葉だ「 主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。
・嵐が起きると、舟に乗っている人は、「上に、下に」大きく揺さぶられ、勇気はくじけ、酔った人のようによろめく。嵐は怖い。ある人は、嵐は自然現象だから、起きたら、通り過ぎるまでやり過ごすしかないと考える。別の人はそうなるように定められているのだから、仕方がないとあきらめる。自分は罪を犯したから、罰として嵐が与えられたのだと思う人もいよう。しかし、聖書は、嵐は「主が起こされる」と言う。「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」(107:25)。主によって起こされるとしたら、主に訴えれば、嵐は取り去られる。だから、詩篇の作者は訴えた「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。
・人は海を怖れる。海は底なしのもの、恐ろしいものの象徴だ。そして、人生は海を航海するのに似ている。平穏な時には、私たちは自分の能力、可能性、築き上げた生活の基盤を信じて生きていくことが出来る。しかし、嵐になると、私たちはあわて惑う。嵐の形態は人によりまちまちだ。ある人には、事業の失敗や、家族の死や病気、あるいは離婚等の激しい嵐が来るだろうし、別の人には、家族内の不和、友人の裏切り、仕事や学業の挫折等の静かな嵐として襲って来る。その時、これまで磐石だと思っていたものが何の役にも立たない事を知る。全てが虚しくなり、生きていてもしようがないと思うこともあろう。私たちは苦しみ、もだえる。そのもだえを通して、私たちは自分が生きているのではなく、より大きな存在に生かされている事に気づく。そして叫ぶ「主よ、助けてください」。

3.私たちは一人ではない

・マタイ14章の文脈の中で、嵐とは何かを、もう一度考えてみよう。弟子たちは、イエスに「行きなさい」と命じられて舟に乗った。「いやです」と拒否すれば、嵐に遭うことも無かったかもしれない。しかし、嵐に遭わなければ、沈みかけた時に手を伸ばして下さるイエスを知らなかった。嵐を迂回する、災いを避けることが最善なのではないとマタイは言っている。次に、嵐に遭って前に進めない時、あきらめて引き返すことも可能だ。弟子たちは向こう岸に行こうとして逆風にあったのだから、こちら側へ帰ることは出来た。しかし、引き返せば今までの苦労は水の泡になり、一晩中苦闘したことが無意味になる。嵐から、あるいは試練から、逃れる道は唯一つ、それは突き当たっている当の問題をくぐりぬけて、向こう側に行く道だ。弟子たちは湖の真ん中で立ち往生し、前にも後ろにも進めなかったが、彼らは耐えた。そこにイエスが来て下さった。イエスが舟に乗り込まれると、風雨は収まり、向こう岸に行くことが出来た。
・助け主が来られる。それがこの物語の主題だ。弟子たちは嵐の中で苦闘している。イエスは岸からそれを見て、彼らを救い出すために歩き出される。弟子たちには暗くて見えないが、救いは既に始まっている。見えない時には、その救い主を幽霊と誤認しておびえる。しかし、「私だ、恐れることは無い」と言う声で、救いが始まった事を知る。それでも私たちは、取り巻く現実を見て、怖くなって、沈む。苦しみに押しつぶされてしまう。人が自分の事だけを、自分を取り巻く苦しさだけを考える時、その人は沈む。これは経験的事実だ。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちは水の上を歩くことが出来る。仮に不信仰のために沈んでも、助けの手が来る。ペテロはイエスから目をそらした。しかし、イエスはペテロを見つめ続けておられた。ペテロの手はイエスに届かなかった。しかし、イエスが手を伸ばして、捕らえて下さった。
・アウグスチヌスは言った「私には出来ませんが、あなたによって出来ます」。聖書が教えることは、嵐が発生しないことが大事な事ではなく、嵐の只中において、神の救いを体験することこそ、重要だということだ。私たちは困窮の中で救い主と出会うのだ。泣いたことの無い人は信仰を持てない。私たちは泣くことを通して、私たちを造られた神が、私たちに呪いではなく、祝福を与えようとしておられる事を知る。嵐は祝福の第一歩なのだ。
・嵐の中を一人で歩くことは恐怖だ。しかし、二人であれば、それほど怖くない。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも危険は迫る。不安になり、動揺し、おじまどう事もある。現在、そのような苦しみの中にある方もいるだろう。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、助け主は来て下さる。現在、どのような苦難があろうとも、その苦しみは喜びに変わる。最後に詩篇126編の言葉を読んでみよう。次のような言葉だ「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩篇126:5-6)。私たちは一人ではない。イエスが共に歩いて下さる。この信仰が与えられていれば、他に何も要らないではないか。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-02-12 17:42:13 (155 ヒット)

2017年2月19日聖書教育の学び(2002年11月20日祈祷会、マタイ13:36-50、天国のたとえ話)

1.毒麦の譬えの解説(13:36-43)

・マタイでは13章36節から、マタイ福音書だけが伝えるたとえが語られる。最初は36節以下の毒麦のたとえの解説である。毒麦のたとえは13:24−31に語られる。
−マタイ13:24-30「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
・弟子たちはこのたとえの意味が分からず、イエスに尋ねる。それが36節以下だ。
−マタイ13:36-39「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った。イエスはお答えになった。『良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。』」
・13:24-30のたとえはイエスが語られたものであるが、36-39節の解き明かしは初代教会の解釈であろう。イエスが福音の種を播かれて教会が成立したのに、現実の教会に中には良い麦と共に毒麦が混ざっていた。教会の中に悪(毒麦)は存在する。その悪を抜こうという声が教会の中で声が挙がった。しかし復活のイエスはそうするなと語られた。終末の時まで良い麦と毒麦の選別をするなと。
−マタイ13:40-43「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
・現実の教会の中にも、悪い麦があるかも知れない。しかし、誰が判断するのか、判断する人は良い麦なのか。人が悪い麦を抜こうとする時、人はパリサイ人になるのではないか。抜くのは神に委ねれば良いではないか。教会はどのような人をも受入れて一緒に礼拝を行う。自分の中に毒麦があることを知るから、他者を裁かない。その時、教会は天の国に近づいて行くのではないか。

2.網を投げ入れる行為(47-50節)

・天の国の網のたとえは、毒麦の譬の続きである。天の国は網を引き上げる行為と似ている。網を引くと、そこには良い魚も悪い魚もいる。
−マタイ13:47-48「天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。」
・網を打って魚を取ったら、中に悪い魚と良い魚がいた。多くの人が教会に招かれるが、その中には、良い魚も悪い魚もいる。終わりの時に良いものと悪いものが選別される。しかし、選別されるのは神であり、人が自分で選別を始めた時、私たちはサタンの業に加担するようになる。人は教会の中で意見の異なる人を異端として排除しようとする。しかし、その時、人が裁き主になってしまう。排除は神に委ねる。
−マタイ13:49-50「世の終りにも、その通りになるであろう。すなわち、御使たちがきて義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり歯がみをしたりするであろう。」

3.二つのたとえをどう読むか

・教会の中に何故悪があるのかを追求した人はアウグステイヌスであった。彼は言う。「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私達にはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私達各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」とアウグステイヌスは勧める。つまり、教会の中にある毒麦的なものはただ否定されるべきものではなく、むしろ、その責任を私たち教会の仲間がともに引き受けていくのが、教会に生きる私たちの課題であると説く。だから最後の裁きは神に任せる。例え弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、それによって自分たちの信仰をいっそう清め強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪を理解する。
・同時に神の国たる教会の中にある良い麦と毒麦という事柄を、教会を越えて考えた時、そこに神の国と地の国という思想が生じてくる。神の国と地の国は単純に「教会」と「地上の国家」との対立だけではない。神の国は地上の国家の中にもありうるし、逆に教会の中にも地の国が含まれうる。見える教会がそのまま神の国ではなく、地上の国家がそのまま地の国ではない。神を愛して自己愛を殺すに至るような愛が神の国を造り、自分を愛して神に対する愛を殺すに至るような愛が地の国を造る。現実の私たちは神中心の愛と自己中心の愛の双方を持つ弱い人間であるから、ありのままを神に告白し、その助力を乞い、そういう仕方で絶えず神の国に加えられていく、生かされていくことが神の国に生きることであるとアウグステイヌスは言う。最期に彼は言う「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である」と。裁きはこの神に任せよと。

4.畑の宝と高価な真珠(44-46節)

・この二つのたとえに挟まれて、天の国の新しいたとえが語られる。最初は「天の国は畑に隠された宝を見つけるようなものだ」とのたとえである。
−マタイ13:44「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。」
・トマス福音書に類似の記事がある。そこでは畑に宝があることを知らない者が損をするという文脈で語られている。ここにあるのはイエスのたとえ(マタイ13:44)に対する後世の解釈であろう。
−トマス福音書109「神の国はその畑に宝をもっている人のようなものである。それ(宝)は隠されており、それについて彼は何も知らない。彼が死んだ時に、彼はそれを自分の息子に残した。彼の息子もまた何も知らなかった。彼はその畑を受け取り、それを売った。そして、買い取った人が来て、耕作している時に、宝を発見した。彼はお金を、彼が欲した人々に、利子付きで貸し始めた」。
・何十人、何百人の人が教会に来るが、真理を見出す人は少ない。真理は隠されているからだ。しかし、見出した人は、全財産を売ってもそれを買う。人生を賭けるほどのものがそこにあるからだ。
−ヨハネ8:31-32「もし私の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうに私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
・福音は高価な真珠でもある。その価値のわかる人は、全財産を投げ打ってもそれを購入する。
−マタイ13:45-46「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」
・後世の解釈であるトマス福音書平行記事では「天に宝を積め」という文脈の中で語られている。
−トマス福音書76「父の国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものである。この商人は賢い。彼は荷物を売り払い、自分のために唯一つの真珠を買った。あなたがたもまた、蛾が近寄って食わず、虫が食い尽くさぬところに、朽ちず尽きることのない宝を求めなさい」。
・天国とは人間が努力して到達するようなものではない。既にそこにあるものであり、人間ができることは受け入れるか否かだけだ。もし、受け入れた時、それはからし種のように大きく成長する。
−マタイ13:31-32「天国は一粒のからし種のようなものである。人がそれを畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきてその枝に宿るほどの木になる」。
・星野富弘さんの詩画集の中に「いのちより大切なもの」という詩がある。「いのちより大切なものを見いだせ」と、イエスは「畑に隠された宝」のたとえと、「高価な真珠」のたとえを話されたのであろう。
−星野富広・詩画集「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。
・本当に大事なものは命がけでないと手に入らない。イエスが「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」といわれたのはそのことであろう。
−マタイ16:24-26「それから、弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』」


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