すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-09 19:22:39 (68 ヒット)

2019年6月16日聖書教育の学び(2019年3月6日祈祷会、フィリピ2章、教会の一致を祈るパウロ)

1.フィリピの教会に和解を伝えるパウロ

・フィリピ教会は物心両面で常にパウロを支えてくれた教会であり、パウロは感謝していた。しかし、そのような教会の中にも争いがあった。パウロは敢えて二人の婦人の名前を出して、和解を勧める。信仰心に優れ、パウロを支えてくれた人でさえ、不和を抱える現実があった。
−フィリピ4:2-3「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。
・パウロはフィリピ教会に書く「主にあって一つになり、私を喜ばしてください」と。
−フィリピ2:1-2「あなたがたに幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」。
・キリストに従う決意をしたのに、何故分派や分裂が起こるのか、それはまだ肉の人だからとパウロは言う(第一コリント3:3-4)。
−フィリピ2:3-5「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
・2:6−11は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌をパウロが引用したとされる。そこにあるのは「キリストは神であられたのに人となられ、十字架に至るまで従順であられた」、それ故に「神はキリストを死から蘇らせ、天に上げられた」との告白である。イエスは自ら墓から出られたのではなく、自分で天に上げられたのではない。あくまでも神が死から蘇らせ、神が天に上げられた。
−フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
・「神が全てを解決してくださる」から、あなた方はその「神を寄り頼め」、「自分が、自分が」と主張して、教会を分裂させることは、イエスに従う者の取るべき道ではない。
−フィリピ2:9-11「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

2.あなた方のために死んでも良いと語るパウロ

・パウロは、今、エペソの獄にいる。しかし、彼は自分が獄中にあることを喜んでいる。逮捕・入獄という非日常により、生活の安定が崩されたのに、何故喜ぶことが出来るのか。そのことによって福音が前進したと思えたからである。
−フィリピ1:12-14「兄弟たち、私の身に起こったことが、福音の前進に役立ったと知ってほしい。私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・フィリピの教会はパウロの伝道で立てられた。教会は巡回伝道を続けるパウロのために祈り、支援を続けた。今回もパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、エペソに派遣した。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っている。パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈る。
−フィリピ2:12「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい。恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。
・パウロは「つぶやきや疑いを捨てなさい」と語る。フィリピの中にもそのような不平不満があったのであろう。神の前に恐れとおののく時、不平や理屈は出てこない。「不平と理屈」、口語訳は「つぶやきと疑い」と訳されている。このつぶやきこそ、救いを約束する神に対する不服従だ。私たちも神に出会い、信じる者とされたが、救いはまだ途上にあり、完成していない。約束されたものを手中に出来ない緊張がつぶやきを生む。つぶやいた者は神を疑う「神は本当におられるのか」。このつぶやきと疑いが私たちを神から離れた「傷のあるもの」とする。
−フィリピ2:15-16「つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」。
・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にある。人間としては、釈放されて再びフィリピを訪れることを願っているが、適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めている。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っている。民の罪を購う「贖いの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清める。パウロが死に、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、「あなたがたのために喜んで死のう」とパウロは言う。
―フィリピ2:17−18「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」。

3.共に喜ぶものとなりなさい

・パウロは獄中にあって動けないため、弟子テモテをフィリピに送る。テモテを暖かく迎えて欲しい教会に頼む。テモテは自分のためではなく、キリストのために生きている。だから、彼に習いなさいと。
−フィリピ2:19-22「私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのように私と同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」。
・今はとりあえずテモテを送るが、パウロ自身もやがてフィリピを訪れたいと希望を述べる。
−フィリピ2:23−24「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」。
・パウロはエパフロディトを教会に執り成す。エパフロディトはパウロに仕えるために教会から派遣されたが、病気になって失意の内にフィリピに帰る。「彼を暖かく迎えて欲しい。彼は主の為によく頑張った」とパウロは思いやる。
−フィリピ2:25-29「エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のとき奉仕者となってくれました・・・彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました・・・そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、私も悲しみが和らぐでしょう。主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。私に奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。
・信仰は、「キリストにある愚者」を生む。ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」の中で、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した。「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことだ。パウロもテモテもエパフロディトもキリストにある愚者であった。この人たちは、キリストが自分のために死んで下さったことへの応答として人生を生きた。私たちもそうありたい。
−第二コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-06-02 18:08:47 (84 ヒット)

2019年6月9日聖書教育の学び(2019年2月27日祈祷会、フィリピ1章、いつも喜びなさい)

1.エペソの獄中からのパウロの手紙

・フィリピはマケドニア州にある港町で、パウロが初めてヨーロッパ伝道を行った記念すべき町である。 キリスト教はユダヤで始まったが、発展したのはヨーロッパだ。「福音がアジアからヨーロッパに伝わる」ことがなかったら、その後の世界史は大きく変わったであろう。パウロのフィリピ伝道は歴史の大きな転換点になった。そのフィリピで、パウロはリディアという一人の裕福な婦人に出会い、彼女はパウロの話を聞いて、回心し、洗礼を受ける(使徒16:14-15)。やがてこのリディアの家の教会がフィリピ教会となっていき、その後はパウロの伝道活動を支援する教会となっていく。
・パウロはフィリピを離れた後、テサロニケやコリント、エペソ等で伝道活動を続けるが、フィリピ教会はパウロの活動支援のためにエパフロディトに託して献金を送り、彼はパウロの助手として働き始めるが、重い病気に罹り、フィリピに帰る事となった。パウロは帰還するエパフロディトに託して、支援感謝の手紙を書く。それが「フィリピの信徒への手紙」である。
−フィリピ2:25-29「私は、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです・・・そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、私も悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください」。
・フィリピの教会は常にパウロを支援し、支えてくれた。パウロはそれに深く感謝している。
−フィリピ1:3-5「私はあなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それはあなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。
・フィリピはパウロの伝道によって立てられた。人々を信仰に導いたのはパウロであるが、実はパウロを通して働いて下さったのは神であった。その神の祝福が最後の日まであるように、パウロは祈る。
−フィリピ1:6-7「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、私は確信しています。私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。
・あなたがたに、何が大事であるかを知る力と見抜く力を神が与えてくれるように、パウロは祈る。
−フィリピ1:9-11「私は、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、・・・神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。

2.キリストにあって獄にいる事を喜ぶ

・フィリピの人たちはパウロが獄に繋がれ、伝道が挫折したのではないかと心配していた。パウロは神がこの入獄を通して恵まれた事を伝える。兵営の兵士たちの中に信仰に導かれる者たちが出たのであろう。
−フィリピ1:12-14「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・パウロは先にフィリピでも投獄されているが、その時には、フィリピ監獄の看守とその家族が信仰に導かれるという体験をした(使徒16:25-34)。今、同じ出来事がこのエペソでも起ころうとしている。さらにパウロたちが牢獄の中にあっても宣教の熱意に燃えているのを見て、エペソの信徒たちも伝道を活発化させ、パウロを喜ばせた。他方、エルサレム教会から派遣された教師たちは、パウロの不在中に、教派的な宣教活動を強化していたようだが、パウロはそのことさえ喜ぶ。主の名が伝えられているからだ。
−フィリピ1:15-18「自分の利益を求めて、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます」。
・パウロは裁判の結果、自分が無罪放免されるのか、あるいは有罪として処刑されるのかを知らない。しかしどちらの結果になるにせよ、神の導きに委ねようと考えている。パウロの考える救いは牢獄からの解放とか、外面的な危険からの救出という出来事ではなく、あくまでも永遠の命、究極的な霊の救いなのだ。
−フィリピ1:20-24「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。
・キリストの為に苦しむ事も、恵みなのだ。その事を通して、キリストを証ししようとパウロは述べる。
−フィリピ1:27-29「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。

3.フィリピ1章の黙想

・パウロは獄中にいる。監獄に捕らえられた者は、自分は無実であるのに拘束されたと不満を述べ、これからどうなるのかを心配し、どうすれば無罪放免されるかを悩む。しかし、パウロは憤慨もせず、落胆もせず、欲求不満にもならない。何故ならば、自分がこの獄中にいるのは、神がこの出来事を通して、福音を伝えようとしておられるのだと理解しているからだ。フィリピ書には「喜ぶ」という言葉が17回も出てくる。パウロは死罪を言い渡され、処刑されるかもしれない状況の中で喜ぶ。
・フィリピ書は私たちに、「苦難の意味」を考えるように迫る。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられる。ある人は健康に生まれ、別の人はそうでない。ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけなかった。私たちにはそれが何故か、理解できないが、理解できなくとも良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それが現実を見つめる「平静さ」という勇気だ。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知る。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知る。私たちは苦難を通して人間に絶望し、その絶望の中で、暗闇も神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がつく。
・日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師に勇気を与えた書もフィリピ書だった。鈴木牧師は死が避けられないことを知り、嘆いた。信仰者にとっても死は恐怖なのだ。彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ書だった。パウロはフィリピ書の中で、「死ぬとはキリストの元に行くことだ」と述べる。
-フィリピ1:21-24「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。
・鈴木正久は最後に「死を超えた明日」を与えられたことを感謝して死んでいく。
-鈴木正久・病床日記「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-29 10:17:48 (63 ヒット)

2019年6月2日聖書教育の学び(2019年1月9日祈祷会、ガラテヤ6章、重荷を担い合いなさい)

1.指導者の重荷を担い合いなさい

・ガラテヤ教会の指導者たちは、自分たちは「霊に導かれている」と誇りながら、実際は、教会を間違った方向に導こうとしていた。そして教会内の反対者と反目しあっていた。
−ガラテヤ5:15「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。
・指導者が間違った方向に行こうとしている時、教会員は彼らを正す義務がある。パウロは、「柔和な心で彼らを正しい道に立ち返らせなさい、裁いてはいけない、互いに重荷を担いなさい」と勧める。
−ガラテヤ6:1-2「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。
・私たちは洗礼を受けてキリスト者になるが、罪を犯し続ける。では洗礼を受けて何が変わるのか、それは「自分が罪を犯し続ける存在であり、それなのにキリストに赦されて現在を生かされている」ことを知ることだ。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなり、そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生む。「重荷を担い合う」とは、肉の働きから来る罪との戦いだ。誰かが罪を犯して苦しんでいるのならば、一緒に苦しみなさい。間違っても、「自分はそんな罪は犯さない、罪を犯す人は弱いのだと思い上がってはいけない」とパウロは戒める。
−ガラテヤ6:3-5「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです」。
・私たちの行為は、最終的に神の御前で審判を受ける。その時、「あの人に比べて悪いことはしていない」とか、「世間の人は賞賛してくれた」等は何の意味も持たない。「神の前に立って恥ずかしくないように、今現在を生きなさい」とパウロは語る。
−ガラテヤ6:6-7「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい・・・神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。
・人は自分の蒔いたものを刈り取る。善であれ悪であれ、行いに応じて報いを受ける。良いことをすれば神は報いてくださる。善を行うには忍耐が必要だが、時が来れば必ず与えられる。信じて行いなさい。
−ガラテヤ6:8-10「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。

2.割礼を受けることは十字架を否定することだ。

・あなたがたに割礼を勧める者は、ユダヤ教徒やローマ帝国からの迫害を免れるために、そうしようとしている(当時の教会は地域のユダヤ人から迫害され、帝国からは非公認宗教者として迫害されていた)。
−ガラテヤ6:12-13「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」。
・パウロの反対者たちは、自分たちの行為がキリストの福音を踏みにじっているとは思いもしなかった。しかし迫害を避けるためのユダヤ教や帝国との妥協が、肉の思いとなり、十字架を否定する行為になる。
−ガラテヤ5:11「この私が、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」。
・私たちは割礼のような外面的な行為で救われるのではなく、十字架で救われるのだ。キリストの十字架によって私たちも共に死んだのだ。割礼があるかどうかでなく、死んで新しくされたかが大事なのだ。
−ガラテヤ6:14-15「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。
・私が迫害によって受けた傷こそ、イエスの焼印だ。イエスの焼印を身にまとう者がキリストに背いて、ユダヤ教や帝国と妥協することは出来ない。あなたがたもわかってほしい。
−ガラテヤ6:17「だれも私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです。
・もし人が神からの招きを受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられる。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされる。私たちも洗礼という形で、「イエスの焼き印」を身に帯びる。それはイエスと共に十字架に死に、イエスと共に新しい命を生きるという「焼き印」であり、その焼き印を受けて人は教会に加わる。教会は地上にあるゆえに問題を抱えた群れではあるが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのだ。

3.ガラテヤ6章の黙想

・パウロは語る「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(6:12)。ここでパウロは二つの批判をしている。一つは、割礼を強制しようとしている人々は、他の人から良く思われようとしているのだとの非難だ。彼らは「あなた方の救いのためではなく、自分たちの改宗運動の成功という功績を求めてそうしているのだ」と。現代の教会においても、伝道の実績をバプテスマ者の数で計る傾向がある。その時、功績をあせって、まだバプテスマを受ける準備の出来ていない人に無理にバプテスマを受けさせるようになる。そのようなバプテスマは、神の業ではなく人の業に、教会の業ではなくビジネスになっていく。パウロは反対者たちの運動の背後に、功績をあせる彼らの気持ちを見ている。
・第二に彼らは異邦人改宗者に割礼を強制することによって、キリストの十字架ゆえに受ける迫害を回避しようとしている。当時の教会に対するユダヤ教からの迫害は激しかった。特にユダヤ教の牙城であるエルサレムではそうだった。キリスト者は背教者として、ユダヤ人社会から村八分にされた。そこでエルサレム教会はユダヤ教徒が最も大切にする割礼を受けさせることによって、ユダヤ教と妥協しようとした。「生まれたばかりの教会は厳しい環境の中にあり、その中でどのようにしてこの教会を守り、広めていくかを考えると、無駄な軋轢は避けたほうが良い」。割礼は聖書に定めてある契約のしるしだ。彼らは反論した「神はユダヤ人を選びの民とされ、しるしとして割礼を受けよと命じられた。私たちは良きユダヤ人であってこそ、良きキリスト者になれる。割礼を受けることが何故反キリストになるのか」。
・同じ事を戦時中の日本の教会も言った「良き日本人であることが良きキリスト者の基本だ。日本人として天皇陛下を敬うのは当然であり、国が東亜共栄圏の理想を推し進めているのであれば、教会も協力すべきだ」。戦時中の教会は、敵性宗教を信じる非国民として社会から排斥されていた。教会は迫害を回避するために、戦闘機を奉納したり、韓国や中国の反日キリスト者を説得するために宣教師の派遣も行った。厳しい環境の中で教会を守りたいという行為が、戦争協力になり、「殺すな」という戒めを守ることの出来ない教会になっていった。同じことが現在のアメリカでも起きている。「国がテロとの戦いを推し進めている以上、教会も協力すべきだ」。アメリカの教会の多くはイラク戦争やアフガン戦争の勝利を祈っている。何がいけないのか。彼らはキリスト者である前にアメリカ人であると言っている。キリスト者であることより、自分の民族を前に出す。そこに誤りがある。何故なら、私たちの国籍は天の国だからだ。
・パウロは語る「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6:14)。パウロは十字架を復活の光の中で見ている。キリストは弱さのゆえに十字架にかけられたが、神はこのキリストを復活させて下さった。十字架の苦難があるゆえに復活の栄光がある、受けるべき苦難を受けることによって、神は私たちに栄光を下さる。目先の苦難、ユダヤ人からの迫害や同胞からの疎外を避けようとして、するべきでないことをした時、それは神の福音とは異なる福音、人間の教えになってしまう。そして人間の教えには命を救う力はない。
−ピリピ1:29-30「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-19 16:13:47 (93 ヒット)

2019年5月26日聖書教育の学び(2018年12月26日祈祷会、ガラテヤ5章、キリスト者の自由)

1.キリスト者の自由

・ガラテヤの人々は割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の伝道者の勧めで、割礼を受けようとしている。パウロは彼らに言う「割礼を受ければ、あなたはキリストと無縁の者になるのだ」
−ガラテヤ 5:1-2「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです・・・もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。
・律法による救いとは、律法を全て守ることなのだ。そのようなことは人には出来ない。「この小さき者にしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われて、誰が自分は無罪だと主張できよう。
−マタイ25:41-45「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ・・・この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。
・私たちは律法を守りきることは出来ない。だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないのだ。
−ガラテヤ5:3-5「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。私たちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。
・ユダヤ主義キリスト者たちは律法を捨てて、十字架の恵みのみにすがることが出来なかった。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めた。律法は見える。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義だ。彼らはキリスト者ではない、むしろキリストの福音の妨害者なのだとパウロは言う。
−ガラテヤ5:7-12「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。・・・あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます・・・ あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。
・律法そのものは悪ではない。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行く。安息日は「休みなさい」という恵みであり、良いことだ。しかし「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行く。割礼もそうだ。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福である。しかし「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行く。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのだ。

2.キリストの霊を受けて生きる生活

・あなたがたはキリストから自由をいただいた。その自由はあなたがたの肉の欲を、霊の愛に変える。肉の欲は相手を自分に仕えさせようとし、愛は自分を相手に仕えさせるように導く。
−ガラテヤ5:13「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
・キリスト者の自由は律法を否定しない。信仰によって働く愛こそが律法をまっとうさせるのだ。
−ガラテヤ5:14「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
・霊に従って歩みなさい。霊は肉の欲を愛の願いに変えるのだ。
−ガラテヤ5:16-18「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。
・肉の業は不品行をもたらす。律法によっては、私たちは肉欲から自由になれないのだ。
−ガラテヤ5:19-21「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。
・霊の業は徳をもたらす。私たちはキリストと共に、肉の欲望を十字架につけたのだ。
−ガラテヤ5:22-24「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
・原理主義者は反キリスト者となる。パウロもそうだし、キリスト教原理主義者も同じだ。原理主義者は違うものを攻撃することによって、自分の正しさを確保する。しかし、愛は人を責めない、愛は相手の罪さえも覆うものだ。私たちが求められているのは愛だ。
−第一ペテロ4:8「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」。

3.ガラテヤ5章の黙想

・主の祈りは美しい祈りだ。私たちは祈る「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ある説教者によれば、裏・主の祈りがあるという。
−裏・主の祈りから「側にいて下さる私の神よ。私の名を覚えて下さい。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生、糧を与えて下さい。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めて下さい。私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃して下さい。国と力と栄えとは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン」(平野克己、主の祈りから)。
・ルカ18章でイエスが提示されたファリサイ人の祈りはその典型だ。
−ルカ18:10 -12「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。
・これが人の本音に近い祈りであろう。しかし、イエスが肯定されたのは、ファリサイ派の人ではなく、罪びととされた徴税人の祈りだった。
−ルカ18:13-14「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・人は結局、自力では自我から脱出できない存在であり、エゴから解放されるには、エゴを十字架につけるしかない。それはキリストと共に死ぬ、キリストの十字架を背負って生きることだ。
−ローマ6:6-8「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-12 22:04:26 (72 ヒット)

2019年5月19日聖書教育の学び(2018年12月19日祈祷会、ガラテヤ4章、律法の奴隷に逆戻りするな)

1.自由になったのに奴隷に逆戻りしてはいけない

・パウロは、信仰者はキリストにより神の子とされたのだから、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ相続人なのだと語る。しかし、相続人も未成年の間は、後見人や管理人の監督下に置かれ、財産を自由に出来ない。信仰者もキリストが来られるまでは、律法や慣習という管理人の元に生活せざるを得なかった。
−ガラテヤ4:1-3「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。
・しかし、キリストが来られて私たちは自由になった。律法の奴隷から、神の子とせられた。
−ガラテヤ4:4-7「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした・・・あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。
・あなた方は神から知られているし、神から受容されている。それなのに、魂の救いを、この世の秩序や断食等の行為に求めようとしているのか、それは自然界の輓呂悗虜禿戮領貘阿紡召覆蕕覆い犯爐聾譴襦N法に戻るとは、かつてあなたがたを支配した諸霊(スイトケア)の奴隷に戻ることだ。
−ガラテヤ4:8-9「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」。
・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味だ。的から外れる、神なしで生きる時、人間は人間しか見えない。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出し、この世は弱肉強食の世界となる。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケア)が働いていると見る。諸霊(ストイケア)は今日の私たちをも支配している。
−ガラテヤ4:10-11「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

2.あなたがたをもう一度生むと語るパウロ

・12節からパウロの語調が変わり、これまでの論難調から、個人的な語りかけになって行く。
−ガラテヤ4:12「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした」。
・パウロは異邦のガラテヤ人に福音を伝えるためにユダヤ人であることを捨てた。彼らに割礼を受けることも強制せず、食物規定を守ることさえ求めなかった。その私をあなた方は暖かく迎え入れてくれたとパウロは回想する。
−ガラテヤ4:13-14「知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。
・パウロはガラテヤに行った時、病気に悩まされていた。その病気は眼病であったようだ。
−ガラテヤ4:15「あなたがたが味わっていた幸福は、一体どこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」。
・パウロはガラテヤの人々が悪いのではなく、彼らをたぶらかせた者たち、エルサレム教会の伝道者たちが悪いと批判する。
−ガラテヤ4:16-17「私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」。
・そしてパウロはガラテヤの人々に「私の子どもたち、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる」と呼びかける。
−ガラテヤ4:19-20「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」。

3.二人の息子のたとえ

・パウロはガラテヤの人々が奴隷ではなく、神の子であることを説明するために、イシマエルとイサクの対比を持ち出す。アブラハムには二人の妻があり、女奴隷ハガルからはイシマエルが、正妻サラからはイサクが生まれた。アブラハムの相続人になったのは奴隷の子イシマエルではなく、約束の子イサクだった。
−ガラテヤ4:22-23「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」。
・あなたがたはイサクのように約束によって生まれた子だ。それなのに何故、肉によって生まれたイシマエルのようになろうとするのか。イシマエルはアブラハムの家から追われたではないか。
−ガラテヤ4:28-30「あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります」。
・あなたがたは約束の子であり、キリストが自由にして下さった。二度と奴隷の身に戻ってはいけない。
−ガラテヤ4:31-5:1「兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストは 私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

4.ガラテヤ4章の黙想

・神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界となる。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケア)が働いていると見る。その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持つ。現代の私たちは地球を何度も破壊する量の核兵器を所有している。広島、長崎を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを誰もが知ったのに、世界はそれを廃絶することが出来ない。核兵器は敵に対する抑止力として必要だとうそぶく人々は悪魔的力の奴隷になっているのではないか。
・原子力発電も同じで、私たちは福島原発事故を契機に原子力発電の怖さを知り、また放射性廃棄物を処理する能力が人間にはないことを知った。それにも関わらず、原発の再稼働が当然のように進められている。現代の私たちも悪的諸霊=ストイケアから自由になっていない。神無き世界では、人間は、罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ず、戦争を繰り返し、核兵器を保持し、原発を止めることさえ出来ないのだ。
・人間がこの罪の縄目から自由になるために、神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任されたとパウロは理解する。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見る。沖縄県民の意向を無視して辺野古の基地建設を図る政府の人々も、この悪霊のとりこになっている。しかし、神はイエスを死から起こすことを通して、罪を放置することを許されなかった。だから私たちはキリストの十字架死を通して救われる。それなのにあなた方は「救われるためにはキリストだけでは不十分だ」と言い始めているとパウロは批判した。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対した。割礼を受けよと勧めるエルサレム教会の伝道者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)とさえ叫ぶ。割礼が何故そんなに問題になるのか、それは「割礼を受ける」ことによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからだ。割礼を受けた者は、「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていく。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出す。そこには「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じない。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることだ。この無条件の救いが感謝となって人間の変革をもたらす。


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