すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-06 19:24:23 (93 ヒット)

1.ローマ13章を巡る議論

・今日、私たちはローマ13章を読むが、この箇所はキリスト者と政治について述べており、後世の社会に大きな影響を与えた。パウロは紀元58年頃、ローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めた。世の権威は神によって立てられたものであり、支配者は世の秩序を保つために神から権威を与えられているのだから、「上に立つ権威に従いなさい」と勧める。具体的にはローマ帝国とその秩序に従い、納めるべき税は納め、果たすべき義務は果たしなさいと語っている。この言葉の背景には、当時広がっていた自由に対する誤った考え方がある。福音はキリスト者の自由を説いたが、この自由を誤解する人々がいた。「自分たちは自由だ。だからもうこの世の秩序に従う必要はない」。ある人々は国家からの自由を主張して、税や使役の支払を拒否するようになった。パウロは「キリストが与えて下さった自由はそのようなものではない。あなたがたは市民としての義務を果たしなさい」と人々を戒めた。
・初代教会の人々は、パウロの使信を受け入れた。紀元64年、ネロによるキリスト教迫害が始まった時、人々はこの言葉に従い、抵抗することなく殉教して行った。迫害は250年間続いた。しかし、キリスト教はやがてローマ帝国を征服し、ローマの国教となって行く。支配側に立った時、教会はローマ13章の解釈を根本的に変えた。教会はローマ13章を用いて次のように教えた「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と。この考え方がその後も継承され、国家に対する絶対服従を教えるものとしてローマ13章が用いられて行った。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について従来の考え方を継承した。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていく。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権につき、官憲として服従を要求した時である。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法的政権として受け入れていく。その中で、改革派教会は政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきであることを主張し(バルメン宣言)、ナチスとの武力を含めた戦いを始める。
・私たちキリスト者は社会の中で生きる。その時、キリスト者は国家に対してどのようにあるべきか、また国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てくる。戦前の日本では「天皇とキリストはどちらが偉いか」と問われ、戦争を拒否する者は投獄された。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行く。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題だ。

2.ローマ13:1-7の語るもの

・一体、ローマ13章は国家に対する服従や抵抗を教えているのだろうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれることが多い。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されることが多い。故に聖書は全体の文脈の中で読むべきだ。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えている。直前の12章では、パウロは、キリストに召されたものとして、世の人々と平和に暮らしなさいと勧めている「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章後半でも、パウロは「人々と争うな」と勧める。「愛は隣人に悪を行いません」(13:10)。
・このような文脈の中で、唐突にこの世の秩序維持のためであれば、戦争も含めた悪にも従いなさいという考えは出てこない。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えている。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従する。そのために貢や税や労役も世に支払う。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めるべきだ。だから、パウロは言う「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのだ。
・彼はピリピ教会にも同じ様な使信を送っている。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)。悪には従わないが、秩序には従う。悪に従わないことによって不利益を受けるのであれば、その不利益をキリストのためと思って喜びなさいと言われている。ローマ12:20-21は言う。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・このように見てくると、ローマ13章でパウロは政府に対する絶対服従を教え、「キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよ」と教えているのではない。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言わない。また逆に、「戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うな」とも言わない。聖書が言うのは、「悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい」ということだ。当時のローマ皇帝はネロであった。そのネロを隣人として愛しなさい。「愛は隣人に悪を行わない」、「悪には善を持って立ち向かえ」と言う。「悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよ」と彼は言っている。

3.あなたが隣人になりなさい

・今日の招詞にルカ10:36-37を選んだ。有名な「良きサマリヤ人の例え」の一節だ。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。 律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。この言葉は律法学者との問答の中で言われている。律法学者はイエスに問う「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と答えられた。律法学者は更に問う「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の例え」を話され、強盗に襲われた旅人を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、敵として嫌われていたサマリヤ人であったことを述べられ、あなたもこのサマリヤ人のように敵を愛しなさいといわれた。自分の最も嫌いな人、憎む人こそが神があなたに与えた隣人であり、「あなたがその人の隣人になりなさい」と教えられた。
・今日のローマ13章の言葉の文脈で読めば、ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさいということだ。イエスは山上の説教の中で言われた「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ 5:46-48)。
・私たちは隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っている。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人だ。そういう人とは隣人になれないと私たちは抵抗するが、イエスはその私たちに問われる「徴税人や異邦人でさえ出来る事をして神は喜ばれるのか。あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいる。私たちはその人たちが嫌いだ。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだ。「イエスが罪にまみれたあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか」、パウロはあのネロを隣人として愛せと書いたではないか。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちが為すべきことは、自分を憎む者のために祈ることだ。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。「神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ」、そう命じられている。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-28 17:49:11 (88 ヒット)

1.愛し合いなさい

・今日、私たちは、一人の姉妹から信仰告白をいただき、新しい教会員としてお迎えしました。信仰告白の原稿は三週間前に姉妹からいただきました。原稿をお読みして、姉妹がご自分の過去を、良い点も悪い点も、ありのままに書かれている素直さに驚くと共に、イギリスの教会でローマ12章の言葉に接して、自分の罪を知り、過去を悔い改め、新しい生活に入って行かれたことを、感動を持って喜びました。神様が姉妹の人生に介入され、ここに新しい命が生まれたことを知ったからです。
・姉妹を信仰告白に導いたこのローマ12章を、今日は共に読んでいきます。ここに書かれているのは、「キリスト者はいかに生きるべきか」ということであり、その生き方を貫く縦糸としての「愛」です。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っていました。その準備として、彼はローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めたこと、新しい生き方を示されたこと等を述べています。具体的には、1-8章で「神は私たちを救うためにキリストを遣わされた」と述べ、9-11章で「反逆したイスラエルさえ神は救おうとされている」と述べます。この神の側からの救いの申し出に対して、私たちはどう応答すべきかを述べたのが、12章以下の言葉です。
・12章の冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。神の救済に対する応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を神に捧げることだと彼は言います。礼拝とは主の日に教会に集まることだけではなく、生活の中で神を証ししていく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが礼拝だと彼は言います。具体的にはどのような生活なのか、パウロは9節以下で説明します。
・一言で言えば、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」には冠詞がついています。「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗って言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。このイエスによって示された愛、相手の足を洗う愛、これがアガペーと呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには好きという感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さないのです。この愛はエロスと呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しません。人間として当然な感情だからです。しかし、エロスの愛だけでは本当の人間としての交わりは不可能です。なぜなら、そこには味方と敵が生じるからです。好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になります。そして敵がいる以上、そこに争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは言います「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」と言われています。アガペーの愛とは好きという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。
・パウロは続けます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:17-18)。世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめます。争わない者は弱者として嘲られるでしょう。弱者でよいではないかとパウロは言います。そして迫害されても復讐するなと言います。その言葉が19−21節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。良心で相手と戦い、相手の心に燃える炎を送れとパウロは言うのです。

2.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

・今日の招詞として、マタイ5:43−44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。有名な山上の説教の一節です。隣人を愛せとはレビ記19:18からの引用です。レビ記には敵を憎めとは書かれていません。しかし、多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住み、城門の内側にいる人が隣人で、そうでない者は敵であり、敵を愛することは身の危険を意味しました。敵は愛する範囲には入りません。イエスもそれが人間の当然な感情だと知っておられました。しかし、イエスは言われます「あなたは私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でも異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなたが私の弟子である意味は何処にあるのか」。
・イエスは言われます「あなたは私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたも父の子として敵を愛せ」。先に見ましたように、古代において、イエスの時代において、敵を愛するのは危険でした。今日においても状況は変わりません。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はありませんし、武器を持たない軍隊はありません。その武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、即ち敵です。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。人々はイエスを理解することが出来ません。マルクスは言いました「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い者の教えでした。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。レーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会を作ろうとしましたが、それは化け物のような社会になりました。今日、純粋な共産制をとる国はほとんどありません。何故でしょうか。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在であるからです。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだと。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書いています「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。

3.燃えさかる薪

・曽野綾子の小説に「燃えさかる薪」というのがあります。このローマ12章を題材にした小説です。シンガポールに暮らす主人公亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨みます。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届きます。今、彼の回りには、彼を愛し彼を世話する人は誰もいません。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行きます。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れます。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知り、新しい生活を断念してシンガポールに戻ります。
・この本についてのコメントを載せていた一人のクリスチャン女性のホームページがありました。彼女は二人の子供を持つ共働きの主婦です。彼女は言います「自分をひどい目にあわせた人に不幸が降りかかった時、『ざまあみろ』と心から思う人はどれくらいいるだろうか。私は『ざまあみろ』と思いながら、でもそんな風に思う自分を嫌悪するだろう。・・・自分にひどいことをした人に対して、同じことをするのは自分を同じレベルにまで引き下げることだ。・・・『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』ということを聞いた主人公は、人生の真理として『あるべき姿としての人間の行為をとらねばならぬこと』の本質を直感する。主人公だけでなく、私の目をも開いてくれた一節である」。
・「怒りにまかせて相手を呪う。うまくいかないことに対する他人の責任を追及する。そのときだけ気は晴れるが、本当の満足が得られない理由がわかったような気がした。夫との関係は何よりそうだ。『私ばかり大変』と口に出し、これ見よがしに溜息をつき、時には怒りに任せてののしる。・・・『すべきことをすることが本当の満足につながる』ということを実践してみようと、まず自分がいつも笑顔でいることにした。・・・朝、出勤前のバタバタの時、一番先に起きて、夫と自分の弁当を作り、子供たちに食事をさせ、歯を磨いてやり、着替えを手伝う。自分はトイレに行く暇も化粧をする暇もなく、保育園に送って行かなければといつも不満に思っていた。でも、笑顔でおはようと言い、普段通りに家事をしながら、『顔洗ってくるからお願い』とハブラシと着替えを置いておくと、彼が子供の世話をしてくれるようになった。復讐というのは、実は自分の優位性を自分が実感するためにすることではないか。傷つけられたプライドを修復しようとすることだ。私が夫にしてきたことはこの意味での復讐だった。でも『復讐したいという気持ち』を脇に置いてみたら、少しずつ関係がよくなってきた」。
・キリストにある平和はキリストの十字架により、もたらされました。私たちは十字架を通して、神が世界を支配し、人間の歴史に介入される方であることを知りました。知ったのであれば、私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないかと聖書は言います。私たちはこの世が理想郷でないことは知っています。敵を愛すると言うことは、違う価値観を持つ敵を受け入れることを前提にし、危険を伴うものです。それでもそうしようと思います。敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、世界史は教え、また生活上の体験も教えるからです。何よりも、私たちは神の護りの中にあり、必要な時には神が行為して下さることを信じるからです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-21 21:13:36 (98 ヒット)

1.キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロには忘れることの出来ない問題がありました。それは同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていることでした。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか、私の同胞は滅びに至るのか、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。ただ議論は9章から始まっていますので、折に触れて9-10章も見てみます。
・さて、ユダヤ人は神の民として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。ユダヤ人を通して、神は人類を救おうとされ、その約束はユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。クリスマスはそのことを祝う時です。しかし、ユダヤ人たちはこのキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは神に捨てられたままで、永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。彼は言います「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)。神を知らない者は、自分の不幸や欠陥を悲しみます。しかし、神を知った者は、他人の不幸や欠陥に無関心ではいられないのです。
・このパウロの悲しみを私たちも持ちます。日本に福音が伝えられて100年以上も経ちますが、まだほとんどの日本人はキリストを受入れようともしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では妻がクリスチャンになっても、夫は聖書の教えに無関心である場合が多くあります。教会に行き始めた子供たちも、大きくなって教会を離れることが多いのが現実です。また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることもあります。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)と私たちは信じますが、それでは、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは私たちも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは今、当時の世界の中心地ローマに行こうとして、その準備のためにローマ教会に手紙を書いています。異邦人に福音を伝えているパウロはユダヤ人であり、同じ働きをしているペテロもまたユダヤ人です。しかしユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、むしろ福音に敵対し、これを迫害しています。しかし、パウロは神の経綸を信じ、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心を福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされているのではないか」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人の方に向けました。使徒行伝13:46はパウロの言葉を伝えます「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」。もしユダヤ人がイエスを受け入れてこの福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。しかし神の民イスラエルの反逆によって、キリスト教は民族を超え、今ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の背信が神の経綸の中で決定的な役割を果たしたのです。それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の下に帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。私たちもまた、たとえ家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神のご計画の中にあるのであり、いつの日家族もまた受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

2.先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それはユダヤ人に妬みを起させることだとパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の生活の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさにそのような出来事が起こるとパウロは言います。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を根と接木という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という幹に野生のオリーブが接木されたようなものであり、接木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、異邦人は、神はユダヤ人を捨てられ、自分たちを選ばれたのだと誇りました。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマの国教となってくると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになったのです。中世のヨーロッパでは至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義が現代にも継承され、やがてナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺を生んでいきます。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことを示しています。アウシュヴィッツ強制収容所の忌まわしい出来事は、ある日突然起こったものではなく、2000年の歴史の中で起こったのです。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。パウロは語ります「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです・・・福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(11:25-29)。「神の賜物と招きとは取り消されない」、神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を「一時的に」閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。

3.私たちはローマ11章をどう読むのか

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。パウロは指摘します「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:2-3)。人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になりがちです。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、そのように行わない人を裁くようになります。しかし、それは自分の義であって、神の義ではありません。私たちが自分の力で救われようと努める時、私たちは傲慢になって、救いからもれるのです。ユダヤ人も福音を聞いたのに、これを拒絶しました。自分の正しさに固執したからです。
・先に言いましたように、パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。私たちは信仰を与えられ、礼拝することを許されていますが、家族の中で信仰を持っているのは自分一人の方もいます。自分は救われるかも知れないが、家族はどうなるのか。存命中であればいつかはキリストに出会う望みを持つこともできますが、キリストを知らないまま死んでしまった家族はどうなるのか。彼らは、地獄に堕ちてしまうのか。教会から離れていった人たちは捨てられるのだろうか。しかしパウロは言います「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(11:24)。
・神の知恵は人間の思いを超えます。誰が救われたとか、救われていないとかいうことは、神の領分であり、私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよいのです。パウロは賛美しました「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう.いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」(11:33-35)。アウシュヴィッツは人間の罪により起こされましたが、神はその悲惨な出来事を通して世界中の関心をユダヤ人に集中させ、イスラエルの地に彼らが国を建てることを許されました。2000年間国を無くして放浪していた民族が、国を再建したことは歴史上ありえない出来事です。その出来事を神は起こされた、そうであればキリストを信じないで死んでいった家族も、今でも福音を拒む友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-14 20:50:37 (101 ヒット)

1.現在の苦しみ

・ローマ書を読み続けて来ました。今日が8回目、いよいよローマ書の中核となる箇所です。先週学びましたように、キリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法=神の戒めを守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。彼は叫びます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。その彼がキリストとの出会いを通して救われていきます。パウロは告白します「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神との和解が為された、神の子としていただいたとパウロは感謝します。
・「神の子とされる」とは、永遠の命が約束されたということです。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きています。そしてこの地上はイエスを十字架で磔にした場所、罪が支配している場所です。イエスは世を去る前に弟子たちに言われました「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:18-19)。「私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」、キリスト者になることは世からの苦しみを受けることだとイエスは言われました。だからパウロも言います「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(8:17)。
・当時の社会において、キリストを信じることは、「迫害と苦しみ」を意味していました。キリストを信じるユダヤ人はユダヤ社会から異端として排斥され、キリストを信じる異邦人は皇帝礼拝を拒否する者としてローマ帝国からの迫害を受けていました。パウロはその現実を見据えます「この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ」と。しかし「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」(8:18)。聞く私たちはパウロの言葉にたじろぎます。誰も苦難など受けたくない、私たちが求めるのは現在の幸福です。世の宗教は現世利益を説く故に、多くの人々が集まります。幸福の科学や世界救世教等の人気を集めています。しかし、このような宗教は病の癒しは説いても、死からの救済は説きません。最大の苦難である死と向き合おうとしない信仰は永続しないでしょう。
・他方、聖書は「死の問題」を正面から取り上げます。パウロがローマ8章で取り上げているのも死の問題です。「被造物は虚無に服している」(8:20)、私たちは死に至る存在であり、死ですべてが無くなると思うから、人生は無意味、無価値、虚無にならざるを得ません。何故死があるのか、罪の故です。パウロは言います「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので・・・す」(8:19-20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、自然そのものも人間の罪によって虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。人間の欲望が森林を乱開発し、鉱物や石油を大地から掘り出し、その結果大地は汚染されていきます。預言者エレミヤは大地の荒廃の中に人間の罪を見ます「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。現代ではアマゾンの熱帯林が乱開発によって死滅しつつあります。地球上の酸素の30%を供給し、「地球の肺」と言われる熱帯雨林の消滅はすべての生命にとって生存の危機をもたらします。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代において大事な言葉です。

2.苦しみを超えて

・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来る。それは生みの苦しみ、救済への過程にあるとパウロは言います「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれ・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。人間の罪によって損なわれた自然はまた人間の悔い改めにより回復します。ペシャワール会の中村哲さんはパキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールのハンセン病患者治療のために派遣されました。しかし、いくら治療しても患者は減らず、逆に増えて行く現実の中で、今必要なことは医療よりも、病気の原因である飢餓と不衛生な水の摂取を減らすことだと知りました。彼はまず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次に水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とし、以来25年実行してきました。彼は10年間をかけてインダス川支流から水路を引き、かつて「死の谷」と呼ばれた砂漠が、今では緑の地に変っています。何が彼にそうさせたのか「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(ピリピ1:29)という信仰です。贖われて神の子となった者たちが自然回復のために働いているのです。福音の力が世界を変えうるのです。
・パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただいている、つまり霊魂の救いという内面的な救済はすでに為されています。しかし相変わらず体は肉を持つゆえに罪の虜になっており、それゆえに死ぬべき運命にあります。救いは始まったがまだ完成していない、いつの日かこの体が贖われて、死んでも死なない存在になる。その日を待ち望んでいるとパウロは言います。
・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には共に祈って下さるとパウロは言います「霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」( 8:26-27)。
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は困苦と艱難に満ち、障害と誘惑に囲まれています。苦しみそのものは決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、私たちは困苦や艱難を喜ぶことが出来る者とされています。前に紹介しました三浦綾子さんは、「癌さえも喜ぶことが出来る」ようになったと書いています「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。病も死も神がお与えになる、それは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなります。この信仰をいただいたものは他に何も要らないのではないでしょうか。

3.将来の栄光

・今日の招詞に詩編73:24-26を選びました。次のような言葉です「あなたは御計らいに従って私を導き、後には栄光のうちに私を取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」。詩編73篇は「悪人が栄え、善人が虐げられる現実」の中で、信仰者はどう生きるべきかを歌った詩編です。詩人は「神に逆らう悪人は栄えるのに神を敬う自分は苦労ばかりだ」と嘆きます。なぜ邪悪な者たちが栄え、罪なき者に災いが下るのか、詩人は聖所に行って祈り、そのことの意味を神に問います。その結果示されたのは、邪悪な者たちの行く末です。詩人は歌います「私は神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを」(73:17-18)。
・人は比較の世界で生きています。自分の人生が困難に満ち、他者の人生が安泰であれば、私たちは平静でいられません。人が地上の出来ごとのみに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪人は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に彼の心は平和です。彼の歌う「私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」という信仰こそ、パウロの言う永遠の命への希望「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と同じものです。
・「神は社会の不条理を糺され、泣いている人、虐げられている人を救済される」というのが私たちの信仰です。例え虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられている、救いは死を超えて存在する、この「目に見えないものを望んでいく」のです。パウロはコリント教会の手紙の中で言います「私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4:16-18)。彼は自分に与えられた苦難、病気を「一時の軽い艱難」と呼びます。「永遠の救い」という素晴らしさに比べれば、病気も失業も迫害も、さらには肉体の死さえも、「一時の軽い艱難」になるのです。
・今日の礼拝で新生讃美歌623番「時は満ちて」を歌います。「時は満ちてすべて美しくされ、示される道従い行きて、御言葉のまま歩む」。「時が満ちて」、この歌こそ、パウロがローマ8章で語る心をとらえています「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。「救いの完成を待ち望みつつ現在を生きる」、このような人生に私たちは招かれています。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-08 08:35:45 (98 ヒット)

1.罪に死ぬ

・今日は篠崎キリスト教会の教会創立記念日礼拝です。私たちの教会は1969年11月6日に新小岩教会の伝道所としての最初の礼拝を篠崎文化館で行い、それから41年間、私たちはこの教会で毎主日の礼拝を守ってきました。何のためでしょうか。救われた恵みに感謝し、同時にその恵みをこの地の人々に伝えるためです。主日礼拝はこのように、恵みへの応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持ちます。今日はこの中の最初のもの、「救われた恵みに応答する」とはどういうことかについて、ローマ書6章を通して考えて行きます。
・パウロは前の5章で「救いとは罪が赦されて、神と和解し、神の平安の中に生きることだ」と述べました「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(5:1-2)。世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、安心を得ようとします。しかし、他の人が認めてくれないとその平和は崩れます。そのような人に左右される平和ではなく、本当の平和、「神との平和」を求めよ」とパウロは言います。その平和は、自分が神の前に罪人であることを認め、悔い改めた時、恵みとして与えられます。パウロは言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました・・・敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5:8-10)。この神との平和が、隣人との平和をもたらします。
・しかし、私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪があります。この原罪が神と私たちの間を阻害し、また隣人と私たちの間をも阻害しています。罪とは「関係の断絶」なのです。そして聖書の罪には、単数形の罪と複数形の罪があります。単数形の罪、英語で言うsinが原罪です。その原罪が具体的な行動として現れ、律法を破る、あるいは法律を犯す時、複数形の罪crimeになります。世の人々はこのcrimeを罪と誤解しますが、本当の罪はその根源にあるsinであり、このsinから解放されなければ本当の平安はありません。そしてこのsinからの解放はキリストとの出会いを通して与えられます。それを象徴するものがバプテスマ(洗礼)です。パウロは言います「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)。
・バプテスマの語源はバプテゾー(浸す)です。水の中に沈む時キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となります。パウロは言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤ6:14)。この世に対して死んだ者が以前と同じ生活を続けられるだろうか、出来るはずが無いではないかとパウロは言います。それが6章6-7の言葉です「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」。それにも関らず、私たちの日常生活は前と変わりません。世の人々は言います「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは罪sinから救われますが、肉の体を持つ限り、罪crimeを犯し続けていきます。罪はまだまだ私たちを支配しています。どうすればよいのでしょうか。ここで問題になるのは、罪が赦された後、私たちは同じ状態のままでいてはいけないということです。罪の赦しは聖化、あるいは清めを伴わなければいけないのです。

2.聖化とは何か

・聖化を考えるために具体例を用いてみます。ヨハネ8章にあります姦淫の女の例です。エルサレムにおられたイエスのもとに、律法学者とファリサイ派の人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、真ん中に立たせて言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)。律法は姦通に対して死刑を定めています。ラビたちの伝統では、姦通は石打ち刑でした。その人々にイエスは身を起して言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(同8:7)。イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」(同8:9)とヨハネは記します。イエスが彼らに求めたのは、自らを振り返り、自らも女と同じ罪人であることを、知ることでした。良心に誓って、自らを「罪なし」と言えるなら「石を投げよ」と言うイエスの言葉は、彼らの心を揺り動かし、良心を目覚めさせたのです。                 
・イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。ここに罪の赦しと聖化が鮮やかに語られています。「私もあなたを罪に定めない」、ここに赦しがあります。しかし同時にイエスは言われました「これからは、もう罪を犯してはならない」、この聖化こそ今日の主題なのです。
・私たちも罪を赦されました。しかし、体は元のままです。だから肉の欲はなお私たちを襲います。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にあります。だから、肉の欲と戦いなさいとパウロは述べます「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:12-13)。ルターは言いました「聖者も肉の中に悪しき欲望をもっている。けれども彼らはこれに従わない」。聖者だから食欲や性欲がなくなるわけではありません。あるいは妬みや物欲もあるでしょう。聖者も人間であり、彼らの中にも悪しき欲望は働いています。けれども、「彼らは悪の支配に自分の命を賭けない」、そこに聖者の聖者たるゆえんがあります。私たちもそうです。かつては罪の中にあったが、今は聖別され、新しい生が与えられた。そうであればキリストにふさわしい者として生きなさいとパウロはローマ6章で教えるのです。

3.キリストにふさわしい者として生きる

・しかしパウロは「自分に鞭打って聖なる生活をしなさい」とは言いません。聖化=清くなるとは禁欲することではありません。戒めを守る生活をすることが「清い生活」ではありません。何故ならば「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(6:14)。もう私たちの聖化は始まっている、私たちはもう「〜せよ、〜してはいけない」という律法の下にいるのではなく、恵みの下にある。私たちが為すべきことはこの恵みを受け続けて行くことです。その時、神が私たちを少しずつ清い存在へと変えて下さる。そのことを信じて行くのです。
・今日の招詞としてローマ6:15を選びました。次のような言葉です「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。イエスが姦淫の女に言われた「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉と同じ響きがここにあります。私たちは罪を赦された者として、それにふさわしく変えられていく。これが新しく生まれる=新生、あるいは清められて行く=聖化ということです。
・新生とは何か、今まで自分中心で生きていた人生が神中心の、具体的には「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。昭和45(1970)年3月、羽田発福岡行きの日航機がハイジャックされた「よど号」事件で、人質となった乗客のなかに聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがいました。日野原さんは「私を変えた聖書の言葉」と題する本の中で次のように書いています「彼ら(赤軍)が『次に読み上げる読み物のリストの中から読みたいものがあれば手を挙げてほしい』と言われ、私は勇気を出して縛られた両手を高く挙げ『カラマーゾフの兄弟を貸してほしい』と言ったら、膝の上に文庫本4冊がおかれた」。早速第1冊目を開くと、その扉に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。そしてもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)の聖句を見出し、「そうだ、この聖句がこの小説の主題なのだと思い、時々窓の外の青空を見上げながら、ゆっくりゆっくりとこの小説を読み出した」と記しています。日野原さんは釈放後のあいさつ文で「許された第2の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません」と記しています。日野原さんは「一粒の麦になる」決意を通して「罪に死にキリストに生きる」人生を始めたのです。
・「この一粒の麦になる」という決意こそ大事なものではないでしょうか。麦は自らが死ぬことによって、地の中で壊され形を無くして行きます。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。自分の姿を残す、蒔かれずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていきました。私たちもその命をいただいた一人です。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていきます。
・「自分の形を失くして仕えて行く」、教会の言葉で言えば「相互牧会」です。お互いがお互いを配慮し合う生き方、そういう者でありたいとして今年度の祈りの課題に加えられました。宮沢賢治が「雨にもまけず」で歌ったような生き方です「ヒガシニビョウキノコドモアレバ、イッテカンビョウシテヤリ、ニシニツカレタハハアレバ、イッテソノイネノタバヲオヒ、ミナミニシニソウナヒトアレバ、イッテコハガラナクテモイイトイヒ、キタニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイウ」、私たちがこの歩みをして行く時、その小さな一歩一歩の歩みが祝福されていき、生活が少しずつ変えられ、それが隣人への証しとなっていきます。先に、「主日礼拝は私たちの感謝の応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持つ」と言いましたが、実際は一つです。「感謝の応答」は必然的に「隣人への証し」となっていくのです。そいう教会を共に形成したいと思います。


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