すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-13 09:04:58 (103 ヒット)

1.背負われるバビロンの偶像神と背負う神 (46章)

・第二イザヤの直面した問題は、50年間のバビロン捕囚で疲れ果て、主なる神への信仰を無くしてしまった、イスラエルの民をどのように鼓舞し、もう一度立ち上がらせるかであった。信仰を無くした者は、イスラエルの神を捨て、勝利者バビロンの神マルドゥクに帰依した。そのような民にイザヤは偶像神の本質を見よという。ベルは主神マルドゥク、ネボはその子ナブーの神だ。彼らは自力では歩けない。彼らは人々を守護するどころか、人々の重荷になっているではないかと。
-イザヤ46:1-2「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。
・ペルシア軍侵攻の噂が飛び交い、バビロンの人々は神殿から主神と子神の像を運び出し、避難させようとした。しかしあまりの重さに車を引く獣たちが倒れ、像もまた倒れた。これがお前たちの信仰する神の真実だとイザヤは言う。捕囚時の預言者エレミヤもまたバビロンの神々が破壊されるとの預言をしている。その預言がまもなく成る。
-エレミヤ50:1-3「バビロンに向かって。カルデア人の国に向かって。主が預言者エレミヤを通して語られた言葉。告げ知らせよ、諸国民に。布告せよ、旗を掲げて布告せよ。隠すことなく言え。バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、偶像は砕かれた。一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り、バビロンの国を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる。人も動物も皆、逃れ去る」。
・「私はそのようなものではない」と主は言われる。「偶像は人が担ぎ、背負って立たなければならず、人を救う力はない。しかし私は人を担い、背負い、救い出す」と主は宣言される。
-イザヤ46:3-4「私に聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」。
・46:4は短い文節の中に、私=アニーという言葉が5回も登場する。新改訳はそれをそのままに訳す。
-イザヤ46:4(新改訳)「あなたがたが年をとっても、私は同じようにする。あなたがたがしらがになっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。なお、私は運ぼう。私は背負って、救い出そう」。
・古代の戦争は神々の戦争であり、負けた国の神は焼かれ、神殿から引き摺り下ろされて辱められ、勝利者の国に持ち去られた。そのような偶像と私を同じとするのか。人が自分に似せて造る偶像と私を言うのかと神は言われる。
-イザヤ46:5-7「お前たちは私を誰に似せ、誰に等しくしようとするのか。誰に私をなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って神を造らせ、これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」。
・しかし私はそのようなものではない。私は天地を創造し、人々を動かして歴史を形成する。私の業を見よ、私は東からペルシア王キュロスを呼び起こし、私の計画を遂行させる。私こそ神、あなたを造り、あなたを救うものだ。
-イザヤ46:8-11「背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる」。
・あなたたちがそれを信じなくとも私は行う。その時、あなたたちは私が主であることを知るだろう。
-イザヤ46:12-13「私に聞け、心のかたくなな者よ、恵みの業から遠く離れている者よ。私の恵みの業を、私は近く成し遂げる・・・私は遅れることなく救いをもたらす。私はシオンに救いを、イスラエルに私の輝きを与える」。
・日本人の宗教心は、名を知らぬ神への帰依だ。西行法師は伊勢で歌った「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」。これはギリシャ人の信仰「知られざる神」に近い(使徒言行録17章)。人間の限界を知り、超越者を求めるが、その名を知らない。イザヤはそれに対して、「私こそ神」と主は言われたと繰り返す。

2.バビロン滅亡の預言 (47章)

・第二イザヤは46章でバビロンの神々への審判を歌い、47章では擬人化された都バビロンへの審判を歌う。アッシリアを倒して世界帝国となったバビロニアも、国運が衰退し滅亡の危機に直面している。この様を第二イザヤは、優雅で贅沢な生活を過ごしていた娘が女奴隷となり、屈辱的な姿で追放されると表現する。
-イザヤ47:1-3「身を低くして塵の中に座れ、おとめである、娘バビロンよ。王座を離れ、地に座れ、娘カルデアよ。柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない。石臼を取って粉をひけ。ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ、すねをあらわにして川を渡れ。お前は裸にされ、恥はあらわになる。私は報復し、一人も容赦しない」。
・バビロン滅亡を歌った記事はイザヤ13-14章、エレミヤ50-51章にもある。おそらくは同時代のものであるが、それらはいずれも民族的な憎悪と復讐が強く出ている。それに対してイザヤ47章はイスラエル民族の覚醒を求めるための呼びかけであり、復讐よりも、神ならぬものを頼る空しさが強く打ち出されている。
-イザヤ47:4「私たちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神」。
・黙示録は世界審判のしるしとしてバビロン滅亡を描く。バビロン滅亡は神の業だとの第二イザヤの信仰は新約聖書にも継承されている。黙示録18章の記述はイザヤ47章を参考にしている。
-ヨハネ黙示録18:2-8「倒れた。大バビロンが倒れた・・・彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『私は、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない』。それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
・バビロンは何故滅ぼされるのか。第一に主によってバビロンに渡されたイスラエルの民を虐待したこと、第二にバビロンの繁栄が主からの恵みであったのに、あたかも自分でこれを為したと驕り高ぶったことである。
-イザヤ47:5-7「沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。諸国の女王と呼ばれることは二度とない。私は自分の民に対して怒り、私の嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず、老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。私は永遠に女王だ、とお前は言い、何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった」。
・歴史は覇者がその栄光を持続することは出来ないことを教える。「奢れる者は久しからず」、そこに神の意思を認めるかどうかが信仰だ。バビロンは嘯いた「私は永遠に女王であり、子を失い、やもめになることはない」と。主はその傲慢を砕かれる。
-イザヤ47:8-10「今、これを聞くがよい、快楽に浸り、安んじて座る女よ。私だけ、私のほかにはだれもいない、と言い、私はやもめになることなく、子を失うこともない、と心に言う者よ。その二つのことが、一日のうちに、瞬く間にお前に起こり、子を失いやもめとなる苦しみがすべてお前に臨む」。
・バビロンでは祭司は神々に犠牲を捧げてこれをなだめ、占い師は天体の動きを見て神意を探り、これを告げる。しかし破滅に瀕した今、それらの魔術や占いは、お前たちを救えず、何の役にも立たないではないかとイザヤは言う。
-イザヤ47:11-12「だが、災いがお前を襲うと、それに対するまじないを知らず、災難がふりかかっても、払いのけられない。思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。若い時から労して身につけたものが、あるいは役に立ち、それを追い払うことができるかもしれない」。
・魔術師はこうすべきだと言い、占い師は別のことを言い、人々は困惑している。天地を創造された方の御心を占いで知り、魔術で変えられると本当に思っているのか、愚か者たちよとイザヤは嘲笑する。マタイ2:1-2でイエスを訪ねた三人の占星術師はバビロンから来た。魔術師が御子を拝んだ、この出来事をマタイは回心の記事として描く。
-イザヤ47:13-15「助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。天にしるしを見る者、星によって占う者、新月によってお前の運命を告げる者などを、立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。見よ、彼らは藁にすぎず、火が彼らを焼き尽くし、炎の力から自分の命を救い出しえない・・・彼らはおのおの勝手に迷って行き、お前を救う者は一人もいない」。
・半世紀にわたる捕囚の中で民は主に対する信仰を失い、異教の神々に魅せられていった。しかし、その神々は他人はおろか自分さえも救えない。何故このような神々に頼るのか、天地を創造された主に帰れとイザヤは歌っている。
-詩篇121:1「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」

3.第一部の締めくくりの歌 (イザヤ48章)

・第二イザヤは40−48章がバビロンからの解放預言、49−55章が祖国帰還の預言だ。48章は第一部の締めくくりであり、前半は解放預言の再確認、後半は祖国帰還が予告される。48章冒頭は、主との関係の中に置かれながら真実を持って応答しない民に、「聞け、イスラエル」と叱責の預言が為される。
−イザヤ48:1-2「ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し、イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵みの業をすることもないのに、主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える者よ。聖なる都に属する者と称され、その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に依りすがる者よ」。
・「この民は頑なであった」と主は言われる。多くの恵みを受けながら、捕囚と言う逆境になればすぐに主を忘れ、偶像の神に走る。イスラエルがその選びに値しない民であることは繰り返し預言されてきた(申命記31:16-21)。
−イザヤ48:3-5「初めからのことを私は既に告げてきた。私の口から出た事を私は知らせた・・・お前が頑固で、鉄の首筋をもち、青銅の額をもつことを知っているから。私はお前に昔から知らせ、事が起こる前に告げておいた。これらのことを起こしたのは、私の偶像だ、これを命じたのは、私の木像と鋳像だとお前に言わせないためだ」。
・歴史は一度滅ぼされた国が再び国家を形成することを知らない。しかし、イスラエルにおいてそれは起こる。それはこれまでの歴史が知らない「新しいこと」だ。諸国の民は驚くであろう。
-イザヤ48:6-8「これから起こる新しいことを知らせよう、隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。それをお前に聞かせたことはない。見よ、私は知っていたとお前に言わせないためだ。お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることを私は知っていたから」。
・「お前は頑なであるが私はお前を救う。何故ならばお前を選び、民としたのは、私だからだ」と主は言われる。ここに救済は、人がそれに値するからではなく、神の一方的な恵みとして為されることが宣言されている。
-イザヤ48:9-11「私は、私の名のために怒りを抑え、私の栄誉のために耐えて、お前を滅ぼさないようにした。見よ、私は火をもってお前を練るが、銀としてではない。私は苦しみの炉でお前を試みる。私自身のために、私自身のために、私は事を起こす。私の栄光が汚されてよいであろうか。私はそれをほかの者には与えない」。
・バビロンを滅ぼし、民を解放する者は、ペルシア王クロスだ。しかし、ここではクロスの名前を出されていない。クロスもまた主の器に過ぎない。器に過ぎない者がやがて「私は自分の手で為した」と言い始める時、彼もまた砕かれる。
-イザヤ48:14-15「皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い、主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。私が宣言し、私が彼を呼んだ。彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる」。
・イスラエルを贖われる主は言われる「あなた方が私の戒めを守り、道からそれないならば、私はあなた方を祝福する」と。祝福には物質的な利益が、具体的な幸福が付随することを主は明言される。信仰は報われるのだ。報いのみを求めた時に信仰はゆがむが、信仰は結果としての報い(平安)をもたらすことは銘記すべきだ。
-イザヤ48:17-19「私は主、あなたの神、私はあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。私の戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。あなたの子孫は砂のように、あなたから出る子らは砂の粒のように増え、その名は私の前から断たれることも、滅ぼされることもない」。
・帰国の道が整えられる。さあ、祖国に帰れとイスラエルの民は励まされる。
-イザヤ48:20-22「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。神に逆らう者に平和はないと主は言われる」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-11-05 19:17:24 (156 ヒット)

1.イザヤ40章−慰めの知らせ

・紀元前587年、イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われた。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に再び臨んだ。
−イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。
・エルサレムは廃墟となり、捕囚民の多くは死に果てた。二世、三世の民は父親から故郷エルサレムの話を聞かされていたが、エルサレムはもはや彼らの故郷ではない。今は、何とかこの異郷の地で生きようとしている。その民に「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者は告げる。
−イザヤ40:3-5「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。
・バビロンからエルサレムまで、千キロの荒野を経て帰還する道が開かれた。しかし、エルサレム帰還の夢を失くしていた人々は「帰ろう」と言われてもとまどうばかりだ。彼らは既に主の民ではない。彼らは信仰をなくしている。
−イザヤ40:6-7「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。
・預言者は言う「民に何を言えば良いのか。彼らは希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ。あなたが民を砕き、バビロンに連れてこられた。あなたは50年間も民を放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのか」。何故あなたは沈黙を続けられたのかと語る預言者の不信をねじ伏せて、神は言葉を語らせる。
−イザヤ40:8「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。
・強いられた預言者は言葉を語り続ける。語るうちに彼は福音を聞く者から告知する者に変えられている。
−イザヤ40:9-11「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。
・捕囚になった民は、自分たちの神がバビロンの神に負けた、主の歴史支配は終ったのだと思った。しかし預言者は、万能の主が木や金で造られた偶像に負けるはずなどないではないかと民の懸念を打ち払う。
−イザヤ40:17-19「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける」。
・50年の苦難はイスラエルの信仰を揺さぶった。主は祈っても応答されなかった。「信仰は空しい営みではないのか」、「信じても何の甲斐もない」、人々は神を信じることが出来なくなっていた。
−イザヤ40:27「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と」。
・預言者は言う「主はお前たちを見捨てておられたのではない。時が来るのを待たれていたのだ。時が来て主はバビロンを滅ぼし、お前たちを救おうとされているではないか」と。
−イザヤ40:28-31「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。・・・主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。

2.イザヤ41章 ペルシャ王キュロスは解放者、メシアなのか

・イザヤ書40-48章はペルシャ王キュロスに期待を寄せる捕囚解放前の預言だ。41章以下にキュロスの目覚しい躍進の中に神の働きを見る預言者の神賛美だ。だが後半49章から預言は一変し、「主の僕」の歌が主になる。前539年キュロスはバビロニアを滅ぼしたが、彼が最初にしたのはバビロニアの主神マルドゥクの前に跪くことだった。預言者はキュロスに失望し、民族の祖国帰還と復興に望みを託すが、反対派の策謀により不遇のうちに死んだとされる(イザヤ53章「苦難の僕の歌」は、第二イザヤの弟子たちが死んだ師を称える歌とされる)。
-イザヤ49:4-6「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である・・・今や、主は言われる・・・私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。
・イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、指導者たちが捕囚となって50年が過ぎた。不滅と思われたバビロニア帝国はネブカドネザル王の死と共に衰退し、東に起こったペルシャが諸国を併合し、新しい支配者としてバビロンに迫っていた。預言者はペルシャ王キュロスが「主の使い」としてイスラエルを解放してくれると期待を寄せる。
-イザヤ41:2-4「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か・・・彼は敵を追い、安全に道を進み、彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは主なる私。初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」。
・主はキュロスを用いてあなたを捕囚の身から解放してくださる。だからイスラエルよ、立て、恐れるなと預言者は呼びかける。イスラエルの味わった亡国と捕囚の辱めこそ、主の愛の鞭だったのだと。
-イザヤ41:8-10「私の僕イスラエルよ。私の選んだヤコブよ。私の愛する友アブラハムの末よ。私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたは私の僕、私はあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える」。
・イスラエルは小さな者、虫と呼ばれる。古代において小国は世界帝国の動きの中で翻弄され、弾圧されてきた。ペルシャもまたバビロニアと同じ圧制者なのか。違う、キュロスこそ主の器であり、あなた方を解放する。
-イザヤ41:13-14「私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、私はあなたを助ける、と。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、私はあなたを助ける」。
・神はイスラエルを打穀機としてエルサレムへの帰還の道を整えられる。山は削られ、谷は埋められ、荒野は緑の野に変わる。
-イザヤ41:15-20「見よ、私はあなたを打穀機とする。新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする・・・私は不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる・・・荒れ野に杉やアカシヤを・・・荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。主の御手がこれを成し遂げ、イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを」。
・偶像の神は、これまでに起きた出来事(ペルシャがリディアやメディアを征服した)の意味がわからないし、これから起こる出来事(バビロニアの滅亡)も予見できない。彼らは像であって神ではないからだ。
-イザヤ41:21-24「訴え出て争うがよい、と主は言われる・・・起こるべきことを私たちに示し、告げてみよ。初めにあったことを告げてみよ・・・お前たちは無に等しく、働きは空しい。お前たちを選ぶ者は忌むべき者だ」。
・キュロスの戦いは、民をエルサレムに連れ帰るための主の戦いなのだと預言者は結論する。
-イザヤ41:25「私は北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところから私の名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように、彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」。

3.イザヤ42章 主の僕の召命

・イザヤ40〜55章には4つの「主の僕の歌」がある。紀元前540年ごろ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民から、「主の僕」と呼ばれる預言者が召され、イスラエルの民に「捕囚からの解放」を伝えよと命じられる。
-イザヤ42:1「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。
・主の僕とは誰か。歴史家は捕囚民の指導者として故国帰還を導いたのは、捕囚されたエホヤキン王の4男セシバザルと推測する。前539年ペルシャ王キュロスはバビロンの支配者となり、諸国民に故国への帰還を許す。第一陣としてセシバザルに率いられた民がエルサレムに戻るが、セシバザルはペルシャからの独立・反乱を疑われ、処刑された。このセシバザルこそが第二イザヤのモデルであり、42:1-4はこのセシバザルの召命を歌った詩であると言われる。
-イザヤ42:2-4「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。
・この僕は、主が「支え」「選び」「喜ぶ」者であり、「叫ばず」「呼ばわらず」「傷ついた葦を折らず」「暗くなっていく灯心を消さない」。イスラエルの侵害された領土を回復し、失われた自由を与えてくれる者とされる。マタイは主イエスの活動の中に、「主の僕」の姿を見出す(マタイ12:15-21)。
・宗教的救済はやがて政治的救済となる。僕は捕囚民をバビロンから解放する使者として立てられる。
-イザヤ42:6-7「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。
・42章は18節から捕囚からの解放を歌い上げる。最初に第二イザヤは、捕囚となっているイスラエルの民が、「耳が聞こえず」「目が見えない」と批判する。
-イザヤ42:18-20「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。私が遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。私が信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」。
・捕囚民の置かれた状況は悲惨なものだった。
-イザヤ42:22「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく、奪われても、返せと言う者はない」。
・それは物質以上に精神的に悲惨な環境であった。何故なら、民は何故国が滅ぼされ、自分たちが捕囚されたのかを理解していないからだ。国を滅ぼし、異国の地に連れてきたのが、主であることを、この民は悟らない。
-イザヤ42:24-25「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に私たちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった。主は燃える怒りを注ぎ出し激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても悟る者はなく、火が自分に燃え移っても気づく者はなかった」。
・しかし裁きは救いのために為される。主はイスラエルを愛する故にこれを裁き、イスラエルを選ぶ故に鍛錬される。そして時が満ちた時、救いのために行動される。
-イザヤ43:1-5「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・・恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める」。

4.イザヤ43章 イスラエルの贖い

・国を滅ぼされ、バビロンで捕囚となっていたイスラエルの民に預言者(第二イザヤ)が立てられ、「解放の時は近い、祖国帰還の準備をせよ」と語った。しかし救済はイスラエルが悔い改めたからではない。彼らは相変わらず愚かであり、自分たちが何故この苦難を受けなければいけないのかを理解していない。
-イザヤ42:24-25「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に私たちも罪を犯した・・・主は燃える怒りを注ぎ出し、激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった」。
・イスラエルに自力更正の力はないが、主はイスラエルを救われる。彼らは主が造られた民だからだ。
-イザヤ43:1-2「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。
・エジプトから大河を越えて民を救いだされた主は、戦災を潜り抜けて残された民に、救いを宣言される。イスラエルには何の価値もない。民族は小さく、愚かで、不従順だ。それでも主は彼らを救われる。
-イザヤ43:3-4「私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」。
・散らされた民を再び集めると主は言われる。何故なら国の滅亡と民の離散は呪いではなく祝福だからだ。苦難を通してイスラエルは主の愛を知る。詩篇126編が歌うように「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」。
-イザヤ43:5-7「恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、私の名によって呼ばれる者」。
・諸国民は主の法廷に呼び出され、それぞれの神の証人を立てよと命じられるが、立てることが出来ない。偶像の神を証しすることなど出来ないからだ。国が滅んだ時、イスラエルの民は思った「私たちの神がバビロンの神に負けたのだ」と。しかし、それは違う。この法廷でそれが明らかになる。あなた方はそれを見よと命じられる。
-イザヤ43:8-9「引き出せ、目があっても、見えぬ民を、耳があっても、聞こえぬ民を。国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ、初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し、聞く者に、そのとおりだ、と言わせうる者があろうか」。
・「主の手が短くて救えないのではない」。そのことを今から彼らは見るであろうと主は言われる。
-イザヤ43:10-11「私の証人はあなたたち、私が選んだ私の僕だ、と主は言われる・・・私こそ主、私の前に神は造られず、私の後にも存在しないことを。私、私が主である。私のほかに救い主はない」。
・私はあなたたちのためにバビロンにペルシャ王キュロスを送り、彼を用いてバビロンを滅ぼす。
-イザヤ43:14「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのために、バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」。
・海の中に道を通してエジプト軍を滅ぼされた主は、今やカルデア人に同じことをされる。その時、あなた方は祖国に帰ることが出来る。バビロンと祖国を隔てる荒れ野にも道が開かれる。
-イザヤ43:19「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」。

5.イザヤ44章 どのような時に捨てない神の愛を見よ

・イスラエルは捕囚の苦しみと失意の中で嘆き、つぶやいた。彼らが見つめるのは自己の不幸、自己の不満のみであり、神が何故そうされたかを考えようとしない。その愚かな民を神はなおも証人として立てるといわれる。
-イザヤ43:8-14「引き出せ、目があっても、見えぬ民を。耳があっても、聞こえぬ民を・・・私の証人はあなたたち、私が選んだ私の僕だ、と主は言われる・・・ あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのためにバビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」。
・その文脈の中で、イスラエルに対する慰めが語られる。「私はあなたを救う。私はあなたを造ったからだ」。
-イザヤ44:1-3「そして今、私の僕ヤコブよ、私の選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、私の僕ヤコブよ。私の選んだエシュルンよ。私は乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫に私の霊を注ぎ、あなたの末に私の祝福を与える」。
・イスラエルに神の霊が注がれ、昔日の繁栄を取り戻し、異邦人もまた主を知り改宗する。
-イザヤ44:4-5「彼らは草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ。ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に『主のもの』と記し、『イスラエル』をその名とする」。
・私たちの主は万軍の主であり、歴史を支配される。その主はどのような時にも民を見捨てない。
-イザヤ44:6-8「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない・・・ 恐れるな、おびえるな。既に私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちは私の証人ではないか。私をおいて神があろうか、岩があろうか。私はそれを知らない」。
・神の愛はどのような時にも見捨てない愛だ。神は私たちを覚えて下さる、忘れておられるのではない。
-イザヤ44:21-22「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形づくり、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った」。
・44章後半には偶像への対決が歌われる。第二イザヤは繰り返し偶像批判を行う。捕囚の民がバビロンで直面した最大の問題が偶像だった。国を滅ぼされた民は「私たちの神よりバビロンの神のほうが強い」として偶像神マルドゥク(ヘブル語ベル、ネボはその子)信仰に走った。イザヤは言う「人間の手で造ったものを何故拝むのか」と。
-イザヤ44:9-11「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける」。
・偶像はどのようにして造られるのかあなたは知っているか。鉄工は金槌と炭火で金属を加工し、木工はコンパスで図を描き、人の形に似せて像を彫る。
-イザヤ44:12-13「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く」。
・人は木の一部を燃やして暖をとり、パンを焼き、残りで像を造って拝む。このような偶像があなたを救うのか。
-イザヤ44:15-17「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う『お救いください、あなたは私の神』と」。
・偶像は何の力も持たない。古代の神々はその民族と共に滅んでいった。エジプトのラー(太陽神)もバビロンのマルドゥク(月神)も今はいない。
-イザヤ46:1-2「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。

6.イザヤ45章 主の僕キュロス

・イザヤ40−55章は第二イザヤとよばれ、バビロンの地に捕らえられたイスラエルの解放を歌う。40−48章が前半で、そこにおいてはペルシャ王キュロスが「主の牧者」「主に油注がれた者」とよばれる。
-イザヤ44:28-45:1「キュロスに向かって、私の牧者、私の望みを成就させる者と言う。エルサレムには再建されると言い、神殿には基が置かれると言う。主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」。
・「主の牧者」、羊の群れを牧するように委ねられた者、「油注がれた者」マーシアハ=メシアである。異邦人をメシアと呼ぶのは聖書中ここだけだ。第二イザヤは、主がキュロスにイスラエルの解放という使命を与えられたと考えた。
-イザヤ45:2-3「私はあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる。私は主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である、と」。
・バビロンの城壁には100の青銅の門があり、それをキュロスが破って都を征服し、その宝物を自分のものにすることが預言される。しかしキュロスは自分の召命を知らない。彼は自分の力でそれを為したと思うだろうと言われる。
-イザヤ45:4「私の僕ヤコブのために、私の選んだイスラエルのために、私はあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった」。
・第二イザヤは、歴史を支配する者はキュロスではなく主であることを強調する。歴史は主が先導され、主こそ唯一の神であり、主こそ真の支配者だ。キュロスもまた主の器に過ぎない。ここにはキュロスに対する偶像化はない。
-イザヤ45:5-7「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる。私のほかは、むなしいものだ、と。私が主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをするものである」。
・イスラエルの民はキュロスによる救済を否定した。「神の民が異邦人によって救われることなどあるわけがない」と批判する。イザヤは民に向かって「神の救済の方法にまで文句を言うあなたたちは何者なのか」と怒る。
-イザヤ45:9-10「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか、『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと。災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い、なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は」。
・第二イザヤはかたくなな民にむかって、「主は異邦人を用いて私たちを救われる」ことを繰り返す。
-イザヤ45:11-13「イスラエルの聖なる神、その造り主、主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。私の子ら、私の手の業について私に命ずるのか。大地を造り、その上に人間を創造したのは私。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。私は正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。彼は私の都を再建し、私の捕らわれ人を釈放し、報酬も賄賂も求めない。万軍の主はこう言われた」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-29 16:29:16 (109 ヒット)

1.イザヤ40章−慰めの知らせ

・紀元前587年、イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われた。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に再び臨んだ。
−イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。
・エルサレムは廃墟となり、最初の捕囚民の多くは死に果てた。二世、三世の民は父親から故郷エルサレムの話を聞かされていたが、エルサレムはもはや彼らの故郷ではない。今は、何とかこの異郷の地で生きようとしている。その民に「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者は告げる。
−イザヤ40:3-5「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。
・バビロンからエルサレムまで、千キロの荒野を経て帰還する道が開かれた。しかし、エルサレム帰還の夢を失くしていた人々は「帰ろう」と言われてもとまどうばかりだ。彼らは既に主の民ではない。彼らは死んでいる。
−イザヤ40:6-7「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。
・預言者は言う「民に何を言えば良いのか。彼らは希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ。あなたが民を砕き、バビロンに連れてこられた。あなたは50年間も民を放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのか」。何故あなたは沈黙を続けられたのかと語る預言者の不信をねじ伏せて、神は言葉を語らせる。
−イザヤ40:8「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。
・強いられた預言者は言葉を語り続ける。語るうちに、彼は福音を聞く者から告知する者に変えられている。
−イザヤ40:9-11「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。

2.希望の福音

・捕囚になった民は、当初自分たちの神がバビロンの神に負けた、主の歴史支配は終ったのだと思った。しかし預言者は、万能の主が木や金で造られた偶像に負けるはずなどないではないかと民の懸念を打ち払う。
−イザヤ40:17-19「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける」。
・50年の苦難はイスラエルの信仰を揺さぶった。主は祈っても応答されなかった。「信仰は空しい営みではないのか」、「信じても何の甲斐もない」、人々は神を信じることが出来なくなっていた。
−イザヤ40:27「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と」。
・預言者は言う「主はお前たちを見捨てておられたのではない。時が来るのを待たれていたのだ。時が来て主はバビロンを滅ぼし、お前たちを救おうとされているではないか」と。
−イザヤ40:28-31「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。・・・主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。
・主の裁きは救いだ。時間がたてばそれがわかる。詩篇126編は苦難から救われた民を待つ人々の喜びの歌だ。
−詩篇126:1-6「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。 そのときには、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と。・・・主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、私たちの捕われ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-23 08:51:02 (98 ヒット)

1. ヨブの悔い改め

・苦難の中で苦しむヨブに神が現れ、創造世界の多様さと永遠性が示される。創造(地球の誕生)から現在まで46億年の時間が流れ、その中で人は70年、80年の人生を生きる。ヨブの存在も相対化され、創造世界の一部に過ぎないことが示される。「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われても答えることが出来ない。
−ヨブ記38:1-4「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。
・神の一回目の顕現においては、「お前は自分を無罪とするために、私を有罪とするのか」と問われる。「お前は神なのか、被造物に過ぎないではないか」と問われた時、私たちは反論の言葉を失う。
−ヨブ記40:6-8「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか」。
・ヨブの問題は神の出現により解決されたわけではない。しかしヨブが自分の無罪を主張し、「神が間違っている」と叫んだ時に、ヨブの罪がそこに明らかになり、ヨブは神の前に悔い改める。
−ヨブ記42:1-6「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。そのとおりです。私には理解できず、私の地識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。 『聞け、私が話す。お前に尋ねる、私に答えてみよ』。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・ヨブは、今まで教義として人に聞いて知っていた神を、今は主体的に自分の神として見た。「今、この目であなたを仰ぎ見ます」、神との出会い体験こそ人を真の信仰者にする。十字架で逃げた弟子たちが集められたのも復活のイエスとの顕現を通してであった。
−使徒言行録2:22-32「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました・・・このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました・・・私たちは皆、そのことの証人です」。

2.ヨブの回復

・主はヨブの悔い改めを受け入れると共に、三人の友人たちを叱責される。彼らはよく知りもしない神について、誤った教理を述べて、ヨブを苦しめたからだ。
−ヨブ記42:7-9「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった『私はお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつ私の僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、私の僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。お前たちは私の僕ヨブのように私について正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう』。テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた」。
・ヨブ記は三人の友人への叱責を通して、「応報思想」を否定する。正統信仰の誤りは、「意見の異なる人々を否定し、裁く」ことにある。中世の異端裁判や十字軍、近世の新大陸やアフリカ植民地への強制的宣教等はその例だ。イエスにあって後の教会になかったのは、寛容であった。ルターやカルヴァンさえも再洗礼派やその他の運動を異端として弾圧した。現代の教会の問題の一つも、この宗教的不寛容である。
−マタイ7:1-3「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。
・ヨブが友人のために執り成しの祈りをした時、主はヨブの苦難を取り除かれた。人は隣人のために働き始めた時に救われることをヨブ記は示しているようだ。
−ヨブ記42:10-11「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」。
・その後のヨブへの祝福は古代的、応報的である。この部分は不要ではないかと思える。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままで良いのではないか。「救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難の意味が変えられる」ことにあるのではと思える。
−ヨブ記42:12-16「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた」。

3.ヨブ記42章「旧約における創造と救済」(関根正雄論集から)

・フォン・ラートは「旧約聖書の信仰は出エジプトから始まる歴史における救済が中心である」とするが、関根は「この見方は妥当であるが、同時に創造論の視点も必要だ。例えば、ヨブ記の苦難は創造世界の破れであり、創造から出発し、救済に至るという見方が妥当ではないか」と言う。ヨブ記においては「苦難は罪の結果であり、その応報である」という応報思想は否定される。その時、出てくるのが、「苦難の無意義性」である。
・人は苦難の意味が理解できる限り、その苦難に耐えていける。しかし、苦難の意味がわからなくなった時、人は神を疑う。創造の意味の否定を通して、初めて救済の世界が開ける。創造の意味がなくなった時、なお神を信じ得るか、それとも神も仏もないとして創造者を否定していくのかが分かれてくる。ヨブはあくまでも神を求めて行った。
−ヨブ記9:20-24「私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない。だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。
・ヨブ記の中心は19章であろう。神を信じることができなくなった者は仲保者を求める。そこには「人間の苦難のどん底こそ神の恵みの頂点であり、人間の努力の道の終わりこそ、神の道の初めである」という信仰がある。
−ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
・戦後処刑されたBC級戦犯の悲劇を描いた「私は貝になりたい」の原作者・加藤哲太郎氏はその遺書の最後に、「私は貝になりたい」と書く。仲保者なしには不条理を受け入れることは難しい。
「もし私が、こんど日本人に生まれ変わったとしても、決して、あなた(天皇)の思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません・・・けれど、こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません。人間にいじめられますから。どうしても生まれ変わらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。何も知らないから悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなる事もないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれ変わらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-15 20:53:31 (116 ヒット)

1.神の応答(38章前半)

・ヨブの苦難についてのヨブと友人たちの議論は終わった。しかし問題は未解決である。苦難の意味は見出されなかった。長い沈黙の後に神が語られる。その神の回答は予想外のものであった。
−ヨブ記38:1-3「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ」。
・ヨブの問いは「自分は無実であるのに何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものであった。それに対して神は答えられる「お前がこの世界の中心にいるのか。お前の問題はこの創造世界を根底から崩すような問題なのか。お前は被造物の一人に過ぎないではないか」。4節以下、創造世界について「お前は何を知っているのか」がヨブに問われる。
−ヨブ記38:4-11「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか・・・海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。私は密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、私はそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け『ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた」。
・「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われる時、人は答えることができない。大地や天体がどのようにして創造されたか知らないからだ。創造の神秘を前に人は自分の限界を知る。海の波に対して「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じられるのに、人はその限界を超えて海辺に住み、その結果津波で死者が出ると「神はおられるのか」と叫ぶ。「此処より下に家を建てるな」とは自然の枠内で生きよとの知恵であった。
・次に一日の天体の動きがどのようにして為されるかを、ヨブよ、お前は知っているのかと問われる。ヨブは当然に知らないから黙るしかない。今日の私たちは夜明けが地球の自転により生じることを知るが、それでも太陽が昇るときの神秘に打たれる。ヘブライ人は神が光の源である太陽を創造された事を知る故に、彼らの1日は「夕から始まる」。恵みとしての朝(光)を彼らは迎える。
−ヨブ記38:12-15「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。大地は粘土に型を押していくように姿を変え、すべては装われて現れる。しかし、悪者どもにはその光も拒まれ、振り上げた腕は折られる」。

2.ヨブが知ったこと(38章後半)

・次に神は海の深淵とその底にあるとされた陰府の存在についてヨブは尋ねられるが、答えることは出来ない。
−ヨブ記38:16-18「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ」。
・現代人はこの自然世界の神秘を知ると思い上がる。3.11で明らかになったことは、人間は自らが創りだした原子力エネルギーの廃棄物処理の方法さえ知らなかったということだ。神はヨブに「人間は被造物に過ぎないのに創造主になろうとするのか」と問いかける。
−ヨブ記38:19-21「光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。そのときお前は既に生まれていて、人生の日数も多いと言うのなら、これらのことを知っているはずだ」。
・神はヨブの苦難の問題には立ち入らない。ヨブの中心課題である苦難を問題にしない所に、ヨブの中心課題への最良の答えがあるのではないだろうか。ヨブは神を求めながら結局は自分の義を求めていた。人は自己を中心に物事を見るが、神の視点から見れば物事の意味はまるで異なる事に気づかない。自己からの解放、自己の問題が世界の中心ではない。それをヨブ記は私たちに教えるのではないだろうか。
−ヨブ記38:22-29「お前は雪の倉に入ったことがあるか。霰の倉を見たことがあるか。災いの時のために、戦いや争いの日のために、私はこれらを蓄えているのだ。光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。誰が豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、乾ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか。雨に父親があるだろうか。誰が露の滴を産ませるのか。誰の腹から霰は出てくるのか。天から降る霜は誰が産むのか」。
・「知らないことを知らない」と認め、「自己の苦難よりも大事な問題がある」ことを知った時に、苦難は解決されるのではないだろうか。自己のことばかりを考える故に人に思い悩みが生じるのではないだろうか。
・神の答えはヨブの問いに直接答えたものではなかった。しかし神は創造された世界を肯定され、ヨブもまたその肯定の中にある。ヨブも生きることを許されている。そのことを知れば、全ての悩みもなくなるのではないか。
-エゼキエル18:31「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。

3. 被造物を生かす摂理についてお前は何を知るか(39章前半)

・ヨブ記は38章から神の言葉が始まり、38章後半から39章にかけて神の言葉の第二弾が始まる。ここでは動物の世界に見られる自然世界の不思議さが語られ、人間本位にしか世界を見ることの出来ないヨブに悔い改めが迫られる。最初に展開されるのは、獅子や烏がどのように生かされているかの不思議さである。
−ヨブ記38:39-41「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れがにうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」。
・獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁る。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶか。叫ばないだろう。それが自然の摂理なのだ。しかし「お前、ヨブは自分の名誉が傷つけられたと叫んでいる。お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」と神はヨブに迫る。
−ヨブ記39:1-4「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか・・・雌鹿はうずくまって産み、子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち出ていくともう帰ってこない」。
・お前は野ろばを生かす私の働きを知っているか、お前は野牛の生態について何を知っているか。彼らは僅かな食料を求めてお前たちの家畜にはなることはなく、私によって野に生かされている。そのことを知っているか。
−ヨブ記39:5-10「誰が野生のろばに自由を与え、野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え、ねぐらとして不毛の地を与えたのは私だ・・・野牛が喜んでお前の僕となり、お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ、お前に従わせて谷間の畑を掘り起こさせることができるか」。

4.駝鳥や馬や鷲を生かすものは誰か(39章後半)

・13節から駝鳥の生態が語られる。駝鳥は卵を生んでもそれを放置し、自然のままに委ねる。それでも彼らは絶滅しない。何故だと思うか、私が生かしているからだと主なる神は言われる。
−ヨブ記39:13-18「駝鳥は勢いよく羽ばたくが、コウノトリのような羽毛を持っているだろうか。駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている・・・神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。だが、誇って駆けるときには馬と乗り手を笑うほどだ」。
・お前たちは野生の馬を飼い慣らし、戦争のために用いるが、彼らに力と勇気を与えたのは誰か。彼らはお前たちのために創造されたのか。お前たちは「人間こそ創造の中心であり、他の被造物は全て自分たちのために創られた」と思っているが、本当にそうか。「お前が世界の中心なのか、しかしお前は何も知らないではないか」。
−ヨブ記39:19-24「お前は馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるか。馬をいなごのように跳ねさせることができるか。そのいななきには恐るべき威力があり、谷間で砂をけって喜び勇み、武器に怖じることなく進む。恐れを笑い、ひるむことなく、剣に背を向けて逃げることもない。その上に箙が音をたて、槍と投げ槍がきらめくとき、身を震わせ、興奮して地をかき、角笛の音に、じっとしてはいられない」。
・最後に鷹と鷲が語られる。鷹は時期が来れば移動し、鷲は高い空を飛び、その雛に餌を与える。それはお前がしているのか。鷹や鷲さえも生かしているのは私ではないのか。
−ヨブ記39:26-30「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのはお前が分別を与えたからなのか。鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか。鷲は岩場に住み、牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。その上から餌を探して、はるかかなたまで目を光らせている。その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる」。
・被造物を生かされる神に感謝し、信頼して生きる。イエスもそのような生き方を求められた。
−マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。
・自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や、正しさにこだわるのは、あまりにも人間中心の世界観であり、神の思いは人間を超える。こう言われた時、ヨブは引き下がるしかない。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。

*ヨブ記39章参考資料「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」を読む
・「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本があります。著者は幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)で、ヨブ記を例にとりながら、「神とはなにか、信仰とは何か」を問うた書です。人は不幸なことがあると、その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかと考えます。「罰が当たった、天罰だ」と。あるいは「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思う人もいます。しかし著者は、この世に起こる不正義、悪、不条理な出来事は、単なる自然、物理法則によるものであり,神に起因するものではないと断言します。
・ヨブ記では、神自身が「正しいと認めているヨブ」が何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされます。3人の友人がヨブに対して繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のなさることに間違いはない」という教理の押し付けです。しかし、ヨブは納得せず、逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責めます。友人たちは最後には「ヨブが神に対して罪を犯した」と言って責め、ヨブは神に対して説明を求め、最後に神は答えられます。その中に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たち、「善にして全能の神のすることに間違いはない」という主張をし続けた人たちへの断罪です(42:7)。
・著者の信じる神は、正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる方です。著者は「神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだ」と考えます。神はこの世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主ではないからです。神は混沌に秩序を与えるために世界を創造されました。その神の創造は今も行われています。つまり、混沌がまだ残されています。その混沌を私たちは「不条理」と呼びます。著者は語ります「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。

5. 神は人間だけのために存在するのではない(40章前半)

・神はヨブに対して創造世界の神秘を示し、「お前が天地を造ったのか、お前があらゆる生き物を生かしているのか、お前の苦難はこの創造世界の中心なのか」と問われた。そう問われた時、ヨブは神の前に平伏せざるを得ない。ヨブの問題は解決されなかったが、解消した。苦難の意味がわからずとも良いことを知った。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
・しかし、ヨブの悔い改めはまだ十分ではない。ヨブが求めたのは神の義ではなく、自己の義であった。ヨブは「自分は正しく神は間違っている」と主張した。そこにこそ、「自らを神にしようとする」ヨブの罪がある。
−ヨブ記40:6-10「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り栄えと輝きで身を装うがよい」。
・人間は「もし神が義であるなら、悪はどこから来るのか」とうそぶく。しかし、このような神義論は人間の罪を棚上げにしている。何故悪があるのか、聖書は「悪は人間の罪から来る」と示唆する。
−イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・ヨブ記が示す方向性も同じだ。「何故悪があるのか、それは神が悪人をも生かそうとされているからだ」とヨブ記は語る。神は悪人でさえ、悔い改めて戻ることを待ち望んでおられる。それ故、悪に対する猶予があると。
−ヨブ記40:11-14「怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」。

6.ベヘモットとレビヤタンを見よ(40章後半)

・40章後半からベヘモットとレビヤタンの記事が登場する。古代神話に描かれる混沌の原始時代の陸と海の怪物で、長い間実在の存在と思われ、中世まではサタン(龍)の別名とされていた。
−ラテン語エズラ記6:47-52「五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました・・・それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました」。
・旧約神話の源流はメソポタミヤの創造神話の中にある。そこでは怪物たちが征服されて混沌が秩序に変わる、それが創造だとされていた。旧約の人々はそのような怪物もまた神の支配下にあると理解した。
−ヨブ記40:15-24「見よ、ベヘモットを。お前を造った私はこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。山々は彼に食べ物を与える。野のすべての獣は彼に戯れる・・・川が押し流そうとしても、彼は動じない。ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。まともに捕えたり、罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか」。
・具体的な叙述としてはナイルに住む河馬が考えられている。後半のレビヤタンは鰐が想定されているようだ。そこにあるのは決して人間の自由にならない存在があるが、それもまた神の創造物であるという主張である。ジョン・ホッブスはその著で国家をリヴァイアサン(レビヤタン)的存在として論じた。
−リヴァイアサン(Leviathan)「トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行された。題名は旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(リヴァイアサン)に対して全部譲渡(という社会契約を)するべきである」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。ホッブズは人権が寄り集まって国家をつくるのだと考えた。すなわち国家機構は、厖大な人間が集まってつくりあげられた巨大な“人工人間装置”のようなものではないか、それは幻獣リヴァイアサンのようなものではないかと考えたのである。
・神は人間のために存在しているのではなく、人間もまた神の被造物の一つに過ぎない。それを知ることこそ、人間の智恵ではないかとヨブ記は私たちに問いかける。私たちの苦難が何故あるのか、私たちは知らない。ただイエスはその私たちのために十字架を負って下さった。それを知れば苦難もまたイエスに従う道の中にある。
−競灰螢鵐4:8-10「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。

7. 創造神話の怪物レビヤタンの示すもの(41章前半)

・ヨブ記では40章前半に創造神話の陸の怪物ベヘモットが、40章後半から41章に海の怪物レビヤタンが登場する。両者はメソポタミヤ神話をイスラエルが神の創造神話の中に取り入れたものである。レビヤタンはここではナイルに住む鰐の姿で示される。普通の鰐であれば鉤で捕らえることが出来ようが、この怪物はそうはいくまいと語られる。
−ヨブ記40:25-26「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ、顎を貫いて轡をかけることができるか」。
・ヨブ記では人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが示される。
−ヨブ記41:10-17「彼がくしゃみをすれば、両眼は曙のまばたきのように光を放ち始める。口からは火炎が噴き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る。首には猛威が宿り、顔には威嚇がみなぎっている。筋肉は幾重にも重なり合い、しっかり彼を包んでびくともしない。心臓は石のように硬く、石臼のように硬い。彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」。
・私たちはこのようなヨブ記の記述を神話として嘲笑するが、神の創造の業は神話でしか表象できないものではないか。ベヘモットとレビヤタンの物語を通して、ヨブには理解できない創造の神秘が語られ、その神秘の中では「自分は正しい、神は間違っている、私は神を告発する」というヨブの訴えがいかに愚かであるかが示される。
−ヨブ記41:1-3「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。いるなら、私の前に立て。あえて私の前に立つ者があれば、その者には褒美を与えよう。天の下にあるすべてのものは私のものだ」。

8.人間の限界を知る(41章後半)

・生命誕生の歴史と人間の歴史を対比した時、人間は如何に小さな存在であるかがわかる。地球が生まれたのは46億年前、人類が登場したのは20万年前、その壮大な歴史の中で私たちは70年か80年の命を生きる。
−「地球が生まれたのはいまから46億年前のことと考えられています。まだ熱かった地球が徐々に冷えて海が出来、生命が生まれたのは地球誕生から6億年位経った40億年前です・・・原始の生命が生まれたところは深い海の底で、海水の温度も高いところでした。何故浅い海に生命が生まれなかったのでしょうか。その大きな理由の一つと考えられるのが生命に有害な宇宙線です。現在、生命を守る地球の多重バリアーには、地球磁場、大気、オゾン層がありますが、地球磁場がまだ形成されていなかった頃には浅い海で生命が生まれたとしても降り注ぐ宇宙線によって壊されてしまったのでしょう。生命が浅い海に移動してくることができたのは地球に磁場が形成され、有害な宇宙線の進入を防ぐことが出来るようになった27億年前です。そして、生物が陸上に進出してきたのは紫外線を防ぐオゾン層が形成された5億年前のことです」(生命の誕生と放射線(原子力教育を考える会HPから)。
・ヨブ記のレビヤタンはやがて巨大な竜(サタン)としてヨハネ黙示録に描かれる。
−ヨハネ黙示録12:9「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」。
・ヨハネ黙示録ではこのサタンが捕らえられ、封じ込められることによって、神の国(千年王国)が登場すると考えられた。ヨハネはサタン(ローマ帝国)の支配も神によって制御されることを神話的表象で描いた。
−ヨハネ黙示録20:2-3「この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである」。
・しかしこの神話的表象を文字通りに信じた時、そこに様々な問題が生じる。アメリカ宗教史を研究する森孝一は、アメリカ人は千年王国を文字通りに信じ、それを持って自分たちの戦争を正当化してきたと述べる。
-森孝一・千年王国とアメリカの使命「千年王国論には前千年王国論(キリストが再臨し,この世を裁いた後、千年王国を実現する)と後千年王国論(神の民の努力により千年王国が実現し,その後にキリストが再臨する)があり、アメリカに入植したピューリタンたちは前千年王国論に従い,キリストの再臨に備えるために純粋な教会と正しい国家の建設を目指した。その理想がジョン・ウィスロップの説教「丘の上の町」に示される選民思想である。しかし、ジュナサン・エドワーズが中心となってなされた第一次大覚醒運動(1730−1760年)より後千年王国論が主流となり、それがアメリカの独立運動をもたらし,その後のアメリカの使命感(キリスト陣営の旗手)となり、外交政策の基本ともなった。この二元論的な思考が植民地時代には対立するニュー・フランスの国教カトリックを「反キリスト」とし、やがては植民地を束縛する英国本国を終末時における「反キリスト」とみなす独立戦争が始まる。その後、この後千年王国思想が「世俗的千年王国論」となり、冷戦期においてはキリスト陣営が自由主義陣営であり、反キリスト陣営が共産主義陣営になり、ソ連を「悪の枢軸」と呼んで対立し、反共産主義の戦いとしてのベトナム戦争を招来する。冷戦後は対立軸がイランとなり、イランが反キリストになっていき,その結果アフガン・イラク戦争が起きていく」(同志社大学一神教学際研究センター2007年シンポジウムから)。
・「聖書はキリスト教信仰の基本であるが、それは2000年前の言葉と思想で書かれており、それを現代の言葉で読み直す(非神話化する)」ことが必要である。しかし、現代世界の唯一の超大国であるアメリカにおいて「聖書の言葉は神の言葉であり,文字通りに理解すべきだ」と信じる人々が多数を占め、「聖書の教え(ヨハネ黙示録の千年王国説)に従って外交が行われる事実は不気味である。私たちはヨブ記を笑えない世界に住んでいるのだ。


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